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Monday, 31 March 2014

To Boldly Knit What No one Has Knitted Before

桜開花のニュースの流れる中、メビウス編みのショールは、六玉目に突入した。
当初の計画とほり、六玉でメリヤス編みをして、七玉目と八玉目とで端のレース編みをする予定である。

先日、「メリヤス編みの部分は四玉目で終はりにして、五玉目と六玉目とで端のレース編みをし、あまつた二玉でくつ下でも編むかー」などと書いた。
それもありかなと思つてゐた。
グランメリノなので、くつ下よりは手袋の方がいいかな。
手袋だつたら、指なし手袋にしやうか知らん。
そんなことも考へてゐた。

予定どほりにした理由は、「いままで編んだことのないやうなものを編んでみたかつたから」だ。
もちろん、「このまま惰性で編み続けられるから」といふのも理由のひとつではある。

これまで、グランメリノと同等の毛糸を四玉使ふやうなメビウス編みのショールはいくつか編んできた。
メビウス編みのショールを編むときは、試しにと買つてきた毛糸のうち、くつ下や手袋にはむかないし、かといつて着るものを編むほどには量もないといつたものが手元にあるときが多かつた。
最初から「これはメビウス編みのショールにしやう」と思つて買ふこともないわけぢやないが、まれである。

さうすると、いつもおなじやうな長さのショールができあがるんだよね、当然の帰結として。

グランメリノ八玉といへば、着分といつてもいいくらゐの量がある。
その量を使つてメビウス編みのショールを編む。

いままでやつたことはないぞー。
いままでやつたことがないから編む。
そんな感じかな。

ねぢれた状態で編み進むメビウス編みの場合、段が増えてくると編み地がもたつきがちになる。
それでこれまでも大きなものを編まうとしたことはあつたが途中で挫折してゐた。
今回も、かなりもたついてゐる。
作り目の数が多かつたせゐもあつて、二玉目とか三玉目くらゐですでにもたつきを感じてはゐた。
だが、なぜかいつもほどいらいらした気分にはならない。
どうやら針と糸との相性がいいのらしい。
針はAddi Turboを使つてゐる。
グランメリノのセーターはクロバーの匠の輪針を使つて編んでゐた。グランメリノと匠の輪針とはあまり相性がよくないな、と思つてゐた。編み地を動かすときになんとはなしひつかかりを感じるのである。
匠の輪針は針とコードとのつなぎ目があまりスムースではない。ゆゑに編み地を動かすときにいつもなんとなくひつかかる感じがする。
グランメリノの場合は、竹の部分にきてもなんとなくひつかかる感じがしてゐた。
匠の四本針で編んだときには感じたことはないんだがなあ。

そんなわけで、六玉目でせつせとメリヤス編みと裏メリヤス編みで編んでゐる。
ねぢれた状態で編むメビウス編みは、編んでゐる途中はどうなつてゐるのかさつぱりわからない。
伏せ止めをはじめて、半分くらゐまできて、やつとなんとなく全体像がわかる。
今回は普通の伏せ止めではなくてレース模様を編みつけていくつもりだ。すなはち、普通の伏せ止めより時間がかかる。

なんかね、もう、時間かかつてもいいかなつて。
未知の世界を探索するには、五年くらゐは必要だといふしな。

Friday, 28 March 2014

好きなことつて案外書かない

例によつてユビキタス・キャプチュアとやらを目指してあれこれ書き付けている。
さうするうちに、思つてゐたりより「好きなことに関すること」は書かないものだなあ、といふことに気付く。

もともと、手帳は「自分 entertainment」、すなはち未来の自分を楽しませるために書いてゐる。
とくに、Smythsonの手帳を使つてゐるときなどは、「読み返したときに楽しいことを書かう」と思つてしまふ。
いまはMoleskineを使つてゐる。
なんでも書き出さうと思つてゐるので、楽しいことばかりでもないが、さりとては、それなりに読んでおもしろかつた本、見ていいと思つた芝居のことは、その都度書いてゐる。

そのつもりだつたのだが。

本のこととか、芝居のこととか、感想のやうなものを書き付けてはゐる。
本なら読み終はつたとき、芝居なら見終はつて帰宅してから書くことが多い。
でもさうすると、読んでゐる最中や見てゐる最中にあれこれを忘れてしまふんだよね。

芝居だつたら、斜め前のをぢさんが幕間に詰め碁の本を見てゐた、とかね。
どうといふこともないことだが、そのときは気になつた。
さういふことも書いていきたい。
だつて、なんだかおもしろいぢやん。

ある年の初春芝居の初日のこと、幕間に「レディ・ジョーカー」を読んでゐる人が二、三人ゐた。
カヴァをかけてゐる人の中にも読んでゐる人がゐたかもしれない。
おなじ本を複数の人間が幕間に読んでゐるだなんて、滅多にあることぢやない。
さういふことつて、書き残しておきたいんだよね。
まさか写真を撮るわけにもいかないしさ。ほんとは撮りたいけど。

さう思つて、さういふことも書き付けるやうにしてゐる。

ところが、よくよく考へてみると、普段思ひついてゐるやうなことなんかはなにも書かれてゐない。

たとへば、先日、当代の仁左衛門が十五代目になつたことについて、いろいろあつたらしい、といふ話を聞くことがあつた。
当代の父の仁左衛門は十三代目だつた。
十二代目の子である片岡我童に死後追贈して、これが十四代目仁左衛門になつた。
ごく自然な流れかと思ふ。
それよりなにより、当代が十五代目になると聞いたときは、「うまいことやるな」と思つた。
十五代目といへば、市村羽左衛門だ。
市村羽左衛門といへば、二枚目の代名詞である。
「十五代目」といふときには、さういふイメージがついてまはる。
いいぢやあないか。
橘屋は最後まで白髪のかつらはかぶらず、前髪のうつるいい男だつたといふけどね。
松嶋屋は、なぜか前髪がうつらない。それに、老け役はどちらかといふと好きなんぢやいかと見受けられる。
そんな違ひはあるけれど、この後も「十五代目」といつたら「せりふのよくていい男」といふ印象は受け継がれていくだらう。

といふやうなことを、日々、とりとめもなく考へてゐたりする。
かういふことは、ほとんど書きとめてゐないんだよなあ。
もちろん、書きとめる必要はない。
必要はないけれども、あとから読み返したらおもしろさうぢやあないか。

いろいろ書き出すやうになると、いままで「なぜこれを書かなかつたのか」といふやうなことを書いてゐないことに気付く。
全部書き出してゐたら一日それだけで終はつちやうんぢやあるまいかとさへ思ふ。
まあ、楽しければいいか。

Thursday, 27 March 2014

Fragrance Pot買ふた

Fragrance Potを買つてしまつた。

Fragrance Pot

夕べ宅配便で来て、さつそく使つてゐる。
火であたためたりしてゐないのに、ほんたうにほのかに香りが漂つてくる。

上記リンク先をご覧いただけるとわかることと思ふが、肥前吉田焼の磁器なのだといふ。
あたためなくても香るのは、「多孔質磁器」のおかげなのだとか。
リンク先にも「水に触れるとスポンジのように水を吸いあげる」と書いてある。
毛細管現象だらう。萬年筆とおなじ原理だ。
さう思ふと、さらに愛着がわくんだな、やつがれの場合。

火を使はないからその取り扱ひに気を配る必要はないし、電源不要だから、コンセントの確保とかプラグコードとかも気にする必要はない。
ただ、ぽんとおいておける。
まづそこがいい。

ただ、香りを変へる場合は、多孔質磁器である黒い部分を直接火にかけて熱する必要があるのださうだ。
それはちよつと面倒くさいかな。
まだやる機会はないけれど。

なにしろ、この佇まひがいいよね。
黒と書いたけれど、よくよく見ると深いチャコールグレイに、これもちよつと灰色がかつたやうな白のとりあはせがまづすばらしい。
形の種類としてはこのまんまるい「けんじょう」と、「けんじょう」のサイドをちよいと削つたやうな「しのぎ」、それと見た目そのままの「ひょうたん」とある。
どれにしやうか迷つたんだよねえ。
どれもいい形だ。
瓢箪型とかも、いいよねえ。
刀を連想させる「しのぎ」もいい。
さんざん迷つて、なんとなくぱつと見た感じ、中で香りの対流してゐるやうなイメージのある「けんじょう」にした。

以前買つたままだつたベルガモットの精油を入れてみた。
精油だけだと揮発性が低いので、消毒用アルコールをちよつとまぜてゐる。
香りのするまで、それなりに時間がかかるんだらうな、と思つてゐたが、それほどかからぬやうだ。
5分後くらゐには、鼻を近づけるともうベルガモットの匂ひがしてゐた。
夕べ、玄関先においておいた。
起きて、玄関に行くと、あたりに香りが漂つてゐる。
職場の机にはおけない感じだな。周囲の人が気にするだらう。

精油は使ひきつてしまつた。なにか調達してこなければ、だなあ。
なににしやう。なんか違ふ香りにしてみやうか知らん。
それに、精油つてどこで買つたらいいのか知らん。
以前精油を買つた店はいまはもうないんだよなあ。
無印良品で精油も売つてゐたつけか。
まづはいろいろ調べてみるか。

