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Tuesday, 31 December 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 漢末の群雄と連環の計

12月21、22日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つた話のつづきである。

黄巾の乱の後、といふか、董卓とその討伐軍の人々のケースがかなり圧巻である。
「漢末の群雄と連環の計」といふテーマのケースである。

この美術館にはじめて行つたのは4月のこと。それ以前のことは知らない。
人形劇三国志の人形展といへば、新宿高野で開催されたものに行つて、そのあとは当時ジャスコといふてゐた各地のスーパーマーケットで開かれたものに行つたくらゐだ。
すなはち、三十年近く前に会つたきりの人形がここにゐることになる。

ケースの左端奥からいくと、袁紹などはまさにその「三十年ぶり」のひとりだ。
袁紹は、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーの前回の展示のときのお気に入りでもあつた。
ヒカリエの人形劇三国志の人形は、何度も書いてゐるが人形劇に出てゐたものではない。新たに作りなほされたものである。
作りなほされた袁紹はえらく立派であつた。
衣装の色も紫はもとのとほりとはいへだいぶ華やかだつたし、黄色だつた部分はオレンジがかつてゐて、これまた華やかさを弥増しにしてゐた。
頬の赤みも「きこしめしてゐるのか?」と思ふくらゐで、それがさらにお大尽感を醸し出してゐたやうに思ふ。
今回飯田にゐる袁紹は、当然人形劇のときのままなので、衣装の黄色い部分は黄色いし、といふよりはむしろ金色といふべきかもしれないが、紫の部分はちよつと上品な感じの紫だ。
ヒカリエにゐた袁紹に比べると、地味、とはいはないが、チトおとなしい出で立ちである。
そのせゐか、なんだか妙にやうすがいいんだなあ。
なんていふんだらう、若々しい感じがする、とでもいふのかなあ。
登場したばかりのころの袁紹つて、こんな感じだつたよな。
後の優柔不断でダメダメな袁紹とはちがふ、若くてはりきつてゐて、天下取りに一番近い位置にゐた人。
今回の袁紹にはそんな趣がある。
若さゆゑに、未来がある。
そんな風に見えた。

その前にゐるのが袁術。こちらも「三十年ぶり」だ。
このたびしげしげと見たところ、袁術はわりといい男の顔立ちなのだな、と思つた。
いい男なんだけど、顔の左右のバランスがかなりくづれてゐるのでさうは見えない。
顔の左右のバランスはどの人形でもちがふのださうだけれども、袁術はとくにバランスがくづされてゐるやうに感じる。
眉とか目とか鼻とか口とか、部分的にはとてもよい形をしてゐる。
でも、左右で互ひ違ひになつてゐるせゐで、そのよさがチト影をひそめてしまつてゐる。
さういや、轅門の呂布が袁術と玄徳とに休戦をもちかける場面でも、袁術は妙にやうすがよかつたんだよな。かうして見るとそれも納得できる。

さらにその前にゐる劉璋も「三十年ぶり」仲間だ。
劉璋は本来はここには入らないのだけれども、と、人形の説明文のところにもある。そのとほりだけれども、いいんぢやないかな。
人形劇の劉璋といふと、なんともお間抜けな人、といふ印象がある。
やつがれの勝手な思ひ込みかもしれないけれど、劉璋と劉表とはなんとなく似てゐる。あ、人形劇では、ね。
なんとなく似てゐるのだけれど、劉璋はバカ殿、劉表はお人好しのお大尽、といふ相違がある。
さう思つてゐた。
けれども、目の前にゐる劉璋はどこからどう見ても立派な殿さまだ。
顔立ちもきりりとして見える。
うーん、をかしいなあ。どこで印象を受け損ねたんだらう。
劉璋は、沓もおもしろい。沓の先に龍の飾りがついてゐるのだ。多分、今回展示されてゐる人形の中では一番豪華な沓を履いてゐる。

その横にゐる李粛も「三十年ぶり」。つて一々書くのも何かね。
劉璋のとなりに李粛つてのがなんとも妙な並びではある。
人形劇の李粛は、呂布のもとに赤兎を運び、丁原を裏切つて呂布につけ、と、暗に告げるだけの人物である。その後のゴタゴタとは無縁だ。
虎賁中郎将なんだよね。近衛の隊長、みたやうな感じだらうか。
ゴタゴタとは無縁の近衛の隊長である李粛は、腕を組んでやや足を開き気味に立つてゐる。
偉さう。
董卓なんぞが出てこなければ、つつがなく勤め終へた人なのかもしれない。
そんな趣がある。

ケース後方には貂蝉がゐる。
舞の最中だらうか、ほぼ正面を向いてゐる。
実に華やかだ。
これが前回飾られてゐたのとおなじ人形だといふのだからなあ。
おなじ人形といふだけならそんなにおどろかない。
衣装も装飾品も、すべて前回とおなじなのだといふ。
いや、前回、こんなに華やかぢやなかつたけどなあ。
前回見に行つたときも「はかなげな感じ」とか書いてゐるし。
このとき、学芸員の人に「下からふりあふぐやうに見るとふんはりとやさしい表情をしてゐるんですよ」と教へてもらつた。
今回の貂蝉は位置的にも下からふりあふぐやうに見るのはちよつと無理だ。
無理だけど、華やかな佳人といつた風情は貂蝉にふさはしい。

