誰でもない自分
出かける先は劇場か映画館か、はたまたほとんどないけれど美術館かと相場はきまつてゐる。
もともと出かけるのが好きではない。
できれば家にひきこもつてゐたい。
そんな人間の出かける先は、自分が自分としては存在しない場、敢て云ふと「nobody」になれる場、である。
芝居を見てゐるときには、自分のことを主張する必要はない。
そんなことできないし、するつもりもない。
世の中には、拍手することで客であるみづからをアピールする向きもある。
あるいは入り待ち出待ちなどをして、役者に己が存在を知らしめる向きもある。
歌舞伎なら、大向かうとして自己を主張する人もゐる。
やつがれは、どうもさういふことをする気にならない。
舞台の前では、やつがれなんぞはゐないも同然だ。
舞台を見るといふよりは、TVや映画を見る感覚に近いのかもしれない。
だから、「目が合つちやつたー」と云ふ人の気持ちがわからない。
目など合はない方がいい。
舞台の上の人々に、こちらの存在など知らしめたくない。
ひとりぽつねんと客席に座つてゐる。
そして、自分とはまつたく関係のないところで展開するすばらしい舞台を役者をながめてゐればいい。
やつがれにとつて、芝居見物とはさういふものである。
美術館や博物館もさうだ。
誰でもない存在になつて、絵なり彫刻なりなんなりを眺めて廻る。
それがいい。
世の名画・名作の前には、やつがれの存在なんてどーでもいいのだ。
ゐなくてもいい。
ゐてもゐなくても関係ない。
さういふのがいい。
つまり、家でひきこもつてゐるのと、大差ない、といふことだ。
だから芝居にも行けるし、人形を見に行けるのである。
人生是オブザーバー。
上等ぢやあないか。
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