先日、疲れてくると香りものに依存しやすいと書いた。
まだつづいてゐるのらしい。
すこし、気をつけねばならんな。
ちなみにベルガモットの香りには、落ち込んだ気持ちを緩和したり、やる気を出させたりする効能があるといふが、さて。

Wednesday, 26 March 2014

うつ病になりづらい人

自分はうつ病にはならない。

多くの人がさう思つてゐるといふ。
やつがれもまた例外ではない。
自分はうつ病にはならないと思つてゐる。

なぜか。

先日、「かういふ傾向のある人はうつになりにくい」といふ呟きがまはつてきた。
曰く、部屋の汚い傾向がある。
曰く、遅刻をしやすい。
曰く、感情や好不調に波がある。

ほかにもいくつかあつたけれど、いづれもなんとなくあてはまる。

世に云はれてゐるやうに、うつ病になる人は、生真面目で完璧主義な人なのだらう。
それは、やつがれからはもつとも遠い存在だ。

こんなことを書くと、「ふざけやがつて」と思はれるかもしれない。
うつで苦しんでゐる人のことを考へないのか、と。

実は、もうひとつ、以前から「だから自分はうつ病にはならない」と信じてゐる、その根拠がある。
それは、「自分はもともとうつ状態が常態だから」といふことだ。

うつ病のセルフチェックといふものがある。
職場などでも「チェックしてみませう」といふのでリストがまはつてくることもある。
チェックして、いつも結果は「うつ病の疑ひがあります」だ。
診断結果の細かさに応じて、「軽いうつ病」だつたり単なる「うつ病」だつたり、ちよつと異なることはある。
だが、うつ病の疑ひがない、といふ結果はついぞ見たことがない。

それつて、いつもさういふ状態にゐるつてことなんぢやないか。
いつでも気分が落ち込みやすく、楽しいこともあまりなく、疲れやすくて、とくに朝は陰鬱な心持ちになりやすい。
なにをしてゐても、「こんなことしてなんになる」と思つてしまふ。
自分はさういふ性質の持ち主なのではあるまいか。

無論、うつが常態だからといつて、生きやすいわけではない。
むしろ、自分の常態はうつであると思ふやうになつて、「ああ、だから生きづらいのか」と気がついた。
この世は、気分が落ち込みがちな人間の住みやすいやうにはできてはゐない。
前向きな人、快活な人、明るい人向けにできてゐる。
ビジネス書や「ライフハック」などと呼ばれる本には「ネガティヴな考へ方をする人とはつきあはないやうにしませう」などと書かれてゐたりするほどだ。

ネガティヴ思考はいけないことなんだらうか。
つねにうしろ向きで、陰鬱で、暗い人間は、生きてゐてはいけないのだらうか。

そんなことはない。
まあ、実は、ときどき、「生きてちやいけないのかもなあ」と思はないこともない。
でも、それでは「やつら」の思ふツボだ。
「やつら」、それは、「明るくて前向きな人でなければ認めない」と思つてゐる、実体のない存在、「majority」などと呼ばれる存在だ。

気分が落ち込みがちだつていい。
なにごとも悪い方にしかとらへられない、それのなにが悪い。

かうやつて反抗的にものごとを考へてしまふから、ますます世の中生きづらいんだな。
うむ。

もし、自分がうつなのだとしたら、それは持病だ。
だつたら医者に行くべきなのか。
それはちよつと考へないでもない。

Tuesday, 25 March 2014

費やした時間で達成感を得るか

The Twirlyといふ六角形のちいさなモチーフをつなぎつづけてゐることは、すでにくどいほど書いてゐる。
今日、やつと七つめをつないで、なんとかあとちよつとでおほきな六角形のモチーフになる、といふくらゐのところまで来た。
ほんとはおほきなモチーフのできあがるところまで作りたかつたが、昼休みが終はつてしまつた。

形が見えてくると、得られる達成感もおほきい。
とりあへず、まだつなげるつもりでゐるから終りではない。
終りではないのだけれども、もう少しで終りにしても問題ない状態になる。

いいぢやあないか。

しかし、タティングレースでは達成感を得づらいときがある。
今回のやうにちいさなモチーフをつないでゐるときは、ひとつのモチーフができあがればなんとなくなにかを達成したやうな気分になる。
ふしぎなもので、今回のやうに六角形のモチーフを七つつなげておほきな六角形を作る、なんてなときには、最初の一個めやニ個めはいい。一つめでモチーフが完成したといふ達成感を覚え、ニつめで倍になつたといふ達成感を覚える。
ところが、三つ四つとつなげていくと、だんだん形が中途半端になつてきて、「まだ半分もできあがつてゐない」「もつとモチーフを作らなければ」と追ひたてられるやうな気分になつてくる。
そして、最後のモチーフを作る段になつて、やつと、「もうすぐできる」といふ期待を得、しあがつたところで「できたー」といふ達成感を覚えることができる。
そんな感じだと思ふ。

昨日、Study Hacksといふblogで、達成感を覚えるには、といふやうなエントリを読んだ。
Study Hacksのblog主は、「できるだけ気を散らすものから身を遠ざける」ことを信条としてゐる。ゆゑに、Facebookはやらない、とか、その身を律してゐる人のやうに見える。
昨日見かけたエントリには、達成感を覚えるには二つ方法がある、と書いてゐる。
ひとつは、成果物から得る方法。
もうひとつは、あることを達成するためにかけた時間をはかることで得る方法。

目で見てすぐわかるといふことでいへば、できあがつたものを見て達成感を得るのが一番かんたんだし、満足感も得やすい。
しかし、世の中さうかんたんにできあがるものばかりでもない。
タティングレースなんかただでさへ時間がかかるしね。
あみものも、ものによるけれども、セーターとか巨大なショールは完成するのにそれなりに時間がかかる。

この場合は、タティングレースにかけた時間、セーターを編むのに要した時間を目に見える形にするといい。
それも、ただ漫然と結んだり編んだりしてゐた時間ではなくて、没頭してゐた時間をはかるといい。

さういふ趣旨のエントリだ。

なるほどね。
いままで、編んだり結んだりしてゐた時間が何時間かなどとはかつたことはない。
はかつてみるかな。
さうしたら、もうちよつとは達成感を覚えることもできるだらうか。

問題は、平日のあひだはタティングレースは昼休みのあまつた時間、あみものは45分ていどしか割くことができない、といふことかな。
結局、編んだり結んだりした時間を明らかにしても、たいして達成感の足しにはならない。
そんな気がする。

Monday, 24 March 2014

なぜ編むのか

自分はほんたうにあみものが好きなのだらうか。

そんなことを考へてしまつたのは、_Free-Range Knitter_を読んだからである。

_Free-Range Knitter_は、副題に_The Yarn Harlot Writes Again_とあるとほり、_Yarn Harlot_の続編といつた趣の作品である。
The Yarn Harlot こと Stephanie Pearl-McPheeは、_Yarn Harlot_を出版した後もいろいろと本を出してゐる。その本は、_Yarn Harlot_につづくものではない、といふ判断なのだらう。

著者があみもの好きでなかつたら、誰をあみもの好きといふのか。
blogを読んでゐる人なら、さう思ふかもしれない。

しかし、_Free-Range Knitter_を読むと、そこのところのアイデンティティを考へさせられる。

たとへば、なぜあみものをするのか。
あみものが好きだから。
それは当然あるだらう。
けれども、著者はいふ。
「正気でゐるために、あみものが必要なのだ」と。

たとへば、銀行や役所で長い行列に並んでゐるあひだ。
たとへば、医者に行つて順番待ちをしてゐるあひだ。
あるいは、映画を見てゐる最中でさへ、著者はあみものが必要だといふ。
すべては「正気でゐるため」「節度を保つため」だ。

わかるなー。
なんとなく、わかる。
この本の中にも、「あみものをするなんて、我慢強いのね」みたやうなこを云はれることがある、といふやうなことが書いてある。
「それはちがふ」と、著者は云ふ。
我慢強くないから、短気だから、辛抱たまらぬから、あみものが必要なのだ、と。
あみものさへしてゐれば、待ち行列にも耐へられる。
手を動かしてゐれば、診療所の退屈な待合室にも座つてゐられる。
映画を見てゐるときに手が動いてゐないなんて、もつたいないぢやない。

最後だけはちよつと違ふか。
しかし、まあ、さういふことなのだ。
と、やつがれは思つてゐる。

ところでやつがれは、普段持ち歩く荷物が多い。
一時よりはだいぶ減らした。それでも毎日かばんが重たい。
それはなぜかと考へると、理由はいろいろある。
ひとつには、出かけたくないから。ひとつには、なにか自分を守るものがほしいから。ひとつには、持ち歩くものを厳選できないから。
そして、出先で突然することがなくなつてしまふことに耐へられないから。

そんなわけで、タティングシャトルにはいつも糸を巻いてあるし、巻いてゐる暇がないときには、糸ごと持ち歩いてゐる。
タティングシャトルを持ち歩くわけは、その方があみもの道具よりは小さくて軽いから。
それにすぎない。
実際、以前はあみかけのくつ下やマフラーを常に持ち歩いてゐたしね。赤坂駅で人を待つてゐるときに、エミーグランデでポットホルダーを編んでゐたこともある。

つまり、なにもしてゐない状況に耐へられないのだ。
そして、そのなにもしてゐない状況から逃れるには、あみものが(そしてやつがれの場合はときにタティングレースが)必要なのである。