ケース後方中央には、赤兎に乗つた董卓がゐる。
赤兎は、前回は関羽を乗せてゐた。このときは静止してゐるやうな感じで飾られてゐた。
今回、ちよつと動きがあつて、それがいい感じだ。
学芸員の方の話だと、たてがみも前回とすこし変へてゐるのだといふ。
これで乗せてゐるのが董卓でなければねえ、とは云ふてはいけないことだらうか。

しかし、その董卓がまた立派でいいんだよなあ。
以前から何度か書いてゐるけれど、人形劇三国志に出てくる董卓には、どこかだらしない印象を抱いてゐた。
ヒカリエの一番最初の展示のときにゐた作りなほされた董卓は実に立派でやうすもよくて、「やうすよく作りなほしたのか知らん」くらゐに思つてゐた。
飯田の前回の展示で董卓を見て、自分の抱いてゐた印象がまちがつてゐたのかな、と思ふやうになつた。
人形劇に出てゐた董卓も、立派に見えたからだ。
黒地にいろんな色合ひの金糸の刺繍をほどこした衣装が立派さを醸し出してゐる。
いろいろ考へたけれど、初登場当時の、知恵の輪に夢中だつたころの董卓にだらしないところがあるやうにも思ふ。
なにがだらしないつて……うーん、髭、かな。
もしかしたら、すこし離れたところから見ると、髭のだらしない感じがよく見えないのかもしれない。

といふわけで、このケースの中身についてはまた後日。

桃園の誓ひ・黄巾の乱・宮中の抗争についてはこちら

Monday, 30 December 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 桃園の誓ひ・黄巾の乱・宮中の抗争

今月の頭に、飯田市川本喜八郎人形美術館で展示替へがあつた。
うかつだつた。
展示替へは来月だと思つてゐた。
考へてみればわかることだつたのに。
前回の展示替へは六月だつたのだ。
半年周期とすれば、今月だ。
むー。

来月以降、行けるときに行かう。
さう思つてゐたけれど、来月以降、暇があるかどうかわからない。
いまだつたら行ける。
そんなわけで、十二月の三連休に急遽飯田に行くことにした。

今回も、人形劇は「人形劇三国志」の人形ばかりである。
人形アニメーションは複数の作品から人形が集められてゐる。

展示室に入つて、最初にゐるのは玄徳・関羽・張飛の三兄弟である。
この美術館に飾られる人形劇三国志の人形は、基本的には人形劇に出てゐた面々である。
この三人はちがふ。
左隅に、「故小川英夫人所有」といふやうな説明が書かれてゐる。
人形劇三国志の脚本家だつた小川英に、川本喜八郎が送つたものらしい。
そして、おそらく、この三人は、つい先月までは渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーにゐた。
ヒカリエでは「川本プロダクション提供」とかいふやうな説明がついてゐた。
並び順もひとりひとりの恰好も、ヒカリエにゐたときとほぼ変はらない。椅子に座して手に手に杯を持つて、乾杯するやうに掲げてゐる。そんな恰好である。
背景に桃の絵が飾られてゐて、これもおなじものだと思ふ。
ヒカリエにゐたときよりも、人形と人形との間隔が広いかな。
今回おもしろいのは、奥に入ると人形劇に出てゐた三兄弟もゐる、といふことだ。
比べて見ることができる。

ヒカリエで見てゐるといつも思ふのだけれども、おなじ人間がおなじ人物をもとに人形を作つても、一体一体全然ちがふ。
作る側の、作る対象のとらへ方が変はるんだらう。
あるいは、もともとこども向けの人形劇用に作つてゐたものと、さうでないものとはおのづと作り方も変はるのかもしれない。
また、人間が作るのだから、まつたくおなじものを二体三体と作ることはできない、といふこともあらう。
そんなわけで、中には「これはヲレの玄徳ぢやない」と思ふやうな人形もゐないわけではない。
今年は「これはヲレの軍師殿ぢやない」といふやうな孔明にも出会つた。
さういへば、飯田市川本喜八郎人形美術館の入口にゐる孔明もなんかちがふなー。

展示室の入口付近にゐる三人は、人形劇に出てゐた三人にくらべて、なんとなく大人つぽい感じがする。
とくに張飛に顕著にさういふやうすが見られる。
人形劇の張飛は可愛いからなあ。
髪の毛や髭も人形劇に出てゐた張飛の方がくせがある。
顔の形も人形劇に出てゐた方がまるつぽく感じる。目なんかもさうだな。

