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Friday, 28 February 2014

つめ込め

つめ込み学習は、いけないことなのだらうか。
ずつといけなぃといふ論調があつて、なんだかさういふものなのだと思ひ込まされてゐる。
そんな気がしてならない。

いまの世の中、適切な検索語さへひき出せれば、記憶してゐなくてもなんでも探し出せる。
「ググれ」ばいいのだ。
さうも云はれてゐる。
だが、そもそも知らなければ検索しやうがない。検索しやうとさへ思はないだらう。

だいぶ前にある著名人が昔のバンド仲間に会つて楽しかつた、といふやうなことを呟いたことがある。昔のバンド仲間の名字はたまたま時の閣僚のひとりと同じだつた。
それを見て、「大臣に会ふのがそんなに晴れがましいことか」とかみついた人がゐて、ちよつと話題になつた。

かみついた人は知らなかつたのかもしれない。
呟きの主が過去には超絶有名な音楽グループにゐたことを。
そして、メンバーにとある大臣と同じ名字の人がゐたことを。
と、思ふてゐたら、世の中の反応はちがつた。
知つてゐて当然。
知らなかつたら「ググれ」。
知らないから、検索しやうなんて発想が生まれないのだらう、とは思つてもみないんだらうなあ。

知らなければ、調べてみやうなんぞとは思はない。
知らないから知りたい、と思ふといふことは、少なくともとつかかりについては知つてゐる。
入り口には立つてゐる。

まあ「なんで空は青いんだらう」だとか「なんで花は咲くんだらう」だとかいふ疑問を抱いて調べるむきもあるわけだが。
「あたりまへ」といふとらへ方をすると、調べてみやうなんぞとは思はない。
さういふことだらう。

だとしてもつめ込む必要はないのではあるまいか。
それはそのとほりだ。
でも、覚えてゐると楽しいことは世の中にいくらもある。
たとへばある和歌を読むとして、その歌よりも昔の歌に造詣が深ければ、「あ、この歌はあの歌をもとに詠んだものなのだな」とわかることもある。
知らなかつたら全然わからない。
そんなものがあるだなんて思つてもみないだらう。

記憶力のよい時期といふのはかぎられてゐる。
その時につめ込むのは至極合理的なことだと思ふがな。

Thursday, 27 February 2014

ながら族ですが

このblogのエントリは大抵ポメラ100で書いてゐる。
ポメラ100は、最近お気に入りのかばんであるル・ボナーのミセスにもおさまる。
BluetoothでiPhoneやiPadの外付けキーボードにもなる。
エネループで使つてゐて、とりあへずここ二ヶ月ほど電池を交換知らずである。
ATOKがバカなことさへのぞけば、云ふことのないディヴァイスである。

いまさらこんなこと云ふのもなんだけど、機能のしぼられたものといふのはいいね。
なにしろ、短時間でblogエントリができあがる。
内容の質とかは別として。

短時間でできる所以は、気を散らさずにすむからだらう。
MacBook Airでblogエントリを書くとする。
ちよつと調べものといつてWebブラウザを立ち上げて、さて、調べものをしたのはいいものの、そのまま関係ないページまで見てしまふ。
そんなことはざらにある。
また、ちよつとTwitterのTimeLineを見てしまつたり、とかね。

ことばの意味くらゐだつたらポメラ100には辞書がついてゐる。
それで大抵はことたりる。

マルチタスクは効率を下げるといふ。
さうかなあ、と思ふ。
たとへば、あみものはテレビを見ながらの方が断然進みが速い。
といふか、単にあみものだけしてゐると、目とか耳とかがもつたいない気がする。
同時にほかのこともできるのに。
さう思つてしまふ。

こどものころから「ながら族」だしなあ。
あみものもさうだけれども、ただテレビ番組を見てゐるだけ、といふのは時間がもつたいない気がして仕方がないのだ。
同時にほかのこともできるのに。
何度も書くけれど、いつもさう思つてしまふ。

しかし、ポメラ100を使つた方がMacBook Airを使つたときよりもblogエントリを書く時間が短い、といふことを考へると、やはりマルチタスクはよくないんだらうなあ、と思はざるを得ない。

といふわけで、blogエントリにはポメラ100を使ふ。
でもテレビを見ながら編みものはやめられないなあ。

Wednesday, 26 February 2014

文字で埋める

Moleskineのポケットサイズ罫線ありの一ページは、だいたい四百字詰め原稿用紙とおなじくらゐ書ける。
すなはち四百字。
すくなくともやつがれは。

いま数へてみてわかつた。

ときには太字のペンを用ゐることもあるし、はたまた極細のペンを使ふこともあるから、必ずさうとはいへない。
よく使ふ中屋万年筆の細軟で書くと、だいたい一行二十文字前後で、一ページが二十行だから、といふ計算である。

それがどうした、とも思ふ。
最近なんとなく一ページ一内容なんだよね。
とくに意識してゐるわけではない。
書き始めて、書き終はるころにはちやうど一ページが埋まる。
そんな感じで書いてゐる。
まあ、書いてゐてあとニ三行なんてときには、無理矢理意味もなくそのニ三行を埋めたりもするけれどもね。

ノートになにか書くときは、ほとんど改行はしない。
必要だな、と思つたらする程度だ。
本来ここは段落を変へるべきだらうと思つても、なんとなくそのままつづけて書いてしまふ。
空白恐怖症といふよりは、空白がもつたいないといふケチな了見からだ。
それが一番大きい理由な気がする。
あとは、単に紙の上に文字が埋まつてゐるさまが好きだから、といふのもある。

さう考へると、一ページ一内容といふのは、空白がもつたいないと思ふ心と文字が埋まつてゐるのを好むといふ癖との合はせ技なのかもしれないな。
一内容であれば、改行は不要だ。一ページ一段落ですむ。
実はこのまへの土曜日に、「できないできないと云つてゐないでやつてみればいいぢやん」といふことで、ちよつとユビキタス・キャプチュアなるものを試してみた。
一内容で二ページ埋めてゐるものもあれば、通常運行の一ページのものもある。ほんのニ三行のこともある。
ニ三行の場合は、次の内容にうつるときに一行あける。
これが、なんとなく新鮮だつた。
ここのところページはとにかく埋めてたからなあ。それも特に意識することなく。

いままでは、ページ内で内容を変へるときにはペンを変へてきた。ペンが変はると、だいたいはインキの色が変はる。そこで内容が変はつたことが一目でわかる。
しかし、Moleskineの場合は使ふペンを選ぶし、それにユビキタス・キャプチュアとやらをする場合にはペンなんぞ選んでゐられないことも多い。とにかくその場で手にした筆記用具で書く。そんな感じだ。
さうすると、やはり内容が変はつたときには一行あけないとわかりづらいんだよね。

さういへば、いまのやうにノートを日々持ち歩くやうになつたころは、一書き込みにつきタグのやうなものをつけてゐたけつか。
いつからやめてしまつたのだらう。
またはじめることにするかなあ。
タグはつけはじめると、どんどん増殖することがある。それでやめたのかもしれない。
Moleskineのやうに使ふペンを選ぶノートには、タグをつけた方がいいかもしれないしな。

といふわけで、「なんちやつてユビキタス・キャプチュア」体験記については、またの機会に。

Tuesday, 25 February 2014

進んでゐるよなゐないよな

ケガがよくなつてきて、編み物をはじめてしまつたことは書いた。
もうあたたかくなるつていふ話なのにねえ。

では、タティングレースはどうなのか。
ちまちまと進んではゐる。
進んではゐるけれども、ちまちまとなので、あまり進んでゐる気がしない。
進んでゐる気がしない、といふことは、あまりタティングレースをしてゐる気もしない、といふことだ。
以前も書いたやうに、最近タティングをする時間が減つてゐる。

あー、なんかこー、もつとタティングしたいなあ。

したいならすればいいぢやあないか。
しごくもつともな意見である。
しかし、したくてもできない時もある。
といふか、できない時だらけだよね、実際。

まづ、寝てゐる時はできない。
現在一日六時間睡眠を心がけてゐて、心がけないと達成できない状態である。
一週間の平均で六時間以上寝てればいいことにするか、くらゐの感じだ。
ほんたうは七時間くらゐは寝たいらしいんだよなあ、身体的には。
なぜといつて、休みの日は、七時間ちよいくらゐ寝たところで目覚めることが多いからである。
もしかすると普段寝不足なのでそれを補ふために七時間を越えて寝てしまふのかもしれないとも思はないではない。
でもまあ、えうするに、睡眠不足なのだ、毎日。

