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Wednesday, 30 April 2014

美PowerPoint道

うつくしい文字を書くには、まづ、「かういふ文字を書きたい」といふお手本があること、そして、それを実現する手先の器用さが重要である。

と、以前聞いたことがある。

そのとほりだらう。
「かういふ字が書きたい」といふ思ひがなければ、どんな字を書くかわからないし、「こんな字が書きたい」と思つてもそれを実現するだけの器用さがなければ、思ひとほりの字は書けない。

ここのところ、「美文字」とかいふうつくしくないことばの字の書き方が流行してゐる、とは、ここにも何度か書いた。
連絡はメール、ちよつとした文書を作るならコンピュータ、といふ世の中にあつて、おもしろい事象だ。
千年以上つづいてきただらう「うつくしい手跡」へのあこがれといふものは、なかなか消へないんだな。

とはいへ、なにごともできるかぎりデジタルに処理したい、といふ向きもある。
いくらなんでも顧客に提示する資料を手書きする人はいまはさうはゐまい。
ゐるとしたら、絵や図を描くやうな職業の人で、さうした人々も今はコンピュータのアプリケーションを使つて絵なり図なりを描くだらう。

実は、ここにもうつくしさとそれを実現する器用さが必要になつてくる。
もしかすると、手書きのときよりも器用さは必要ではないかもしれない。
しかし、うつくしさ、「かういふ文書を作りたい」といふ意識は、手書きのときとおなじくらゐ、場合によつてはそれ以上に必要になつてくるものと思はれる。

先日、PowerPointでよみものを作ることについてここにも書いた。
PowerPointではよみものを作るべきではない。
さういふ主旨のエントリだつた。
このエントリの結末は、「結局、PowerPointでよみものを作れるか否かは、作り手の技量による」といふ話になつた。
つまり、さういふことなのである。

PowerPointで作成されたよみものが読みづらいのは、作り手が読み手のことを考へないからである。
さういつてしまへばそれまでだ。
作り手は、一応、読み手のことを考へてゐる。
読み手が顧客だつたりしたらなほさらだ。
それでゐて読みやすいものにはならない。
それは、「かういふ文書を作りたい」といふ美意識が足りないからである。

美意識。

さうだな。
もしかしたら「美意識」といふことばはまちがつてゐるかもしれない。
でも、とにかくさうしたものが、圧倒的に足りない。
PowerPointで作られたよみものには。

あるいは、「職場で作られる文書には」といつてもいいかもしれない。
なんといふか、「仕事で作りました」「作つたんだから読め」と云はんばかりの文書ばかりなんだよな。
「読んでね」といふ気配は微塵もない。
それは、顧客に対する文書でもさうである。
社内向けだとさらにひどい。
顧客相手なら一ページ内の文字を減らしたりもする。
社内向けだとその程度の手間さへ惜しむ。
それで「読まないとはなにごとだ」とか云ひ出す始末だ。
「読まない」ことが問題なのではない。
「読みたい」と思はせることのない文書の方が問題なのだ。

そんなことを云ふと、全部自分にかへつてくるんだがね。
やつがれには「こんな文書を作りたい」といふ美意識からして欠落してゐるので、どうにもならないのだ。

Tuesday, 29 April 2014

白くないのに白つぽい

メビウス編みのショールを編み終へた。
端のレース編みの最初と最後もメリヤスはぎでつなぎあはせた。
まだ糸端の始末と整形が残つてゐる。
しかし、これを実際に使ふのは、11月以降だらうなあと思ふと、なかなかやる気が出ない。


そんな中、タティングレースについてもいろいろ考へてゐた。
先日、「白い糸でドイリーを作りたい」などと書いた。
ドイリーは久しく作つてゐない。
Jan StawaszのTatted Treasuresに掲載されてゐるドイリーにしやうかな、と思ひつつ、手持の糸を確認したらばこはいかに。

……ない。
白い糸がないではないか。
をかしい。

オリムパスの40番の100gがあるのは見つけたのだが、これは作るものを決めてあるのでなあ。いまとなつてはレース糸もお高くてなかなか買へないし。
DMCのEcruの40番もあるのだが、こちらはちよつと糸が細すぎる。

いろいろ探してみたが、一番白に近いのは、水色。
いま蔓日日草色の糸でモチーフつなぎをしてゐる身としては、水色はあまりにも近過ぎる色である。
そんなわけで、さらに探して、イメージに一番近いのは、この色かなあ、といふのを見つけた。

Untitled

この糸でタティングすると、なんだかとてもアンティークな印象の作品になる。
完成した栞の写真はないが、とりあへずこんな感じ。

Bookmark in Progress

この写真だとよくわからないか。
この糸は、実際にどんな色かよくわからないのでとりあへず試しに買つてみた糸である。
買つてみたら案外よかつた。
白でも生成りでもないけれども、「なんとなくふるーい感じの作品になる」といふ意味では、水色よりはよほど白や生成りに近い色だと思ふ。

思ふのだが、もうすでに糸を巻いてゐる時間がない。
明日も蔓日日草色のモチーフをつなぎつづけるかな。

Monday, 28 April 2014

できることだから

あとちよつと、あとちよつとのところでメビウス編みのショールは編み上がることなくそのままになつてゐる。
ここのところ、めうに忙しくて、な。
まあ、この連休のうちにでもできあがることとは思ふ。
もうほんたうに、あとちよつとなのだ。

それにしても、なぜやつがれはあみものをするのだらう。
何度も書いてゐるやうに、「自分は不器用ですから」なやつがれである。
家庭科も図画工作も美術もまるでダメであつた。

なのになぜあみものをするのか。
以前も書いたやうに、学校で習つたわけではないから、といふのは大きい。
家庭科の授業でもあみものはあつたけれども、別に編み方を教へてくれたわけでなし、なんだか各人好きなものを編んだ、といふ記憶しかない。

すこし前に、あみものやタティングをするのは達成感を得るため、などと書いた。
その後考へて、でもそれだけぢやないな、と思ふやうになつた。

なぜ編むのか。
それは、多分、「自分にもできることがある」といふ実感を得たいから、だらう。
ときどき思ふのだが、やつがれにはできることがほとんどない。
楽器が弾けるわけでもないし(過去には演奏したりしてゐたので、もしかしたらできるのかもしれないけれども)、料理がうまいわけでもない。家の片付けも苦手だし、仕事もできない。
ないない尽くしの中で、唯一あみものだけは、まあ、人並みにできるのではないか、と思ふわけだ。
それでも整形は苦手なんだけどね。

あみものができるのは、それなりに時間をかけてきたからである。
お道具もいろいろ持つてゐるので、元手もかかつてゐる。
大抵の人間は、できるやうになるよな、それくらゐ時間も手間もかけてゐれば。

つまり、やはりやつがれにできることなんて、ほとんどないつてことなんだよなあ。
まあ、わかつてゐたことではあるけれども、あらためてさう考へるとちよつと気持ちが萎えるよね。

とりあへず、ショールが終はつたら、くつ下でも編むかな。

Friday, 25 April 2014

最近のノート事情

Quill Note

先週の木曜日からアサヒヤ紙文具店クイールノートを使つてゐる。

クイールノートをはじめて使つたのは三年ほど前のことだ。
当時も「いいな」と思つたのだけれども、その程度だつた。
今回、あらためて使つてみて、あまりの書き味のよさに、意味もなくあれこれ書き付けたくて仕方がない。

前回はこれほどではなかつた。

もちろん、また使つてみやうと思つたくらゐなので、気に入つたことは確かである。
ただ、前回使つたときは、当時から愛用してゐる中屋万年筆の十角軸細軟の調子がすでに悪かつた。
クイールノートに書き込んでゐると、いつのまにか線がかすれてくる。
ほかの紙なら大丈夫なのになあ。
ほかのペンなら大丈夫なのに。

去年、中屋万年筆のイヴェントでペンを見てもらつたところ、十角軸はどうもをかしい状態だつたらしい。
今回、あらためてこのペンでクイールノートに書き込んでみたらばこは如何に。
すごい。
まつたく筆圧要らず。
もともと筆圧をかけなくても書けるペンではあるけれど、まるで抵抗のないかのやうな書き味に、くらつときてしまつた。

ほかのペンでも試してみた。
中屋万年筆のペンなら、中軟も同様。
大橋堂のペンもいい感じだ。
写真にうつるつてゐる、金ペン堂で買つたモンブランも最高。
ペリカンスーヴェレーンの太字もカリグラフィーも、これまでMoleskineには使へなかつた鬱憤を晴らすかのやうに、すばらしい書き心地である。

さうさう、Moleskineに書いてゐたときには、ペン先がつぶれたかと思ふほど線の太くなつてゐた細軟だが、クイールノートに書いてみたらこは如何に。
細いぢやん。
「細軟」の名に恥ぢない細さぢやあないか。
ほかにも、舶来のペン先は細字でもかなり太いといはれてゐるし、やつがれもさう思ふが、クイールノートに書くとそれほどでもない。ほかの紙に書いたらつぶれてしまふくらゐのちいさな文字でも、クイールノートだとちやんと読める。
いいなあ。
クイールノート、こんなにいいノートだつたか。

唯一問題があるとしたら、それはMoleskineよりチト大きい、といふことか。文庫本くらゐのサイズなので、さほど大きいわけではないけれども、かばんに入れたときにこれまでよりちよつとかさばるんだよね。

まあそれも、普段持ち歩いてゐるかばんの中に入れるのならば問題はない。

うーん、もしかするとこのままクイールノートを使ひつづけることになるかもしれないなあ。

Thursday, 24 April 2014

かばんの記録をつけてゐる

その日使つたかばんや袋ものの記録をとつてゐる。
今年からはじめた。
Smythsonのスケジュール帳の余白に、その日持ち歩いたかばんをちよこつと書きつけてゐる。

圧倒的に、ル・ボナーのミセスが多い。
ミセスは一月に購入した。
以来、毎日のやうに使つてゐる。

なにがいいんだらう。
我ながら、そこのところがよくわからない。
それほど大きくはないのにたくさんものが入り、それでゐて重たさを感じることがない、といふのは大きい。
あと、見たときにすてき、といふのもある。
荷物掛けにぶら下げたときのやうすのよいこと。見蕩れることしきりである。

