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Monday, 10 February 2014

編みたいときに編みたいものを編みたい

Aquaphobia Socks in progress

冬季オリンピックがはじまつた。
いまのところ、まつたく見てゐない。
開会式はもちろん、競技のいづれも、たまにニュースで見るくらゐである。

そんな中、チト気になる話題がある。
スノーボード男子スロープスタイルで、スタート地点であみものをしてゐる人がゐた、といふ話である。
「へー、粋なことする人ゐるぢやん」と思つてゐたら、世間の見方はさうではなかつた。
リンク先の題名も「視聴者から戸惑いの声」とある。
「願掛け」らしいと知つて、「あーすつきりした」だとか「謎が解けた!」だとか呟いてゐる人もゐる。

なんか理由がなかつたら、編物をしちやいけないんですかね。
オリンピックの競技場で、選手ではない人が、手持ち無沙汰かなんか知らねどあみものをしてゐる。
それのなにが不思議なのか。
まつたくもつて理解できない。

と、云ひきりたいところだが、「ああ、ねえ」と思はないでもない。

やつがれは自身を「編み物もの」だと思つてゐる。
その「編み物もの」のやつがれでも、Elizabeth ZimmermannだとかYarn Harlot aka Stephanie Pearl-MacPheeだとかは、ちよつとextremeだよな、と、辟易する向きもある。

たとへば、Stephanie Pearl-MacPheeは自著All Wound Upで、病院の待合室であみものをしてゐるときのことを書いてゐる。

カナダでも本邦とおなじやうに病院では予約をしたものの延々と待たされるのらしい。
当然のやうにあみものをしてゐると、やたらそはそはと落ち着かない客の姿が目に端にうつる。
はふつておかうと思ふが、その客がこれ見よがしにため息をつくのを見て、話しかける。
しばらく会話を交はし、自然とあみものの話になり、客は云ふのだ。
「わたしにも編物をする時間があつたらねえ」

ここで、著者は激しく反応する。
もちろん、相手に直接云つたりはしない。
しかし、本の中では、「だつてあなたとわたしと、かうして待たされてゐる時間はおなじでせう。そのわたしが編み物をしてゐるのに、あなたに時間がないつて、どういふこと?」と、大変な勢ひである。
それも、手を尽し品を替へ、数ページにわたつて書き綴つてゐる。

さすがにそのしつこさには「ちよつとね」と思はざるを得ない。
でもそのしつこさつて多分、みづからを、すなはち編み物ものを、世の中の少数派だと思つてゐるからなんだよね。

少数派といふのは、過敏なものである。
たとへば、旧かな旧漢字派然り、かな入力者然り。
つて、どちらもやづかれ自身のことだ。
少数派は、自分たちにはもう後がないことを知つてゐる。
この先多数派になることなく、先細りになるばかりかもしれないといふ危惧を抱いてゐる。
ゆゑに、「いまどき旧かな旧漢字だなんて、なあ」だとか「かな入力なんてもうすぐになくなるよ」といふ、多数派の多分に悪意なき心ないことばに、必要以上に反応するのである。

それがわかつてゐるので、もう長いこと旧かな旧漢字のことやかな入力についてあれこれ見聞きしても、「わかつてないねえ」と思ふだけにとどめてゐる。
好きで少数派なわけではない。
しかし、少数派とはさうしたものなのだ。
わかつてゐる。もう長いことさうだから。

さうして生きてきたつもりだつたのだがなあ。
今回の五輪競技会場でのあみものについての世の受け取り方に対しては、過剰なほどに反応してしまふ。
やめやうと思つてもやめられない。
編みたいときに編みたいものを編んでなにが悪い。

くどいほど書いてゐる話に、Knitter's Magazineに連載されてゐたコラムのことがある。
書いてゐたのはPerri Klass。連載はTwo Sweaters for My Fatherといふ本にまとめられてゐる。
Perri Klassは、こどもの学芸会を見に行つていつも「いま編めたらなあ」と思ふ、と書いてゐる。あるいはクラシックの演奏会で。編めたらいいのになあ(もちろん実際に編んだりはしないけれど)、と。
読んで、わかるなあと思つたのだ。
Stephanie Pearl-MacPheeも、著書の中で「いつもはメタリックの針を使ふけれど、映画を見に行くときは竹や木の針を使ふ。音がしないから」と書いてゐる。すなはち、映画を見ながらも編む、といふことだ。