といふわけで、睡眠時間は削れない。
朝起きて出かけるまでのあひだには余裕なんぞない。むしろ、もつと早く起きなければならないくらゐだ。
どこで時間をひねり出せばいいのか。
毎日、記録をつけて見てゐるけれど、なかなか余裕なんぞはない。

いま編みものに割り当ててゐる時間を、一日交代でタティングレースにするか。
それくらゐしか、思ひつかないんだよなあ。

といふわけで、こんな感じでほんとにちよつとづつしか進んでゐない。
進んでゐるだけで恩の字か。

と、写真を入れやうとしたらうまくいかぬ。
世の中ほんにままならぬ。

その後、どうやら張れさうなので張つておく。

The Twirly

Monday, 24 February 2014

冬の終はりに

ソチオリンピックも閉会式を迎へたのらしい。
「らしい」といふのは、ニュースで見ただけだからである。
開会式から閉会式まで、なにひとつ生中継は見なかつたなあ。
ロンドンオリンピックのときにはRavelryのイヴェントに参加はした。参加したので開会式と閉会式とは見た。
今回ははじめてだな、オリンピックにあはせたRavelryのイヴェントに参加しなかつたのは。

それでも、オリンピック会期中にくつ下を一足編んだし、去年のいまごろ編み始めたショールも仕上げた。
まあまあではないだらうか。

先週の日曜日に左手中指をはさみで切つてしまつた。
といふ話はすでに書いたとほりである。
現在まだ皮は完全につながつてはゐないものの、ほぼ通常通りといつていいだらう。
けがが治つてくると、とたんに編みたくなつてくる。

といふわけで、ラグラン袖のリブタートルネックセーターを編んであまつたパピーのグランメリノでショールを編みはじめたのが先週の木曜日のことである。
懲りずにメビウス編みで編んでゐる。
針はUS size 6。4mmだから、ほぼ本邦の6号針とおなじといつていい。Addi Turboの80cmの輪針に、320目、メビウス編みだから640目作つて編み始めた。

……さうか。640目か。
いや、ここに書くまで、全体の目数は意識してなかつたんだな。16目の倍数と思つて編み始めただけだから。
最初は240目にするつもりだつた。しかし、グランメリノは10cmで24目くらゐださうな。すると、240目といふことは1mくらゐといふことになる。それでは短い気がした。
そんなわけで、320目にしたわけだ。
うーん、ちよつと多すぎたかなあ。

なぜ16の倍数かといふと、端の模様が16目一模様だからである。
今回のショールは、中央はメリヤス編みだけ、端にガーター編みのレース模様を編みつけるつもりだ。
前半の320目はメリヤス編み、後半は裏メリヤス編みで編んでゐる。例によつて、前半は5段ごとに20目増やし、後半はおなじく20目減らして編んでゐる。

編み始めたはいいものの、なかなか進まない。
表目と裏目だけだからもつと早く編めるつもりでゐたんだがなあ。
どうも、80cmといふのはメビウス編みにはチト短いのかもしれない。そんな気がする。100cmはほしいかなあ。

ところで、オリンピックの競技は開会式閉会式も含め、ひとつも見なかつたと書いた。
実は、フィギュアスケートのエキシビジョンだけは夜中の中継を録画して見た。
当然、見ながらも手元はショールを編んでゐる。
表目と裏目だけだから、手元を見る必要ないからね。
フィギュアスケートを見るのは久しぶりだ。
おぼろげな記憶では、ソルトレイクシティーオリンピックくらゐから、だんだん見なくなつてゐた。
あのころ、審判同士で裏取引がある、といふ話があつたのだ。
さういへば今回もあつたね。

競技スポーツでは、審判が人間、といふところに大きな意味があると思ふ。
たとへばサッカーだ。
審判の誤審がたびたび話題にあがる。
有名なところでは、マラドーナの神の手騒動とかね。
科学雑誌Nature誌には、「オフサイドの誤審はふせげない」といふやうな記事もあつた。人間の目と脳との機能のせゐで、誤審になることがある、といふやうな内容だつたと思ふ。

でも、それも含めてサッカーなのだ。
と、おそらくサッカーを見る人は思つてゐるのに相違ない。

テニスや最近ではバレーボールなどでは、「チャレンジ」とかいふて、一試合中に二回ほど、ヴィデオ判定を求めることができるやうになつたと聞く。
野球でも似たやうなことはある。
その他のスポーツでもおなじやうな取り組みをしてゐるのだらうと思はれる。

でもさー、誤審と裏取引とは違ふよねえ。
それでも直後はちらちらと見てはゐて、バンクーバーオリンピックのちよつと前くらゐからは、ほぼ見てゐない。
そんなわけで、エキシビジョンを見ても、「いまは女子選手が男子選手を持ち上げるやうなアイスダンスのペアとかゐないのねー」とか、しみじみ見てしまつた。

見てゐて楽しかつたのでまた見始めるかな、と思つたりもするのだが。
しかし、TVを見る習慣のなくなつたいま、もう見ることはないかもしれないなあとも思ふ。
それに、民放の中継とかつて、ちよつと耐へ難いものがあるしね。

Friday, 21 February 2014

書き留めたい

以前、ユビキタス・キャプチャしやうと思つてもなかなかできないなんてなことを書いた。
ユビキタス・キャプチャは向かないのかもしれない。
そんなことも思つた。

向かないと思ふ所以は、上記のリンク先にも書いたやうにどちらかといふと長い文章を残したいと思ふからだ。
ユビキタス・キャプチャを実践したら、思ひついたときにささつと取るメモのやうな体裁になるだらう。
さもなければ、一々書き記していくのに大変な時間がかかることになる。
書いてゐる端から別のことが思ひ浮かんできて、でもそれは今別のことを書いてゐるから書き留められない。
そんなことになるのぢやあるまいか。

思ひついたらさつとメモを取る、といふのは、アイディア・マラソンをやつてゐる人には重要なことだらう。
……とか書きながら、アイディア・マラソンといふのがどういふものなのか、よく理解してはゐない。
つねにメモ帳と筆記用具を身につけて、いざといふときに書き記すやうにしないと達成できないこと、くらゐの認識でゐる。

「できない」と思ふからできないのではあるまいか。
さうも思ふ。

先日、SmythsonのPanamaを使ひ終へた。
その後継として、Moleskineの罫線ありのポケットサイズを使ひはじめた。
見ると、一ページに一内容を書き記してゐることが多い。
それも、上から下までびつしり文字で埋め尽くしてある。
なんとなく、それくらゐは書きたいのだ。
Smythsonだと罫線の幅が少し広くて、一ページでは物足りない感じがする。
Moleskineのポケットサイズだと、一内容を書ききるのにちやうどいいんだよなあ。

さうやつて書いてゐると、やはり次から次へと書きたいことが浮かんできたりして、なかなかやめられない。
ほぼすべて、くだらない内容だ。
ちよつと他言することをはばかるやうな、でもどこかに吐き出さずにはゐられないやうな、そんなことを書き連ねてゐる。
最近は、うつかりTwitterなどで思ひのたけをつぶやいてしまつたりするけれど、危険だものな。ほんとに思つてゐることをつぶやいたりしたら、どうなるかわからない。

無論、一ページを埋める時間がすぐには取れないといふこともある。
さういふときは思ひついた断片だけでも記しておくといいのかもしれない。
でもなー、さういふことは、大抵あとで見ても「?」なんだよなあ。
即ふり返らないからいけないのか。
でも、そんな大変な思ひまでして、やるやうなことなのか、ユビキタス・キャプチャつて?