玄徳も、人形劇に出てゐた方がなんとなく可愛い。
やつぱり人形劇に出てゐたカシラの方が顔がちよつと丸いんぢやないかなあ。
目も人形劇に出てゐた方がぱつちりした印象がある。
もつと云ふと、人形劇に出てゐた玄徳はいかにも「主人公」である。それも、こども向けの英雄譚に出てくるやうな主人公然としてゐる。
展示室の入口付近にゐる玄徳は、よくも悪くも「すつとした顔立ち」である。
いまとなつては髭のないカシラの貴重な玄徳なのかとは思ふけれども、どうにも表情に乏しい。
表情の乏しさは飾り付け次第なのかもしれないとは思ふけれども。
この玄徳の衣装は好きなんだけれどもね。ちいさな子の寝間着かなにかに使はれてゐたのではないかと思はれるやうなやはらかさうな甘い水色の生地で作られてゐる。渋谷で見てゐたころから、いいなと思つてゐた。

張飛、玄徳と比べると、関羽には文句はない。
実はヒカリエで見てゐたころは「人形劇に出てゐた関羽の方がやうすがよかつたなあ」と思つてゐた。
今回、比べて見て、展示室の入口付近にゐる関羽も悪くない、といふことがわかつた。
もしかすると、ヒカリエで見てゐたときよりも、いろいろな角度から見られるので、さう感じるのかもしれない。
ヒカリエで作りなほした関羽を見てゐると、人形劇の関羽の方が目周りがすつきりしてゐるやうな気がする。人形劇に出てゐた方が切れ長の目をしてゐる。さう思ふ。
さう思つてゐて、しかし、今回飾られてゐる人形劇の関羽はさうでもないんだよなあ。
まあ、それも、見る角度ひとつでずいぶん変はるものなんだけれどもね。

三兄弟の次のケースにも三兄弟、ただし、張角・張宝・張梁の黄巾三兄弟である。あと盧植。
ケースの位置と中にゐる人間は前回と変はらない。
ただしポーズは若干ことなつてゐる。
全体的になんとなくおとなしい感じになつてゐる気がする。
張宝なんか、前回の方が妖しい感じがしたもんな。照明の関係か、前回の方が目の下の藍隈色のアイラインがよく見えたのだ。
張梁も、前回の方がラテンな雰囲気だつた気がする。
張角だけが、動きのある恰好をしてゐる。右手の人差し指をたて、腕を掲げてゐる。左手は腰のあたりにあてられてゐる。これでぐつと腰が入つてゐたら、トラボルタだ。

盧植は、全体的に前回とさう変はらないと思ふ。
思ふのだが、前回のやうな「ダンディなをぢさま」な雰囲気に欠けるんだよなあ。
前回の展示の感想でも書いたのだけれど、盧植は人形劇では厳格な感じのする人だつた。それを考へると、今回の展示の方が人形劇で受けた印象に近いと思ふ。
でも、前回の「ダンディなをぢさま」風な盧植が好きだつたんだよなあ。
うーん、おなじ人形だし、衣装も変はらないし、なにがちがふのだらう。
ほんたうに、ちよつとした飾り付けの変更が原因なのだとは思ふ。
それでこんなに変はつちやふのかー。

次のケースには十常侍の四人がゐる。
左から趙忠・張譲・蹇碩・段珪である。
張譲以外の三人は、先月までヒカリエに作りなほした人形が飾られてゐた。
趙忠は、ヒカリエにゐた人形とあまりかはらないやうに見受けられる。衣装も含めて、似てゐる。
飯田にゐる趙忠の方が若干ユーモラスな表情かな。
ここにゐる四人のうち、蹇碩をのぞく三人は白つぽい地に朱色の模様の衣装に黒に近いやうな深緑の衣装をかさねてゐる。趙忠と段珪とはヒカリエにゐたのもそんな衣装だつた。

張譲は、四人の中ではひとりだけ顔が白い。
しかも、ガラスかアクリルで作つた目が入つてゐる。
人形劇を見てゐるときは全然気がつかなかつたなあ。
これまで見た中では、黄蓋もおなじやうな目だつた。
なんか効果があつたか知らん。あとでみなほすことにしやう。
顔が白いせゐか、はたまた特徴的な表情をしてゐるせゐか、能面のやうな顔にも見える。
見てゐて「誰かに似てゐるなあ」と思ひ、ぢつと見つめてゐるうちに、江守徹に似てゐることに気がついた。
ただし、漆原教授のときの江守徹に、だ。
やはり「お面」みたやうな顔なんだらうな、張譲は。

その背後に蹇碩が立つてゐる。
ひとりだけ赤紫色の衣装だ。これはヒカリエにゐた蹇碩もさうだつた。
人形劇に出てゐた蹇碩は、先代の河原崎権十郎によく似てゐる。少なくとも、人形劇を見てゐたときはさう思つてゐた。
飯田にゐる蹇碩はそれほどでもないなあ。真正面を向いてゐるからだらうか。流し目をするときの表情なんかは山崎屋にそつくりなんだけどなあ。

段珪はヒカリエにゐた人形よりも老けて見える。
目の下の涙袋がより強調されて見えるからか。はたまた、皮膚の感じが疲れて見えるせゐか。
段珪も、飯田にゐる方がユーモラスな感じだな。
全体的に、ヒカリエにゐる作りなほされた人形の方がより「リアル」な感じで、人形劇に出てゐた方がデフォルメがきいてゐる気がする。