ものが入るといふことであれば、ブロガーズトートもいいかばんだ。
巨大なのに、取り出したいものをさつと取り出すことができる。
定期入れや鍵、iPhoneなどは、入れる場所が決まつてゐる。
ファスナーポケットの中にさらにファスナーポケットがあるから、財布と社員証をわけて入れておくこともできる。
読みさしの本をもうすぐ読み終へてしまふかも、などといふときも、心配は要らない。ブロガーズトートなら、いくらでも本を詰め込むことができる。まあ、重たくはなるけれどもね。
おそらく、満員電車に乗ることさへなければ、毎日持ち歩くことだらう。
以前も書いたが、ブロガーズトートを買ふときには、ひらくPCバッグとどちらにするか、かなり悩んだ。
いろいろ考へて、ブロガーズトートの方が通勤電車の車内で邪魔になりづらいだらう、と思つてこちらを選んだ。
ひらくPCバッグは持つてゐないからわからないけれど、おそらくこの勘は正しかつたらうと思ふ。
思ふのだけれども、やつぱり荷物を詰め込めば、そりや電車の中では邪魔になるよな。

ミセスとどちらを取るか、ときかれると、悩む。
実際、ブロガーズトートを使ふと、「もつと頻繁に使ひたいなあ」と思ふほどだ。
ブロガーズトートのいいところは、右肩にかばんをかける人間用にできてゐるところである。
キーリングや携帯電話・スマートフォンを入れる内袋が、右肩にかけた時に使ひやすいやうにできてゐる。
これも以前から書いてゐることだけれども、世の中のかばんの多くは左肩にかけたときのことを考へて作られてゐる。
右肩用だとこんなに楽なんだー、と、はじめて思つた。

ミセスは普通に左肩にかけたときのことを考へて作られてゐる。キーリングの位置がそれを物語つてゐる。
それでも手に取つてしまふのは、ファスナーがないからだらうな。
これでファスナーがついてゐたら、右側に持つたときにファスナーの持ち手が背後にいつてしまふ。
それは使ひづらいんだよねえ。

ところで、日々使ふかばんの記録をつけてゐるのは、使はないかばんを捨てるため、であつた。
過去形にしてしまつたのは、スケジュール帳を見てゐて「はっ、あのかばんを使つてゐない」と思ふと、無理矢理使つてしまつたりするからである。

上にも書いたやうに、ひらくPCバッグを思ひ切れずにゐる。
しかし、そんなにかばんばかり持つてゐても仕方がない。
一度に持てるかばんはせいぜい二つだ。
ひらくPCバッグだつたらひとつで十分だらう。
さう考へると躊躇してしまふのだつた。

そして、躊躇するくらゐがちやうどいいのかもしれない。

Wednesday, 23 April 2014

接続詞依存症

接続詞の多い人生を送つてゐる。

多分、口癖は「ってーか」だ。
手帳などにも、「ところで」とか「といふのも」とか「それにしても」とか、とにかく最初に接続詞からはじまる文が多い。
話がずつとつながつてゐるといふのならともかく、それつてどうなのよ。

自分の中ではつながつてゐるんだよね。
いきなりめくつたページの一番最初に「それはともかく」とか書いてあつて、しかも前のページの内容とはまつたくつながりのないことが書かれてゐたとしても。
それはもう、無意識のうちにつながつてゐるのだと思はれる。

接続詞の多い文章といふのは、あまりよい文章ではない。
いい文章とは、そんなものはなくても意味の伝はる文章だ。
さうは思ふが、気がつくと「すなはち」だとか「したがつて」だとか入れてしまふ。
自分としては、「サーヴィス」のつもりなのだ。
この先の文章はその前の文章とつながつてゐるんですよー、と、読み手に知らしめるために入れてゐる。
この場合の「読み手」といふのも、自分自身であつたりはするのだけれどもね。

また、前段は頭の中にある、といふこともある。
口に出したり紙に書いたりはしないのだけれども、頭の中だけであれこれ考へてゐるときがある。
だから自分の中では前段があるのだ。
あるから「といふのも」と書いてしまつて、他人にはなにが「といふのも」なのかまつたくわからない、といふことになる。
時には、後々読み返した本人でさへ、なにが「といふのも」なのかわからないことさへある。

あと、接続詞を入れることで、勢ひをつけてゐたりもする。
とくに文章を書くときに顕著だ。
いきなり書き始めるにしても、「さて」とか「ところで」とか「そういへば」とか入れると、なんとはなし、その先を続けやすくなる。

無駄なんだよなあ。
なんとかしたいんだよ、この、「やたらと接続詞から書き始めてしまふ」癖を。

blogのエントリなどは、更新する前に一応見なほして、不要な接続詞は削つてゐるつもりだ。
削つてゐるつもりだけれども、それでもまだまだ多い気がする。

ここはひとつ、接続詞のまつたく出てこないやうな文章を書いてみるやう心がけてみやうか。

しかし、それを実行するには、事前に「接続詞とはなんぞや」といふところから学ばねば。

Tuesday, 22 April 2014

白への回帰

以前、「白い糸で作るレース」についてちよこつと書いたことがある。

レース編みといへば白い糸だ。
あとはせいぜい生成りか黒。
世の中のレース編みの本を見れば、たいていはさうなつてゐる。
身につけるものもさうだつた。
風工房のアイリッシュレースの本には替襟をはじめ、ヴェストなども掲載されてゐたが、すべて白か生成り、あるいは黒だつた。
レースとはさういふもの。
さう思つてゐた。

それが変はつたのはいつのころだつたらう。
やつがれが「タッチングレース」をはじめたころには、すでに白以外の色の糸でレースを作るやうになつてゐたやうに思ふ。

はじめて買つた藤重すみの「かわいいタッチングレース」には、いろんな色の糸を使つて、花や虫などを作つたものが掲載されてゐた。

Webに目を転じると、そのころから、色糸を使つた作品がいくつかあつたやうに思ふ。
あるいはもう少し後だつたらうか。
当時、オリムパスやダルマの色のついたレース糸は色が褪せるけれど、DMCのレース糸は褪せない、などと聞いたやうな気がする。
聞いたときには、「DMCしかないか」と思つたけれども、その後、「色が褪せるつていいぢやない」と思ふやうになつていまに至る。

さう、色のついたレースの糸といふのは、それ以前からあつた。昔からあつた、といつてもいい。
しかし、それでもレースのドイリーといつたら白だつた。
いまでも白かもしれない。

タティングレースをする人の中には、「白い糸や生成りの糸は物足りなくて」といふ人が存在する。
開店休業甚だしいやつがれの英語版blogにも、生成りの糸で作つたちいさなモチーフの写真を公開したら、「いつも華やかな色の糸を使つてゐるけれど、たまにはかういふ色もいいわね」とか、たぶんにお世辞のコメントをいただいたことがある。
世はなべて色糸時代だ。
すくなくともタティングレースにおいては。

だからこそ、いま白い糸、といふ気もしてゐる。
或は生成りとかね。
もうすこし色は濃くなるが、それでも生成りのヴァリエーションのやうな色の糸でタティングレースの栞を作つたら、なんだか古色然としてゐてよかつた。

東京近辺では桜の時期も過ぎ、もうすぐ「夏も近づく八十八夜」、日差しも輝く季節到来である。
そんなときに、白い糸のきらりと輝くレースを作つたりするのも、なかなか乙なんではあるまいか。

連休中になにかできるといいなあ。

休日出勤三昧かもしれんがなー。

Monday, 21 April 2014

風邪ひきと編み物

風邪をひいてしまつた。

金曜・土曜・日曜と寒かつたからなあ。
それに、その前から睡眠不足がつづいてゐた。
くどいほど書いてゐるやうに、とにかく睡眠第一でここ三年ばかりは生きてきたのだけれど、ちよつと残業がつづくやうになつたらあつといふ間に早寝のできない人間に戻つてしまつた。
これもまた「リバウンド」といふのだらう。

睡眠不足に突然の冷えが重なつた結果の風邪。
さう考へると、世の中にはふしぎなことなどないのだなあ、としみじみ思ふ。

風邪の症状を覚えたのは昨日だつた。
鼻水が突然たれてくるのである。
花粉症などアレルギー症状のときの出方とはチトちがつた。
アレルギー症状のときの鼻水といふのは、のべつまくなしに出てくる。
かんでも無駄で、よくもこんな量があとからあとから出てくるものだ、と感心するくらゐ出てくる。
時々、「脳みそが出てきてゐるんぢやあるまいか」などといふ人がゐるが、うまいこと云ふよなあ。
そこに執拗なほどのくしやみが伴ふ。

昨日の鼻水は、そんなのではなくて、うつかりすると、「すつー」と出てくる、といつた感じだつた。
それで、「ああ、これは風邪だな」と思つたといふわけ。
風邪だな、と思つて、なにをしたかといふと、別段なにもしてゐない。
昨日は朝から寒かつたから、たくさん着てゐたし、暖房もつけてしまつた。
それは寒かつたからで、「風邪だな」と思つたからではない。

とりあへず、「初期症状だらう」と思つて葛根湯を飲んだくらゐだ。

あ、あともうひとつやつたな。
あみものをあきらめて寝る、といふのを。

ずつと書きつづけてゐるメビウス編みのショールもいよいよ最終コーナーを回つて、ゴールを目指して一直線、といふところまできた。
長かつたー、と思ひつつ、案外早かつたな、とも思ふ。
目数の少ないレース編みを編みつけつつ編み目を止めてゐるので、なかなか進まないと思ふことばかりだが、しかし、このレース編みといふのが編んでて結構楽しいんだな。
それで、「進まない進まない」と思ひつつも、「ま、でも楽しいからいいか」と思へる、といふわけだ。

