おとなになつたら連綿体
ときどき、字の練習をしやうと思ふことがある。
たとへば、連綿を書けるやうになりたい、とかね。
こどものころ、親宛に来る年賀状には、達筆過ぎて(あるいは単に悪筆で)まつたく読めないやうなものがあつた。
おとなになつたらああいふ字を書くのだ。自分もああいふ年賀状をもらふのだ。
根拠もなくさう信じてゐた。
実際に年をとつてみると、そんな年賀状は一枚も来ない。また、やつがれ自身もそんな字は書けない。
読めないやうな字は、どこかで失はれてしまつたのだらう。
連綿は書けなくても、やつがれはもともと悪筆なので、読めないやうな字を書く。
あとで自分で見ても「……なにを書いたんだ?」と思ふことがある。
小日向京は、「考える鉛筆」で、
思考する文字はきたなくても良い。間違っても良い。文字の形など整っていなくても良い。自分のなかの混沌とした乱雑な部分も認めてやろう。 (P188)と書いてゐる。
普段、やつがれの書くものといつて、そのとき思ひついたこととか考へてゐることが多い。
すると、いきほひ筆の運びは早くなる。
きれいに読みやすい字にしやうといふ意識は薄れ、とにかく頭の中のことを書き出してしまはうといふことに意識が向いてしまふ。
いや、そんなことは意識すらしない。そちらに意識を向ければ、いま書かうとしてゐることが頭の中から失せてしまふ。
一気呵成にひたすら書く。とにかく書く。
よつて、その手跡はかくのごとし、といふわけだ。
すなはち、読めない。読めても読みづらい。
先日、「ごちそうさん」で主人公を演じてゐる杏が、演技に必要なことを書きとめてゐるノートをTVで公開してゐた。
実にきれいに整然と書かれたノートだつた。
そのときの話では、現場などで乱雑に書きとめたメモを、あとで清書してゐるのだといふことだつた。
その手はある。
その手はあつて、しかし、やつかれは挫折しつづけてゐる。
この手を使へば、ノートの複数冊使ひも容易に実現できる。
つねに持ち歩くメモ用のノートと、そこから必要なことを抜き出した清書用のノートと。
ノートの使ひわけの苦手なやつがれとしては、はからずして複数冊使ひのできるこの手は是非使つてみたい。
つねづねさう思つてゐる。
それができないのは、一度書いたら自分の中では終りだからだ。
いつも、ノートに書くやうなことは、のちのち自分が読んで楽しいことにしやう。
さう思つてゐる。
読み返したくないやうなことも書いたりはするが、基本的には「自分entertainment」、未来の自分を楽しませたいと思ふてゐる。
だから読み返せるやうに書きたいのに、書き直すのはイヤだといふ。
まつたくもつてわがままこのうへない。
そんなわけで、字だけでもどうにかできないかと、先日本屋でペン字の棚を見てみた。
最近は「美文字」とかいふうつくしくないことばを題名に使つた本が何冊もならんでゐる、といふ話は以前書いた。
「美文字」、うつくしくないよねえ。なんだかイヤなことばである。
でもまあ本には罪はないので、ひととほり見てみる。
薄い本が多いのはご時世なのだらう。さうなると、楷書の書き方だけで終はつてゐるものが多い。
楷書が書けなくて、行書や草書が書けるか。
さうも思ふ。
だいたい、草書や連綿など書いても他人には読めない可能性が高い世の中だ。
そんなもの覚えてなにになる。
さういふことなのだらうな。
気をつけねばならないのは、TVなどでもてはやされてゐる著名な書家(なのだらうか?)の本の中には、一般的な書き方ではなく、その人なりにくづしたやうな字をお手本として載せてゐるものがあることだ。
まあ、そこは、本を選ぶ人間の好きずきだと思ふので、「この字が好きだ」と思つたらそれでいいのかもしれない。
結局「これ」といつた本を見つけられずにすごすごと帰つてきた。
もしかしたら、やつがれの覚えるべきは草書だの連綿だのではなく、速記なのかもしれない。
さう思はないでもない。
速記の本つていまでもあるのかな。探せばあるだらうか。
Amazonで見てみたら、どうやらあるのらしい。
問題は、速記の文字を自分が気に入るか否か、だ。
気に入らないんぢやないかなあ。
そんな気がしてゐる。
ところで、なぜやつがれはそんなに連綿にこだはるのだらうか。
小学校のとき、保健室に短冊が飾られてゐた。
まつたく読めないそれは、保健の先生の書いた俳句だつた。
最後の「ヒヤシンス」といふところだけ読めた。
俳句に「ヒヤシンス」はなんとなく新しいものに感じられた。
その保健の先生は実に厳しくて、影では「ババア」などと呼ばれてゐた。
その先生と、俳句と、達筆な文字との印象が、なぜか忘れられない。
こんなところに理由があるのではないかと思つてゐる。
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