十常侍の隣は何后と親族。
ここの一群は前回の展示のときにもゐた。
何后は、どこか不満のあるやうすで立つてゐる。さういふ表情に見えるんだよね。前回もそんな風に感じた。

今回いいなと思つたのは、弘農王だ。
左手を真横にあげて、ちよつと動きのある感じがよい。
人形劇に出てゐたときの、わがままでなまけものなセリフを云ふときの恰好に近い。
カシラの角度もちよつとちがふのかな。
その横にゐる陳留王は、前回とほぼ変はらない。
どこか賢しげな感じのするところもおなじだ。
前回は陳留王の方がいいなあと思つたけれど、今回は弘農王の方がいいな。

何進は、前回よりも前垂の模様がよく見えてよい。
赤い前垂には、鳳凰の模様がほどこされてゐる。
前回は袖が邪魔をしてよく見えなかつた。今回は前垂を遮るものがない。
何進のくせになまいきだぞー、とは、前回も書いた。
今回はよりさう思ふぞ。

董太后は、前回は胸に一物あるやうな感じがしたものだつた。
今回はさうでもない。
これもまた、ふしぎな感じがする。
前回とさう変はつたやうすがあるやうには見受けられないからだ。
ただ今回は「太后」といふ雰囲気はあまりないかな。
孫たちの行く末を気に止む老婆、といつた感じがする。

といふわけで、以下つづく。

Friday, 27 December 2013

今年入手した萬年筆 中屋万年筆の昇龍

現在、一番よく使ふのは中屋万年筆のペンである。
プラチナのブルーブラックを入れてゐるので、Moleskineにもほぼ問題なく使へるのがいい。
ペン先は細軟で、軸はピッコロモデルの十角碧溜だ。
もう三年は使つてゐて、まだ漆の透けてくるやうすはない。
使ひはじめたころ後生大事に袋の中にしまひこんでゐたからだらう。
最近は、即手にとれるやうに机上につねに出してゐる。

毎日のやうに使つてゐて、しかし、なんとなく調子が悪いな、と思ふこともあつた。
書いてゐてときどきインキがかすれてくる。
いつもいつもといふわけではない。
アサヒ屋紙文具店のクイル・ノートとか、GMUNDとか、インキの吸ひのよい紙やざらつとした紙に書いてゐるときにさうなる。
そんなわけで、中屋のイヴェントの日を心待ちにしてゐた。

十月に、横浜高島屋に入つてゐる伊東屋で、イヴェントがあると聞き行つてきた。
見違へるやうによくなりましたね。
いままでのあれはなんだつたんだらうといふやうな書き味に生まれ変はつた。
さう、まさに「生まれ変はつた」といふにふさはしい。
いやー、よかつたよかつた。

で、終はればよかつたのだ。
終はらなかつた。

かういふイヴェントといふのは、なぜか開店から一時間くらゐたつてからはじま
るもののやうである。
大橋堂のときもさうだつた。
イヴェント告知情報にはとくに「何時から」と書いてゐなかつたやうに思ふ。
勇んで行つたので、ほぼ高島屋の開店と同時にたどりついてしまつた。
イヴェントは十一時からといふので、それまでしばらく店内をぶらぶらしてみた。
これがいけなかつた。
中屋のペンをならべたショーケースの中に、このペンがゐた。

シガーモデルポータブルサイズの昇龍。
おそらく碧か緑なのだと思ふ。もしかすると中屋のサイトにある新溜め透かし・青なのかもしれない。
龍の絵には銀が使はれてゐるといふ話だつた。

一目惚れであつた。

Web検索をすると、赤溜とか赤溜の透かしの写真はたくさん出てくる。
そちらも大変すばらしい。
でも赤だつたら買つてないな。

世に青龍または蒼龍といふ。
上記中屋のサイトにもあるとほり、ここでいふ「青」は緑かがつてゐるものだ。
まさに、そんな色の軸であつた。

買つてから云ふのもなんだけれども、正直云つてかなり悩んだ。
こんなすばらしいものを、やつがれ風情が持つてもいいものだらうか。
世の中にはもつとこのペンにふさはしい人がゐるだらう。

さんざんさう思つて、しかし、買つてしまつた。
ペン先は、中軟にした。
この日も試し書きはしたけれど、十角軸を買つたときから次は中軟、と思つてゐた。
そのときに細軟と中軟とどちらにするか最後まで決められずにゐたからである。

軟とついてはゐるけれど、最初のうちはなんとなくかたい感じがしてゐた。
いまでもちよつとさうかな。でも入手した直後よりはやはらかくなつてきてゐる
気がする。
インキは、購入時にもらつたプラチナのブルーブラックをそのまま使つてゐる。
結局、定番の色を一番よく使ふやうになる。さう思つたからだ。

軸はとても軽い。ここのところ、軽いペンが多いな。
キャップはささずに使ふことが多い。
やつがれはどちらかといふとキャップをさして書く方が好きである。
その方が軸が長くなつて、重心がちよいと後ろになるのが書きやすいと思ふからだ。
このペンは、キャップはささずにそばにおいておいて、愛でるのがいいやうな気がする。