あ、なんだかユビキタス・キャプチャを非難するやうな発言になつてしまつたな。
無理せずにできる人はそれでいい。
できない人はできないなりに、といふことだらう。

これからも、Moleskineをはじめ持ち歩くノートにはいろいろ長々と書き留めていくのだらうが。
でも、心のどこかに、思ひ浮かぶことを片端から書き留めてみたい、といふ、消し難い欲望があるんだよなあ。

Thursday, 20 February 2014

懲りずに通ふそのうちに

あひかはらずしつこく渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに通ふてゐる。
通ふてゐるといつて、毎日行つてゐるわけではない。
ここのところ雪が降つたりして、思はぬときに足止めをくらつたりしたので、「すきあらばヒカリエ」とばかりに、時間を見つけては行つてゐる。
そんな感じだ。

それであらためて気がついたやうなこともある。
たとへば、妓王だ。
以前書いたときは、尼姿の妓王について、「はかなげ」だとか「さまよひ歩いてゐるやう」だとか書いた。
はかなげで幸の薄さうなところはそのままである。
けれど、何度も見るうちに、髪を下ろしてやつてきた仏御前を迎へ入れるやうなやうすに見えてきたのだ。
「一緒に暮らしませう」
さう云つてゐるやうに見える。
上記リンク先にも書いてあるやうに、妓王と仏御前とは、それぞれ白拍子姿・袿姿・尼姿の三様の人形が飾られてゐる。
妓王は、白拍子姿ではショック状態にあるやうに見えるし、袿姿はどこか不満げである。
尼姿になつて、やつと、みづからを縛りつけてゐたものから解脱できたのか。
今はそんなやうに見えてゐる。

はたまた玄徳・関羽・張飛。
以前書いたときは、人形劇三国志の登場人物は呂布・貂蝉・陳宮を除いてみな呂布を見てゐる、と書いた。
許褚・郭嘉をはじめとして、曹操とその野郎ども(あっ)は、明らかに呂布を見てゐる。
玄徳一行も当然さうだらう。
当初はさう思つてゐた。
しかし、足しげく通ふうち、なんか、どうもちがふんぢやないか、といふ気がして来た。
玄徳の視線の先にゐるのは、呂布ではなくて、馬上の曹操なのではあるまいか。
さう思ふと、関羽も張飛も曹操を見てゐるやうに思へてくる。
玄徳たちには、もう終りの見えた呂布には興味がないのかもしれないな。
呂布を倒し、着々とその地位を不動のものにしつつある曹操を見つめてゐるのかもしれない。
そんな気がする。

それにしても、曹操とその野郎どもはいいなあ。
以前も書いてゐるやうに、飯田市川本喜八郎人形美術館でも、曹操の王国のケースは実に楽しい。
女つ気はまつたくないのに、とてつもなく華やかだ。
いや、華やか、といふよりは、賑やか、なのかもしれない。
これが江東になると今度は「濃いぃ」になるのだが。

その話はまたの機会に。

Wednesday, 19 February 2014

駆け込み需要

四月になると消費税率があがる。
その前に、と、まづは「人形劇三国志」のDVDを全巻揃へた。
以前から一巻または二巻づつ、ちよこちよこと買ひもとめてきたものだつた。
先日、最後の第七巻を注文し、支払も済ませた。あとは来るのを待つばかりである。
全十七巻のところ、なぜ最後に買ふのが七巻なのか、といふ話は、以前どこかで書いたやうに思ふ。
リアルタイムで見て以降、一度も見聞きしてゐない、長坂坡の趙雲の、「淑玲さまぁぁぁ、阿斗さまぁぁぁ!」といふ叫びが、脳裡からはなれない。
見返したら、あのときとおなじ叫びが聞けるのだらうか。
それが気になつて、つい、最後までとつておくことになつてしまつたのだつた。
もともとは最後は赤壁の戦ひの入つてゐる巻にしやうと思つてゐたのだけれど、そこは早々に買つてしまつた。我慢ができなかつたからである。

いづれにせよ、「人形劇三国志」はもう揃ふ。
あとはどうするか。
川本喜八郎関連でいふと、人形アニメーション作品のDVDもほしい気がしてゐるし、「平家物語」も見たい。

しかし、ここはアニメーションだらうなあ。作品集にするか、「死者の書」にするか、「冬の日」にするか……すべては買へないので、どれかひとつになるだらうなあ。作品集に李白が入つてゐたら、迷ふことなくそれ一択なんだがなあ。

実は、生活必需品の買ひ替へも考へないわけではない。
でも、なんとなくこんなものばかりを考へてしまふ。

以前、デュポンのJET8がほしい、と書いた。
いいんだよなあ。ボールペンなのにあの書きやすさ。筆圧をのせなくてもすらすらつるつる書けるあの書き味。
JET8自体の色が多過ぎるのと、黒インキと青インキとのどちらにするかを選べないといふ問題があつて、未だに購入に踏み切れてゐない。
そこではたと思ひついた。
黒インキと青インキとそれぞれ一本づつ買つたらどうか、といふことを。
無駄遣ひ? まあさうなんだけれどもさ。
でも、普段ボールペンは苦手で持ち歩かないやつがれだ。現代人としてはボールペンの一本も持つてゐるべきだらう。だつたら色違ひで一本づつ持つてゐてもいいのではあるまいか。

だ、ダメかな。
ダメかもなあ。
だいたい、四月から消費税率があがる、と書いたばかりではないか。
貴重な阿堵物を使つてしまつてどうする。

と、心は千々に乱れるのである。

Tuesday, 18 February 2014

指を怪我して

日曜日に、左手の中指をはさみで切つてしまつた。
第二関節のほぼまんなかあたり。掌側だ。
普通、5分くらゐで血は止まるといふ話で、10分くらゐはちよろちよろと出てゐた。
止まつたところで洗つて絆創膏を貼つて入浴した。

怪我をしてわかつたのは、この部分といふのはあまりものに触れることがないのだな、といふことだ。
気をつけてゐるからといふのもある。でも、どんなに気をつけてゐても、手などはいづれどこかに触れてしまふものだと思つてゐた。
起きるときにうつかり柱をつかんでしまつた、とか、ちよつと傷のあたりをものがかすめた、とか、さういふことはあるけれど、一日に二三回あるかどうかだ。

それで、治り具合はいいのか、といふと……うーん、どうなんだらう。よくわからない。
毎日絆創膏を貼りかへてはゐるものの、あまりよくなつてゐるやうすはないんだよなあ。
まあ、刃物で切つたわけだし、そんなにかんたんに傷口がくつついたりはしないか。

そんなわけで、手藝が進まない。
今日の昼は、おそるおそるタティングシャトルを手にしてみた。
シャトルの先が傷口付近にあたりさうで、ひやひやしやがらのタティングだつた。
シャトルの先は気をつければすむけれど、問題はリングをしめるときに発生した。
中指の自由がきかなくて、リングをうまくつかめないのである。
したがつて、右手で芯糸をうまく引けない。
仕方なく、リングをひとつ作つたところでタティングはあきらめてしまつた。

あみものもそんなわけでしてゐない。
グランメリノでなんか編むつもりなんだけれどなあ。
それに、ここのところ棒針編みばかりだつたので、久しぶりにかぎ針を手にしたい気もしてゐる。

しかし、なあ、怪我したあたりに針があたつたら、と思ふとなかなかふんぎれない。
それに、左手なので、糸のテンションもうまくたもてない気がする。
今日タティングをしてさう思つた。
ちやうど絆創膏の上に糸が乗つたりして、うまくいかないのである。

といふ、すべては云ひ訳で、なんだか新たなものをはじめる気がしないんだよね。
早くしないと春になつてしまふといふのに。

とりあへず、早く怪我が治りますやうに。

Monday, 17 February 2014

あたたかいもの二点

Aquaphobia Socks

Aquaphobia Socksを編み終はつた。
二目四段一模様で、一段置きにすべり目を交互に編む模様、といふ説明でご理解いただけるのかどうかわからねど、えうは、すべり目の模様である。
すなはち、裏に糸が渡る。
編み上がつてみたら、これがふかふかしてあたたかいんだねえ。
ここのところ冷えるし、編み込みのくつ下でも編むかなあ、と思つてゐた矢先だつた。
「この手があつたか!」と思つた。

ところでこの二目四段一模様で、一段置きにすべり目を交互に編む模様、をeye of partridge stitch、といふ。
partridgeといつたら、"The First Day of Christmas"だな。
クリスマスの最初の日、最愛の人がくれたのは、梨の木にとまつた一羽の山鶉、といふアレ。

もとい。

本邦だと「鳩目」とか、そんなイメージなのだらうか。eye of partridgeつて。

これまでも、踵にeye of partridge stitchを用ゐたことはあつた。
そのときによつて、模様がうまくできたり出なかつたりだつた。
なんでなんだらうとそのときは悩むのだが、すぐに忘れてしまつてゐた。
今回、すべり目の模様だからといふので、ちよつとゆるめに編んでみたらこは如何に。
あれ、なんだか、模様がきれいに出てるんだけど?
ためしに踵はいつもの要領ですこしきつめに編んでみたら、こちらは模様が浮き上がつてこない。

さ、さうであつたか。
eye of partridge stitchは、心持ちゆるめに編んだ方が、模様がきれいに浮き上がつて見えるんだな。
いまごろになつて学ぶとは……
あー、でもこれまでこの模様を踵に用ゐてきたけれど、これからは使へないなあ。
踵はきつちりきつめに編むのが好きだからだ。