時間をつぶすんだつたら本を読んだりスマートフォンをいぢつてゐたりすればいいぢやない。
さうも思ふ。
実際に、本もつねに持ち歩いてゐるしね。

でもそれぢやあダメなんだなあ、といふ話は、次回の講釈で。

Friday, 21 March 2014

最近のノートとペンの組み合はせ

先月半ばから、日々の手帳はMoleskineのポケットサイズ罫線つきである。
このノートとS.T.デュポンのJET8との組み合はせが、かなりいい感じである。
ぱつと取り出してさつと書ける。
そんな感じ。

これまでは、手帳に刺すペンといつて、パイロットのキャップレスデシモか、同じくパイロットのCocoonを選ぶことが多かつた。
キャップレスはノック式でペン先が出てくるのがいい。デシモならペン軸も細い。手帳とあはせるのにぴつたりだ。
Cocoonにはキャップはあるけれど、ねぢつてつけはづしをするわけではない。キャップを抜いたら即書き出せる。
さういふところが気に入つてゐた。

それがJET8を用ゐることになつてどう変はつたか。
まづ、乗り物の中でも書くやうになつた。
これまでは、バスや電車の中では手帳を取り出すことはなかつた。
もともと汚い字がますます汚くなるといふことがひとつ。
もうひとつは、急停車などでいきなりペン先がノートに押しつけられるやうなことになつたらどうしやうといふ不安ゆゑ、だつた。

字が汚くなるのはどうしやうもない。
しかし、ペン先をつぶす心配は、JET8には無用だ。
結果、電車の中でも手帳を取り出すことが増えた。
これまでは乗り物の中ではiPhoneにメモを残すやうにしてゐたんだけれどね。

JET8は、あひかはらず使ひこなせてゐない。
まだまだペンに使はれてゐるやうな感じでゐる。
もしかしたらずつとこのままかなあ。そんなことを思ふたりもする。
ま、それでもいいかな。

これまで手帳はMoleskine→別の手帳→Moleskine……のくり返しだつた。
前回前々回はちよつとちがつて、SmythsonのPanamaを二回つづけて使つてゐた。
次回の手帳は、またMoleskineにしやうかな。
そんなことを思つたりもする。

Thursday, 20 March 2014

過ぎ去りしせりふの時代

今年の夏は、京都で三谷幸喜の文楽「其礼成心中」を上演するといふ。
大阪でないのはなぜなのか、と考へて、いろいろ邪推はできるけれども、でもまあ、ひとまづ、関西で上演が決まつたことはめでたい。

二年前の初演を見て、去年の再演は見なかつた。
初演を見たときに、「これはやつがれの求めてゐるものではない」と思つたからだ。

初演のときに、「なんでいままで文楽ではこれができなかつたのか」と思つた。
それくらゐおもしろかつたといふことだ。
文楽には、さまざまな演目がある。
いつでも心中物や時代物ばかり上演してゐるわけではない。
景事もあれば、新作もある。なかには喜劇的なものだつてある。
それでもなほ、「其礼成心中」は新しかつた。
よくできてゐる。
さう思つた。

さう思つて、しかし、「でもこれはなにか違ふ」と思つた。
その所以は、「覚えたいと思ふことばが出てこないから」。
これに尽きる。

以前も書いたやうに思ふが、「其礼成心中」には、「曽根崎心中」と「心中天網島」とから、道行の場面が取り込まれてゐる。
床の太夫が、あの文言をそのまま語る。

そのことばと、「其礼成心中」のことばとは、なにかが圧倒的に違つて聞こえた。
なにか、といふのはうまく説明できない。
密度、かもしれない。
空気、かもしれない。
こんなことを書いても詮ないことだが、経てきた時間、なのかもしれない。

いづれにしても、「其礼成心中」には「この世の名残夜も名残」であるとか、「ころは十月十五夜の月にも見えぬ身の上は心の闇のしるしかや」に匹敵するやうな、「どうしても覚えたい」「覚えずにはゐられない」といふことばがなかつた。
どうしても覚えたいことばといふのは、同時に何度でも聞きたいことばでもある。

そんなわけで、「一度でいいや」と思ひ、再演にはゐかなかつた。
行かうと思つても、席が取れなかつたかもしれないがな。

浄瑠璃とか芝居といふものは、さういふものだと思つてゐる。
さういふものとは、つまり、「覚えたいことば」「覚えたいせりふ」のつまつたもの、といふことだ。
さうでない芝居はつまらない。

新歌舞伎や新作歌舞伎のぴんとこない点もそこにある。
「これ!」といつたせりふがないのだ。
結果、「まあ、眞山青果だつたらいいかなあ」といふことになる。あるいは岡本綺堂の何作か。
芝居を見るやうな人の多くが「退屈」といふ「河内山」も、ゆゑにやつがれは嫌ひではない。あれはね、せりふのいい役者で見たらたまらないよ。聞いたら、かもしれないけれど。

多分、いまは「せりふの時代」ではないのだ。
新橋演舞場で上演されてゐるスーパー歌舞伎II「空ヲ刻ム者」を見てもわかる。
せりふよりも、内容。
どれだけ感動させられるか、どれだけ客をひきつけることができるか、といふのは、芝居の内容にかかつてゐる。
さう感じる。

さういふところ、自分はどうにも古い人間なのかもしれんなあ。

ところで、去年あたりからずつと漢詩の「マイ・ブーム」がつづいてゐる。
これまでも忘れたころに漢詩の「マイ・ブーム」はやつてきて、いつのまにか去つていつた。
今回はいつになくしつこくつづいてゐる。
漢詩もまた、覚えたいことばの宝庫だからだらう。
といふことに、ついさつき気がついた。
よつて云爾。

Wednesday, 19 March 2014

おとなになつたら連綿体

ときどき、字の練習をしやうと思ふことがある。
たとへば、連綿を書けるやうになりたい、とかね。
こどものころ、親宛に来る年賀状には、達筆過ぎて(あるいは単に悪筆で)まつたく読めないやうなものがあつた。
おとなになつたらああいふ字を書くのだ。自分もああいふ年賀状をもらふのだ。
根拠もなくさう信じてゐた。
実際に年をとつてみると、そんな年賀状は一枚も来ない。また、やつがれ自身もそんな字は書けない。
読めないやうな字は、どこかで失はれてしまつたのだらう。

連綿は書けなくても、やつがれはもともと悪筆なので、読めないやうな字を書く。
あとで自分で見ても「……なにを書いたんだ?」と思ふことがある。

小日向京は、「考える鉛筆」で、

思考する文字はきたなくても良い。間違っても良い。文字の形など整っていなくても良い。自分のなかの混沌とした乱雑な部分も認めてやろう。 (P188)
と書いてゐる。

普段、やつがれの書くものといつて、そのとき思ひついたこととか考へてゐることが多い。
すると、いきほひ筆の運びは早くなる。
きれいに読みやすい字にしやうといふ意識は薄れ、とにかく頭の中のことを書き出してしまはうといふことに意識が向いてしまふ。
いや、そんなことは意識すらしない。そちらに意識を向ければ、いま書かうとしてゐることが頭の中から失せてしまふ。
一気呵成にひたすら書く。とにかく書く。
よつて、その手跡はかくのごとし、といふわけだ。
すなはち、読めない。読めても読みづらい。

先日、「ごちそうさん」で主人公を演じてゐる杏が、演技に必要なことを書きとめてゐるノートをTVで公開してゐた。
実にきれいに整然と書かれたノートだつた。
そのときの話では、現場などで乱雑に書きとめたメモを、あとで清書してゐるのだといふことだつた。

その手はある。
その手はあつて、しかし、やつかれは挫折しつづけてゐる。
この手を使へば、ノートの複数冊使ひも容易に実現できる。
つねに持ち歩くメモ用のノートと、そこから必要なことを抜き出した清書用のノートと。
ノートの使ひわけの苦手なやつがれとしては、はからずして複数冊使ひのできるこの手は是非使つてみたい。
つねづねさう思つてゐる。
それができないのは、一度書いたら自分の中では終りだからだ。

いつも、ノートに書くやうなことは、のちのち自分が読んで楽しいことにしやう。
さう思つてゐる。
読み返したくないやうなことも書いたりはするが、基本的には「自分entertainment」、未来の自分を楽しませたいと思ふてゐる。

だから読み返せるやうに書きたいのに、書き直すのはイヤだといふ。
まつたくもつてわがままこのうへない。

そんなわけで、字だけでもどうにかできないかと、先日本屋でペン字の棚を見てみた。
最近は「美文字」とかいふうつくしくないことばを題名に使つた本が何冊もならんでゐる、といふ話は以前書いた。
「美文字」、うつくしくないよねえ。なんだかイヤなことばである。
でもまあ本には罪はないので、ひととほり見てみる。
薄い本が多いのはご時世なのだらう。さうなると、楷書の書き方だけで終はつてゐるものが多い。
楷書が書けなくて、行書や草書が書けるか。
さうも思ふ。
だいたい、草書や連綿など書いても他人には読めない可能性が高い世の中だ。
そんなもの覚えてなにになる。
さういふことなのだらうな。

気をつけねばならないのは、TVなどでもてはやされてゐる著名な書家(なのだらうか?)の本の中には、一般的な書き方ではなく、その人なりにくづしたやうな字をお手本として載せてゐるものがあることだ。
まあ、そこは、本を選ぶ人間の好きずきだと思ふので、「この字が好きだ」と思つたらそれでいいのかもしれない。

結局「これ」といつた本を見つけられずにすごすごと帰つてきた。

もしかしたら、やつがれの覚えるべきは草書だの連綿だのではなく、速記なのかもしれない。
さう思はないでもない。
速記の本つていまでもあるのかな。探せばあるだらうか。
Amazonで見てみたら、どうやらあるのらしい。
問題は、速記の文字を自分が気に入るか否か、だ。
気に入らないんぢやないかなあ。
そんな気がしてゐる。

ところで、なぜやつがれはそんなに連綿にこだはるのだらうか。
小学校のとき、保健室に短冊が飾られてゐた。
まつたく読めないそれは、保健の先生の書いた俳句だつた。
最後の「ヒヤシンス」といふところだけ読めた。
俳句に「ヒヤシンス」はなんとなく新しいものに感じられた。
その保健の先生は実に厳しくて、影では「ババア」などと呼ばれてゐた。
その先生と、俳句と、達筆な文字との印象が、なぜか忘れられない。
こんなところに理由があるのではないかと思つてゐる。

Tuesday, 18 March 2014

おなじものを何度も作るか?