さう、このペンは見ても楽しいペンだ。軸のキャップにかくれてゐる部分にも絵がほどこされてゐる。
いいなあ。

ところで、中屋のペンには写真にあるやうな和風の袋がついてくる。
これがね、ちよつといいんだよね。
使ふときにくるくると紐をはづす感覚が、懐剣を取り出す武家の妻、みたやうなところがいい。
「伽羅先代萩」の御殿の場の沖の井、松島みたやうな気分になる。

これで万年筆の購入も打ち止めだなあ。
さう思つてゐたのに、カクノを買つてしまつたのは、すでに書いたとほりである。
まあ、カクノはまた別腹といふことでひとつ。

Thursday, 26 December 2013

今年入手した萬年筆 大橋堂のペン

はじめて大橋堂のペンを買つたのは、去年の九月だつた。
丸善日本橋店で買ひ求めた。
暑い日だつたやうに思ふ。
さくら通りのスターバックスで「今年最初で最後のフラペチーノ」を頼んだ記憶がある。

このとき買つたのは、おそらく中字か中細字。
その後、毎日のやうに使つてゐる。
何度か書いたやうに、インキの選択に迷つて、結局スカイハイを入れた。
この選択は間違つてゐなかつた、とこれまた書いたとほりである。

さて、この夏、大橋堂から丸善日本橋店でイヴェントを開催するといふハガキが届いた。
買ふたペンのメンテナンスもしてくれるといふ。

いそいそと出かけて行つて、つれて帰つてきたのがこのペンである。

こちらは細字だな。
軸は太いがかなり軽い。
そして、例によつて「ふわっふわ」の書き心地である。

たまんないわねー。

といふわけで、これもまた日々愛用してゐる。

インキはセーラーの青墨を入れた。
青墨はMoleskineでもにぢみにくいと聞いたからである。
どうやらそのとほりのやうだ。
だが、このペンを買つてからMoleskineを使ふことがない。
次のノートはMoleskineにするつもりである。

ふはふはとやはらかい書き心地で、それでゐてやはり最初のうちはかたかつたんだな、と最近思ふやうになつた。
買つた当初書いた字と今の字を比べてみると、なんとなくそんな感じがする。
それほど使ひこんだといふわけではなけれども、今の方が手になじんでゐる。そんな気がする。

大橋堂のペンは、縦書きをすると、実によい感じで書ける。これまたそんな気がする。
自分の字では、横書きのときの字よりも縦書きのときの字の方が好きだ。
縦書きだらうが横書きだらうが、たいして変はらない。
それはそのとほりだらう。
でも、縦書きの方が書きやすいんだよね。

そんなわけで、現在使用してゐるSmythsonの手帳も、預金通帳のやうに開いて書き込むことが多い。
職場でさうやつてゐるとあからさまになにか別のことをやつてゐるやうに見える
気がして、そのときだけは仕方ない、横書きにするけれども、可能なかぎり縦に書く。
だつてさう書きたいんだもん。

大橋堂のペンは、これで打ち止めかな。
これ以上増やしても使ひきれないしね。
太字も一本、と思はないでもないけれど、今の用途だと太字はたいして使はない。
今持つてゐる二本で、しばらくは生きていく心づもりだ。

Wednesday, 25 December 2013

今年の目標を振り返る 読書篇

三原順に「夢の中 悪夢の中」といふまんががある。

主人公の女の子は、ひとりしづかに本を読んで過ごすことが好きだ。
しかし、両親も三人の兄も、みなoutgoingで、スポーツが好きで、にぎやかで、主人公の趣味嗜好を理解できない。
主人公は、無理矢理ソフトボール部に入れられて、毎日のやうにつらくきびしい練習をすることになる。
毎日くたくたに疲れ切つて、大好きだつたはずの本を読むことさへなくなつてしまつた。
でも、主人公は云ふ。

けれども私は忘れない!
私は本当は本を読むのが
とても好きだって事を
決して忘れない!
と。

かつて、やつがれは本が好きだつた。
あるいは、「自分は本が好きだ」と信じてゐた。

こどものころ、一番うれしいお土産は本だつた。次がおもちやでその次が食べるもの。
四歳くらゐのころ、めづらしく早く帰宅した父に連れられて、本屋に行つたことが忘れられない。
覚えてゐるくらゐだから、もしかするとそんなにめづらしいことでもなかつたのかもしれない、とも思ふ。
記憶の中の父は、自分の起きてゐるころには帰つては来ないのだが。

いつのころからだつたらう。
「ほんたうは自分は本などたいして好きではないのだ」といふことに気がついたのは。
嫌ひではない。
嫌ひではないが、積極的に好きではない。
積極的に好きな人間は、「月に最低何冊は本を読まう」なんぞといふ目標は立てないはずだ。

