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Thursday, 20 March 2014

過ぎ去りしせりふの時代

今年の夏は、京都で三谷幸喜の文楽「其礼成心中」を上演するといふ。
大阪でないのはなぜなのか、と考へて、いろいろ邪推はできるけれども、でもまあ、ひとまづ、関西で上演が決まつたことはめでたい。

二年前の初演を見て、去年の再演は見なかつた。
初演を見たときに、「これはやつがれの求めてゐるものではない」と思つたからだ。

初演のときに、「なんでいままで文楽ではこれができなかつたのか」と思つた。
それくらゐおもしろかつたといふことだ。
文楽には、さまざまな演目がある。
いつでも心中物や時代物ばかり上演してゐるわけではない。
景事もあれば、新作もある。なかには喜劇的なものだつてある。
それでもなほ、「其礼成心中」は新しかつた。
よくできてゐる。
さう思つた。

さう思つて、しかし、「でもこれはなにか違ふ」と思つた。
その所以は、「覚えたいと思ふことばが出てこないから」。
これに尽きる。

以前も書いたやうに思ふが、「其礼成心中」には、「曽根崎心中」と「心中天網島」とから、道行の場面が取り込まれてゐる。
床の太夫が、あの文言をそのまま語る。

そのことばと、「其礼成心中」のことばとは、なにかが圧倒的に違つて聞こえた。
なにか、といふのはうまく説明できない。
密度、かもしれない。
空気、かもしれない。
こんなことを書いても詮ないことだが、経てきた時間、なのかもしれない。

いづれにしても、「其礼成心中」には「この世の名残夜も名残」であるとか、「ころは十月十五夜の月にも見えぬ身の上は心の闇のしるしかや」に匹敵するやうな、「どうしても覚えたい」「覚えずにはゐられない」といふことばがなかつた。
どうしても覚えたいことばといふのは、同時に何度でも聞きたいことばでもある。

そんなわけで、「一度でいいや」と思ひ、再演にはゐかなかつた。
行かうと思つても、席が取れなかつたかもしれないがな。

浄瑠璃とか芝居といふものは、さういふものだと思つてゐる。
さういふものとは、つまり、「覚えたいことば」「覚えたいせりふ」のつまつたもの、といふことだ。
さうでない芝居はつまらない。

新歌舞伎や新作歌舞伎のぴんとこない点もそこにある。
「これ!」といつたせりふがないのだ。
結果、「まあ、眞山青果だつたらいいかなあ」といふことになる。あるいは岡本綺堂の何作か。
芝居を見るやうな人の多くが「退屈」といふ「河内山」も、ゆゑにやつがれは嫌ひではない。あれはね、せりふのいい役者で見たらたまらないよ。聞いたら、かもしれないけれど。

多分、いまは「せりふの時代」ではないのだ。
新橋演舞場で上演されてゐるスーパー歌舞伎II「空ヲ刻ム者」を見てもわかる。
せりふよりも、内容。
どれだけ感動させられるか、どれだけ客をひきつけることができるか、といふのは、芝居の内容にかかつてゐる。
さう感じる。

さういふところ、自分はどうにも古い人間なのかもしれんなあ。

ところで、去年あたりからずつと漢詩の「マイ・ブーム」がつづいてゐる。
これまでも忘れたころに漢詩の「マイ・ブーム」はやつてきて、いつのまにか去つていつた。
今回はいつになくしつこくつづいてゐる。
漢詩もまた、覚えたいことばの宝庫だからだらう。
といふことに、ついさつき気がついた。
よつて云爾。

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