多分、いつものやつがれであつたなら、昨日のうちにレース編みを全部編み終へてゐただらう。
そして、それで終はつた気になつてゐたにちがひない。

あみものつて、でも、編み終はつて終はりぢやないんだよね。
あみものをする人には今更かもしれないが、編み終はつてからがまた長いのがあみものといふものである。

たとへば、セーターに顕著だ。
後ろ身頃を編み、前身頃を編み、両袖もなんとか編んだ。
やつたー、と思つたところで、今度は各々をはぎあはせる作業が待つてゐる。
これ、好きな人もゐるといふけれど、そして、さうだらうなあとは思ふけれど、やつがれは大の苦手の作業である。
後ろ身頃と前身頃をうまくつなぎあはせたと思つたら、まだ袖が待つてゐる。
袖は肩のあたりをつなぐのが結構手間で、しかも、袖の下の部分つて案外長いものだつたりする。
とにかく、延々と終はらない気分に苛まれること一度ならず、だ。

はぎあはせたらはぎあはせたで、今度は襟の目を拾つて襟を編む。
編んだら大抵はゴム編みの伏せ止めが待つてゐる。

さうさう、各パーツをつなぎあはせる前に整形する人も多い。
やつがれはどちらかといふと、つなぎあはせてから整形する。
各パーツごとにやつた方がかんたんだし仕上がりもきれいなんだらうな、とは思ふ。思ひつつも、なんとなく全部つなげてからにしがちなんだよなあ。
いづれにしても、整形をしないとあみものは終はりにならない。
まあ、くつ下なんかはしないけどね、普段は。

そんな感じで、セーターの場合は編みあがつても、その後のあれこれで一日二日はとられてしまふ。やつがれの場合はさうなので、ほかの人はもつと早いのかもしれないけれど、まあでも、即できあがりぢやあないやね。
整形しやうと思つたら、天気のよい日を選んだりするしね。さうするとさらに時間がかかる。

今回の場合は、編み終へたらレース編みの編みはじめと編み終はりとをはぐ必要がある。
また、編みつつ処理した部分もないわけぢやないが、端糸の始末もある。
そして整形だ。
整形は次の休みに回すとしても、編み終はつたら終はりではない、といふのはすでに書いたとほりだ。

でも、編み終へると終はつた気持ちになつちやふんだよね。
そして、そこから次の作業にうつるのは、時としてむづかしい。
とくに風邪を引いてゐて、集中力が落ちてゐたりする場合はね。
それに風邪なんだから、そんなに根をつめることをしてもいかんだらう。

さう判断して、夕べは「最終コーナーを回つたな」と思つた時点で、編むのをやめた。
あとは毎日ちびちび編んでいけば終はるしね。
我ながら、最善の判断だつたのではあるまいか。

Friday, 18 April 2014

いと足らぬこと多かり

中学生のときには、すでに漢文が好きだつた。
好き、といつても、あやふやな「好き」だ。
中学生になると、英語の授業がはじまる。
猫も杓子もわけのわからぬ英文を「かつこいい」と思つて書き散らしはじめる。
やつがれは、それには組みしなかつた。
むしろ、「やうすが悪い」と思つてゐた。
「さばかりさかしだち英字書き散らし」「まだいとたへぬところ多かり」と思つてゐたわけだ。
ヤな輩だね、我ながら。

そんなわけで、卒業文集の寄せ書きにも漢文からの引用を書いたりしてゐた。
念入りにヤな輩だね、我ながら。
「さばかりさかしだち真名書き散らし」てゐたのは、誰でもない、このやつがれだつたのである。
よく見なくても、「いとたへぬところ多か」つたのに、だ。

しかし、その後漢文を読むやうになつたか、といふと、さうでもなかつた。
といふ話は、先日書いた「旧かな旧漢字の書物が苦手」といふところとつながる。
漢文の本といふのは、旧かな旧漢字で書かれたものが多い。
当時はそれが苦手だつた。

中国語を学ばうといふ気にもならなかつた。
これは我ながらふしぎではある。
外国文学を好むやうになつたら、その国のことばで読みたいと思ふのが自然な意識の流れではあるまいか。
海外で日本語を学ぶ人の多くは、日本のアニメーションが好き、といふ話も聞く昨今である。

ひとつには、「国際連合の公用語を学ぶなんて」といふ気持ちがあつた。
外国語を学ぶなら、その言語を用ゐる人数の多い言語の方がいい。
さう思ふのもまた、自然な流れだと思ふ。
とするならば、国連の公用語を選ぶといふのもまた自然な流れだらう。
やつがれは、当時おかれてゐた環境のせゐもあるのだが、それは「卑しい」と考へた。
外国語を学ぶ際に国連の公用語を選ぶことに、妙な色気がある。
さう感じられたのである。
かく書きつつも、NHKラジオの外国語講座は一通り一度は聞いたことがあるんだけどね。

いづれにせよ、中国語を学ぶ気にはならなかつた。
ちよつとくらつと心が揺れたのは、高校生のときに、漢文の授業で先生が李白の詩を中国語で読んでくれたときのことである。
中国語つてこんなにうつくしいことばだつたのか。
驚愕した。
その先生は、李白が好きといふことで有名だつたので、とくに思ひ入れのある詩だつたのかもしれない。

ちよつとくらつときて、しかし、やはりそのまま時が流れてしまつた。

去年、NHKの「漢詩紀行百選」のDVDを買つた。
播磨屋中村吉右衛門が朗読してゐる巻を購入した。
爾来、毎晩のやうに聞いてゐる。
副音声で、中国語の朗読も入つてゐる。
たまに聞いてみるのだが、結局播磨屋さんの朗読に戻つてしまふ。

播磨屋さんの朗読がすばらしい、といふのもある。
「漢詩紀行百選」が放映されてゐた時分、TVをつけたらなんだかしんみりとした詩の朗読が流れてきて、ひどくしみた。
吉右衛門がある詩を朗読してゐたのだつた。
誰のなんといふ詩かはわからない。
そのとき、走り書きしたメモもどこかに消へてしまつた。

そんなわけで、以前から吉右衛門の漢詩の朗読がいい、といふのは知つてゐた。

しかし、ものは詩である。
詩、それも定型詩である。
原語では、韻が踏まれてゐる。
漢詩には平仄のきちんとととのつた詩も多い。
すなはち、訓読ではそのよさはわからない。

訓読ではよさはわからない。
わからないが、しかし、訓読した文が好き、なんだな、やつがれは。

なんで中国語の朗読は聞けないのだらう、と思ひ、いろいろ考へてたどりついた結論はそこだつた。
漢文の書き下し文が好きなのだ。
だからかもしれないが、もともとは漢詩よりは「史記」とか「十八史略」とかの方が好きだつた。
いまでもさうかもしれない。

たとへば、杜牧の「東風周郎がために便ならずんば」の「便ならずんば」といふところが妙に好きだ。
いまどき云はないだらう、「便ならずんば」なんて。
ここの播磨屋さんの読み方がまたいいんだよね。
そのあとの「銅雀春深うして二喬をとざせしならん」もいい。

はたまた蘇軾の「軸櫨千里旌旗空を覆ひ酒をそそいで江に望み槊を横たへて詩を賦す」とか。
この畳みかける感じ。
いいなあ。

漢詩文を理解するには中国語を学ばねばといふ意見のある一方で、今の中国語には当時あつた入声とかがなくなつてゐて、どちらかといふと日本語の音読みで読んだ方が当時の読み方に近い、などといふ意見もある。
だいたい詩経と陶潜と杜甫と蘇軾とぢやあ各のあひだに何百年とひらきがあるわけだし。

学ばないいひわけはいくらでも思ひつく。
さてどうしたものか。

Thursday, 17 April 2014

春といふではなけねども

もうすぐ、いま使つてゐる手帳を使ひ終へる。
いま使つてゐるのはMoleskineのポケットサイズ。これまで、使ひ終へるのに罫線ありで三ヶ月、罫線なしだとものすごーく細かい字で書いたりするのでときには半年くらゐかかつてゐた。
いまのMoleskineを使ひはじめたのは二月の半ば。
ほぼ二ヶ月で使ひ終へることになる。

期間が短くなつたのは、ここにも何度か書いてゐるやうに、これまで書かなかつたやうなことも書くやうになつたからだ。
それがいいのか悪いのか。
それはよくわからない。
多分、今後わかることだらう。
ひとついいなと思つてゐることは、これまで本の感想などは全部読み終へてから書いてゐたのを、読んでゐる途中にも残すやうになつたことだ。
読んでゐる最中と読み終へたあととでは、感想もことなることが多い。
読み終へるころには途中のことを忘れてしまつてゐるといふこともある。
そんなわけで、これはちよつとおもしろいな、と思つてゐる。

芝居の感想もさうだな。
以前は見て帰つて落ち着いてから書いてゐたけれど、最近は幕間にちよこちよことそのとき思つたことを書き留めてゐる。
途中に出てきたちよつと気になるせりふとか、ちよつと気になる衣装とか、ちよつと気になる所作とか、さういふのは、見た直後でないと忘れてしまふことが多い。
最近は、幕間のメモで安心してしまつて、全体的な感想はあまり書かなくなつてしまつた。
それはそれで、まあ、いいのかなあ、とも思つてゐる。

さて。
ノートが終はりに近づくと、次のノートはどうしやうか、といふことを悩むやうになる。
Moleskine一辺倒でいければいいのだが。
世の中にはすてきなノートはたくさんあるし、気になるノートはもつとある。
今回、久しぶりにMoleskineを使つて、その最中は「今度もMoleskineでいいかな」と思つたりしてゐた。
Moleskineのいいところは、表紙がかたいので、ぱつと取り出してその場で書き込めることである。
また、サイズが絶妙だと思つてゐる。ポケットサイズを手にしたときの「ちやうどよさ」がたまらない。
適度なサイズとかたさ。
それと、やつがれの場合は、愛用の中屋万年筆の細軟で書き込んだときのふんはりとやさしい感触が好きだから、といふのがMoleskineにする理由である。

とは、すでに何度も書いてゐるな。
Moleskineにしない理由についても何度も書いた。
ペンを選ぶから。
これに尽きる。

今回、ユビキタス・キャプチュアなるもののまねごとをはじめて、Moleskineはいいな、と思ふやうになつた。
次も、と思つて、最近、気を変へた。

Untitled

次の手帳はアサヒ屋紙文具店のクイールノートだ。
このノートは以前も使つたことがある。
いつかまた、と思つてゐて、だいぶたつてしまつた。
久しぶりにいいかな、と、先日池上線に乗つて、調達してきた。
クイールノートは満寿屋の紙を使つてゐる。
前回と変はつてゐなければ、うすいけど張りのある、ちよつとかたい印象のある紙だと思ふ。
Moleskineの紙のやはらかさとはまつたく違ふ。
それがまた楽しみでもある。