あたたかいといへば、写真は撮れてゐないけれど、Vortex Shawl (Rav) も編み終はつた。
去年のいまごろ、地上波で「SHERLOCK」を放映するといふので、編みはじめたものである。
当時も書いたかな。90分コマーシャルなしの番組をなにも編まずに見続けられるのか、心配だつたのだ。
吹替と字幕と都合9時間くらゐ見て、その後エピソード2も借りて見て、18時間、か。
見終はつた後も、ちよこちよこ編んではゐて、最後、伏せ止めまできて、手が止まつてしまつた。
長い円周に、飽きてしまつたからである。
それに、だんだん暑くなつてきて、膝の上にショールが乗つてゐる状態で編み続けることが困難になつてきてしまつた。

そんなわけで、長いことはふつてあつた。
たまたま手に取つてみたら、あと少しで終りさうだつた。
それで、昨日つづきに着手した。
結局、一日かかりきりになつてしまつた。

それでも、水通しをしてかるく整形はしてみた。
毛糸はSchaeferのAnne。メリノ60%、モヘア25%、ナイロン15%、とラベルにはある。
この「モヘア」といふのがあたたかさの所以だらう。
半分に織つて、肩にかけると、ほんわかとあたたかい。
生地が重なることで層ができて、よりあたたかくなるのだと思ふ。
以前、ROWANのSCOTTISH TWEED 4PlyでPi Shawlを編んだことがある。
このときも、半分に織つて半円にして肩にかけるとあたたかかつたんだよなあ。
厚さはおなじくらゐの並太で編んだ三角ショールよりもずつとあたたかかつた。

円形のショールは最後の伏せ止めに嫌気がさしてしまひがちだ。
それにも関わらず編んでしまふのは、あたたかいものができるから、だらう。

さて、いい加減セーターを編んであまつたグランメリノをなんとかしなくてはなあ。

Friday, 14 February 2014

Men in Black

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行くと、黒服の人が三人ゐた。
Men in Black。
女の人もゐたけれど。

なんだかイヤな予感がする。
もしかして、部屋を縮小する計画でもあるのだらうか。
それはちよつとむづかしさうだから、部屋が移動するのだらうか。
あるいは、そもそも廃止されてしまふのかも?

negativeな予想ばかりが浮かんでくる。

ただ、こんな天気ではあつたけれども、その人たちがゐるせゐか、いつもは準備中のスライドショーが上映されてゐた。
時間がないのであまり見られなかつたのが残念だ。
趙雲と孫権とを見た。うーん、もうちよつとこー、写し方があるのではあるまいか。
さう思つた。
趙雲とか、実物はもつと爽やか好青年なのにー、とか。

それにしても、川本喜八郎人形ギャラリーがなくなつてしまつたら、と思ふと、それだけで世を儚みたくなつてしまふ。
願はくは中林の草たらん、とか。
もうあるのがあたりまへになつてゐるからなあ。
なるべくさう思はないやうにしてゐるんだけれどもね。
なくなつても文句は云へない。
さう考へるやうにしてゐる。
といふことは、なかなかさうは考へられないといふことだ。
なくなつてしまつたら、立ちなほれないだらうなあ。

だが、待てよ。
万が一、川本喜八郎人形ギャラリーがなくなつたりしたら、もう渋谷には行かなくてもいいつてことだよな。
そもそも、渋谷はできるだけさけてゐる街のひとつである。
ヒカリエができる前は、年に一度行くくらゐだつた。夏に、コクーン歌舞伎を見に行くときに一度。まれにPARCO劇場にも行く。そんな感じだ。
だいたい、駅から傘をささずに行ける大型書店がない、といふ時点で、渋谷は新宿・池袋に遅れを取つてゐる。昔は旭屋書店があつたけれど、なくなつて久しい。

ヒカリエといふことで云へば、東急文化会館には三省堂書店があつた。
ヒカリエにも入つてゐればいいのに。
それとも、ヒカリエに来るやうな客には本屋を必要とするほどの文化度はない、といふことなのか。
さう考へたのかもしれないなあ。

今週は、実は飯田市川本喜八郎人形美術館に行く予定もあつた。
雪で行かれなかつた。
行つてゐたら、人形アニメーション制作体験に参加できてゐたのに。

世の中、なにかとままならぬのう。

Thursday, 13 February 2014

筆記具の好み

Pen and messageの店長さんのblogを読んで、「なるほど、自分が萬年筆を使ふのは、書くときは一気呵成に書くからといふ理由もあるのだな」と思ひ至つた。

これまで何度か書いてゐるやうに、やつがれが萬年筆を使ふのは、「好きだから」といふのもあるけれど、「筆圧が低いから」といふのが大きな理由だ。
ペン先のきちんと調整された萬年筆は、まつたく筆圧をかけなくても線がかける。
そんなわけで、書いても書いても疲れがすくない。
以前、自分の住所氏名も含む年賀状の宛名書きを五十枚くらゐ一気に書いたことがあるけれど、別段手が疲れたとかいふことはなかつた。
むやみやたらと書き過ぎてしまふのは、筆圧が低いからなのか、と思つたこともある。
筆圧が高くて、すぐ疲れるやうならムダなことは書き散らしたりしないのではあるまいか。
さうも思つた。

しかし、まあ、筆圧の高い低いも個性だらう。
己の生まれ持つた特性をむりやり撓めることもあるまい。

そんなわけで今日も手持のノートにムダに文字を書き連ねたりしてゐたわけだが。

考へてみたら、書きはじめると、ほぼ手を止めることがない。
あたりまへだな、そんなことをしてゐたら、萬年筆の場合はペン先のインキが乾いてしまふ。
乾く暇のあればこそ、とにかく文字を書き連ねていく。
かういふときは不思議と文字や文言の間違ひもない。

自分ではさうして書くのがあたりまへだと思つてゐて、とくになんとも思つたことはなかつた。

でも、考へ考へ書くやうだつたら、おそらく萬年筆など使つてゐないな。
鉛筆とかシャープペンシルとかを使つてゐたのではあるまいか。
ポールペンではないのは、どうも苦手だからだ。
あ、でもデュポンのJET8はいいなあ、と思つてゐる。店頭で試し書きをして、ボールペンとは思へぬ書き心地だつた。おそらく、自重でうまく書けるやうになつてゐるのではないかと思ふ。買ふ気まんまんだが、色がたくさんあつて選べないといふ罠にはまつてゐるところだ。

もとい。

昔の小説家なんかはどうしてゐたんだらう。
悩み悩み書くやうな人は、やはり鉛筆を使つてゐたのだらうか。
でも自筆原稿とか、結構みんな萬年筆だよなあ。
しよつ中キャップをとつたりつけたりしながら書いてゐたのだらうか。
さういふ人もゐたのかもしれない。

ところで、萬年筆を愛用する所以は、書くときは一気呵成に書くから、と書いたが。
実は、萬年筆を使ひたいから一気に書くのではないか。
そんな気もする。
つまり、愛用の筆記用具に書き癖(といふのかね)が身に付いたのではあるまいか。
そんな気もしないではない。

そんなに萬年筆を使ひたいか。
使ひたいねえ。

Wednesday, 12 February 2014

遠きに在りて身近な人々

世説新語」を読んでゐる。
去年のいまごろまでは、読まうなんぞと思つたことはなかつた。
去年、東京国立博物館の書聖王羲之といふ展示を見に行つた。
ご時世がご時世なので、中国から書を借りてくるわけにはいかなかつたのらしい。
一番最初に飾られてゐたのが、「世説新語(展覧会では「世説新書」になつてゐた)」の最古の写本だつた。
「世説新語」には、王羲之やその近親者、あるいはまちつと遠い先祖や親戚がたくさん出てくる。
展覧会では、王羲之の伯父は酔ふと魏武の詩を口にするのが常であつた、なんぞといふ逸話が紹介されてゐた。
魏武、すなはち曹操である。
王羲之の伯父の愛唱してゐたのは、「老驥伏櫪志有千里烈士暮年壮心不已」だといふ。

ほかにも、展示されてゐた部分を読むに、曹操と楊脩との確執だとか、「本初」とあるからきつと袁紹の話なんかも書かれてゐるやうだつた。

そのときはそれで終はつた。

だいたい、「世説新語」といつても、原文を載せてゐる本はなかなかなささうだつた。
明治書院の新釈漢文体系にならあるかな。
そのていどだつた。

それに、比べるのはをかしいかもしれないけれど、「世説新語」より「資治通鑑」の方が読みたかつたしな。
こどものころ愛用してゐたことはざ故事来歴事典には、よく「資治通鑑」からの引用といふ記述があつた。「しじつがん」と読むこともその時に知つた。
このblogでも、200エントリ目のときに、資治通鑑の巻第二百のことを書いてゐる。
武則天の、例のアレだ。
「手足を断ち酒瓶の中に捉ふ」つて、アレ。