といふわけで、今年の目標は、「月に五冊、うち一冊は洋書」だつた。
いまのところ守れてゐるのかな。洋書の方は月平均にすれば目標に達してゐる。現在読んでゐるThe Sleepwalkersがかなり手強くて、年内に読み終はらないのでは、といふ危惧はある。
八月に二冊読んだのでいいことにするかな、と思つてゐる。

洋書が読めるやうになつたのは、Kindleのおかげが大きい。
物理的な本を持ち出さなくても、iPhoneさへあれば読める、といふのがいい。

Kindleでは日本語の本も読んでみた。
読んではみて、iPhone用のアプリケーションだとなんとなくページをめくつたときの表示がもたつく気がして、すすんで読まうといふ気にはならない。
Kindleではそんなこともないのかもしれない。さう思はないでもない。
そんなわけでそのうちKindleを買つてゐるかもしれない。
あ、忘れてゐた。
Kindleを買ふのは、「陋巷に在り」のKindle版が出たら、といふことに決めてゐたのだつた。
買ふことはないかもしれないなあ。

とりあへず、The Sleepwalkersを読み終はれば、今年の目標は達成できる。
来年はどうするか。
月に洋書を一冊、はかなり限界に近い。
そしてこの目標を入れると、月に五冊も同様だ。
企業ではないので、来年の目標は今年の成果を上回るものでなければならない、といふことはない。
このままおなじ目標を持ち越すかな。

今年は「三国志演義」を含め、やたらと戦争の本ばかり読んでゐた気がする。
来年もさうするか。
あるいは、まちつと経済学関連の本でも読んでみるか。
はたまた、科学関連の本にするか。
悩むところである。
今年はいきあたりばつたりだつた。
来年も、かなあ。

とりあへず、飲みつつ「史記」を読むのはつづけるだらう。「史記」は死ぬまでにひととほり読めればいいや。
あと、「唐詩選」とか、ちやんと読みたい。

Tuesday, 24 December 2013

年の瀬の愚痴

今年ももう終はりだなあ。
最初にさう思ふころには、まだ一月くらゐ余裕がある。
気がつくと、来週の今日は大晦日だ。
いつのまに。

ちまたのクリスマスの飾りつけも、今宵を限り、なのだらうなあ。
はじめて歌舞伎を見始めたころは、十二月はたいてい今時分歌舞伎座に行つてゐた。
行きはクリスマスの飾りつけを見、帰りには和光で正月飾りへの飾り換へを見る。
そんなことが多いかつたやうに思ふ。

そして、年賀状は一枚も書けてゐない。
だいたいはがきを買つてもゐない。
先週と、状況はなんら変はるところがない。
せいぜい、タティングレースのモチーフがちよこつと進んだ、くらゐのところである。

昨日のエントリにも書いたとほり、三連休の最初の二日は飯田に行つた。
道中でモチーフ作りにいそしめばよかつた。
そのつもりでゐて、できなかつた。
情けないことである。

モチーフ作りが嫌ひといふわけではない。
タティングレースはもちろん嫌ひだなんてとんでもない。
でも、なんとなくする気にならなかつたんだよなあ。
まあ、大きな理由のひとつは「前の晩二時間半くらゐしか寝てゐないから」だつたりするんだけれど。

この時期の睡眠不足は不安の種なんだがね。
風邪の原因になるからね。

とりあへず、年賀状は最優先として、長いこと懸案の時計を提げる紐を作りたいなあ。
着手はしてゐるのである。
進んでゐないだけで。

この年末年始の休みは暦の関係で例年よりすこし長い。
これを有効活用できれば、と思つてゐるのだが、さて。

Monday, 23 December 2013

生地の再現

三連休の最初の二日、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
詳しい話はまた後日にまはすとして、ざつと書くと、人形劇三国志はわりとオールスター但し孫権以降の江東を除く、といつたところ。
人形アニメーションは花折りや鬼、道成寺に不射射、火宅に李白といつたさまざまな作品に出演した人形が並べられてゐる。
平家物語はなし。

今回はとにかく人形アニメーションの李白がすばらしくて、その周りをぐるぐる回つてひとり回り込みを実現してゐた。
もうひとり、目を奪はれたのが、水鏡先生である。
もつといふと、水鏡先生の衣装、かな。

たまたま飯田行きの前日に人形劇三国志DVDの六巻が手元にとどいた。
はからずも飯田への道中、水鏡先生初登場の場面を見ることになつた。
水鏡先生とはリアルタイム放送以来だ。変はらないわー。あたりまへだけど。
どこか先代の中村又五郎を思はせる風貌も、あの喋りかたもなにもかもなつかしい。

今回の展示には、この水鏡先生もゐる。
人形劇を見てゐたときには気付かなかつたけれど、その衣装が実にいい。
見やうによつては白にも濃い灰色にも見える。
よくよく見ると、柳の葉のやうに細く長い模様を凸凹に配置したやうな生地だ。
織りの技法によつてさういふ効果を出してゐるものかと思はれる。
多分、白または銀鼠のやうな淡い灰色の絹糸で織られてゐる。凸凹が色の濃淡になつてあらはれるのだらう。
いいなあ。人間が着ても絶対いい。渋くてそれでゐて絹の光沢が華やかだ。
まあ、もともとは人間の着てゐたものだらうけれど。