クイールノートは表紙に何種類かあつて、前回も今回も布張りのものにした。使つていくうちに、布がふはふはとしてきてきもちよくなる。それも気に入つてゐる。

ところで、ここにも何度か書いてゐるやうに、ノートの複数使ひを考へてゐる。
たとへば、読書ノートとか観劇ノートとかは、別にした方がいいんぢやないか、とか。
いままでおなじことを何度も考へて、それでもひとつのノートに書いてゐるのは、「ここを見れば全部書いてあるから」だ。
ノートだから使つてゐる期間にかぎりはある。だが、このころ書いたことなら、このノートに書いてある。
えうは、検索性重視、といふことだな。

また、とりあへず何でもひとつのノートに書いておいて、重要なことだけ別のノートに抜き出す、といふこともずつと考へてゐる。
一度書いたことをまた書くなんて、と、手間が惜しくて実現できてゐない。

先月世界の万年筆展で日本橋の丸善に行つたときに、うつかり注文してしまつた美篶堂のハードカヴァーノートができあがつてきた、と、連絡が入つた。
うつかり注文してしまつたので、用途を考へてゐない。
清書用のノートにしたらどうかな。
そんなことばかり考へてゐる。
美篶堂のノートは、近日中に受け取る予定である。
楽しみだなー。

Wednesday, 16 April 2014

勧君更盡一杯酒

昨日で今回の展示は最後だといふので、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行つてきた。

去年のいまごろもちやうど展示替への時期だつた。
このときはずいぶんと嘆いたものである。
去年は、いきなり展示替へのお知らせが出たからね。
今年は、「そろそろ来るだらう」と予測してゐた。
ゆゑに事前に心の準備もできてゐた。

とはいへ。

そんなわけで去年のいまごろは、「西のかた渋谷をいづれば故人なからん」とか思つてゐたりしたわけだけれども、今年もやつぱり「君に勧むさらに尽くせ一杯の酒」とか思ふてゐるのだから、成長しない。
しかも、なぜ王維。
まあいいけど。

なんとはなし、人を見送るときには酒の一献も酌み交はしてからだよな、といふのがあるのだらう。
とくに今回は曹操がゐるしな。
芸術にはとんと疎いので、曹操が詩人としてどうなのかといふことはさつぱりわからない。
でも、「酒呑みの心がわかつてるよねー」とは思ふ。
なんといふか、酔つぱらつたときに高歌放吟したくなるやうな、そんな文句がつづく。
そんな気がする。
王羲之の伯父さんだつて、酔ふと痰壷をたたいて魏武の詩をうたつた、といふしね。
王羲之の伯父さんの時代だつて、といふよりは、生前から曹操はかなり嫌はれものだつた形跡があるけど、酒呑みの心はどこでもおなじ、といふところだらう。

もちろん昨日も素面で行つてきたけどね。

行つてきて、いまさらながらに気がつくやうなこともあつた。
たとへば伴卜のターコイズブルーの袴の下にサーモンピンクの下着が見える、とか。それでゐて、色合ひが変といふ感じはしない、とか。

或は、北条義時のカシラは仲達のそれに似てゐる、とか。
「いまさらかい!」と我ながら思つたが、左右の眉の互ひちがひな感じとか、つりあがつた目、口元の感じなど、よく似てゐるやうに思ふ。
なるほどなー、義時が気になるはずだよなあ。仲達似なのだもの。
「人形劇三国志」の仲達のカシラは、ちよつとイカしてゐるからなあ。なにしろ眉も目も片方だけ動く仕掛けがある。ギミック好きにはたまらないよねえ。
仲達は、番組の中では、孔明を引き立てるためだらう、特に終盤は妙ちきりんなことばかりしでかしてゐたやうな印象がある。
「いや、仲達、もつとヤな奴だし(褒めてます)!」と、幾度思ふたことか……

さういへば、仲達は作りなほされてゐないのだらうか。
そのうち出てきたりするだらうか。
出てくるとして、やはり片眉片目の動くやうなカシラになつてゐるか知らん。

そんなことを考へたりしてゐた。

呂布・貂蝉・陳宮の三人とは、次に会へるのがいつになるかわからないといふので、チト念入りに見た。
このあとの展示がどうなるかはわからないが、孔明の死のあたりまではひととほり展示するのだらう。さうしたら、物語の序盤に出てきた人々と次に会へるのは、すくなく見積もつても二三年ののちだらう。
今回、ことに呂布がよいしねえ。
力なく座り込んで、視線を地に落とした感じがたまらなくよい。
いや、よかつた、と書くべきか。

いつ会へるかわからない、といふ意味では、荀彧もさうか。
郭嘉・夏侯淵・荀彧の三人のあたりは、今回の展示ではことによく見た。
この三角形は無双だな。
さうも思つてゐた。

そこから視線を右にうつすと、馬上の曹操がゐて、その横顔に見とれることしきりだつたんだよねえ。
渋谷の曹操は、人形劇に出てゐたときよりも品がある。ほとんど変はらないやうに見受けられるけれども、ほんのちよつと、いい感じなんだな。
以前、眉のあひだに青黛で描いた皺がないせゐか、と書いたが、これはあつた。あつて、なほ、なんとなく、上品である。
どちらがいいかと訊かれると、「どちらもそれなりに」と思ふが、今回目が正面を向いてゐるせゐか、ヒカリエの曹操はとてもよく見えたんだよね。

それにしても、いつまでたつてもお別れが上手にならない。
昨日も、帰らうとして、ふり返り、またふり返りしてしまつた。
最後に誰を何処を見やう。
それすらなかなか決められず、無駄に長居をしてしまつた。
次回こそは、さらつと帰るぞ、と心に誓ひつつ、やはりいつまでも愚図愚図してゐる自分の姿が脳裡に浮かぶよ。

Tuesday, 15 April 2014

Twilight Zone

Untitled

ものごとを三次元でとらへることができない。

小学生のとき図画工作の授業で直方体の石膏を使つて隣の席の子の顔を彫る、といふのをやつたことがある。
これができなくてねー。
まづ、鼻のめどをつけやうとして、とがつてゐるところといつたら角のところだらう、このあたりを鼻にしやう、と、はじめた。
あとで周囲を見回したら、そんなことをしてゐるこどもはひとりもゐなかつた。

みな、ちやんと直方体の中から隣の子の顔を彫り出してゐた。
やつがれにはそれが不思議でならなかつた。
どうやつたらこんなのつぺりしたところから、凹凸のある人間の顔を作り出すことができるのか。

長じて3D画像ソフトを使ふことがあつた。
これがまたなにがなにやらでねえ。
「本朝廿四孝」は狐火の段の狐を作らうとした。
ひとまづ、狐らしい形はできる。
形はできて、では動きを出さうとすると、なんだか妙ちきりんなことになつてしまふのである。

空間といふものを把握できてゐないのだ。
ものごとをx軸y軸z軸でとらへることができないのである。

おそらく、できる人から見ると、できない人間がなにをしてゐるのかと不思議でならぬのにちがひない。
できない人間は、できないのでなにが悪いのかよくわからないのだ。
よくわからないなりに考へた結果、x軸y軸z軸の関係がわからないのだらう、といふ結論に至つてゐる。
それ以上は説明できない。
説明できるやうなら、作れるやうになつてゐるだらう。

考へてみたら、道についてもさうなのだつた。
以前、知らないところに行くとき、どうやつてたどりつくか、といふエントリを書いた。
脳内では、自分の位置と目的地とは、点と点である。そのあひだを線が結んでゐる。
それだけだ。
とりあへず、目標となるものを線の周囲に配してはゐるが、それ以上のつながりはない。
たとへば、交差点があるとして、自分が行かない方の道になにがあるかとか、どう広がつてゐるのかとか、さういふことは考へない。
多分、考へられないのだらう。
よつて、京都の町中のやうなところならなんとかなるが、さうでないところ、たとへば渋谷のやうに駅を中心に放射線状に道がひろがつてゐるやうなところは迷ふのである。
…………と思ふたが、渋谷はそれほどでもないな。
渋谷で迷つた、といふ記憶はない。
目標になる建物がたくさんあるからだらう。

もとい。

そんなわけで、立体的なものを作るのが苦手である。
「そんなこといつて、セーターとかくつ下とか、身につけるものは立体でせう?」
さういふ向きもあらう。
それはそのとほりである。
そのとほりではあるのだが、やつがれのイメージではセーターもくつ下も平面的なものだ。

セーターは折り紙に近い。
平たいものをいくつか編んで、つなぎあはせる。
後ろ身頃と前身頃、両袖とを別々に編んで、あとではいでいく、といふ作業に、立体的な思考は関与しない。
するとして、せいぜいダーツを入れるとかくらゐかなあ。
折り紙は、一枚の紙を折り畳んでいくといつしか立体になつてゐたりする。
一枚からできるといふのと何枚かあはせてできるといふのとでは違つてゐるが、自分の感覚ではなんとなく近いのだつた。

くつ下を編むときはたいてい輪に編むので、立体を編んでゐる。
そのはずである。
しかし、立体を編んでゐる、といふ感覚はない。
ぐるぐる編むときに目の前にあるのは、手前にきてゐる編み地だ。
見てくれ的には平面なのである。
踵を編むとだいぶ立体的になりはするものの、踵部分といふのは輪に編まないことが多いので、やはり平面的に編んでゐる。そんな気がする。

あみものでさへさうなのである。
況やタティングレースにおいておや。

実際は、この世にまつたく平面のものはないものと思はれる。
たいていのものには縦横高さがあるからだ。
うすつぺらい紙にしたつて、厚みがある。
あみものだつてさう。
タティングレースの場合、たとへばシャトルひとつで作るやうなモチーフは、スティッチの部分と糸を渡しただけの部分とでは厚みがちがつてくる。この厚みの違ひがまたおもしろい、といふことにもなる。