さういへば、去年の夏から休みの日、一杯やりつつ「史記」を読むのを楽しみにしてゐる。
最初に買つたのは明治書院の新釈漢文体系の「本紀 下」だ。
とりあへず、項羽本紀を読んでみやうと思つたのだ。
この巻は項羽本紀にはじまつて、孝武本紀まで。
これを読み終はつたので、次に世家の下巻を読んだ。これが孔子世家から三王世家まで。
これも読み終はつたので、現在列伝の三巻を読んでゐる。
武則天で思ひ出したのだが、最近列伝を読んでゐて、あらためて「呂后、怖ぇぇぇー」と思ふことがあつた。
いや、そんなこと、読まなくてもわかつてゐるんだけれども、でもやつぱり怖いよねえ。
呂后本紀で読むより、列伝のあちらこちらにちりばめられてゐる話の方がより怖さを覚える。
劉邦についても、その、なんといふか、困つたちやんなところは、本紀を読むよりも列伝を読んだ方がわかりやすいやうに思ふ。
おもしろいなあ。

「世説新語」に話を戻すと、読んでゐるうちに、出てくる人出てくる人、みんな知り合ひのやうな気分になつてくる。
基本的に短い逸話がたくさん集められてゐて、おなじ人が何度も何度も出てくる。
そのせゐか、段々馴染みになつていくやうな気がするんだなあ。
正直云ふと、職場で会ふ大半の人よりも、謝安だとか桓温といつた人物の方が身近な存在に感じられる。
まあそれはやつがれの不明の故なのかもしれないけれど、つまり、それくらゐ登場人物の為人がよく描かれてゐる、とも云へる。

それが平凡社の東洋文庫といふちやうどよい大きさの判型で出版されるなんて、いい時代になつたものだなあ。

Tuesday, 11 February 2014

シャトル探して日が暮れて

Should I Go on with this

ここのところJon YusoffデザインのThe Swirlyといふモチーフの話ばかりしてゐる。
このモチーフは、Airlit Shuttleをふたつ使つて作つてゐる。
Airlit Shuttleを使ふ理由はふたつある。
ひとつはボビン使用だから。
もうひとつは軽いから。

ボビン使用のシャトルが好きなことについては何度も書いてゐる。
とにかく糸の巻き付け巻き取りが楽。
これに尽きる。
ただ、Airlit Shuttleのボビンは滑りやすいのが難だな。
Aeroのボビンシャトルは、ボビンが適度にざらついてゐる。したがつて、糸を巻き付けやすい。
ちよつとしたことだけれども、かなり使ひ勝手が異なる。
これさへなければ、Airlitの方が使ひやすいんだけれどね。

あと、ボビン使用のシャトルの場合は、追加のボビンに糸を巻いておけば予備になるといふのもいい。
さうでないとシャトルに巻いておくやうだものね。

軽さは、普段はあまり重要視しない。
なぜといつて、やつがれ愛用のシャトルはGR-8 Shuttleだからだ。
GR-8 Shuttleは木製だつたりレジン製だつたりさまざまだ。シャトル本体とボビンとはさほど重たくない。むしろ軽いくらゐだ。
問題は、ねぢ、だな。
金属の部分が重たいのである。
とはいへ、タティングに使ふてゐる分には気になるほどの重さではないと思つてゐる。
ただ、二つ使ふするときには違ふ。
二つ使ふときは、手にしてゐない方のシャトルはできるだけ机の上などに置くやうにする。
でも、スプリットリングのときなんかは、左手の手の甲側に回したりする。
このときに、軽い方がいいんだな。

そんなわけで、ここ数ヶ月ほど、Airlit Shuttleばかり使つてゐた。
ふと、ほかのシャトルはどうしたらうと思つて、タティング用品の整理などしてみた。
そこで出てきたのが上の写真の作りかけのなんだかわからないものとシャトル二つである。

もともとは、GR-8 Shuttleで作つてゐて、糸がなくなつたところであらかじめ用意してあつたDavid Reed Smithのシャトルに持ち替へたものだ。
David Reed Smithのシャトルについても何度か書いてゐると思ふ。このシャトルは、普通のクロバーのシャトルより小さい。そのわりに糸はたくさん巻ける気がする。2 inchでbrass spike pewterといふオプションをつけた。木はpurpleheart。あとおなじサイズおなじオプションでbirds-eye mapleのシャトルを持つてゐる。

「なんだかわからないもの」と書いたけれど、一応、七宝模様といふことはわかる。
多分、なにか大きいものを作るつもりだつたんだな。
それで、藤戸禎子の「タッチングレース」に出てゐる七宝模様の替襟をもとに、ちよつとサイズを変へて作つてみた、といふところだと思ふ。

取り出して見てみたら、あとリング二つにチェイン二つくらゐで一模様終はる、といふところだつた。
手に取つてみてわかつたけれど、これ、あんまりにもよれよれな出来だから途中ではふりだしたんだよな。多分。
できるだけ丁寧に作らうとした痕跡もないわけぢやあないが、それが出来に反映されなくちや、ねえ。
でもまあ、あとちよつとなので、写真を撮つたあと、とりあへず一模様終はらせてみた。
七宝模様、好きなんだよねえ。
糸の色もいいしねえ。おそらくLisbeth #40のboysenberryだと思ふ。
整形すればなんとかなるか知らん。

モチーフをつなげるよりは、七宝模様のやうな延々と続けられるものの方が、自分にはむいてゐるんだよね。
最初はつなげずに作るので、ここまではなかつたことにして、心機一転作りなほしてみるかなあ。
ここまでは整形してみて、ごまかせさうだつたら使ふことにする、とかさ。
あるいは糸が足りなくなりさうだつたら使ふ、とか。

それよりも、The Swirlyに時間を割いた方がいいか知らん。

Monday, 10 February 2014

編みたいときに編みたいものを編みたい

Aquaphobia Socks in progress

冬季オリンピックがはじまつた。
いまのところ、まつたく見てゐない。
開会式はもちろん、競技のいづれも、たまにニュースで見るくらゐである。

そんな中、チト気になる話題がある。
スノーボード男子スロープスタイルで、スタート地点であみものをしてゐる人がゐた、といふ話である。
「へー、粋なことする人ゐるぢやん」と思つてゐたら、世間の見方はさうではなかつた。
リンク先の題名も「視聴者から戸惑いの声」とある。
「願掛け」らしいと知つて、「あーすつきりした」だとか「謎が解けた!」だとか呟いてゐる人もゐる。

なんか理由がなかつたら、編物をしちやいけないんですかね。
オリンピックの競技場で、選手ではない人が、手持ち無沙汰かなんか知らねどあみものをしてゐる。
それのなにが不思議なのか。
まつたくもつて理解できない。

と、云ひきりたいところだが、「ああ、ねえ」と思はないでもない。

やつがれは自身を「編み物もの」だと思つてゐる。
その「編み物もの」のやつがれでも、Elizabeth ZimmermannだとかYarn Harlot aka Stephanie Pearl-MacPheeだとかは、ちよつとextremeだよな、と、辟易する向きもある。

たとへば、Stephanie Pearl-MacPheeは自著All Wound Upで、病院の待合室であみものをしてゐるときのことを書いてゐる。

カナダでも本邦とおなじやうに病院では予約をしたものの延々と待たされるのらしい。
当然のやうにあみものをしてゐると、やたらそはそはと落ち着かない客の姿が目に端にうつる。
はふつておかうと思ふが、その客がこれ見よがしにため息をつくのを見て、話しかける。
しばらく会話を交はし、自然とあみものの話になり、客は云ふのだ。
「わたしにも編物をする時間があつたらねえ」

ここで、著者は激しく反応する。
もちろん、相手に直接云つたりはしない。
しかし、本の中では、「だつてあなたとわたしと、かうして待たされてゐる時間はおなじでせう。そのわたしが編み物をしてゐるのに、あなたに時間がないつて、どういふこと?」と、大変な勢ひである。
それも、手を尽し品を替へ、数ページにわたつて書き綴つてゐる。

さすがにそのしつこさには「ちよつとね」と思はざるを得ない。
でもそのしつこさつて多分、みづからを、すなはち編み物ものを、世の中の少数派だと思つてゐるからなんだよね。

