端糸を憂ふ
ここのところ、休みの日も出かけることが多かつた。
土日のうち、どちらかは出かけないことにしたい。
できれば日曜日。
さう思つてゐるのに、昨日も浅草公会堂で歌舞伎を見てきてしまつた。
ほかに行ける日で手頃な席のあいてゐる日がなかつたからだ。
出かけてばかりゐると、当然あみものは進まない。
といふわけで、現在もラグラン袖のリブタートルネックセーターのもう片方の袖を編んでゐる。
この袖が終はれば、見た目はセーターとして完成することになる。
端糸の始末がだいぶ残つてゐるけれど、どうせ家の中でしか着ないし、別にいいかな、といふ気もしてゐる。
そのうちフェルト化するだらうし。
トルコの人はくつ下を編んだら端糸はそのままにしてゐるといふ話も聞く。Anna ZilboorgがSimply Socksにそんなことを書いてゐた。
履いてゐるうちにフェルト化するから問題ない、といふのだ。
なるほどなあ。
ところが一方では「そんなことではダメ」といふ意見もある。
最近「ずる」といふ本を読んだ。
ほんもののブランド品とにせものと、どちらを身につけてゐるかで人の行動が変はる、といふのだ。
にせものを身につけてゐる(と思つてゐる)人の方がずるをする確率が高い、といふのである。
これを敷衍すると、きちんと端糸の始末をしたセーターを着てゐるときよりも、端糸をそのままにしてゐた方がずるをする確率が高くなる、といふことになる。
あるいは、編んだものの端糸の始末をきちんとしないと、したときよりもずるをする確率が高くなる。
さう云はれると、なんだかそんなやうな気もしてくる。
いま編んでゐるセーターには、端糸がたんとある。
これをひとつづつ始末していくのかぁ、と思つただけでちよつと気が遠くなるくらゐだ。
そもそも端糸の始末とか、苦手なんだよなあ。うまくめだたないやうに始末するのが骨である。
しかも、さうかうするうちに、今週はこれからあたたかくなるといふ話もある。
セーターなんかできあがつても、着る機会がないんではあるまいか。
そんなことを考へてゐるあひだに、編め、といふことか。
ちなみに、先日四本針に変へて以来、それまでよりもたくさん編めるやうにはなつてゐる。
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