なるんだけど、どーしても平面でしかものごとをとらへられないんだよなあ。

人間の目は、しかし、世の中を二次元としてしかとらへられないのだといふ。
目の前にあるものが立体だとわかるのは、影とかがあるからなのださうな。影がなかつたら、立体だか平面だかわからなくなるのだらう。
だいたい、むかーしの人が描いた絵とかは、そんな風になつてるしな。

といふことは、だ。
四次元の世界に住む人がゐるとするならば、世の中は三次元に見えてゐるのだらうか。
それつて、どんな風に見えるんだらう。
四次元の世界に住む人は、「俺、世の中を三次元でしかとらへられないんだよなー」とか悩んだりするんだらうか。
謎である。

まあ、二次元がせいぜいのやつがれにははかりしれぬことだがな。

Monday, 14 April 2014

編む時間と睡眠時間

メビウス編みのショールをせつせと編んでゐる。
端のレース編み編みつけ部分は、なんとか半分を越えたところだ。
編んでも編んでも終はらない気はするけれど、まあ、なんとかなるだらう。

といふところで、今日のエントリは終はり、である。
あみものblogといふのは、往々にしてかうなりがちである。
こものならいざ知らず、大きなものはなかなか完成しないからだ。

完成しなくても、たとへばセーターだつたら、「前身頃が編めました」とか「両袖一度に編んでます」とか写真を載せてさまになる。
メビウス編みは、ねぢつた状態で編んでゐると、端の伏せ止めがほぼ終はりに近づくまでは、なにがなんだかわからない状態である。
しかも、黒い糸で編んでゐる。
すなはち、写真を撮つても、「……これはいつたいどういふ物体X?」といふことになつてしまふ。
実際、編んでゐても、いま現在自分がどういつたものを編んでゐるのか、よくわかない、とは、すでに幾度か書いたとほりだ。

レース編みのショールなんかも編んでる途中はなにがなんだかわからなくなりがちなんだよなあ。
最後に整形して、やつとレース模様があらはれる、なんてなものが結構ある。

blog、つづかなくなるよねー。
つづかなくても、まあ、いいのかもしれないが。

進まない進まないと思ひつつ、平日は45分ほど編んでゐる。
これも書いたか。
一時間はちよつとムリなんだよなあ。ほかのことをする時間がなくなつてしまふ。ほかのことつて、食事の支度したり食べたり片づけたり、お風呂わかして入つて湯上がりのあれこれをして、とかだけど。

これも以前書いたけれど、三年くらゐ前までは、睡眠時間を削つて編んでゐた。
本人には、「睡眠時間を削つてゐる」といふ意識はなかつた。
考へてみると、ほかに削るところ、ないもんな。
始発のバスに乗つて終電で帰つてくる、といふ生活をしてゐると、なにがなんでも編まなければ、といふ気分になつてくる。
仕事ばかりで一日を終へてたまるか、と思ふわけだ。
なにかが間違つてゐる、とは思ふが、間違つてゐるとしたら、始発で出かけて終電で帰宅するといふ、そのルーティンの方が間違つてゐる。
これは、まあ、いまでもさう思つてゐる。

当時、オーストラリアのあみもの事情を書いた本を読んでゐた。
あみもの者は、どんなに自分があみものはまつてゐるかを自慢しあふといふ。
「あたしなんかね、夜の11時まで編んでゐたのよ」
さう自慢するせりふを見て、「そんな時間、まだ職場にゐるよ」と思つた昔が懐かしいやら痛ましいやら。

その後、今度は片道二時間半かかる勤務先に通ふことになつた。
二時間半、といふのは、一番電車と電車との連携ができる時間帯のことだ。
田舎から田舎に通つてゐたこともあつて、帰りがちよつとでも遅くなると片道三時間はあたりまへだつた。下手をするとバスがなくなる。
このときも、やはり、こんなことで一日を終へてなるものか、と思つてゐた。

それでなにをするか、といふと、まあ、あみものだね。
タティングレースのときもあるけれど。

先週も書いたやうに、人には多かれ少なかれ「なにか作つて残したい」といふ気持ちがある。
毎日毎日鉄板の上で焼かれてばかりぢやイヤになつちやふのは、至極当然のことだ。

至極当然のことだが、しかし、睡眠時間を削るのはよくないよなあ。

その後も、帰宅時間が早くなることはなく、いつしか、夜早く寝ることができなくなつてゐた。
まあね、体力の限界のときなんかは眠れますよ。
しかし、今日は早く帰れた、さて寝るか、と思つても眠れない、といふ事態に陥つてしまつたのだつた。

これはまづい、とは、なぜだか思へなかつた。
なぜなんだらう。さういふ暮らしに慣れてしまつてゐたからだらうか。

しかし、休みの日も、たとへ予定が入つてゐたとしても起きられないことがつづくやうになつて、「これはいかんぞ」と思ふやうになつた。

……といふのはウソだな。

早く寝るやうにしやうと思はなかつたのは、「早く寝るやうにしたら、幸せになれる」「睡眠時間が増えたら幸せになれる」と思つてゐたからだ。
なにを云ふてゐるのか、と思はれるむきもあるかもしれない。
つまり、いまの自分が幸せでないのは、睡眠不足だからだ、と思つてゐた。
早く眠るやうにしても幸せになれなかつたら、もうあとは手がない。
さう思つてゐた。

だが、背に腹は代へられぬ。
といふわけで、このblogにもたまに書いてゐたやうに、早寝早起きをはじめたのが、いまから三年くらゐまへだらうか。
三年かかつて、やつと、なんとなく、早く就寝できるやうにはなつてきた。
もういいかな、と思つて、残業とかすると、あつといふ間に就寝時間が二時三時になつてしまふ。
個人の力でなんとかしやうとするのは、ムリなのかな。
Webなどで検索すると、ひとりでやるのはムリ、専門家にまかせないと、とある。
それは専門家の営利のためでせう、とまでは思はないが、正直云ふと、専門家と会つて話をする手間が惜しい。

そんなわけで、仕方ないけどひとりで今日も早寝早起きを励行しやうとしてゐるわけだ。

それで幸せになれたかつて?
まあ、世の中といふものを考へてみてくれたまへ。

Friday, 11 April 2014

PowerPointで作るなよ

ひよんなことからPowerPointが話題になつてゐる。
三年ほどまへ、「PowerPointで読みものを作るなんて間違つてゐる!」と書いた。
書いて本屋に行つたら、PowerPointの指南書にもまつたくおなじことが書いてあつて、「なんだ、別にやつがれがわざわざ云ふことではなかつたのか」と思つた。
思つて、しかし、それでも世の中PowerPointで作成された読みものは減つてはゐない。
むしろ増えてゐるのではあるまいか。
先日も、客に提出する資料はPowerPointで作れ、と云はれた。

いや、PowerPointつて、さういふ資料を作るアプリケーションぢやないし。

なんでさうなるのか。
ふたつほど理由か考へられる。
ひとつは、Wordが使ひにくいからだ。
本来、読みものを作るにはWordを使ふものである。
なぜ使はないのか、といふと、使ひにくいからだ。
人は、なぜかWordをかんたんに使へるものだと思つてゐる。
普段から使ひなれたアプリケーションだと思つてゐる。
使ひなれてはゐるのかもしれないが、使ひ方を理解してゐないから思ふやうには使へない。
そして、Wordは、使つていくうちに使ひ方が見えてくるやうなアプリケーションではない。
多分、PCで文書作成をする人の多くは、Wordを使つてゐるうちになんだか妙ちきりなんなことになつてしまひ、「なぜかうなつてしまつたのか、さつぱりわからない」といふ経験をしてゐると思はれる。
それで、Wordはもういいよ、だつたらExcelで作らう、といふことになつたりするわけだ。

Excelで読みものを作る。
これもまた間違つてゐる。

いや、間違つてはゐないのか。
PowerPointで読みものを作るのも、間違つてゐるとはいへない。
うまく作れる人が作れば、Wordで作らうが、Excel、PowerPointで作らうが、ちやんとした読みものができる。
ただし、それが、上司や客ののぞむものかどうかは、また別の話である。

PowerPointで読みものを作る理由のふたつめは、「読みものを作らないため」だからだ。

なにを云つてゐるのか。
だつて、「読みもの」を作るんだらう?
最初からさう書いてゐるぢやあないか。

たしかに書いた。
PowerPointで読みものを作る話を書く。
そのつもりでゐる。

でも、職場で求められてゐるのは「読みもの」ではないのだ。
職場で求められてゐるもの、それは、「読まなくてもすむ文書」だ。

文章は、できるかぎり短く簡潔に。
絵や図を多用してわかりやすく。
それにはWordを使ふよりもPowerPointを使つた方が作りやすい。

さういふことなのだと思ふ。

仕事の場においては、「読み手に読む手間をとらせない」、さういふ文書がすばらしい文書だとみなされる。
PowerPointで読みものを作れ、といふのは、さういふことだ。

そして、さう云ふ人にかぎつて、絵や図があればわかりやすくなる、と、盲信してゐる。
ぱつと見てわかりやすい絵や図を作成できる人なんて、さうさうゐやしないのに。
その業界や職場ではみんなが理解できる図の形式なり絵なりがある、といふのなら話は別である。
さうでない場合は、文章で書いた方がよほどかんたんに説明できる場合が圧倒的に多い。
でも、文章を、それも長い文章を書くことは、仕事の場では忌避されてゐるのだ。

受け手に読んだり考へたりする手間をとらせてはいけない。
それは「おもてなし」の心に反する。
さういふことなのだらう。

文章で説明させない理由は、実は世の中には他人に理解できるやうな文章の書ける人が案外少ない、といふこともある。

結局、ツールの問題ぢやないのか。
使ふ人間側の問題なんだな。
PowerPointには悪いことをした。

Thursday, 10 April 2014

春の予想 改

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーは、4/16-24のあひだ、展示替へで休館となる。
おや、去年とほぼおなじ時期だつたね。
4/25から新たな展示になるのださうだ。