わかるなあ。
やつがれもまた、芝居を見ながら編みものできたらなあ、と、つねづね思つてゐるからだ。
でもそれはやつてはいけない。
だつて周りの人に迷惑でせう。
かつての歌舞伎座の二階桟敷だつたら、ありだつたかな、とも思ふ。
いまの歌舞伎座の二階桟敷ではムリだなあ、多分。

さう思つてゐた。
つい昨日までは。

昨日、オリンピックでのフィンランド選手団の人のあみものに関する世間の見方を目の当たりにするにつけ、「これは、もう、歌舞伎を見ながら編むしかないのでは!」と思ひつめるまでに至つてゐる。

つまり、これでもやつがれは普段、「編まない人」に対して気を遣つてゐるつもりでゐたんだな。
編まない人にはわからないだらうから、妙なところでは編まない。
本邦では電車の中で編んではいけないことになつてゐるから編まない(海外の人からは「なんで?」とよく訊かれる。「いいんぢやない、空いてるんなら」とも。しかし、本邦では空いてゐても電車の中で編んではいけないのである)。
こちらが気を遣つてゐるのに、なんでそつちはそんなに無神経なのか。

さうなのだ。
少数派が過剰に反応する所以のひとつもそれなのである。
こちらは自分が少数派だとわかつてゐるから普段から肩身の狭い思ひをして暮らしてゐる。なのに、なぜ多数派はそこに気がついてくれないのか。
そんなの当然だ。
多数派だから気がつかないのである。
多数派は肩身の狭い思ひなんかしないし、世間に対して遠慮したりしない。する必要がない。
それがわかつてゐるから、いつも「まあ仕方がない」と肩をすくめるだけですませてきたのに。

落ち着け、ヲレ。

一方、昨日は「サザエさん」でも編み物を取り扱つてゐた。
サザエさんに編物の神が降臨して、あれこれ編みまくる、といふ話である。
「サザエさん」なので、毛糸は着古したセーターをほどいたものだつたりする。
冒頭で、かせに両手をくぐらせたフネさんと毛糸だまを作るサザエさんが出てきたりするところが、もう念入りに「サザエさん」である。
しかし、この回のすごいところはそこではない。
なんと、サザエさんの手の動きがわかるのである。
「あ、裏メリヤス編みだな」とはつきりと認識できる。
すごい。「サザエさん」、すごい。

アニメであみものといふと「魔法使いサリー」のサリーちやんのママを思ひ出す。
あの、編み目も編み地も無視した手の動き。

もつと広くアニメで手藝といふと、「フランダースの犬」を思ひ出す。
ネロの近所に住まふをばさんがボビンレースをしてゐる場面がある。
手の動きや道具はあきらかにボビンレースだ。あの時代にあれだけ完璧にボビンレースの手の動きを再現してゐたのは素晴らしいことだと思ふ。
ああ、だが、しかし、その図案とでも呼ぶべきものが、ボビンレースのそれではないのである。
どこからどう見ても、刺繍の図案、それも多分にクロススティッチの図案なのだ。
あのをばさんの手の動きから、そんな模様は作れない。
なんでそんな、つまらないところで手を抜くかなあ。

そこから考へると、隔世の感があるなあ、あのサザエさんの手の動き。

世の中は変はつてゐる。
シドニーオリンピックのときに揶揄された日本選手団の開会式の衣装と似たやうな色模様の衣装を、ソチオリンピックの開会式ではほかの国の選手団が着てゐたと聞く。
生きてゐるあひだはムリでも、そのうちそこらへんで編物をしてゐてもヘンだと思はれない日がやつてくるかもしれない。

……さう思へないから、過剰に反応するんだけどね。

あ、写真はここのところ編んでゐたくつ下の進捗具合である。
ここ二年ほど、平日に編める時間は45分くらゐだ。
それでもなんとか片方できあがつた。
すかさずもう片方を編みはじめるのが、くつ下完成の秘訣である。

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