一度作つたものを、もう一度作るか否か。
これはなかなかにむづかしい問題だと思ふ。

時間のある人はいい。
手の早い人はいい。

しかし、人は大抵ほかにもしなければならないことがあるし、そして世界は編みたいものや結びたいものであふれてゐる。
一度作つたものとおなじものを作つてゐたら、編みたいもの結びたいものをすべて作るのは、無理ではあるまいか。

無理である。
そもそも、おなじものを二度作ることを避けても無理である。
すくなくともやつがれはさうだ。

実は、ここのところタティングレースのドイリーを作りたくて仕方がない。

ドイリー。
それは不要なもの。

と、ここでも何度も書いてきた。

ドイリー。
それはレース編みの代名詞。入り口にして出口。なにか深遠なるもの。

えうは、レース作りをしてゐると、不要とはわかつてゐても折にふれてなぜか作りたくなるもの。
それがドイリー。
と、いつたところだらうか。

最近、日々見てゐるタティングレースのblogで、みなさんなんだかすてきなドイリーを作つていらつしやる。
最初は「ドイリーだからなあ。やつがれには不要不要」と思つてゐた。

しかし、何枚も見てゐるうちに、いつしか「作りたいなあ」と思ふやうになつてゐた。
この、「見てゐるうちに好きになる」は「視線のカスケード」などと呼ばれる現象だ。
たとへば、苦手なものも何度も見てゐるうちに苦手ではなくなつていく。
ゴキブリが苦手ならゴキブリを毎日見るやうにすればそのうちに、平気になつていく……
平気になるほど見たくないけどな。
といふか、ゴキブリが苦手なのは、普段見かけないからなのだらう。あるとき突然あらはれる。彗星のごとくあらはれる。ゆゑに苦手なのだらう。

それはさておき。

つまり、人の作つてゐるドイリーを見てゐるうちに、やつがれもまたドイリーを作りたくなつてしまつた。
さういふ寸法だ。

ほかの人々の作つてゐるものとおなじドイリーを作らうか。
さうも思つた。
でも、とりあへず自宅にあるタティングレースの本などを広げてみることにした。

作つてみたいドイリーはさまざまあれど、なんとなく目はかつて作つたことのあるドイリーに向いてしまふ。

疲れてゐるな。
さう思ふ。

疲れてゐるときといふのは、図を見ながらタティングするのが苦痛なのである。
ここのところThe Twirlyばかり作つてゐるのは、このモチーフが大層気に入つてゐるから、といふのが一番の理由だけれども、「なにも見なくても作れるから」といふのもまた大きな理由なのだ。
スティッチの数もシャトルを持ち帰る位置もスプリットリングの場所も、すべて頭に入つてゐる。

あみものblog界で有名なWendyさんは、かつて編んだものは編み方が頭に入つてゐるといふ。
なんでもMENSAの会員らしいからなあ。さういふ人はさういふ脳みそを持つてゐるのだらう。
我が身をふり返つてみると、つい最近編んだものでさへ、一度仕上げてしまふともうどう編んだものやらわからない。
それはタティングレースでもおなじことだ。
ゆゑに、かつて作つたことのあるドイリーだとて、いまから作つたらまた一からスティッチの数やピコの数を数へる必要がある。
これまで作つたことのない新たなものを作るのとまつたくおなじ手間がかかる、といふことだ。

それでもなほ、かつて作つたことがあるものを選び差うになる、といふことは、やはり疲れてゐるんだらうな。

そんなわけで、作るドイリーが決まらず、結局 The Twirly ばかり作つてゐる。
あー、でも、みんなが作つてゐるドイリーを作つてみるかなあ。

ところで、タティングレースでは栞はおなじものを何度も作つたことがある。
Mary KoniorのBlack Magicなどはいくつ作つたかわからないし、Kersty AnearのFloralもさうだ。
いくつも作つたはずなのに、いづれも手元にない、といふのが不思議なんだけどね。

Monday, 17 March 2014

言ひ訳の多い人生

あひかはらずパピーのグランメリノでメビウス編みのショールをせつせと編んでゐる。
もうすぐ四玉めが終はらうとしてゐるところだ。
このあと六玉めまでは本体を編んで、七玉めと八玉めで端の模様編みをする予定。

だつたのだが。
本体部分は四玉めまでにして、五玉めと六玉めで端の模様編みをし、残つた毛糸でくつ下か手袋でも編むか。
そんな気もしてゐる。
えうは、挫折しかけてゐるわけだな。

現在の長さくらゐのメビウス編みのショールはすでにいくつか編んでゐる。
今回はいままで編んだことのないくらゐ長いものを編むつもりだつた。
といふか、まだそのつもりでゐる。
ここのところ突然あたたかくなつてきたものの、家の中はまだ冷える。
編むならいまのうちだぞ。
そんな心の声も聞こえてくる。

ひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編みといふところに飽きてきてゐるんだな、多分。

そんな飽きてきてゐるところではあるが、昨日ふと「毛糸だま 2014年 春号」を手にした。
久しぶりに買つただけあつて、編みたいものはたくさんある。
でも、買つたまま、はふりだしてあつた。
それを久しぶりに見てみると、やはりあれも編みたいしこれも編みたい。
しかし、いま即編めるものといつてはラトヴィア風のミトンくらゐなものだ。手持ちの毛糸と針とを考へるとさうなる。
編みはじめちやはうかなー。
さう思つたりもする。
とはいへ、ミトンなら真夏でも編めるからなあ。
おなじ毛糸だまには、「ミトンは夏の間に編んであたたかさを閉ぢ込めておく」なんてな地方もあるのだとか書いてある。
なるほど、それはいいな。

「毛糸だま」を見て、編みたいものばかりだ、と思ふ、その心は、逃げである。
いま編んでゐるメビウス編みのショールの、ひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編みから逃げたい。
さういふ心のあらはれである。
わかつてゐるので、新しいものを編み始めたいなあと思つても、ひたすら黙々とメリヤス編みをし、裏メリヤス編みをする。

編みたいものを編んでなにが悪い。
さうしたところで、世界が滅びるわけでもあるまいし。
さういつたのは、Yarn HarlotのStephanie Pearl-McPheeだ。
そのとほり。
いくら編みかけがあつてもいい。
仕上げないからといつて、地球がなくなるわけぢやない。

しかし、そこは、気の持ちやうだ。
いくら編みかけがあつたとしても、気力の充実してゐるときならば、いつのまにかすべて仕上がつてゐる。そんなものである。
気力はないのに、といふよりは、気力がないから別のものに心とらはれ、編み始めたはいいものの、どちらも結局完成しなかつた。
それは、さらなる気力減退の原因となる。

わかつてゐるので、ひたすらひたすら黒い糸を編み続けてゐるのである。

ところで、裏メリヤス編みはほんたうに編むのが早くなつた。
メリヤス編みを編む速さは頭打ちだけどなー。

そして、グランメリノの黒はとてもいい色である。
さらに、編み地はやはらかくなめらかで気持ちがよい。
惜しむらくは、仕上がつても次の秋冬までしまひこんでおかねばならぬ、といふことか。

Friday, 14 March 2014

展示室にひとりきり

飯田市川本喜八郎人形美術館でも、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーでも、まつたく客のゐない状態といふのがある。
まつたく客のゐない、といふのはウソか。
ひとりはゐる。
すなはち、やつがれだ。

とくにギャラリーの方は係員がゐるわけでもないので、ほんたうにひとりきりだ。
いや、ひとりではないのか。
いまでいふなら、三十四人と二頭とひとり、だ。

はじめてそんな状況になつたときの、あの気持ちは、なんと云つたらいいだらう。
突然気分が舞ひあがる。
まるでこの世にはここにゐる三十四人と二頭と自分としかゐないかのやうな、宇宙を我が手に入れたかのやうな全能感。
そして、世界はこのちいさな箱の中で完結してゐるのかもしれない、といふ、孤独にも近い思ひ。