思ひきりいろいろ予想がはづれてゐるので、これまたいろいろ考へなほしてみた。

人形劇三国志の次回の展示は、官渡の戦ひと関羽の千里行だらう、と、これは前回の展示のころからさう思つてゐた。
しかし。
ここにひとつ問題があるのだつた。

次回は、多分、曹操がゐないのである。
曹操のゐない官渡の戦ひなんて。
なあ。

袁紹と許攸とは、前回の展示にはゐて、今回はゐない。
一回休んでゐるから出てこられるはずだ。
二回つづけて展示されるといふことは、ないと思ふんだよね、多分。

一番最初の展示は十ヶ月くらゐおなじ内容のままだつた。
曹操などは、采配を握つた指に亀裂が入つてゐた。
照明などのせゐで入つたものと思はれる。
なぜならおなじやうに白羽扇を握る孔明の指には目に見えるやうな傷はなかつたからだ。白羽扇を握る手は影になつてゐて、直接照明があたつてゐなかつた。

そんな感じで、展示される期間が長いと人形の劣化も早い。
今回の展示にゐる曹操が、次回もゐる確率は低いものと思はれる。

でもなー、今回赤兎馬がゐないのは、関羽の千里行のためだと思つてゐたんだがなあ。

だが、その関羽も次回もゐるかどうかはチトアヤシい。
玄徳・関羽・張飛のゐない人形劇三国志など考へられないが、さりとては、展示する人形がゐるかゐないか定かではない。
どこかにゐるのかなあ。
前回の展示のときは、川本喜八郎が人形劇三国志の脚本を担当してゐた小川英に贈つたといふ玄徳・関羽・張飛が展示されてゐた。
いま、その三人は飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる。
五月の終はりまではそのままだらうから、これが渋谷に戻つてくることはまづないだらう。

この三人なら、ほかに作つた人形がいくつもあつたりするのかなあ。
さう思はないでもない。
チトアヤシいなどと書きながら、この三人は絶対ゐるだらう。
さう思つたりもしてゐる。

しかし、曹操。
うーん。

といふわけで、いきなり官渡の戦ひをとばして三顧の礼といふこともありうるかな、と、思ふに至つたわけではあるのだが。
だが。
官渡の戦ひをとばすつてありうる? ありえないよなあ、三国志だもの。

曹操も、なにか別の人形がゐて、それをつれてくる、といふのはありかなあ、とは思ふ。
それはありうるな。
それで、官渡の戦ひ部分は、曹操と袁紹、許攸に玄徳・関羽・張飛に赤兎馬で、同時に三顧の礼、といふのはこれまたありうる話かもしれない。

あ、でも、三顧の礼をやつちやふと、次回の展示で赤壁の戦ひ、といふわけにはいかなくなつてしまふのか。
孔明がゐなくなつちやふものな。
孔明もなにか別の人形をつれてくる?
ぬー。

本来の赤壁の戦ひとしては、孔明はゐてもゐなくてもかまはない。曹操と周瑜とがゐれはひとまづ形は整ふものではある。
でもまあ、孔明のゐない赤壁の戦ひはありえないよな、人形劇三国志的に。

といふわけで、人形のrotationから考へると、やはり次回は官渡の戦ひと関羽の千里行、その次が三顧の礼と赤壁の戦ひなんではないか、と思ふわけだが。
さて。

Wednesday, 09 April 2014

その後のFragrance Pot

Fragrance Potを買つてほぼ二週間、前回入れた精油がなくなつたので、月曜の夜に足してみた。
前回入れたのはベルガモット。我が家にある精油がそれだけだつたからだ。
今回もおなじものを入れてみた。多孔性磁器の部分を火にかけるのがめんどくさかつたからである。

前回は、「精油だけだと揮発性に乏しいから」といふので、アルコールを足してみた。
今回は、敢て精油しか入れなかつた。
精油だけだとどれくらゐ香りがするのか、どれくらゐもつのか、ためしてみたかつたからである。
とりあへず、前回より香り具合がすくないやうな気はする。
でも気のせゐかもしれない。
ちよつとやうすを見ることにしやう。

Fragrance Potは、普段玄関先においてゐる。
出がけはばたばたしてゐるせゐかあまり気にならないが、帰つてきて玄関をあけた途端にふんはりと柑橘類系の香りがただよつてくる。
なんか、いい感じだ。

まはりに香りがほしいな、と思つたときには、自分のそばに持つてくる。
もういいやと思つたら、玄関先に戻す。
さして広い家ではないが、玄関先においておけば、普段は香りは気にならない。
そんな感じである。

いいぢゃあないか。

自由に移動できるのは、サイズがちいさくて、火を使つたり電源につないだりする必要がないからだ。
もしかすると、充電池が入つてゐて電源のオンオフで香りのあるなしを選択できるやうなものの方が使ひ勝手はいいのかもしれない。
しかし、精油の中にあるかぎり、使ひつづけられる、といふのはいい。
めんどくさがりにはもつてこいである。

あとは、今回補充した精油がなくなつたら、ちがふ香りを試してみる、かなあ。
多孔性磁器の部分を直火にかけて、煙が出なくなるまで熱しないといけないのらしい。
それがちよつとめんどくさい気がしてゐる。

それに、ちがふ香りといつて、なにを試してみるか、とかね。

実は、今回精油を買ふといふので、あちらこちらの店を見てまはつてみた。
なんでせうかね、あの混みやうは。

どうも、どこかのTV番組で、朝と夕、ある香りをかぐと脳が若返る(かもしれない)、とかいふ特集を組んだのらしい。
それで、そのときに取り上げられた香りの精油がのきなみ売り切れだ、といふのだ。
やつがれが店に行つたときも、その精油を求める人がたくさんゐた。
なかには、その精油を予約してきてゐる人々もゐた。
なんなんだ、それは。

香りをかいだだけで若返らうなんて、そんな魂胆だから頭が老化するんだよ。
老化したくなかつたら頭を使へ、頭を。

さう思つたが、かくいふ自分だつて香りでやる気を出さうつてーんだから、同じ穴の狢といふアレである。

そんなわけで、人がものすごくて、別の香りを選ぶなんて到底できなかつた。
混雑のおさまつた時期にでもひとつ、と思つてゐるのだが、さて。

Tuesday, 08 April 2014

タティング道具を持ち歩くわけ

先日、あみものの話の時に、「外出先でなにもすることがなくなるのが怖い」といふやうなことを書いた。
だから常に手仕事道具を持ち歩いてゐるのだ、と。
やつがれのする手仕事のうち、一番荷物がちいさくてすむのはタティングレースである。
したがつて、日々、糸を巻き付けたタティングシャトルの入つてゐるがま口の財布を持ち歩いてゐる。

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がま口の財布については、だいぶ以前に書いたな。
皇室御用達、といへば聞こえはいいが、見た目にはかなり「をばさま向き」の財布である。
これの使ひ勝手がよくてね。
財布として使つてゐたときもいいと思つてゐたけれど、タティングシャトル入れとしてもとてもいい。
そろそろくたびれてきて次がほしいかもと思つてゐるのだけれども、どうやらちよつとモデルチェンジをしたやうだ。
なにかほかのものを探すかどうか、悩んでゐる。

もとい。

外出先で時間をつぶすもの、といつて、本もある、とそのとき書いた。
いまだつたらスマートフォンもありだな。
やつがれのかばんの中にも、本とiPhoneとは入つてゐる。
だつたら時間をつぶすならそれだけでいいぢやあないか。
なにもわざわざタティングレース用具など持ち歩かなくたつて。

さういふ意見もあらう。
本やスマートフォンだけではダメなのだ。
先日もさう書いた。

なぜダメなのか。
本を読んでも、なにも残らないからだ。
わかる。読んだら、記憶には残る。知識になることもあらう。
しかし、目に見えるものはなにも残らない。
本は残るかもしれないが、それはやつがれの作つたものではない。

さう。
自分の手で作つたものはなにも残らない。
読書のむなしいところはそこである。
料理もさうだ。
生きていくのに最低限の食事の支度はともかく、やつがれが趣味で料理を楽しまない所以はそこにある。
時間をかけてあれこれやつて、そこにはなにも残らない。
なにも残らないのにゴミと洗ひものだけは残る。
むなしい。

正直に云ふと、「むなしい」といふ気持ちとはちよつとちがふ。
ちよつとちがふけど、まあ、人生なんて所詮むなしいものか。

何年か前、休日になると絵を描いてゐた時期がある。
ちよつと前に見てきた芝居の絵とかを描いてゐた。
図画工作や美術の授業では努力点しかもらへなかつたやつがれが、である。
そのうちそれがリカちやんやジェニーの服づくりになつた。
家庭科の授業では努力点しかもらつたことのないやつがれが、である。
それが、あみものやタティングレースになつて現在に至る。

絵と人形の服とあみものやタティングレースの共通点は、「作るとなにか残る」だ。
できあがつたものを見ると達成感がある。
捨てるまではなくならないので、それまでのあひだは達成感を得ることができる。

ひとつ新たなことをはじめると、以前やつてゐたことは次第にやらなくなる傾向がある。
それは、「なにか作つた」といふ達成感だけがほしいからだらう。
べつに絵や人形の服でなくてもよかつたのだ。
たまたまあみものだけは昔からやつてゐて好きだつたからつづいてゐる。
それにほかならない。

この「なにか作つて残したい」といふのは、人間の本能のやうなものだらうと思つてゐる。
究極のそれは、「自分の子孫を残したい」だ。
世の中ではすでに云はれてゐることだらうけれども、男の人は「自分の子孫を残した」といふ実感を得にくいところがあつて、それで絵を描いたり彫刻を作つたり、作曲したり小説を書いたりしてきたのだらう。

しかし、さうして日々編んだり結んだりしてゐるものも、いづれは捨てられてしまふ。自分から捨てることもある。
だつたら、それはやはりむなしいことなのではないか。

まあ、人生なんてもともとむなしいものか。

Monday, 07 April 2014

ひねもすニットニットかな

Lace Edging

メビウス編みのショールは、端のレース編みに入つた。
レース編みを編みつけていく形である。
なんだかよれよれしてゐて、さぞかし整形が大変だらうといまからちよつと頭を抱へてゐる。
メビウス編みはその形状からいつて、整形しづらいのだ。ぐるぐるまはしながら、すこしづつ形を整へていくしかない。
気の長い話である。