あまりにも気に入つてしまつたので、とにかく見つめてみた。
織りはわからんなあ。

だが待てよ。
これ、編みで再現できるんぢやあるまいか。
ゴム編みの変形といふか、かのこ編みの変形といふか。
そんな感じで編地に凸凹を作つたら、いいんぢやないかなあ。
しかも、絹糸で。

そんなわけで、帰りの道中は水鏡先生の衣装を再現することばかり考へてゐた。

帰宅していろいろ見てもみた。
二目一度とかけ目とのくり返しでも似たやうな効果が出る。
すくなくとも毛糸なら出るだらう。
問題は、絹糸でかけ目をすると目が大きくなつてしまふことなんだよなあ。
うーぬー。

悩むよりは実践あるのみ、かな。
この休みにでも、ためし編みをしてみるか。

ところで水鏡先生の隣には寝間着を着た孔明が立つてゐた。
もしや、水鏡先生の衣装が立派に見えたのは、隣の弟子が寝間着姿だつたからではあるまいか。
そんな気もする秋のゆふぐれ。

Friday, 20 December 2013

地動説を信じてゐたはずが

自分の力でどうにもならないことは、悩んでも仕方がない。
そのとほりである。
だから、出勤する朝、人身事故とやらで電車が止まつてゐても、悩むことはない。
さういふものなのである。
自分にできることは、事故があつても間に合ふやうな時間に家を出ること。
それくらゐだ。

と、達観するには、未だ至つてゐない。
だいぶさういふ風に考へられるやうになつてきたとは思ふ。
しかし、疲れはどうにもならない。
普段の通勤時間が下手すると一時間くらゐ伸びてしまふのだ。
朝家を出た時間はいつもとおなじなのに、職場に着く時間はいつもより遅れる。
すなはち、帰りもいつもより一時間は遅れる、といふことだ。
気疲れはもちろん、身体的な疲れは如何ともし難い。
さうすると、悪循環で気分の方も落ち込んでくる。
疲れは気から?
まあ、さうなのだらう。
そこがどうにもならないから困つてゐるのだ。

これはなにも通勤時の電車の遅延にかぎつたことではない。
自分の力ではどうにもらならないとなど、いくらでも起こりうる。
それらをさういふものとして受け流すにはどうしたらいいのか。
巷でいふ「スルー力」が足りないのか。
それはあらう。
一番大きい障碍は、「世界は自分を中心に回つてゐる」と無意識のうちに思つて
ゐること、なんだらうけどね。

世界の中心は自分でなどあり得なくて、あなたの人生の中ではあなたが主人公なのかもしれないが他人の人生の中ではあなたは脇役で、ものごとの中心にゐるよりものごとの周辺にゐた方がずつといろいろものが見えるぢやあないか。

さうも思ふ。
といふか、自分ではずつとさう思つて生きてきたつもりだ。

でも、ちがふ。
無意識層では、「世界の中心はヲレ」なのだ。
日曜の朝にプリキュアなんぞを見てゐると、「ジコチュー」とかいふのが出てくる。
なんだよ、やつがれの「ジコチュー」の足元にも及ばないぜ。
見るたびにさう思つてゐる。

ひきこもり願望が強いのは、「世界の中心はヲレ」な自分を守りたいからなんだ
らうな。
世界の中心は自分ぢやない
そして、ときにその現実を受け止めることができない。

昨日、横入りされて、そんなことを考へてゐた。

Thursday, 19 December 2013

巻物使ひ

今日は巻物を二枚使ふつもりでゐた。
寒いからである。
巻物の二枚使ひをはじめたのは、始発のバスで通つてゐるころだつた。
冬になると、日の出前に出かけなければならない。
当然、寒い。
そこで、あるとき、「こんなに寒いのだつたら、ショールとマフラーと二枚巻けばいいのだ」といふことに気がついた。
暑くなつてきたらぱつと取れるしね。
おなじころ、それまでかぶつたことのなかつた自分で編んだ帽子をかぶるやうになつた。
まあ、いやなことのなかにもいいこともある。

昨日からとみに冷えてきた。
ここのところいつも今年の最初のころ編んだメビウス編みのちいさなショールを使つてゐる。
リッチモアパーセントグラデーションを四玉使つて、いはゆるFeather and Fanの模様を分散減目と分散増目で編んだショールである。
減目と増目で、輪の片方がせばまりもう片方がひろがつてゐる。
この形が気に入つてゐて、もう何枚も編んでゐる。
以前も書いたが、このパーセントグラデーションで編んだショールが、メビウス編みのこの形の中では一番完成形に近い。やつがれの中では。

この形のいいことには、頭からかぶつたときに襟元がしまつてあたたかい、といふのがある。
ちよつとした雨とか雪なら、このショールだけでしのげる。
ほんたうはもうちよつと長さがあるともうちよつと背中を覆へるんだがなあ。
でもまあ、あたたかいのでよしとしたい。