周囲に他人のゐるときは遠慮してぢつくり相対したい人形の前も素通りしてゐるけれど、このときばかりはたれに遠慮することなく、ひたすらその前に立ち尽くす。

これが美術館の方になると、空間のひろがる分、心の容積もぐんと大きくなる気がする。
こちらは美術館員の方がゐるので、その分の差し引きはあるけれども、ね。

ヒカリエの人形ギャラリーでは、ほぼ行くたびにそんな気分を味はへることがあつた。
最近はない。
おそらくおとづれる人が増えてゐるのだらう。
喜ばしいことである。
だからといつて上記のやうな感覚を覚えることがなくなつた、と、悲しむことはない。
さういふ状況の発生しやすい時間帯に行けばいいだけの話である。
だいたいしよつ中さういふ状況の中にゐるとまづい。
この施設が自分のためだけにあるかのやうな錯覚を覚えるやうになるんぢやあるまいか。
そんな気がする。

二月二十八日、三月一日と、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
美術館では、たつたひとりになるといふことはあまりないやうに思ふ。
単にしよつ中行くわけではないからさう感じるのかもしれない。
今回はちがつた。

まづ、二十八日の金曜日だ。
新宿を立つたのが午後一時。この日は美術館には行けないだらうと思つてゐた。
ところが、これまで飯田に行くやうになつてはじめて、バスが定刻前に終点に着くといふ事態に遭遇した。
行きも帰りも含めて、はじめてだなあ、こんなことは。
これなら間に合ふ、といふので、急遽人形美術館に向かつた。
入館券を求めると、「中は真つ暗ですけど、人に反応して電気がつきますから」と云はれた。
こんなことを云はれたのもはじめてだつた。
階段をのぼり、お手洗いで身支度を整へて展示室に入ると、ほんたうに真つ暗だつた。
注意を受けてはゐたものの、一瞬躊躇して、次の瞬間に照明がついた。
なるほど、客のゐないときは、電気を消してゐるのか。
照明は人形を傷めるものな。

すなはち、客は自分ひとりだつた。
普段の平日は、閉館一時間前などは、ずつとこんな感じなのではあるまいか。
一時間弱のことではあつたけれど、妙に濃い時間を過ごした。

翌日は土曜日で、団体客が多かつた。
おそらく観光バス一台分くらゐの人数で、すくなくとも三団体くらゐは入れ替はり立ち替はり来てゐたやうに思ふ。
盛況だなあ、と思つてゐたときのことである。
喧噪を避けて、川本喜八郎のインタヴュー映像などを見て、さて、と、展示室に向かつた。
中に入ると、真つ暗だつた。
え、と思つた。
団体客が去つて、束の間の空隙が生まれた。
さういふことだつたらう。

そんな時間が、団体客と団体客とのあひだにすこしづつあつた。
すこし、と書いたが、最長で一時間くらゐあつたかもしれない。
これまでこの美術館に来てゐて、こんなに長いことほかの客が来ないのははじめてだつた。
いままで、立ち止まつたことのない人形の前で立ち止まる。
さきほど、団体客への説明を小耳にはさんでゐたので、人形の前を左右に行つたり来たりしてみる。
それだけで、人形の表情が刻々と変はつていくやうすがよくわかる。
一度往復して、それでやめやう、と思ふ。
思ふて、しかし、こんな機会は二度とないかもしれない。
さう思ふて、また往復する。
往復して、自分の一番気に入つてゐる角度で立ち止まる。
これで終はりにしやう。
しかし、まだほかの客は来ない。
さう思つてまた一往復して、立ち止まる。
そんなことを下手したら三十分くらゐやつてゐたのではあるまいか。
我ながら、飽きないねえ、と思ふが、その時は「これが最後の機会だ」「これで最後だ」と思ひながらうろうろしてゐた。

ふしぎなもので、見れば見るほど別れ難い。
今回の展示を見るのはこれで最後だ。
さう思ふと、ますます別れ難くなる。

見れば見るほど好きになる、といふ研究結果はある。
でも、十分に見たのなら、そこで満足するはずだ、といふ思ひ込みがある。
ゆゑにふしぎに感じるのだらう。

一度見た展示にまた行くのはムダなのではないか。
行く前はさう思つてゐた。
今回は、飯田に行つて、正解だつた。

問題は、美術館はとくに、かういふ状況が頻繁に発生するとまづいなあ、といふことか。
まあ、美術館は人のゐないときは展示室の照明が落ちてゐるから人形にとつてはいいことなのか。
むづかしいな。
突然照明のついたとき、「チッ、邪魔な野郎が来たぜ」などと思はれてゐないことを祈るばかりである。

Thursday, 13 March 2014

香りもの依存

疲れてくると、香りものに走る傾向がある。

最初は、おそらく、もう十五年は前のことだ。
当時、職場のそばにVIVREができた。
店内には、香りものを扱ふ店が三軒ほどあつた。
昼休みに行つては、「やる気の出る香りはないものか」と見て回つた記憶がある。
ただ、このときはなにも買ひはしなかつた。
香りものを見て回るのも、ほかにこれといつて見るべきものがなかつたからであり、また昼休みといふ限られた時間にちらつと見るだけですむからであつた。
これが本屋とかだとちらつと見るだけぢやすまないからなあ。

実際に買つたのは、八年ほど前のことである。
このころ、休日出勤の道中、あと三分も歩けば職場といふところで突然足が止まつてしまつたことがあつた。
もう歩けない。
なぜだかさう思つた。
たまたまそこにレストランの立て看板が出てゐた。
おすすめの料理やコース料理の写真が貼られてゐた。
それを見てゐるふりをして、その場に立ち尽くしてゐた。
しばらくしてからなんとか職場には向かつたものの、あまり仕事にはならなかつた。
その後も残業したり休日出勤したりはしてゐたけれど、考へてみたら、いつのまにか午後から出社するやうになつてゐたりもしたなあ。

その仕事をしてゐるときに、はじめてエッセンシャルオイルなるものを購入した。
たまたま、乗換駅のエキナカにエッセンシャルオイルを扱ふ店があつた。
例によつて午後からちんたら出勤する途中、立ち寄つた。
買つたのは、ベルガモット。
おそらく疲れてゐる人向けとかやる気のないときにとか、そんなやうなおすすめ文句があつたのだと思ふ。
ベルガモットといふことなら、アール・グレイもいいだらう。
そんな風に思つて、トワイニングのアール・グレイのティーバッグも買つたりした。

香りものを使つて、実際に気分がやはらいだり、あるいは昂揚したりしたのか。
冷静に考へると、まつたくそんなことはなかつたやうに思ふ。
単に、もうほかに頼るところがない。藁にもすがる思ひ。
そんな感じだつた。
さう思ふ。
だいたい、をかしいぞ、と思つたのは、その仕事から抜けてからだつた。
もともと、さほど香りものか好きといふわけではない。
効能についても、普段は「ふーん」くらゐで過ごしてしまふ。
信じて使へば効果もあるだらう。
その程度の認識でゐる。

疲れてくると、さういふ正常な判断力を失つてしまふんだらうな。

そんなことを書く最近は、夜ごと香を炊いたりしてゐる。
先日、山田松で沈香を買つてきた。
寝る前の時間、これに火をつけてしまふ。
決して安価なものではない。
でも、毎晩酒を飲むよりはいいだらう。
さう、沈香は酒の代はり。
さう考へれば、いくらか健康的だ。
問題は、それををかしいと思はないことなのだが。

Wednesday, 12 March 2014

Taming My JET8

Untitled

S.T.デュポンのJET 8を購入した。
二月の終はりのことである。

以前からこのblogでもJET 8のことは書いてゐた。
K.ITOYA 1904で試し書きしたときの衝撃とか。
あれは忘れられないなあ。
このボールペンを苦手とするやつがれが、まつたく苦を覚えることなく字を線をかくことができる。
ペン自体は手にしたときは重たいが、書くときには不思議とその重さを感じない。
筆圧をかけずにかけるその秘密は、書き味のなめらかさとともに、その自重にあるのではないかと思つてゐる。
重さがあるので、筆圧をかけなくても書ける。
バランスがいいから、書くときに重たさを感じない。
さういふことなのだらう。

あのときに、「これはいづれ買ふ」と心に決めて、実際に手にするのが早かつたのは、もちろん消費税率があがるからである。
さもなければ、入手するのはまちつと後だつたらう。

ボールペンの必要については、以前から感じてはゐた。
社会人たるもの、黒いインキのボールペンを一本は持つてゐるべきである。
わかつてはゐて、しかし、ボールペンは苦手だつた。
なんかかすれるんだよね。
油性にしても水性にしても、書いてゐるうちになぜかかすれる。
あれがどうにも納得いかなくてなー。
萬年筆は、少なくとも日々愛用してゐる萬年筆はそんなことはない。
あるとしたら、インキ切れを起こしたときだ。

JET8のなにがすごいつて、書いてゐてもまつたくかすれないことである。
まあ、JETSTREAMもさうなんだけどね。使つてみて感動したので、家族の分も買つて帰つたほどである。
しかし、JETSTREAMには萬年筆のやうな書き味はなかつた。
そこがいいともいへる。
萬年筆のやうな書き味を求めるのなら、最初から萬年筆を使へばいいのだ。なにもボールペンを使ふことはない。