気の長い話といへば、編んでも編んでも終はらない。
最初にこの形にしやうと決めたときにわかつてゐたことではあつた。
わかつてはゐて、でも実際に編んでみると、ほんたうに終はりが見えない。
編んでも編んでも形が見えてこない。
最小七目最大十一目を往復編みしてゐるので、段はすすんだ気がするのである。
段はすすんでゐるはずなのに、その気持ちとはうらはらに、すすみ具合ははなはだよろしくない。
ま、当然のことなんだけどね。

一方、ただの伏せ止めよりはこちらの方が断然楽しい、といふ話もある。
ただの伏せ止めだつたら、おそらくもう半分は終はつてゐるところだらう。でも、ただの伏せ止めだつたら、退屈であまりすすんでゐなかつた、といふことも考へられる。
また、ただの伏せ止めの場合は、伸縮性のことを考へながら止めていかなければならない。
止める目と目とのあひだにもう一目入れる、とか、伸縮性のある止め方にする、とかいろいろ方法はあるけどね。
でも、このレース編みを編みつけていく方法なら、伸縮性のことはあまり考へなくてもいい。
といふか、やつがれはほとんど考へてゐない。
とにかくひたすら編んでいくだけ。
これは、ある意味楽である。
ちよつと前にVortex Shawlでほぼただの伏せ止めのやうな方法で止めたばかりだから、この感覚はまちがつてゐないと思ふ。

編みながら思ふのは、中心部分にもまちつとレースつぽい模様を入れておくのだつたかな、といふことだ。
真つ黒なので、なんだか重たい感じがするのである。
また、端のレース編みは思つたほど幅(といふか高さといふか)がなかつた。これがもうちよつと大きければ、すこしは印象がちがつたかも。

いづれにしても、完成すればいままで編んだことのないやうなショールができあがることになる。これだけは間違ひない。
いまはそれだけを考へてひたすら編んでゐる。
すすんでゐるやうには見えなくても、編んでゐればいつかは終はる。
そのはずだ。

Friday, 04 April 2014

旧かなとはこは如何に

以前は、旧かな旧漢字の本は読まなかつた。
「以前は」とか書いたが、読むやうになつたのはごくごく最近のことである。

読まない理由はただひとつ。
「読みづらいから」
その一点につきる。

「それつてなんかをかしくない?」と思ふやうになつたのは、学問をしなければ、といふころのことだ。
それ以来、かういふかな遣ひをするやうになつた。
読みづらいのは、普段かういふかな遣ひを目にしないからだ。
ではどうすればいいか。
とりあへず、自分でさう書くやうにすればいいんぢやないか。
さう思つたからだ。
まあ、結局、その後学問はしてゐないんだけどね。

学問をしなければ、といふときになんで「をかしくない?」と思つたのかといふと、それは、E.H.カーの「危機の二十年」を読みたいと思つたからである。
当時、「危機の二十年」の翻訳はひどい、といふ話だつた。
戦前だか戦中だかに翻訳された本もあると聞いた。
当然のやうに、旧かな旧漢字で書かれてゐた。
その選択肢はないな、と、そのとき思つた。
思つて、「だが待てよ」と思ひなほした。

古い翻訳の方がすぐれてゐるのなら、なぜそちらを読まない?
旧かな旧漢字だから?
なぜそんなことで後込みするのか?

そのときは結局、わからないながらも原書を読んだ。
しかし、「なぜ古い翻訳を読まなかつたのか」といふ疑問はいつまでもわだかまりとして残ることになる。

旧かな旧漢字に後込みする、といふことは、先人と断絶されてしまふ、といふことにほかならない。
明治以降の小説家の作品の多くは、新かな新漢字で出版されてゐる。
それで親しむことができる。
しかし、それ以前となるとなかなかさういふものがない。
それで遠ざけてゐると、それ以前のこととふれあへなくなつてしまふ。
それでいいのか。

多分、世の中、それでいいと思つてゐるのだらう。
古いものは悪いもの。
新しいものは良いもの。
さう思つてゐるのにちがひない。

そのうち、表記だけまねできるやうになつても、読めないことに気がつく。
そして、古典を読むやうになる……といふ風にすすめばよかつたのだが、残念ながらそこにたどりつくまでにまた時間がかかつてしまつた。

普段、生きていくのに、先人の知恵など必要ない。
とりあへず、日々ニュースを見て新聞を読んで、仕事をしてゐれば社内の文書、こどもがあれば学校からの通信、さうしたものを読んでゐれば、とくに困ることはない。
だつたら旧かな旧漢字なんて、なくたつていい。

さう思はないこともない。

でもまあ、もう、ここまで来ちやつたからねえ。

ちなみに、やつがれは「ゐ」の字が好きである。
ひらがなの中で一番好きだ。
「る」ともちがふ。
「み」ともちがふ。
三角形をしてゐて、直線部分と曲線部分とのつながり、割合が絶妙だ。
筆や萬年筆で書いたときの線の強弱もすばらしい。
さう思つてゐる。

このことに、現在のやうなかな遣ひをするやうになつて気がついた。
それでやめられないのだ、といふのが実のところであつたりする。

Thursday, 03 April 2014

にほんごであそぼ?

NHK教育TVの「にほんごであそぼ」に中村勘九郎とその子息・波野七緒八とが出演する、と知つてはゐた。
知つてはゐて、録画予約を忘れてゐた。
痛恨の忘却、と思ふてゐたら、こはいかに。
我が家の賢い録画機は、ちやんと録画しておいてくれた。
#こんなときばかりは「賢い」と録画機をもちあげるやつがれである。
おそらく、「にほんごであそぼ」の情報のどこかに「歌舞伎」といふ語句が含まれてゐたのだらう。
おかげで、二三年ぶりに、「にほんごであそぼ」を見ることができた。

「にほんごであそぼ」は、その放映開始直後は毎回録画して見てゐた。
出演してゐるこどもがみな可愛かつたからである。
ひとりひとり持ち味も違つた。
いま思ひ出しても、可愛かつたなー。
見続けてゐるうちに、野村万作が出てきたこともあつたつけか。

しかし、だからといつて、諸手を上げてこの番組を誉め称へてゐたか、といふと、さうでもない。
ひとつは、「雨ニモ負ケズ」をやたらと持ち上げること。
さらにいふと、宮沢賢治をやたらと持ち上げること。
そして、一番の理由は、世の国語教育に反してゐるやうに思はれること。

「にほんごであそぼ」のどこが世の国語教育に反してゐるのか。
いまの国語教育は、といふか、戦後の国語教育は、徹底して文語を廃してゐる。
無論、古典の授業はある。
あるけれども、やることといつて、古典文学のほんの一部分を切り取つてきて、読ませるだけである。
文法も多少は学ぶが、それだけだ。

社会も当然それに呼応してゐる。
以前から何度か書いてゐるやうに、ビジネス文書は口語で書くこと、と決まつてゐる。
文語を用ゐてはならない。
したがつて、「午後二時より第三会議室にて会議を行います」は、ビジネス文書としては誤つた書き方といふことになる。
正しくは「午後二時から第三会議室で会議を行います」だ。

だといふのに、「にほんごであそぼ」で取り扱ふ「にほんご」の多くは文語である。
今回見てみたら、以前に比べてその比率が増えてゐるほどだ。
まあ、もしかしたら録画機の録画した回はちよつと特殊だつたのかもしれないけれども、それにしたつて多い。

もしかしたら、昨今では国語教育でも「もつと古文をとりあげやう」といふ風潮があつたりするのだらうか。
さういへば、先日、小学校などで論語の音読をするのが流行つてゐる、といふ記事を見かけたつけか。
これは道徳の一環として読ませてゐるのださうだけれども、素読といふからには読み下し文を使つてゐるのだらう。
まさか「孔子先生はおつしやつた」などと読み上げてゐるわけではあるまい。

さうだとすると、ますます口語と文語との区別のできない人間が増えるんだらうな。
社内のメールに「午後二時より第三会議室にて会議を行います」と書く人は、自分が文語あるいは文語的用法で文章を書いたなどとは思つてゐない。
口語と文語との区別がついてゐないから、といふのも理由だが、一番大きな理由は、「気取つて書いてゐるから」である。
人間、気取つて書くと、文語や文語的用法の用語や文章を用ゐたくなるものだ。
なぜなら、その方が荘重な感じがするし、正式な感じがするからである。
それは、もう、人として仕方のないことなのだ。
「ビジネス文書に文語を用ゐてはいけない」といふ決まりは、さうした人の自然な感情に反してゐる、とは、以前も書いたとほりである。

したがつて、やつがれは口語と文語との区別もつかぬくせにやたらと「から」の意味で「より」を使ふやうな輩を憎んできた。
さう書きたいなら戦へ、と思つてゐるからだ。
なにと戦ふかつて?
もちろん、「ビジネス文書は口語で書くこと」といふ決まりと、だ。
それもしないで「午後二時より」とか書いてんぢやないよ。

かくいふやつがれは、職場では自分のできる範囲で文語は使はずに書くやうにしてゐる。
さうすると、なんとなく格に欠ける文章になる気がする。
仕方がない。
口語とはさうしたものだからだ。
それに、そもそも、文語で文章など書けやしない。
どんなに気取らうとしても、そこにおのづと限界がある。

「にほんごであそぼ」を見て育つた人は、どうなんだらう。
もつと自由に文語や文語的用法で文章を書けるやうになつたりするのだらうか。
それとも、TV番組にはそれほどの力はないだらうか。

その昔、「カリキュラマシーン」といふTV番組があつた。
奇妙奇天烈な学習番組だつた。
「カリキュラマシーン」に文語が出てきた記憶はないなあ。
まあ、算数も扱つてゐたやうな番組だつたからかもしれないけれど。

