その後のユビキタス・キャプチャー
一度はどうでもいいやと思つたユビキタス・キャプチャーをまたやつてみやうと思つたのは、外部記憶を失つたからだつた。
やつがれは、ムダに過去のことを覚えてゐる。まれに酒の席なんかでこどものころの話をして、「よく覚えてゐるね」と云はれることがある。
「記憶は編集されてゐる可能性がある」とは、最近のScientific AmericanのPodcastにもあつたとほりである。
さうだらうな、と、我ながら思ふ。
やつがれがこどものころのことを覚えてゐるのは、何度も何度もくり返し思ひ出してゐるからだ。
反芻するたびに、記憶は編集されていく。
そんな気がする。
いまちよつと探し出せなくて申し訳ないけれど、最近、「negativeな気持ちは記憶を定着させ、positiveな気持ちは忘れさせる」といふやうな記事をwebで見かけた。
なるほどな、と思ふ。
多分、大半はnegativeな気持ちでゐるから、やたらと過去の記憶にこだはるし、忘れまいとしてしまふのだらう。
さういふ自覚はある。
以前も書いたかもしれない。
こどものころ、自分の写真を見るのが好きではなかつた。
見るたびに泣きたいやうな気分に襲はれた。
写真の中には、さらに幼い自分がゐる。
家のやうすはいま住んでゐるところと変はるところはない。
でも、自分の隣には、いまはもうゐない巨大なぬひぐるみがゐる。
隣に座つてゐるといふことは、それなりにお気に入りだつたのだらう。
あるいは写真を撮るのに親が座らせたのか。
だがそのぬひぐるみはもうゐない。
記憶にも残つてゐない。
忘れてしまつてゐる。それがこんなにも悲しいことだなんて。
忘れてしまつて悲しいと思ふ気持ちが、記憶の源だ。
negative emotion may enhance memories.
そのとほりなのだらう。
それでも日々忘れていく。
それに、思ひ出すたびに編集してゐるやうぢやあ記憶だつてあてにはならない。
それではなにを頼りにするか。
ユビキタス・キャプチャー。
それしかないんではあるまいか。
先日、家にゐるときに、ちよつと思ひついたことをなんでも書きとめてみやうと試みてみた。
日曜のことで、飲み出すまではそれなりに思ひつくことをそれなりに書きとめられたと思ふ。
以降、以前よりはあれこれ書きとめられるやうになつたんぢやないかな。
書きはじめると次から次へと書きたいことが思ひ浮かんでくることがある。
書く早さに追ひつかない。
さうすると、思ひ浮かんだことを忘れてしまふ。
それはそれでいい。
そんな気もする。
書きはじめてわかつたこともある。
いままで、イヤなことは書きとめられないと思つてゐたけれど、実は好きでたまらないこともまた書き出せずにゐる、といふことなんかもさうだ。
好きなことならいくらでも書ける。
さう思つてゐた。
しかし、実際に書くことはほとんどなかつた。
書きはじめやうとすると、躊躇してしまふ。
なんなんだらうね、これは。
好きなことほど書きづらいのかもしれない。
これはちよつと今後も気にしていきたいことである。
ところで、Moleskineに書いてゐるだけだと、視覚的なことは記録できない。
絵でも残せればいいのかもしれない。生憎やつがれは絵を苦手としてゐる。
それに、色を付けて残すのはもつとむづかしからう。
そんなわけで、これに惹かれないでもないのだが。
さて。
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