遠きに在りて身近な人々
「世説新語」を読んでゐる。
去年のいまごろまでは、読まうなんぞと思つたことはなかつた。
去年、東京国立博物館の書聖王羲之といふ展示を見に行つた。
ご時世がご時世なので、中国から書を借りてくるわけにはいかなかつたのらしい。
一番最初に飾られてゐたのが、「世説新語(展覧会では「世説新書」になつてゐた)」の最古の写本だつた。
「世説新語」には、王羲之やその近親者、あるいはまちつと遠い先祖や親戚がたくさん出てくる。
展覧会では、王羲之の伯父は酔ふと魏武の詩を口にするのが常であつた、なんぞといふ逸話が紹介されてゐた。
魏武、すなはち曹操である。
王羲之の伯父の愛唱してゐたのは、「老驥伏櫪志有千里烈士暮年壮心不已」だといふ。
ほかにも、展示されてゐた部分を読むに、曹操と楊脩との確執だとか、「本初」とあるからきつと袁紹の話なんかも書かれてゐるやうだつた。
そのときはそれで終はつた。
だいたい、「世説新語」といつても、原文を載せてゐる本はなかなかなささうだつた。
明治書院の新釈漢文体系にならあるかな。
そのていどだつた。
それに、比べるのはをかしいかもしれないけれど、「世説新語」より「資治通鑑」の方が読みたかつたしな。
こどものころ愛用してゐたことはざ故事来歴事典には、よく「資治通鑑」からの引用といふ記述があつた。「しじつがん」と読むこともその時に知つた。
このblogでも、200エントリ目のときに、資治通鑑の巻第二百のことを書いてゐる。
武則天の、例のアレだ。
「手足を断ち酒瓶の中に捉ふ」つて、アレ。
さういへば、去年の夏から休みの日、一杯やりつつ「史記」を読むのを楽しみにしてゐる。
最初に買つたのは明治書院の新釈漢文体系の「本紀 下」だ。
とりあへず、項羽本紀を読んでみやうと思つたのだ。
この巻は項羽本紀にはじまつて、孝武本紀まで。
これを読み終はつたので、次に世家の下巻を読んだ。これが孔子世家から三王世家まで。
これも読み終はつたので、現在列伝の三巻を読んでゐる。
武則天で思ひ出したのだが、最近列伝を読んでゐて、あらためて「呂后、怖ぇぇぇー」と思ふことがあつた。
いや、そんなこと、読まなくてもわかつてゐるんだけれども、でもやつぱり怖いよねえ。
呂后本紀で読むより、列伝のあちらこちらにちりばめられてゐる話の方がより怖さを覚える。
劉邦についても、その、なんといふか、困つたちやんなところは、本紀を読むよりも列伝を読んだ方がわかりやすいやうに思ふ。
おもしろいなあ。
「世説新語」に話を戻すと、読んでゐるうちに、出てくる人出てくる人、みんな知り合ひのやうな気分になつてくる。
基本的に短い逸話がたくさん集められてゐて、おなじ人が何度も何度も出てくる。
そのせゐか、段々馴染みになつていくやうな気がするんだなあ。
正直云ふと、職場で会ふ大半の人よりも、謝安だとか桓温といつた人物の方が身近な存在に感じられる。
まあそれはやつがれの不明の故なのかもしれないけれど、つまり、それくらゐ登場人物の為人がよく描かれてゐる、とも云へる。
それが平凡社の東洋文庫といふちやうどよい大きさの判型で出版されるなんて、いい時代になつたものだなあ。
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