問題は、どうしてももボールペンが必要とされる場面がある、といふことだ。社会人には。

しかし、晴れて手にしたJET8はすぐには使へるやうにはならなかつた。
制御できないのである。
書き味がなめらかすぎて。

MOLESKINEの罫線ありポケットサイズに書き込まうとして、とにかく字が乱れる。
書き味がよすぎて、ペン先が滑つてしまふのだ。
それは、やつがれが書き手として未熟だから、仕方がない、といふこともある。
もともと字は汚い。
剣士として未熟なものが、名刀と呼ばれるやうな刀を手にしたやうなもの、とでもいはうか。
いや、弓手として未熟なものが、いい弓を手にしたやうなもの、かもしれない。
弓を引く技量がないのに、いい弓を手にしても、その弓の能力を十分に発揮できない。
そんな感じだつた。

入手から二週間。
やつと、JET8でも思ふやうな字のちよい手前のやうな字が書けるやうになつてきた。
そして思ふ。
JET8には、MOLESKINEの罫線はせますぎるのかもしれない。
もつと、広い罫線で、あるいは無地の紙にのびのび書くのに向いてゐるんぢやあるまいか。
試し書きのときだつて、ほぼ無地のやうな紙に好きなやうに書いてゐたんだしね。

JET8を買つてからといふもの、いままで書かなかつた場面で書くやうになつた。
たとへば電車の中とかね。あるいはバスの中とか。
萬年筆だと乗り物の揺れとかでペン先がつぶれるんぢやないかと心配になる。
ボールペンにはそれがない。
ひとまづは、よしよし、といつたところか。

Tuesday, 11 March 2014

追ひたてられる

Untitled

写真を撮つてみて、大いに驚いた。
思つてゐたより進んでゐたからである。

先週の写真では三枚つながつてゐたモチーフが、今回の写真では五枚に増えてゐる。
あれから二枚も作つたのか。
全然そんな気がしてはゐないけれども。

タティングレースはあひかはらず昼休みのうち昼食を食べてあまつた時間を活用してゐる。
それ以外に時間は取れてゐない。
あみものはといふと、帰宅後の45分。夕食のあと入浴までの時間で編んでゐる。

追ひまくられてゐるやうな気分である。

をかしい。
あみものもタティングレースも楽しくてやつてゐるはずなのに、気がつくと追ひたてられるやうにして編んだり結んだりしてゐる。
ときどき、編み針もシャトルも手にする気がしないのは、おそらくそのためだらう。

いつだつたらうか。
連休のある日、ほかにすることもないし、あみものでもするかなあ、と、のんびりと編んだことがあつた。
急ぐこともなく焦ることもない。
一日の終りをゆつたりとした気分で迎へることができた。

あみものやタティングレースをすることで求めてゐるのはさういふ時間、さういふ気分だ。
けつして追ひたてられたり追ひまくられたりするやうな気分ではない。
そのはずなんだがなあ。

昼休みは、自分のしたいことをして過ごすのがいい、と、先日耳にした。その方が午後の生産性があがる、といふやうな内容だつたかと思ふ。
やつがれの場合は、確かにやりたいことをしてゐる。タティングレースをしてゐて、しかし、午後はやはりなんだか疲れきつてゐる。
短い昼休みのあひだにすべてをやつてしまはうと思つてゐるからだらう。それで疲れきつてしまふのだ。

なんとかもつとゆつたりした気分で糸と針やシャトルと相対することができないものかなあ。

まあ、それでも思つたより進んでゐるやうなので、よしとするか。

Monday, 10 March 2014

春夏もの? 何それ? おいしいのか?

春、なのだと思ふ。

烟花三月下揚州
といふこの「三月」は春の終りである。いまでいふ五月とか六月のはじめとか。
月の指定はないけれど
客舎青青柳色新
とか、春は別れの季節なのらしい。

もとい。

「なのだと思ふ」と書いた所以は、寒いからである。
寒い。
めづらしく土日両日出かけたときの出で立ちは、ダウンのコートに自分で編んだメビウス編みのショールである。
真冬と変はらない。
真冬のほんたうに寒いときにはもう一枚巻物を使つたりすることもある。
それに自分で編んだ帽子をかぶることもある。
でもそれは、「ほんたうに」寒いときのことだ。
三月。もう春だといふのに。
いつときあたたかかつたせゐで、中途半端に花が咲いてゐる。しかしこの分では桜はもつとあとだらう。

三年手帳で去年のいま時分の記述を見ると、すでにかなり薄手のコートを着てゐる。「あたたかくもないが、さして寒くもない」と書いてゐる。
いまはそんなに気はとてもならない。
一応、洗つておかうかな、くらゐには思ふけれど、それくらゐだ。
考へてみれば、これまで生きてきて一番の大雪を体験したのは三月だつた。それも二十四日とか、月末のことである。
こどものころは、雪の降る月といつたら三月だつた。一月二月は思ひのほか降らないものだつた。
一月二月にどかんと降るやうになつたのは、ここ最近のことなんではあるまいか。

それはさておき。
つまり、春夏ものを編まうといふ気にならないのである。

先日、「いきなりあたたかくなつてしまつた」と書いたものの、「寒の戻り」といふには寒すぎる状況では、如何ともしがたい。
編み始めたメビウス編みのショールは、一応進んではゐる。気温の低いおかげである。「いま編まないと、またあたたかくなつてきてしまふ」と思ふと、せつせと編まざるを得ない。

ここ数年、あみものやタティングレースについては、糸は買はずに手持ちのもので済ませたい、と、ずつと思つてゐる。
うまくいくこともあれば、いかないこともある。
いま編んでゐるショールは、ラグラン袖のリブタートルネックセーターを編んであまつた毛糸を使つてゐる。
セーターを編むときに、毛糸は買つた。
すなはち、手持ちの毛糸ではない、といふことである。
ショールを編みはじめたのは、これ以上手持ちの毛糸を増やさないため、といふ理由もある。

ところで、春夏用の糸の在庫といふのはあまりない。
もともと春夏ものは編まないことが多い。一時は夏でもくつ下ばかり編んでゐたしな。
くつ下毛糸はそれこそ売るほどあるので、今年はずつとくつ下を編んでゐてもいいかな、たまには手袋でも編んで、と思はないでもない。
先日、くつ下を編んで楽しかつたし。さうなつてくると、編みたいくつ下が次から次へとあらはれてくるし。

春夏の糸、といふと、さうだなあ、去年編みはじめて編み終つてゐないスカーフが一枚ある。あれを仕上げるかなあ。
このスカーフ用の糸は去年買つたのだつた。そのとき一緒に買つた糸で手つかずのものがある。それでなにか編むかのう。

と、計画はいろいろ思ひつくのである。
問題はそれを実現してゐる時間がないだけで。
いろいろ考へたところ、以前よりも家で本を読むやうになつたのが時間減少の原因のひとつであることに気がついた。
すこし前に「TVを見なくなつたから編み物もしなくなつた」といふやうなことを書いた。
これも確かに大きな理由のひとつである。
TVを見てゐると手持ち無沙汰だから編む。
TVを見なくなり、ほかのことをするやうになつたから編む時間が減つた。
さういへば、ここのところ録画した番組もなかなか消化できずにゐる。この週末はひとつも見ることなく終つた。

では、かつてTVや録画を見るのにあててゐた時間はどこにいつたのか。
どうも、本を読む時間にあたつてゐるやうな気がする。
以前は、家ではあまり本を読まなかつた。
家ではほかにすることできることがたくさんあるからである。
ほかにすることのない電車の中が読書の時間だつた。
電車の中で本を読むのはいまもかはりはないけれど、気がついたら家でも読むやうになつてゐたんだよなあ。

本を読みながらでもあみものはできる。
特にいま編んでゐるメリヤス編みと裏メリヤス編みばかりのショールなら、まつたく問題なく編める。
編めるのだが、その場合、本を選ぶ。
本は、平らに開くものでなければならない。
手で押さへてゐないと開かないやうな本は向かない。
すなはち文庫本や新書はチトむづかしい。
ハードカヴァで、あるていど読み進んだものが一番あみものに向いてゐる。
しかしなあ、さうちやうどよくハードカヴァの本なんか読んでないしなあ。

Kindleなどの電子書籍もいいとは思ふ。この場合、なにかスタンドのやうなものが必要になるだらう。
かう書くといふことは、やつてみたことはない、といふことだ。
今度やつてみやうかな、iPadで。

などと書いてゐるうちに編めばいいんだけどね。
とにかく、膝の上に編みかけのショールが乗つてゐても平気でゐるあひだに、なんとかしたい。
春夏ものは、編みながら考へることにでもするかな。

Friday, 07 March 2014

2014年度のNHK語学講座にがつかり

2014年度のNHK語学講座にはがつかりだ。
今年度、すなはち2013年度上期のNHK語学講座のうち、「EURO25」といふ名称でひとくくりにされてゐるTVのイタリア語・ドイツ語・フランス語・スペイン語には、NHK朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」に出演してゐた人が出てゐるものがあつた。
当然来年度は「あまちゃん」に出演してゐた人が出るだらう。どの言語かわからないけれど。
その期待は見事に裏切られてしまつた。