少数派といふのは、過敏なものである。
たとへば、旧かな旧漢字派然り、かな入力者然り。
つて、どちらもやづかれ自身のことだ。
少数派は、自分たちにはもう後がないことを知つてゐる。
この先多数派になることなく、先細りになるばかりかもしれないといふ危惧を抱いてゐる。
ゆゑに、「いまどき旧かな旧漢字だなんて、なあ」だとか「かな入力なんてもうすぐになくなるよ」といふ、多数派の多分に悪意なき心ないことばに、必要以上に反応するのである。

それがわかつてゐるので、もう長いこと旧かな旧漢字のことやかな入力についてあれこれ見聞きしても、「わかつてないねえ」と思ふだけにとどめてゐる。
好きで少数派なわけではない。
しかし、少数派とはさうしたものなのだ。
わかつてゐる。もう長いことさうだから。

さうして生きてきたつもりだつたのだがなあ。
今回の五輪競技会場でのあみものについての世の受け取り方に対しては、過剰なほどに反応してしまふ。
やめやうと思つてもやめられない。
編みたいときに編みたいものを編んでなにが悪い。

くどいほど書いてゐる話に、Knitter's Magazineに連載されてゐたコラムのことがある。
書いてゐたのはPerri Klass。連載はTwo Sweaters for My Fatherといふ本にまとめられてゐる。
Perri Klassは、こどもの学芸会を見に行つていつも「いま編めたらなあ」と思ふ、と書いてゐる。あるいはクラシックの演奏会で。編めたらいいのになあ(もちろん実際に編んだりはしないけれど)、と。
読んで、わかるなあと思つたのだ。
Stephanie Pearl-MacPheeも、著書の中で「いつもはメタリックの針を使ふけれど、映画を見に行くときは竹や木の針を使ふ。音がしないから」と書いてゐる。すなはち、映画を見ながらも編む、といふことだ。

わかるなあ。
やつがれもまた、芝居を見ながら編みものできたらなあ、と、つねづね思つてゐるからだ。
でもそれはやつてはいけない。
だつて周りの人に迷惑でせう。
かつての歌舞伎座の二階桟敷だつたら、ありだつたかな、とも思ふ。
いまの歌舞伎座の二階桟敷ではムリだなあ、多分。

さう思つてゐた。
つい昨日までは。

昨日、オリンピックでのフィンランド選手団の人のあみものに関する世間の見方を目の当たりにするにつけ、「これは、もう、歌舞伎を見ながら編むしかないのでは!」と思ひつめるまでに至つてゐる。

つまり、これでもやつがれは普段、「編まない人」に対して気を遣つてゐるつもりでゐたんだな。
編まない人にはわからないだらうから、妙なところでは編まない。
本邦では電車の中で編んではいけないことになつてゐるから編まない(海外の人からは「なんで?」とよく訊かれる。「いいんぢやない、空いてるんなら」とも。しかし、本邦では空いてゐても電車の中で編んではいけないのである)。
こちらが気を遣つてゐるのに、なんでそつちはそんなに無神経なのか。

さうなのだ。
少数派が過剰に反応する所以のひとつもそれなのである。
こちらは自分が少数派だとわかつてゐるから普段から肩身の狭い思ひをして暮らしてゐる。なのに、なぜ多数派はそこに気がついてくれないのか。
そんなの当然だ。
多数派だから気がつかないのである。
多数派は肩身の狭い思ひなんかしないし、世間に対して遠慮したりしない。する必要がない。
それがわかつてゐるから、いつも「まあ仕方がない」と肩をすくめるだけですませてきたのに。

落ち着け、ヲレ。

一方、昨日は「サザエさん」でも編み物を取り扱つてゐた。
サザエさんに編物の神が降臨して、あれこれ編みまくる、といふ話である。
「サザエさん」なので、毛糸は着古したセーターをほどいたものだつたりする。
冒頭で、かせに両手をくぐらせたフネさんと毛糸だまを作るサザエさんが出てきたりするところが、もう念入りに「サザエさん」である。
しかし、この回のすごいところはそこではない。
なんと、サザエさんの手の動きがわかるのである。
「あ、裏メリヤス編みだな」とはつきりと認識できる。
すごい。「サザエさん」、すごい。

アニメであみものといふと「魔法使いサリー」のサリーちやんのママを思ひ出す。
あの、編み目も編み地も無視した手の動き。

もつと広くアニメで手藝といふと、「フランダースの犬」を思ひ出す。
ネロの近所に住まふをばさんがボビンレースをしてゐる場面がある。
手の動きや道具はあきらかにボビンレースだ。あの時代にあれだけ完璧にボビンレースの手の動きを再現してゐたのは素晴らしいことだと思ふ。
ああ、だが、しかし、その図案とでも呼ぶべきものが、ボビンレースのそれではないのである。
どこからどう見ても、刺繍の図案、それも多分にクロススティッチの図案なのだ。
あのをばさんの手の動きから、そんな模様は作れない。
なんでそんな、つまらないところで手を抜くかなあ。

そこから考へると、隔世の感があるなあ、あのサザエさんの手の動き。

世の中は変はつてゐる。
シドニーオリンピックのときに揶揄された日本選手団の開会式の衣装と似たやうな色模様の衣装を、ソチオリンピックの開会式ではほかの国の選手団が着てゐたと聞く。
生きてゐるあひだはムリでも、そのうちそこらへんで編物をしてゐてもヘンだと思はれない日がやつてくるかもしれない。

……さう思へないから、過剰に反応するんだけどね。

あ、写真はここのところ編んでゐたくつ下の進捗具合である。
ここ二年ほど、平日に編める時間は45分くらゐだ。
それでもなんとか片方できあがつた。
すかさずもう片方を編みはじめるのが、くつ下完成の秘訣である。

Friday, 07 February 2014

五年目

中屋万年筆 ピッコロモデル十角軸碧溜細軟

四年前の今日、中屋万年筆のピッコロモデル十角軸碧溜細軟を買つた。のらしい。
碧溜などはだんだん漆がすけてきて、下の碧の色があらはれてくる、ときいてゐたのだけれども、やつがれの手元にあるペンは、買つてきたときのままのやうに見受けられる。
ちなみに上の写真は買つてきて即撮つた写真だ。
これとなんら変はつたやうすは見えないんだよなあ。
毎日のやうに使つてゐるのに。
これはやはり後生大事に写真の袋の中に入れてゐるのがいけないのだらうか。
いけないのだらう。
使つてゐないときは基本的にこの袋に入れてゐるんだよなあ。
なぜといつて、くるくると紐をほどいてペンを取り出すやうすが、御殿女中が懐剣を取り出すときのやうすに似てゐるからだ。
「伽羅先代萩」で、八汐が千松を刺したとき、沖の井と松嶋とが、懐から懐剣を入れた袋を取り出して、紐をくるくるとほどく、あの様か好きなんだよねえ。

袋に入れてゐるのがいかんやうだ、と、遅まきながら気がついたのが去年くらゐで、それから日々なるべく袋から出しておくやうにはしてゐる。しかしあまり効果はないやうだ。

まあ、書きやすいから、いいか。

さう、書きやすいのである。
十月に見てもらふまではチト書きづらい状態になつてゐた、とは書いた。
しかし、それ以降は見違へるやうに書きやすい。
見てもらふ前だつて、このペンが一番自分らしい字が書ける気がしてゐた。
今もしてゐる。

色の方は、ほかの方々のやうすなどを聞くと、かなり時間がかかるもののやうなので、気長に待つことにしたい。
このペンを買ふときにペン先は細軟と中軟と悩んで、細軟にした。
その中軟のペンも、去年手に入れてしまつた。
もう買はないぞ、と、心に誓ひつつも、自分を信じられずにゐる。

Thursday, 06 February 2014

iPad miniで文字を入力する

iPad miniで文字を入力するときは、7 notesを使ふことが多い。
タッチペンにはsu-penを使ふてゐる。やつがれのは初代だけれど、十分な感じ。よく書ける。

iPad miniは、ソフトキーボードを使ふには小さい。やつがれは手が小さいので、それでも打てる方かとは思ふ。でもまあ、あまり使ふ気にはならないな。iPadだとソフトキーボードで十分なんだけれどもねえ。
ポメラDM100をBluetoothでつないで使ふこともないわけぢやない。でもこれだとローマ字入力をしないといけないんだよね。
せつかくボメラで打ちやすいのに、ローマ字入力だなんて、めんどくさすぎる。
そんなわけで、これもあまり使はない。

といふわけで、畢竟7 notesといふことに相成る。
初代iPadでも使つてゐる。ゆゑに使ひ勝手はわかつてゐる。
7 notesは、おそらくは文書作成アプリケーションだ。
その証拠に、書式がいくつか用意されてゐて、最初に入力をはじめる際にどれかを選ぶやうになつてゐる。
書式と書いたのは、段組みとして1カラム、2カラム、3カラムの文書をそれぞれ選ぶやうになつてゐるからだ。
また、写真などを貼りつけることも可能になつてゐる。

