好きなことつて案外書かない
例によつてユビキタス・キャプチュアとやらを目指してあれこれ書き付けている。
さうするうちに、思つてゐたりより「好きなことに関すること」は書かないものだなあ、といふことに気付く。
もともと、手帳は「自分 entertainment」、すなはち未来の自分を楽しませるために書いてゐる。
とくに、Smythsonの手帳を使つてゐるときなどは、「読み返したときに楽しいことを書かう」と思つてしまふ。
いまはMoleskineを使つてゐる。
なんでも書き出さうと思つてゐるので、楽しいことばかりでもないが、さりとては、それなりに読んでおもしろかつた本、見ていいと思つた芝居のことは、その都度書いてゐる。
そのつもりだつたのだが。
本のこととか、芝居のこととか、感想のやうなものを書き付けてはゐる。
本なら読み終はつたとき、芝居なら見終はつて帰宅してから書くことが多い。
でもさうすると、読んでゐる最中や見てゐる最中にあれこれを忘れてしまふんだよね。
芝居だつたら、斜め前のをぢさんが幕間に詰め碁の本を見てゐた、とかね。
どうといふこともないことだが、そのときは気になつた。
さういふことも書いていきたい。
だつて、なんだかおもしろいぢやん。
ある年の初春芝居の初日のこと、幕間に「レディ・ジョーカー」を読んでゐる人が二、三人ゐた。
カヴァをかけてゐる人の中にも読んでゐる人がゐたかもしれない。
おなじ本を複数の人間が幕間に読んでゐるだなんて、滅多にあることぢやない。
さういふことつて、書き残しておきたいんだよね。
まさか写真を撮るわけにもいかないしさ。ほんとは撮りたいけど。
さう思つて、さういふことも書き付けるやうにしてゐる。
ところが、よくよく考へてみると、普段思ひついてゐるやうなことなんかはなにも書かれてゐない。
たとへば、先日、当代の仁左衛門が十五代目になつたことについて、いろいろあつたらしい、といふ話を聞くことがあつた。
当代の父の仁左衛門は十三代目だつた。
十二代目の子である片岡我童に死後追贈して、これが十四代目仁左衛門になつた。
ごく自然な流れかと思ふ。
それよりなにより、当代が十五代目になると聞いたときは、「うまいことやるな」と思つた。
十五代目といへば、市村羽左衛門だ。
市村羽左衛門といへば、二枚目の代名詞である。
「十五代目」といふときには、さういふイメージがついてまはる。
いいぢやあないか。
橘屋は最後まで白髪のかつらはかぶらず、前髪のうつるいい男だつたといふけどね。
松嶋屋は、なぜか前髪がうつらない。それに、老け役はどちらかといふと好きなんぢやいかと見受けられる。
そんな違ひはあるけれど、この後も「十五代目」といつたら「せりふのよくていい男」といふ印象は受け継がれていくだらう。
といふやうなことを、日々、とりとめもなく考へてゐたりする。
かういふことは、ほとんど書きとめてゐないんだよなあ。
もちろん、書きとめる必要はない。
必要はないけれども、あとから読み返したらおもしろさうぢやあないか。
いろいろ書き出すやうになると、いままで「なぜこれを書かなかつたのか」といふやうなことを書いてゐないことに気付く。
全部書き出してゐたら一日それだけで終はつちやうんぢやあるまいかとさへ思ふ。
まあ、楽しければいいか。
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