旧かなとはこは如何に
以前は、旧かな旧漢字の本は読まなかつた。
「以前は」とか書いたが、読むやうになつたのはごくごく最近のことである。
読まない理由はただひとつ。
「読みづらいから」
その一点につきる。
「それつてなんかをかしくない?」と思ふやうになつたのは、学問をしなければ、といふころのことだ。
それ以来、かういふかな遣ひをするやうになつた。
読みづらいのは、普段かういふかな遣ひを目にしないからだ。
ではどうすればいいか。
とりあへず、自分でさう書くやうにすればいいんぢやないか。
さう思つたからだ。
まあ、結局、その後学問はしてゐないんだけどね。
学問をしなければ、といふときになんで「をかしくない?」と思つたのかといふと、それは、E.H.カーの「危機の二十年」を読みたいと思つたからである。
当時、「危機の二十年」の翻訳はひどい、といふ話だつた。
戦前だか戦中だかに翻訳された本もあると聞いた。
当然のやうに、旧かな旧漢字で書かれてゐた。
その選択肢はないな、と、そのとき思つた。
思つて、「だが待てよ」と思ひなほした。
古い翻訳の方がすぐれてゐるのなら、なぜそちらを読まない?
旧かな旧漢字だから?
なぜそんなことで後込みするのか?
そのときは結局、わからないながらも原書を読んだ。
しかし、「なぜ古い翻訳を読まなかつたのか」といふ疑問はいつまでもわだかまりとして残ることになる。
旧かな旧漢字に後込みする、といふことは、先人と断絶されてしまふ、といふことにほかならない。
明治以降の小説家の作品の多くは、新かな新漢字で出版されてゐる。
それで親しむことができる。
しかし、それ以前となるとなかなかさういふものがない。
それで遠ざけてゐると、それ以前のこととふれあへなくなつてしまふ。
それでいいのか。
多分、世の中、それでいいと思つてゐるのだらう。
古いものは悪いもの。
新しいものは良いもの。
さう思つてゐるのにちがひない。
そのうち、表記だけまねできるやうになつても、読めないことに気がつく。
そして、古典を読むやうになる……といふ風にすすめばよかつたのだが、残念ながらそこにたどりつくまでにまた時間がかかつてしまつた。
普段、生きていくのに、先人の知恵など必要ない。
とりあへず、日々ニュースを見て新聞を読んで、仕事をしてゐれば社内の文書、こどもがあれば学校からの通信、さうしたものを読んでゐれば、とくに困ることはない。
だつたら旧かな旧漢字なんて、なくたつていい。
さう思はないこともない。
でもまあ、もう、ここまで来ちやつたからねえ。
ちなみに、やつがれは「ゐ」の字が好きである。
ひらがなの中で一番好きだ。
「る」ともちがふ。
「み」ともちがふ。
三角形をしてゐて、直線部分と曲線部分とのつながり、割合が絶妙だ。
筆や萬年筆で書いたときの線の強弱もすばらしい。
さう思つてゐる。
このことに、現在のやうなかな遣ひをするやうになつて気がついた。
それでやめられないのだ、といふのが実のところであつたりする。
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