しかし、もつたいないことに、やつがれはさういふ使ひ方はしてゐない。
もつぱら1カラム文書で、ひたすら文字を入力する。
それも、手書き文字を変換といふモードだけを使つてゐる。
7 notesでは、手書き文字を変換、手書き文字そのまま、キーボード入力の三つの入力方式を選ぶことができる。
手書き文字をそのまま入力する方式の場合、あとから手書き文字をフォントに変換することもできる。
このあたり、Palm Pilot の J-OSを彷彿とさせるところがあるんだよね。
そんなところも7 notesを好んで使ふ理由のひとつだつたりする。
まあ、ほとんど使はない機能ではあるのだが。

いはゆる「旧かな」を用ゐる人間にも、7 notesはおすすめだ。
手で書いたとほりの文字を表示してくれるからである。
普段は「用ゐる」を入力するときには、「もちいる」と打つてから二文字削除して、あらためて「ゐる」と入力してゐる。
これが「用ゐる」と書くだけで、そのとほりに表示されるのである。
ストレスフリーだよなあ。

手書き文字認識も、当初からすばらしくはあつたけれど、すこしづつ進化してゐるやうに思はれる。
たとへば、先日も呟いたけれど、さんずいのくづし文字を認識してくれるのだ。
手で書いてゐると、どうしてもくづし文字になつてしまふことがある。
それを7 notesはちやんと認めてくれる。
ぢやあごんべんのくづし文字はどうだらうと思つたら、こちらは少しむづかしいらしい。さんずいのくづし文字とごんべんのくづし文字はかなり近い形で、人や場合によつてはほとんど変はらない場合もある。
これも、ごんべんのくづし文字をきつちり書けば7 notesはきちんと判断してくれるのだが、くづし文字をきちんと書く人間がどれくらゐゐるだらうかと考へると微妙である。
あー、でも、去年王羲之展に行つたときに、「草書は時間がかかるから別の書体で書きました」とか云ふてゐる人が過去にはゐた、とか書いてあつたな。王羲之クラスになるとさういふものなのかもしれない。

もとい。

手書きだとそんなに早くは入力できない。7 notesが文字を認識して変換する時間もある。
それでも7 notesを使つてしまふのは、使つてゐて気持ちいいからだらう。
それには入力ディヴァイスであるところのsu-penの存在も大きい。
ちなみにひらがなを書くと、ちやんと漢字に変換した候補も表示してくれるところもいいぞ、7 notes。

Wednesday, 05 February 2014

なんの本を読んでゐるんですか?

先日、髪の毛を切りに行つた。
とくに担当など決めてゐない美容院で、その日もはじめての美容師さんが髪を切つてくれた。
担当をきめてゐないやうなところなので、普段は美容師さんとの会話もほとんどない。
その日はちがつた。

「さつき、なんの本を読んでゐたんですか」

その美容師さんは、さう訊いてきた。
順番待ちするあひだ、やつがれは持つてきた本を読んでゐた。
それを訊かれたのである。

とつさに、なんと答へたものか、わからなかつた。

「「韓非子」です。」

正直にさう答へたものかどうか。
答へたとして、そのあとの会話をどうつづければよいのか。
頭の中がエマージェンシー・イエローに点滅する。

「ええつと」などと口ごもつてゐると、美容師さんが「小説ですか」とかさねて訊いてくれたので、「はい」とか答へてしまつた。

それでよかつたのだらうか。
いまになつても、時折さう考へたりする。

「韓非子」です、と答へなかつた理由はいろいろある。
上にも書いたとほり、さう答へたとして、そのあとの会話をどうつづけていいのやらわからない。
もちろん、美容院での会話なので、そこで断ち切つてしまつてもいい。
だから、すなほに「「韓非子」です」と答へて、なんの問題もない。
問題があるとしたら、それは、「「韓非子」を読むやうな人間だと思はれたくない」といふもうひとつの理由の方だ。

いつたい、世の中に「私は「韓非子」を読む(やうな)人間です」と公言してはばからないやうな人間がゐるだらうか。
……ゐるのかもしれない。
世の中は広いからな。
中国文学の学者や学生ならそれでもいいだらう。
いや、もしかすると、中国文学の学者や学生はまた別の意味で「「韓非子」を読む(やうな)人間」と思はれたら困ると思ふかもしれない。
そんなの、もうとつくの昔に読んでゐてあたりまへ、いまさら読んでるなんて、主たる研究の種でもないのに、はづかしい。
さう思ふこともあるだらう。

なぜ「韓非子」を読むやうな人間だと思はれたくないのか。
それに答へることはむづかしい。
ぢやあなんだつたら正直に答へられたらうか。
「論語」? 「老子」? 「孫子」? 「史記」?
ああ、「史記」ならいいかもしれないな。列伝とか。ちよつと小説つぽいところもあるし。
「史記」だつたら、昔の中国の歴史の話ですよ、くらゐで会話として成り立ちさうだし。

つまり、小説とか随筆とかまんがとかならいいけれど、それ以外のものを読むやうな人間だと思はれたくない。
なんかよくわかんないけどむづかしさうな本を読む人だと思はれたくない。
さういふことだらう。

なぜむづかしい本を読む人だと思はれたくないのか。
それは、なんだかエラそーだからである。
実のところ、「韓非子」はそんなにむづかしい本ではない。と、思ふ。
なんたつて、やつがれの認識では「韓非子」は矛盾で待ち呆けだ。さう、「ある日せつせと野良稼ぎ」のあの待ち呆けである。

そして、以前も書いたが、やつがれは「エラそー」をもつてなつてゐる。
そのときも書いたやうに、「偉い人の反対はエラそーな人」と、「ケロロ軍曹」のエンディングにもあるとほりだ。
偉くないのである。
偉くないからエラそーなのだ。
それはそれで上等ぢやあないかと思つてゐる。

でも、なにも無用にエラそーな感じを醸し出さなくてもいいやな。

さうも思ふのだ。

そんなこといつて、ここのblogだとかTwitterだとかでは、「「韓非子」読んでます」つて公表してるぢやん。
さういふ向きもあらう。

それはいいのである。
なぜいいといつて、Netの向かうにゐる人は、ほぼ知らない人で今後会ふこともない人か、少数のよく知つてゐる人だからだ。

めんどくさい?
そのとほりだよね。
この過剰な自意識をどうにかすればいいのに、と我ながら思ふよ。

Tuesday, 04 February 2014

指示にしたがふてみる

そんなわけで、ちやんと指示にしたがつてThe Swirlyを作つてみた。

The Swirly

間違へて作つてゐたものよりチェイン部分が長くなつて、より「swirly」つぽさが出てゐるやうに思ふ。
気のせゐだらうか。

既存のパターンにちよいと手を加へる、といふことはよくあることかとは思ふ。
でも、おそらく、そんなことする前に原型を作つた人はあれこれ考へてゐると思ふのだ。
その結果、この目の数、このピコの数になつてゐる。
さういふものなのではあるまいか。

少なくとも、The Swirlyはさうなつてゐる。
そんな気がする。

さて、それでこれをどうするか、だ。
このまへのやうに、ひたすらつなぎつづけるのか。
おそらくさうなるだらう。
このモチーフは、なんだか作つても作つてもあきない。
といつて、前回は21個ほどしかつなげてゐないけれども。
そのまへに、年賀状に貼るために三つくらゐ作つたことがあるくらゐかな。

ま、それにはまちつと丁寧に作らないと、だな。

Monday, 03 February 2014

その後のラグラン袖のリブタートルセーター

先日も書いたとほり、ラグラン袖のリブタートルネックセーターをやつと編み上げた。

ラグラン袖のリブタートルネックセーター

もともとは、たた&たた夫さんの作品を編みたいと思つてはじめたものだつた。
この話は何度か書いてゐる。
たた&たた夫さんの作品には、デビー・ブリスのベビー・キャッシュメリノが使はれてゐる。
これも編みたいと思つた所以であつた。
この作品の発表された当時は、本邦でも手に入つたんだよなあ。
実際に買つたこともある。オカダヤで売られてゐたのを、ほんの試しに二三個だけ。
もつと買つておくのだつたなあ。

