なんの本を読んでゐるんですか?
先日、髪の毛を切りに行つた。
とくに担当など決めてゐない美容院で、その日もはじめての美容師さんが髪を切つてくれた。
担当をきめてゐないやうなところなので、普段は美容師さんとの会話もほとんどない。
その日はちがつた。
「さつき、なんの本を読んでゐたんですか」
その美容師さんは、さう訊いてきた。
順番待ちするあひだ、やつがれは持つてきた本を読んでゐた。
それを訊かれたのである。
とつさに、なんと答へたものか、わからなかつた。
「「韓非子」です。」
正直にさう答へたものかどうか。
答へたとして、そのあとの会話をどうつづければよいのか。
頭の中がエマージェンシー・イエローに点滅する。
「ええつと」などと口ごもつてゐると、美容師さんが「小説ですか」とかさねて訊いてくれたので、「はい」とか答へてしまつた。
それでよかつたのだらうか。
いまになつても、時折さう考へたりする。
「韓非子」です、と答へなかつた理由はいろいろある。
上にも書いたとほり、さう答へたとして、そのあとの会話をどうつづけていいのやらわからない。
もちろん、美容院での会話なので、そこで断ち切つてしまつてもいい。
だから、すなほに「「韓非子」です」と答へて、なんの問題もない。
問題があるとしたら、それは、「「韓非子」を読むやうな人間だと思はれたくない」といふもうひとつの理由の方だ。
いつたい、世の中に「私は「韓非子」を読む(やうな)人間です」と公言してはばからないやうな人間がゐるだらうか。
……ゐるのかもしれない。
世の中は広いからな。
中国文学の学者や学生ならそれでもいいだらう。
いや、もしかすると、中国文学の学者や学生はまた別の意味で「「韓非子」を読む(やうな)人間」と思はれたら困ると思ふかもしれない。
そんなの、もうとつくの昔に読んでゐてあたりまへ、いまさら読んでるなんて、主たる研究の種でもないのに、はづかしい。
さう思ふこともあるだらう。
なぜ「韓非子」を読むやうな人間だと思はれたくないのか。
それに答へることはむづかしい。
ぢやあなんだつたら正直に答へられたらうか。
「論語」? 「老子」? 「孫子」? 「史記」?
ああ、「史記」ならいいかもしれないな。列伝とか。ちよつと小説つぽいところもあるし。
「史記」だつたら、昔の中国の歴史の話ですよ、くらゐで会話として成り立ちさうだし。
つまり、小説とか随筆とかまんがとかならいいけれど、それ以外のものを読むやうな人間だと思はれたくない。
なんかよくわかんないけどむづかしさうな本を読む人だと思はれたくない。
さういふことだらう。
なぜむづかしい本を読む人だと思はれたくないのか。
それは、なんだかエラそーだからである。
実のところ、「韓非子」はそんなにむづかしい本ではない。と、思ふ。
なんたつて、やつがれの認識では「韓非子」は矛盾で待ち呆けだ。さう、「ある日せつせと野良稼ぎ」のあの待ち呆けである。
そして、以前も書いたが、やつがれは「エラそー」をもつてなつてゐる。
そのときも書いたやうに、「偉い人の反対はエラそーな人」と、「ケロロ軍曹」のエンディングにもあるとほりだ。
偉くないのである。
偉くないからエラそーなのだ。
それはそれで上等ぢやあないかと思つてゐる。
でも、なにも無用にエラそーな感じを醸し出さなくてもいいやな。
さうも思ふのだ。
そんなこといつて、ここのblogだとかTwitterだとかでは、「「韓非子」読んでます」つて公表してるぢやん。
さういふ向きもあらう。
それはいいのである。
なぜいいといつて、Netの向かうにゐる人は、ほぼ知らない人で今後会ふこともない人か、少数のよく知つてゐる人だからだ。
めんどくさい?
そのとほりだよね。
この過剰な自意識をどうにかすればいいのに、と我ながら思ふよ。
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