うーん、見ないな、いづれも。
そして、来年度は下期も見ることはないだらう。なぜといつて、下期は前年度上期の再放送だからだ。

前年度上期の再放送といふことで、今年度はイタリア語とドイツ語とは見てゐた。イタリア語には北村一輝、ドイツ語には勝村政信が出てゐた。
去年はどうしてゐたかといふと、上期は当然この二つの言語を見てゐて、下期はイタリア語を見てゐた。高橋克実が出てゐたからである。

かうして、出演者によつて見る言語を選ぶ人間がゐる、といふことは、それなりに出演者の選出は重要なものなのだらう。
しかるに、このメンツなのか、と、来年度の出演者陣を見て思ふ。

以前から書いてゐるやうに、やつがれは少数派を自認してゐる。つねにさうといふわけではないけれど、たとへば歌舞伎なんかを見に行つても、客席はものすごくもりあがつてゐるのに、ひとりだけ取り残されてゐるやうな感覚を覚えることがある。

といふわけで、今年度もさうだし来年度の出演者陣もそれなりに視聴者を引きつけるのかもしれない。
そこのところはよくわからない。
伯母なんかは、「最近はNHKの語学講座もつまらなくて。どうでもいい若い人が出てきて、全然おもしろくないから見ないの」などと云ふてゐたがな。

しかし、やつがれもさういつも少数派といふわけでもない。
ないんぢやないかな。
さう思ふのは、TVドラマ「隠蔽捜査」を見てゐるときである。
杉本哲太、古田新太のふたりの主役は、どちらも「あまちゃん」に出演してゐた俳優である。
ほかに八十田勇一がゐるなあと思つてゐた。
問題は「あまちゃん」出演俳優にとどまらないといふことだ。
生瀬勝久と安田顕とは第一回から毎回出演してゐるし、いつのまにか佐戸井けん太は出てくるし、池田成志の出てきたときには「どんなねづみの三銃士だよ」と思つたものだつた。まあ、三人一緒に画面にうつることはなかつたけれど。

視聴者にはかういふ需要もある。
やつと気づいたか、といひたいところだが、ま、そこはそれ、だ。

本題に戻ると、来年度はTVのNHK語学講座は見ない。
たまたまTVをつけたら放映してゐた、といふことだつたら見るかもしれない。
最近は、NHK教育かTV東京しか見るべきチャンネルがないときが多いからなあ。
そんなところだ。

ラジオは今年度も聞いてゐたものを引き続き聞くつもり。
あ、でもイタリア語はどうしやうかなあ。
やめるかもしれない。
テキスト発売まで時間がある。
もう少し考へることにするか。

Thursday, 06 March 2014

知らない町を彷徨ふとき

先日飯田に行つた。
もちろん飯田市川本喜八郎人形美術館に行くのが目的だつた。
目的はそれで、しかし、今回はいつもの飯田行きとはチト違ふことをしてみた。
たとへば、人形美術館以外のところへ行く、とか。
夜は外食してみる、とか。
さらには一杯飲んでみる、とか。

人形美術館以外のところでどこに行かうか。
Webで検索してみたところ、日本茶を主に扱つてゐる喫茶店を見つけた。
飯田インターチェンジを出て少し行つたところにある店である。
正直云つて、飯田駅からは遠い。
飯田線に乗つて、飯田から二駅目の鼎といふ駅で降りて歩くと15分強らしい。Google Mapではさうだつた。
それなら飯田線にも乗れるし、歩いてみるかといふことになつた。
ちなみにその喫茶店から人形美術館までは歩いて33分ほどだとGoogle Mapはいつてゐた。
帰りも歩くか。
さう心に決めた。

ところで、飯田は坂の多いところだ。
飯田インターチェンジを降りて伊賀良のバス停から飯田駅前に向かふ途中、丘の上からはるか下界を見下ろすやうなところがある。
多分、今回行く先も山を下りて上るやうなところだらう。
よつて、15分強ではつかないだらうといふ見積もりはあつた。

よく知らぬ土地ではじめて行くところに赴く。
したがつて、Google Map頼りの道中となつた。
とはいへ、さうしよつ中見てゐたわけでもない。

知らぬ土地へ行くとき、事前に地図をよく見るのはあたりまへとして、それ以降はどうするか。
「鼎駅はこつち」「飯田駅はこつち」といふのを常に頭に入れて歩く。
いつもさうやつてなんとかしてゐる。

やつがれはどちらかといふと方向音痴だと思ふ。
こどものころ、近所のイトーヨーカ堂の2Fに行くと、必ず出口の方向がわからなかくなつたものだつた。
一昨年、ものすごく久しぶりにそのイトーヨーカ堂に行つてみた。
外装はもちろん内装すつかり変はつてゐたけれど、やはり2Fに行くと出口の方向がわからなくなつた。
どうやら窓がないのが原因のやうだつた。

そんなわけで、はじめての場所に行くときは、反対方向に行つてしまふことが多い。そして、さういふときは必ず正反対の方向に行つてしまふ。
先日も、四谷付近でお堀とは反対方向に行くはずが、気がついたら上智大学のそばに来てしまつた、といふことがあつた。

ちやんと正しい方向に向かへるときは、なにかしら基準点になるものがある。
京都市内なら、山の形でなんとなく東西南北がわかる。
それ以外は駅のある方向とか、なにか目印になるやうなお店だとか建物だとか。
方角に弱いので、地下鉄の駅から出たところなどは苦手である。
また、野中の一本道なども、なにも目印になるところがないからダメだと思ふ。一本道なのだから迷ひやうもないだらうけど。

といふわけで、飯田でも、「こつちが鼎駅」「こつちが飯田駅」と念頭に置きながら歩いた。
また、喫茶店(残念ながら11時開店だつたので入れなかつた。着いた時は10時20分。40分は待てなかつたのだ。Webページには10時開店つて書いてあるのになー)から飯田市川本喜八郎人形美術館に行くときは、下りきる前に上る方向を見定めて、「だいたいあのあたりを歩くのだらう」と予測をたてた。上り下りがあるといふのは、かういふときにいいものだつたりもする。

そんなわけで、喫茶店は空振りだつたものの、たどりつくことはできたし、そこから人形美術館に行くこともできた。

それにしてもよく知らない土地でまつたく知らないところへ行つて、一時間以上もよく歩いたものだと我ながら思ふ。
結局、最後の上りがかなり強烈で、異様に時間がかかつてしまつたんだな。やれやれ。
歩くのも出かけるのも好きぢやないのになー。

Wednesday, 05 March 2014

その後のユビキタス・キャプチャー

Untitled

一度はどうでもいいやと思つたユビキタス・キャプチャーをまたやつてみやうと思つたのは、外部記憶を失つたからだつた。

やつがれは、ムダに過去のことを覚えてゐる。まれに酒の席なんかでこどものころの話をして、「よく覚えてゐるね」と云はれることがある。
「記憶は編集されてゐる可能性がある」とは、最近のScientific AmericanのPodcastにもあつたとほりである。
さうだらうな、と、我ながら思ふ。
やつがれがこどものころのことを覚えてゐるのは、何度も何度もくり返し思ひ出してゐるからだ。
反芻するたびに、記憶は編集されていく。
そんな気がする。

いまちよつと探し出せなくて申し訳ないけれど、最近、「negativeな気持ちは記憶を定着させ、positiveな気持ちは忘れさせる」といふやうな記事をwebで見かけた。
なるほどな、と思ふ。
多分、大半はnegativeな気持ちでゐるから、やたらと過去の記憶にこだはるし、忘れまいとしてしまふのだらう。
さういふ自覚はある。

以前も書いたかもしれない。
こどものころ、自分の写真を見るのが好きではなかつた。
見るたびに泣きたいやうな気分に襲はれた。
写真の中には、さらに幼い自分がゐる。
家のやうすはいま住んでゐるところと変はるところはない。
でも、自分の隣には、いまはもうゐない巨大なぬひぐるみがゐる。
隣に座つてゐるといふことは、それなりにお気に入りだつたのだらう。
あるいは写真を撮るのに親が座らせたのか。
だがそのぬひぐるみはもうゐない。
記憶にも残つてゐない。
忘れてしまつてゐる。それがこんなにも悲しいことだなんて。

忘れてしまつて悲しいと思ふ気持ちが、記憶の源だ。
negative emotion may enhance memories.
そのとほりなのだらう。

それでも日々忘れていく。
それに、思ひ出すたびに編集してゐるやうぢやあ記憶だつてあてにはならない。
それではなにを頼りにするか。

ユビキタス・キャプチャー。
それしかないんではあるまいか。

先日、家にゐるときに、ちよつと思ひついたことをなんでも書きとめてみやうと試みてみた。
日曜のことで、飲み出すまではそれなりに思ひつくことをそれなりに書きとめられたと思ふ。
以降、以前よりはあれこれ書きとめられるやうになつたんぢやないかな。

書きはじめると次から次へと書きたいことが思ひ浮かんでくることがある。
書く早さに追ひつかない。
さうすると、思ひ浮かんだことを忘れてしまふ。
それはそれでいい。
そんな気もする。

書きはじめてわかつたこともある。
いままで、イヤなことは書きとめられないと思つてゐたけれど、実は好きでたまらないこともまた書き出せずにゐる、といふことなんかもさうだ。
好きなことならいくらでも書ける。
さう思つてゐた。
しかし、実際に書くことはほとんどなかつた。
書きはじめやうとすると、躊躇してしまふ。
なんなんだらうね、これは。
好きなことほど書きづらいのかもしれない。
これはちよつと今後も気にしていきたいことである。

