懲りずに通ふそのうちに
あひかはらずしつこく渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに通ふてゐる。
通ふてゐるといつて、毎日行つてゐるわけではない。
ここのところ雪が降つたりして、思はぬときに足止めをくらつたりしたので、「すきあらばヒカリエ」とばかりに、時間を見つけては行つてゐる。
そんな感じだ。
それであらためて気がついたやうなこともある。
たとへば、妓王だ。
以前書いたときは、尼姿の妓王について、「はかなげ」だとか「さまよひ歩いてゐるやう」だとか書いた。
はかなげで幸の薄さうなところはそのままである。
けれど、何度も見るうちに、髪を下ろしてやつてきた仏御前を迎へ入れるやうなやうすに見えてきたのだ。
「一緒に暮らしませう」
さう云つてゐるやうに見える。
上記リンク先にも書いてあるやうに、妓王と仏御前とは、それぞれ白拍子姿・袿姿・尼姿の三様の人形が飾られてゐる。
妓王は、白拍子姿ではショック状態にあるやうに見えるし、袿姿はどこか不満げである。
尼姿になつて、やつと、みづからを縛りつけてゐたものから解脱できたのか。
今はそんなやうに見えてゐる。
はたまた玄徳・関羽・張飛。
以前書いたときは、人形劇三国志の登場人物は呂布・貂蝉・陳宮を除いてみな呂布を見てゐる、と書いた。
許褚・郭嘉をはじめとして、曹操とその野郎ども(あっ)は、明らかに呂布を見てゐる。
玄徳一行も当然さうだらう。
当初はさう思つてゐた。
しかし、足しげく通ふうち、なんか、どうもちがふんぢやないか、といふ気がして来た。
玄徳の視線の先にゐるのは、呂布ではなくて、馬上の曹操なのではあるまいか。
さう思ふと、関羽も張飛も曹操を見てゐるやうに思へてくる。
玄徳たちには、もう終りの見えた呂布には興味がないのかもしれないな。
呂布を倒し、着々とその地位を不動のものにしつつある曹操を見つめてゐるのかもしれない。
そんな気がする。
それにしても、曹操とその野郎どもはいいなあ。
以前も書いてゐるやうに、飯田市川本喜八郎人形美術館でも、曹操の王国のケースは実に楽しい。
女つ気はまつたくないのに、とてつもなく華やかだ。
いや、華やか、といふよりは、賑やか、なのかもしれない。
これが江東になると今度は「濃いぃ」になるのだが。
その話はまたの機会に。
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