そこから考へると、世間では「もつと文語を」といふ動きがあるのかもしれない。

………………それはないか。

Wednesday, 02 April 2014

春の予想

先日、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの来館者ノートをぱらぱらと見てみた。
たまに見る。
結構おもしろい。
よく見るのが「孔明がゐなくて残念」だ。
さうねえ、つぶやいたりもしてゐるけれど、ヒカリエで孔明に会へるのは、来年のいまごろなんではあるまいか。
展示の流れからいふとさうなる。
今回が呂布の最期で、前回が黄巾の乱と漢室の陰謀みたやうな感じだつたから、今度は官渡の戦ひと関羽の千里行だと思ふんだよね。
したら、三顧の礼は、その次かな、と。

孔明に会ひたいのであれば、いまのうちに飯田市川本喜八郎人形美術館に行くといい。
前回前々回の展示では、孔明は巨大なケースの後方にゐた。すなはち、あまり見やすいとはいへなかつた。
今回はちよつとこぶりなケースにゐるので、近くでよく見える。
ただし、出蘆まへの寝起き姿ではあるけれど。それがめづらしくてよい、といふ話もある。
やつがれの場合は、うつかりその前でくだをまいてゐる石広元・孟公威・崔州平に目がいつてしまひ、「ああ、やつぱり飲兵衛つていいなあ」としみじみしてしまふのだが。
もとい。
飯田に行くのがむづかしい、か。まあ、それもあるな。

孔明に限らず、その場にゐない人形を見たい、といふ書き込みは多い。
そのうち会へますよ、とは思へども、さう足繁く通へる人ばかりでもあるまいからなあ。
今回は、曹操と野郎どもに、玄徳・関羽・張飛、それに呂布と貂蝉と陳宮といふ、見た目にも豪華な感じでとてもいい展示だと思ふ。
ポージングをくさす人もゐるやうだが、やつがれは今回の展示がこの三回の中では一番いいと思ふがなあ。

去年はいまごろ展示替へがあつた。
今回は来月かなあ、と思つてゐる。

三国志はなんとなく予想がつくけれど、平家物語の予想ははづしまくつてゐる。
今回牛若丸が出てきたから、次回は義経が出てくるんぢやないかなあ、と思つてゐるのだけれども、どうだらうか。
いい加減、後白川法皇を見られるんではないかと、これは今回の展示替への前にも思つてゐたのだけれど、いまだ見られてはゐない。
次の清盛は僧形かなあ。

予想がつく、とは書いたものの、さういへば、三国志の場合はどれだけの人形を作りなほしてゐるのかが不明なのだつた。
張遼を作りなほしてゐたとしたら、そろそろ出てくるんぢやあるまいか。
今回、荀彧といふサプライズがあつたからなあ。
ちよつといろいろ期待してしまふ。

2014年3月の読書メーター

2014年3月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3443ページ
ナイス数:8ナイス

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争感想
「無意識のバイアス」、かあ。
読了日:3月4日 著者:スティーブン・J.セシ,ウェンディ・M.ウィリアムス
料理の科学―素朴な疑問に答えます〈2〉料理の科学―素朴な疑問に答えます〈2〉感想
「科学の何がすばらしいって、誰も知る必要のないことまで説明できてしまうところですね」(P38)どこまで本気なのだらう。 世の中では、「おばあちやんの知恵」的なものは経験則であり、概ね正しいとされてゐるやうに思ふが、この本では次から次へとさうした「先人の知恵」を打破していく。解凍のやり方は是非試してみたい。
読了日:3月7日 著者:ロバート・L.ウォルク
李白詩選 (岩波文庫)李白詩選 (岩波文庫)感想
どのページを開いても楽しい。独り酌みつつ詩と二人となるもよし。なんとなく知つてゐる詩が多いことに驚く。どこで覚えたのかなあ。詩心がないのでいままで詩集とかほとんど読んだことなかつたけれど、はじめからおはりまでおもしろかつた。
読了日:3月9日 著者:
飛行機技術の歴史飛行機技術の歴史感想
ひとつの成功の背後には、脈々と続く先人の功績がある。つい最近もそんなことを考へてゐた。航空工学とか、まつたくわからないけれども、様々な人の様々な試行錯誤が積み重なつていくやうすを読んでゐるだけで楽しい。原書が出版されたのが2002年で、ライトフライヤーが空を飛んでから100年と経つてゐなかつたときのこと、などと感慨に耽りつつ、ハリアーとかステルス戦闘機とかはやつぱり型破りな飛行機なんだなー、と思つたり。飛行機好きならもつと楽しめるんだらうな。
読了日:3月13日 著者:Jr.,ジョン・D.アンダーソン
李白と杜甫 (講談社学術文庫)李白と杜甫 (講談社学術文庫)感想
「蛾眉山月の詩」の「君」を女の人ととらへないところに共感を覚える。李白にしても杜甫にしても、子や孫のその後のことはよくわかつてゐないのか。よくぞこれだけの数の作品が残つたものだ。実に有り難い。高校の古典の教師が李白が好きで、一度だけ授業で中国語で詩を朗読してくれたことがあつた。あのときの音の美しさを思ひ出した。たまには原語で聞かうかな、吉右衛門の朗読ではなく。
読了日:3月17日 著者:高島俊男
史記 10 列伝 3 新釈漢文大系 (90)史記 10 列伝 3 新釈漢文大系 (90)感想
淮陰侯列伝、かなあ。背水の陣は知つてゐたけれど、その前の駆け引きといふか深謀遠慮といふかの部分が実におもしろい。そして、そんなにすごい韓信が陥れられてしまふといふあたりがたまらない。それにしても司馬遷はほんとに見て来たやうに書くよなあ。何度「見て来たんかい!」と突つ込まうと思ふたことか。酈食其とか李布あたりもおもしろいなあ。
読了日:3月21日 著者:水沢利忠
Free-Range Knitter: The Yarn Harlot Writes AgainFree-Range Knitter: The Yarn Harlot Writes Again感想
あみものに関する本を読むのは楽しい。この本では、三人の娘について、一人づつ書いた文章がいい。母親つて、こんな風に娘を見てゐるのだらうか。そんな風に思ひながら読んだ。あみもののデザイナや毛糸の会社への苦情(或は依頼)の手紙は一冊目にもあつたやうな感じ。「会社への苦情の手紙」と書いたが、その会社からの返信文だけが何通も続く。何をどう書いて送つてゐたのか、などと想像しつつ読む。
読了日:3月23日 著者:StephaniePearl-McPhee
「うつ」とよりそう仕事術 (Nanaブックス)「うつ」とよりそう仕事術 (Nanaブックス)感想
こんなにいろいろ考えついて実践できる人でもうつ病になるのか、というのがまづ驚きだつた。それともアイディアがわいてきて実践もできてしまふ人の方がかかりやすい病なのだらうか。この本に書かれてゐるさまざまな手法については、うつ状態にない時でも役に立ちさうだと思つた。
読了日:3月25日 著者:酒井一太
杜甫詩選 (岩波文庫)杜甫詩選 (岩波文庫)感想
若い頃の自身のことを「詩の才能は曹植に比肩する」みたやうに詠んでゐる杜甫。年を経るとみづからのことを「客」と称する詩の増える杜甫。そんなところまで曹植に似なくてもいいのに、と、思ふてしまふ。華麗な対句に覚えずつるつると読んでしまふ。平仄がわかるともつと楽しいのかもしれない。
読了日:3月27日 著者:杜甫
墨子 (講談社学術文庫)墨子 (講談社学術文庫)感想
酒見賢一の「墨攻」が文春文庫で改めて出版されると聞き、その前に予習しておかうと思つて読んだ。「墨子」といふと、世界史では「墨子=兼愛」といふ感じで習つた。この本は抜粋ではあるものの、「墨子=兼愛」はなんか違ふ。読んで、「それで、生きてて楽しい?」と思ふ。目次にいきなり「孔子は詐欺師」とか書いてあつて、吹き出してしまつた。本文でも「孔某」とか書いてあるし。うつかり読むと笑つちやふところもある不思議な本だ。
読了日:3月31日 著者:浅野裕一

読書メーター

Tuesday, 01 April 2014

七つつないだ

The Twirly

写真のやうな感じで、先週、七つめのモチーフをつないだ。
くどいやうだが、The TwirlyといふJon Yusoffデザインのモチーフをつないでゐる。

以前、「思つたより進んでゐる」と書いたが、それは勘違ひであつた。二週間前の写真を一週間前の写真と取り違へたんだな。
どうやら、一週間でモチーフひとつ、といふペースであるのらしい。
といふことは、この写真のモチーフを作るのに七週間かかつてゐるといふことか。
この先、まだつなげるつもりなのだが、どうしたものかなあ。

前回、ドイリーを作りたい、といふやうなことを書いた。
いまだ着手してはゐない。
どのドイリーを作るかも決めてゐない。
多分、このまま「ドイリーを作りたい」といふ気持ちはどこかへ消へて、そのうちまたよみがへつてくるのだらう。
いつもそのくり返しだ。

やりたいことは書き留めておく、といふ人がある。
書き留めることで記憶に定着し、書き留めたものを見直すことでやる気になつたり「なんとかしなくちや」といふ気になつたりするのらしい。
それで実現しやすくなるのださうだ。

あみものとかタティングレースについても、編みたいものや作りたいものは書き留めておいた方がいいかな、と思ふときがある。
書き留めなくても、あみものだつたらRavelryのQueueに登録しておけばいい。
でも、Queueから編むものつてそんなに多くないんだよね。
たしかに、そのときは編みたいと思つた。
それで登録しておくんだけれども、そのうちほかに編みたいものが出てくる。
それで、Queueに入れておいたものは忘れてしまふのだ。
どーしても編まないといけないといふものでもないし、気分はそのときによつて変はるものだから、それはそれでいいのかな、と思はないでもない。

タティングレースもおなじで、見たときに「これは作りたい」と思つても、いま作つてゐるものもあるし、あとでね、などと思つてゐると、いつのまにか「作りたい」といふ気持ちがしぼんでゐることがある。
それはそれでいいのかな、と思ふ。
多分、やつがれにとつては、「なにを作るか」よりも「タティングレースをする」といふことの方が大切なのだ。
たとへ作品として仕上がらなくても、だ。

そんなわけで、今日も昼休みにはThe Twirlyを作るつもりだ。

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