美PowerPoint道
うつくしい文字を書くには、まづ、「かういふ文字を書きたい」といふお手本があること、そして、それを実現する手先の器用さが重要である。
と、以前聞いたことがある。
そのとほりだらう。
「かういふ字が書きたい」といふ思ひがなければ、どんな字を書くかわからないし、「こんな字が書きたい」と思つてもそれを実現するだけの器用さがなければ、思ひとほりの字は書けない。
ここのところ、「美文字」とかいふうつくしくないことばの字の書き方が流行してゐる、とは、ここにも何度か書いた。
連絡はメール、ちよつとした文書を作るならコンピュータ、といふ世の中にあつて、おもしろい事象だ。
千年以上つづいてきただらう「うつくしい手跡」へのあこがれといふものは、なかなか消へないんだな。
とはいへ、なにごともできるかぎりデジタルに処理したい、といふ向きもある。
いくらなんでも顧客に提示する資料を手書きする人はいまはさうはゐまい。
ゐるとしたら、絵や図を描くやうな職業の人で、さうした人々も今はコンピュータのアプリケーションを使つて絵なり図なりを描くだらう。
実は、ここにもうつくしさとそれを実現する器用さが必要になつてくる。
もしかすると、手書きのときよりも器用さは必要ではないかもしれない。
しかし、うつくしさ、「かういふ文書を作りたい」といふ意識は、手書きのときとおなじくらゐ、場合によつてはそれ以上に必要になつてくるものと思はれる。
先日、PowerPointでよみものを作ることについてここにも書いた。
PowerPointではよみものを作るべきではない。
さういふ主旨のエントリだつた。
このエントリの結末は、「結局、PowerPointでよみものを作れるか否かは、作り手の技量による」といふ話になつた。
つまり、さういふことなのである。
PowerPointで作成されたよみものが読みづらいのは、作り手が読み手のことを考へないからである。
さういつてしまへばそれまでだ。
作り手は、一応、読み手のことを考へてゐる。
読み手が顧客だつたりしたらなほさらだ。
それでゐて読みやすいものにはならない。
それは、「かういふ文書を作りたい」といふ美意識が足りないからである。
美意識。
さうだな。
もしかしたら「美意識」といふことばはまちがつてゐるかもしれない。
でも、とにかくさうしたものが、圧倒的に足りない。
PowerPointで作られたよみものには。
あるいは、「職場で作られる文書には」といつてもいいかもしれない。
なんといふか、「仕事で作りました」「作つたんだから読め」と云はんばかりの文書ばかりなんだよな。
「読んでね」といふ気配は微塵もない。
それは、顧客に対する文書でもさうである。
社内向けだとさらにひどい。
顧客相手なら一ページ内の文字を減らしたりもする。
社内向けだとその程度の手間さへ惜しむ。
それで「読まないとはなにごとだ」とか云ひ出す始末だ。
「読まない」ことが問題なのではない。
「読みたい」と思はせることのない文書の方が問題なのだ。
そんなことを云ふと、全部自分にかへつてくるんだがね。
やつがれには「こんな文書を作りたい」といふ美意識からして欠落してゐるので、どうにもならないのだ。
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