ところで、Moleskineに書いてゐるだけだと、視覚的なことは記録できない。
絵でも残せればいいのかもしれない。生憎やつがれは絵を苦手としてゐる。
それに、色を付けて残すのはもつとむづかしからう。
そんなわけで、これに惹かれないでもないのだが。
さて。

Tuesday, 04 March 2014

可愛いお道具

GR-8 Tatting Shuttle Bloodwood

タティングシャトルつて、可愛い。
いつもさう思ふ。

まあ、中には巨大なのもあつて、お世辞にも「可愛い」とは云へないやうなのもないわけぢやあない。
しかし、たとへばクロバーの一般的なシャトルなんかは、見てよし手に持つてよしさらに握つてよし、と、三拍子そろつた可愛さだと思ふ。
長さ、厚み、重さが絶妙なんだと思ふ。

これが棒針だとさうでもないんだよなあ。
ミニ棒針なんかは可愛いと思ふけれど、普段使つてゐる輪針や四本針・五本針は、「優秀!」と思ふことはあつても、「可愛い!」と思ふことはない。

かぎ針もさうかな。
かぎ針は、昔クロバーが販売してゐた木軸のものがお気に入りである。6/0号一本しか持つてゐない。ゆゑに、なんとなく6/0号を使ひたい気分になつたりする。
このかぎ針はもちろん使ひやすいし、佇まひも大変結構なんだけれども、やはり「可愛い」といふ感じではない。

スピンドルには「可愛い」のもあるな。こぶりなものとか。トルコ風スピンドル(Turkish spindle)の手のひらサイズなんて、実に可愛い。

でもまあ、可愛さといふ点でタティングシャトルに勝てるお道具は、そんなにない。
少なくともやつがれの手元には。

写真はGR-8 Shuttleである。木はBloodwood。
もともと、黒檀で作つてもらつたGR-8 Shuttleがあつたので、「次は赤だな」と思ひ注文したものだ。
Webサイトには血のやうに赤いBloodwoodのシャトルの写真が掲載されてゐる。
やつがれのBloodwoodのシャトルは、そんなに赤くはない。深みのある赤茶色、といつたところだらうか。

黒檀もBloodwoodも密度の高い木なのらしい。
スピンドルを見てみればわかる。
おなじサイズのスピンドルでも、MapleのものとBloodwoodのものとを比べると、Bloodwoodの方が重たいことが多い。
ゆゑに、やつがれのGR-8 Shuttlesも、それなりに重たい。以前も書いたとほり、重たいのはねぢの部分のせゐである。せゐではあるけれども、おそらくほかの木にした方が軽かつたらうな。そんな風に思ふ。

手にしたときにちよいとずつしりくる。
これがまた、いいんだよねえ。
クロバーのシャトルはちいさくて軽くて可愛いけれど、GR-8 Shuttleはちいさくて重くて可愛い。
そんな感じかな。

見てゐると使ひたくなつてくるのが人情なのだが、さて。

Monday, 03 March 2014

苦手克服策

おそれてゐたことが現実となつた。
あたたかくなつてきてしまつたのである。

金曜日などはほんたうに春の陽気だつた。
まづい。
このままではまづい。
編みはじめたメビウス編みのショールの仕上がらぬうちに春になつてしまふ。

春のうちはまだいい。
この先暑くなつたら、編み地をひざの上において編むことができなくなつてしまふ。
畢竟、ショールの仕上がりは次の秋冬、といふことになる。
うーぬー。

まあ、計画もなく無謀に編みはじめたのがいけないとは思ふのだが。
それにしても、こんなに一気にあたたかくならなくても。
それだけがうらめしい。

そんなわけで、せつせとメビウス編みのショールを編んでゐる。
あまり進んではゐない。まだニ玉目だ。
八玉と半分くらゐあまつてゐて、全部使ひきるつもりでゐる。
六玉くらゐはひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編みをして、残りのニ玉とすこしで端の模様を編む予定、とは、以前も書いたとほりだ。

前回、640目作り目をした、といふ話を書いた。
1目1秒で編んでも10分以上はかかる計算である。
実際はもつとかかつてゐるものと思ふ。
うーぬー。失敗したかなあ。二本取りにして、もつと太い針で編むべきだつたかもしれん、と、いまさらながら思ふ。

メリヤス編みを編む速さはそれほど変はつたやうには思へない。
もうこれ以上は速くならないのかもしれないな。
さう思ふ。
それほど速くないのにね。
速く編まうとするよりは、間違へることなく一定に編める速さを見つけて、その速さで編んでいくのが一番効率がいい。そんな気がする。
問題は、なかなかその「ちやうどいい速さ」を見つけ出せない、といふことだな。
「あ、いまいい感じ」と思つても、なんかの拍子に針や編み地を持ちなほしたり、糸のかけ具合が変はつたりすると、その速さではうまく編めなくなつてしまつたりしがちなのだ。
それで、また気持ちよく編める速度を見定めて、いいなと思つたところで編み地を送つたらまた調子が変はつてしまつて……のくり返しである。
まあ、世の中そんなものかな。

一方、裏目はそれなりに調子よく編めるやうになつてきた。
以前は……といふか今でもさうなのだけれども、裏目を編むのが苦手だつた。
これも前に書いたな。
あまりにも苦手なのでノルウェー式裏目の編み方なんぞに挑戦したこともあつた。
ノルウェー式裏目の編み方は、糸を針の後ろにおいたままで編む方法だ。なんでも一目ゴム編みや二目ゴム編みのときに向いてゐる、といふ話である。糸を針の前後に移動させなくていいからだ。
なるほど、と思ひつつ、結局昔覚えた方法で編んでしまふ。

一時はくつ下ばかり編んでゐた。
そのせゐか、裏目を編むことがほとんどなかつた。
ゴム編みのところと、かかとのところとくらゐで、あとは縄編みが入るときに裏目が多かつたりするかな、といつたところだ。

裏目は編むのにも時間がかかるし、目は不揃ひだし、苦手だなあとずつと思つてゐた。
いまでも得意、とは云へない。
表目を編む方がずつと楽。
さう思ひながらも、でも裏目もそれなりに編めるやうになつてきた。
そんな気がする。
かへつて、裏目の方が一目を編むのには時間がかかるけれどもあまり失敗しないので表目より速く編めてゐるやうな気さへする。

いま編んでゐるメビウス編みのショールでは、表目の部分と裏目の部分とがある。
これを編んでゐるうちに裏目への苦手意識がまちつと減るといいなあと思つてゐる。

それには、とにかく編まないとなー。

Saturday, 01 March 2014

2014年2月の読書メーター

2014年2月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:2529ページ
ナイス数:6ナイス

史記 7 世家 下 新釈漢文大系 (87)史記 7 世家 下 新釈漢文大系 (87)感想
孔子世家にはじまり三王世家まで。孔子についてはいろいろ研究も進んでゐるせゐか、あれこれ注がたくさんついてゐる。個人的には蕭何から周勃までがおもしろかつた。これも注にあるけど、この並びつて別に世家ぢやなくてもいいよね。列伝でもいい感じ。そこがいいのかもしれない。蕭何と曹参との関係とか、張良と陳平との違ひとか、興味深い。
読了日:2月2日 著者:吉田賢抗
韓非子 (第3冊) (岩波文庫)韓非子 (第3冊) (岩波文庫)感想
「良薬は口に苦し」とか「矛盾」とか出てくる。難はいいね。半ば云ひがかりだらう、とも思ふけれど、「さう云はれてみればさうだなあ」と思ふこともしばしば。斉の桓公が大活躍で、すなはち管仲もさうなんだが、当時は「梵天丸もかくありたい」みたやうな人が多かつたんだらうなあ。でも桓公の最期の話はもういいです。
読了日:2月6日 著者:韓非,金谷治
世説新語1 (東洋文庫)世説新語1 (東洋文庫)感想
おもしろいぢやないか、世説新語。小ネタのオンパレードで、おなじ人が何回も何回も出てくるから、なんだかおともだちになつたやうな気分さへしてしまふ。ほんとにおもしろさがわかるには、中国の古典によほど親しむ必要があるのだらうとは思へども、親しんでなくてもおもしろい。
読了日:2月10日 著者:劉義慶
The War that Ended Peace: How Europe abandoned peace for the First World War+D1:D16The War that Ended Peace: How Europe abandoned peace for the First World War+D1:D16感想
英仏独露墺の首脳や外相、各国大使などがメイン。現代(どこからを現代といふのかはむづかしいな。米ソ冷戦のころから、といふことにしておくか)の事件でいふとこれに近い、みたやうな書き方がおもしろいと思ふ。真偽はともかくとして。
読了日:2月27日 著者:ProfessorMargaretMacMillan
料理の科学〈1〉素朴な疑問に答えます料理の科学〈1〉素朴な疑問に答えます感想
ときどき吹き出しさうになる。すでに書いてゐる人もゐるけれど、「フランスのバターはなぜあんなにおいしいのですか。」「脂肪が多いからです。」(p150)とか、さらつと書いてあるからよけいにツボにはまるのかもしれない。料理はあまり好きではないけれど、すこしちがつた目で見ることができるやうになつたかも。
読了日:2月27日 著者:ロバート・L.ウォルク

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