海外の毛糸屋だつたら買へないこともない。
わかつてはゐたが、そこまでする気力はなかつた。
セーターなんて、もう何年も編んでゐない。
海外から取り寄せた挙げ句、仕上がらなかつたらどうする?
そんなわけで、パピーのグランメリノを買つた。
これは、正解だつたなと思つてゐる。
なにしろ、いい黒なのだ。
編んでゐて、「今後、黒しか編まなくてもいいかも」と思ふくらゐだつた。
なんといふか、色に深みがあるのである。
黒なんてなんでも一緒だらうと、さう思ふ向きもあるかもしれない。
違ふ。
断じて違ふ。
グランメリノの黒は、実にいい色だ。

しかし、なにをいつても黒い糸、だ。
元来苦手なところにもつてきて、黒い糸で脇のとぢはぎをするなんて、ちよつと考へられない。
しかも、ラグラン袖だから、袖ぐりも長い。
作品の発表されたころから目を付けてゐて、それでも編まなかつた理由はそれだ。
黒い糸でのとぢはぎ。
無理だから。絶対無理だから。

だつたら輪に編めばいいぢやない。
さう思つたのは、つい最近のことである。
ゲージを取つて、たた&たた夫さんの編み図とにらめつこしながらさんざん計算した。
無手勝流な計算だから、ヨークの増やし目なんかはほんとにいい加減である。襟から編みはじめることにしたので、分散増目をしたわけだけれど、結局辻褄をあはせたに過ぎない。

しかし、まあ、それでもなんとか着られるものができあがるんだねえ。
輪に編んだのも正解だつたと思つてゐる。
輪に編んだことで、とぢはぎがなくなつた。
すなはち、編み上がりができあがりといふことだ。
いいぢやんいいぢやん。

編みはじめは、裾からにした方がよかつたかもしれない。
襟から編みはじめた結果、裾の伏せ止めが長くて大変だつたからだ。
最初は普通に伏せ止めすればいいや、と思つたが、実際にやつてみたらうつくしくなかつた。
これは以前も書いたか。
それで延々と二目ゴム編み止めすることになつた。
うまくできたからいいけれど、裾から編んでゐたら襟を止めることになつたはずだ。その方が楽だつたらう。
それと、襟から編みはじめたことで、袖は袖ぐり部分から編み出すことになつた。すなはち、身頃にくつついた状態で編んだといふことだ。
くるくると編み地を回して編むのに、身頃がくつついてゐるのは如何にも具合が悪い。
袖口から編みはじめて、裾から編みはじめた身頃と合体させた方が楽だつたらう。

と、いろいろ反省する点はある。
しかし、それが今後に生かされるのか、といふと、うーん、どうかなあ。
今後、着るものを編むことがあるだらうか。

輪に編むのは楽しかつたので、編み込みのセーターとか編んでもいいかな、と思つたりもしたけれど。
しばらくは、小物、かなあ。

といふわけで、くつ下を編みはじめたりしてゐる。

Aquaphobia Sock in Progress

Aquaphobia Socksといふ。
毛糸は……なんだらう。ラベルがなくなつてゐてわからない。Opalの糸であることは確かなんだけれど。
すべり目のパターンは、この糸にはあはなかつたな。色の変はるピッチが短過ぎるのだ。
わかつてゐても、「まあ、すべり目だと糸が二重にわたるからあたたからうし、いいか」といふので編みつづけてゐる。
すべり目のわりに伸縮性もいいしね。

Saturday, 01 February 2014

2014年1月の読書メーター

2014年1月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:3651ページ
ナイス数:9ナイス

都市の誕生: 古代から現代までの世界の都市文化を読む都市の誕生: 古代から現代までの世界の都市文化を読む感想
都市の記録はかうして残るのかもしれない。それ以外の地域の記録は残らないんだらうなあ。アッシュールバニパル図書館の後継者が大英博物館つて、ニネヴェ図書館つてあんな風に文書を集めてたのか、と思つたりとか。
読了日:1月7日 著者:P・D・スミス
VOICE新書 働かないって、ワクワクしない?VOICE新書 働かないって、ワクワクしない?感想
最初、読むかどうか悩んだ。スピリチュアルの棚にあつたからである。読んでみたところ、スピリチュアルの棚にあるのは間違ひだらうと思つた。世の中のいはゆる「ライフハック」の本に書かれてゐることと、そんなに違ふところがあるとは思はれない。「ライフハック」系のサイトなどで取沙汰されないのは、さうしたサイトが「働くこと」を重要視してゐるせゐだらう。 それともこの本はやはりスピリチュアルな本なのだらうか。プラス思考になれ、なんて、普通にビジネス書の棚にある本にも書いてあると思ふがなあ。
読了日:1月12日 著者:アニー・J・ゼリンスキー
図説 地震と人間の歴史 (シリーズ人と自然と地球)図説 地震と人間の歴史 (シリーズ人と自然と地球)感想
歴史家や考古学者は大地震の歴史への影響を認めたがらないといふ。関東大震災は果たしてどれくらゐその後の日本に影響を与へたのか。東日本大震災の後、我々はあの時とおなじやうな道を歩むのか。普段あまり地震の話を聞かない国や地域でもかつて大地震があつたりとか、体感できないやうな地震が起きてゐるとかいふ話もおもしろかつた。そして、いつかは大地震が来ると知りながらその地を去らずに日々過ごしていけるのは人間だけ、といふ話も。
読了日:1月14日 著者:アンドルー・ロビンソン
日曜日の歴史学日曜日の歴史学感想
隠居とか地震とか、最近読んだ本二冊と共通する話題があつておもしろい。ただ、文章はときどき妙。基本的に敬体なのに、意味もなく常体になつたりするのはまだしも、家斉が大名家に嫁いだとしか読めない文章とかあつて、ちやんと校正とかしてるのか知らんと疑問に思ふ。それにしても、人は何故大地震を忘れてしまふのか。忘れたいのかな。
読了日:1月15日 著者:山本博文
The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914感想
「わかつてゐること知られてゐることが多過ぎて、なんでかうなつたのかわからない」とあるとほり、大部である。「既知のことばかりつらねてある」といふ批判もあるやうだが、よくまとまつてゐるやうに思ふ。開戦から百年といふことで、題材を同じくする本がたくさん出てゐる。いくつか読んで、またこの本に戻つてみるかな。
読了日:1月21日 著者:ChristopherClark
中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)感想
史料から読み取られた事実が延々と書き連ねられてゐるだけなのだが、妙におもしろい。かつては中世の農民はみんな似たやうな暮らしをしてゐたと考へられてゐたが、実際にはいろんな人々がゐた、といふやうなことが書かれてゐて、そのとほりなんだらうな、と思ふ。囲ひ込みだとかワット・タイラーの乱だとかの所以もほの見えるところもよい。
読了日:1月22日 著者:F.ギース,J.ギース
四書五経入門―中国思想の形成と展開 (平凡社ライブラリー)四書五経入門―中国思想の形成と展開 (平凡社ライブラリー)感想
こどものころから「長幼の序」などといふものがなかつたら、もつと近所のをばさんだとか幼稚園や学校の先生だとかに畏怖の念を抱かなくても済むのに、とずつと思つてきた。ゆゑに儒教は忌み避けてきた。この本を読まうと思つたのは、「儒教とはさういふもの」といふのが単なる思ひ込みかもしれない、と思つたからである。この本を読むと、孔子の云はんとしてゐたと目されるところと自分が儒教だと思つてゐるところとは、大きくへだたつてゐる部分も多い。そらまあ、2500年も前の人の云ふたことだものな。とりあへず詩経は読んでみたいと思つた。
読了日:1月24日 著者:竹内照夫
妖異金瓶梅―山田風太郎傑作大全〈1〉 (広済堂文庫)妖異金瓶梅―山田風太郎傑作大全〈1〉 (広済堂文庫)感想
潘金蓮の魅力はよくわかるんだけど、その金蓮がなぜ西門慶に入れ込んでゐるのかがさつぱり理解できない。あの金蓮がそばにゐながらよその花にも心奪はれるあたりが西門慶の凄さなのかな。そして金蓮はそんな西門慶に夢中だつたのだらうか。梁山泊の面々の単純さも愛ほしい。
読了日:1月28日 著者:山田風太郎
戦争の変遷戦争の変遷感想
戦争を起こさないためにはどうすればいいのか、といふのが大きな主題である、と前書きにあつたのでそのつもりで読んでみた。どうもあまりさういふ感じはしなかつた。絶対に戦争しない、といふのはムリなんだらう。たとへ戦争といふのが「報復される覚悟をすること」なのだとしても。もともと考へてゐたといふ「On On War」といふ題名の方がよかつたかもね。
読了日:1月29日 著者:マーチン・ファン・クレフェルト

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