なぜ編むのか
自分はほんたうにあみものが好きなのだらうか。
そんなことを考へてしまつたのは、_Free-Range Knitter_を読んだからである。
_Free-Range Knitter_は、副題に_The Yarn Harlot Writes Again_とあるとほり、_Yarn Harlot_の続編といつた趣の作品である。
The Yarn Harlot こと Stephanie Pearl-McPheeは、_Yarn Harlot_を出版した後もいろいろと本を出してゐる。その本は、_Yarn Harlot_につづくものではない、といふ判断なのだらう。
著者があみもの好きでなかつたら、誰をあみもの好きといふのか。
blogを読んでゐる人なら、さう思ふかもしれない。
しかし、_Free-Range Knitter_を読むと、そこのところのアイデンティティを考へさせられる。
たとへば、なぜあみものをするのか。
あみものが好きだから。
それは当然あるだらう。
けれども、著者はいふ。
「正気でゐるために、あみものが必要なのだ」と。
たとへば、銀行や役所で長い行列に並んでゐるあひだ。
たとへば、医者に行つて順番待ちをしてゐるあひだ。
あるいは、映画を見てゐる最中でさへ、著者はあみものが必要だといふ。
すべては「正気でゐるため」「節度を保つため」だ。
わかるなー。
なんとなく、わかる。
この本の中にも、「あみものをするなんて、我慢強いのね」みたやうなこを云はれることがある、といふやうなことが書いてある。
「それはちがふ」と、著者は云ふ。
我慢強くないから、短気だから、辛抱たまらぬから、あみものが必要なのだ、と。
あみものさへしてゐれば、待ち行列にも耐へられる。
手を動かしてゐれば、診療所の退屈な待合室にも座つてゐられる。
映画を見てゐるときに手が動いてゐないなんて、もつたいないぢやない。
最後だけはちよつと違ふか。
しかし、まあ、さういふことなのだ。
と、やつがれは思つてゐる。
ところでやつがれは、普段持ち歩く荷物が多い。
一時よりはだいぶ減らした。それでも毎日かばんが重たい。
それはなぜかと考へると、理由はいろいろある。
ひとつには、出かけたくないから。ひとつには、なにか自分を守るものがほしいから。ひとつには、持ち歩くものを厳選できないから。
そして、出先で突然することがなくなつてしまふことに耐へられないから。
そんなわけで、タティングシャトルにはいつも糸を巻いてあるし、巻いてゐる暇がないときには、糸ごと持ち歩いてゐる。
タティングシャトルを持ち歩くわけは、その方があみもの道具よりは小さくて軽いから。
それにすぎない。
実際、以前はあみかけのくつ下やマフラーを常に持ち歩いてゐたしね。赤坂駅で人を待つてゐるときに、エミーグランデでポットホルダーを編んでゐたこともある。
つまり、なにもしてゐない状況に耐へられないのだ。
そして、そのなにもしてゐない状況から逃れるには、あみものが(そしてやつがれの場合はときにタティングレースが)必要なのである。
時間をつぶすんだつたら本を読んだりスマートフォンをいぢつてゐたりすればいいぢやない。
さうも思ふ。
実際に、本もつねに持ち歩いてゐるしね。
でもそれぢやあダメなんだなあ、といふ話は、次回の講釈で。
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