費やした時間で達成感を得るか
The Twirlyといふ六角形のちいさなモチーフをつなぎつづけてゐることは、すでにくどいほど書いてゐる。
今日、やつと七つめをつないで、なんとかあとちよつとでおほきな六角形のモチーフになる、といふくらゐのところまで来た。
ほんとはおほきなモチーフのできあがるところまで作りたかつたが、昼休みが終はつてしまつた。
形が見えてくると、得られる達成感もおほきい。
とりあへず、まだつなげるつもりでゐるから終りではない。
終りではないのだけれども、もう少しで終りにしても問題ない状態になる。
いいぢやあないか。
しかし、タティングレースでは達成感を得づらいときがある。
今回のやうにちいさなモチーフをつないでゐるときは、ひとつのモチーフができあがればなんとなくなにかを達成したやうな気分になる。
ふしぎなもので、今回のやうに六角形のモチーフを七つつなげておほきな六角形を作る、なんてなときには、最初の一個めやニ個めはいい。一つめでモチーフが完成したといふ達成感を覚え、ニつめで倍になつたといふ達成感を覚える。
ところが、三つ四つとつなげていくと、だんだん形が中途半端になつてきて、「まだ半分もできあがつてゐない」「もつとモチーフを作らなければ」と追ひたてられるやうな気分になつてくる。
そして、最後のモチーフを作る段になつて、やつと、「もうすぐできる」といふ期待を得、しあがつたところで「できたー」といふ達成感を覚えることができる。
そんな感じだと思ふ。
昨日、Study Hacksといふblogで、達成感を覚えるには、といふやうなエントリを読んだ。
Study Hacksのblog主は、「できるだけ気を散らすものから身を遠ざける」ことを信条としてゐる。ゆゑに、Facebookはやらない、とか、その身を律してゐる人のやうに見える。
昨日見かけたエントリには、達成感を覚えるには二つ方法がある、と書いてゐる。
ひとつは、成果物から得る方法。
もうひとつは、あることを達成するためにかけた時間をはかることで得る方法。
目で見てすぐわかるといふことでいへば、できあがつたものを見て達成感を得るのが一番かんたんだし、満足感も得やすい。
しかし、世の中さうかんたんにできあがるものばかりでもない。
タティングレースなんかただでさへ時間がかかるしね。
あみものも、ものによるけれども、セーターとか巨大なショールは完成するのにそれなりに時間がかかる。
この場合は、タティングレースにかけた時間、セーターを編むのに要した時間を目に見える形にするといい。
それも、ただ漫然と結んだり編んだりしてゐた時間ではなくて、没頭してゐた時間をはかるといい。
さういふ趣旨のエントリだ。
なるほどね。
いままで、編んだり結んだりしてゐた時間が何時間かなどとはかつたことはない。
はかつてみるかな。
さうしたら、もうちよつとは達成感を覚えることもできるだらうか。
問題は、平日のあひだはタティングレースは昼休みのあまつた時間、あみものは45分ていどしか割くことができない、といふことかな。
結局、編んだり結んだりした時間を明らかにしても、たいして達成感の足しにはならない。
そんな気がする。
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