今日はこのショールを忘れてきてしまつた。
もちろん、今日も使ふつもりでゐたのだ。

一枚目の巻物に、ローワンのキッドシルクヘイズで編んだIce Queenを選んだのが失念のもとだつた。
モヘアのあたたかさをあなどつてゐたよ。
身につけたときにあたたかくて、もう一枚羽織らうといふ気持ちがどこかへ行つてしまつたのだ。
うかつであつた。

Ice Queenをはじめて見たときに、ちやうど手元につい買つてしまつたキッドシルクヘイズと、やはりつい買つてしまつたスワロフスキーのそろばん型アレキサンドライト6mmとがあつた。
どちらもIce Queenを編むに足るだけの量があつた。
それで編み始めてしまつたんだよねえ。
モヘア好きぢやないのにねえ。

編み方ではスワロフスキーのパールビーズ6mmを使ふ、と書いてあつたやうに思ふ。
でもまあ、そろばん型でもなんの支障もない。
淡いラヴェンダーのやうな毛糸に、その時々で色の変はるビーズをちりばめてあるネックウォーマといふのは、ちよつと使ふのが気恥づかしい感じがする。
寒さにはかへられないがな。

といふわけで、はからずして今日はIce Queenだけでどこまで寒さに耐へられるのか、挑戦することになつてしまつた。

とりあへず、今朝の電車は異様に込み合つてゐた。
二枚使ひしなくてよかつた、と思つたことは内緒である。

Wednesday, 18 December 2013

今年入手した萬年筆 ナガサワオリジナル透明軸

ナガサワオリジナルの透明軸の萬年筆を、今年二本買つた、と書いた。
確認してみたら一本だつた。
よし、これで今年購入したペンの数が減つたぞ。

……なにかが違ふ気がする。

もとい。

ナガサワオリジナルの透明軸の萬年筆は、去年おなじくナガサワオリジナルのインキであるフェルメールブルーを買つたときに購入した。
爾来、フェルメールブルーを入れて使つてゐる。
おそらく中細字で、するすると書きやすい。インキフローは若干よい方向にふれてゐるやうに思ふ。悪くない。

といふわけで、またしてもナガサワオリジナルのルノワールピンクを入手したときに、「ぢやあ、このペンに入れることにするかな」といふので買つたのがこの夏のことである。

ルノワールピンクは、当初買はない予定だつた。
なぜといつて、ピンクのインキはあまり使はないからである。
パイロットの色彩雫に秋桜といふインキがある。これが実によいピンク色で、つい買つてしまつた。
しかし、あまり使つてゐない。
出番がないのである。

黒いインキを使はなくなる、とは何度も書いてゐる。
黒い色の持つ断定力が苦手だからだ。
赤いインキもあまり使はない。
赤い色の持つ拒絶感が苦手だからだ。

たとへば、三色ボールペンでも、青い色からなくなつていく。
青はよく使ふ。
もともと好きな色でもあるし、黒や赤よりニュートラルな感じがするからだ。

赤の拒絶感、といふのは、多分に学校に通つてゐた時分のテスト結果から受ける印象かと思ふ。
丸についてはあまり記憶にない。
むしろ、×をつけられたことが強烈に印象に残る。
そしてその×は赤いインキで書かれてゐる。

書道の添削もさうだ。
黒い墨で書いた字のそばに、朱色の墨で「さうぢやない」と書かれる。
「おまへはまちがつてゐる」と切り捨てられる。
赤い色にはさういふ力がある。

ピンクならいいかなあ、とも思つたけれど、どうやらさうでもないらしい。
だいたい、ピンクのインキでなにを書くといふのだ。
日記? 手紙? メモ?
まあ、まづ書かないね。
職場でもほとんど使はないだらう。

といふわけで、ルノワールピンクは見送る予定だつた。
ありがたいことに、「半分に分けませんか」と聲をかけてくださる人があつた。
秋桜のこともあるので「使はないかもなー」と思ひつつ、こんな機会も滅多にないので、受けることにした。

で、透明軸のペンに入れて使つてゐる。
案に相違して、結構使つてゐる。
主な用途は、手帳に書き込んだことへの追記だ。
おなじやうなことを何ページ目に書いてゐる、とか、ここまちがつてゐるよ、とかちよこちよこつと書き込む。
Smythsonの手帳について「この手帳はやたらとページをめくりたくなる」といふやうなことを書いたことがある。
Smythsonの手帳を使つてゐると、このペンの出番が増えるのだ。

よく使ふのは、ペンの影響もある。
とにかく、普通に使ひやすいのだ。
誤解を恐れずに書けば、「何の変哲もないペン」と云へるかもしれない。

この「何の変哲もない」といふのが案外重要なことだと思つてゐる。
「何の変哲もないペン」つてそんなにないものなのだ。
使ふこちら側が一本一本のペンに対して思ひ入れするから、といふのもその理由かもしれない。
「何の変哲もないペン」は、「使ふぞ」とか「いまから書くぞ」とかかまへなくても、さつと手にとつてさつと使へる。
自然体なのだ。

といふわけで、日々ありがたくルノワールピンクを使ふてゐる。

Tuesday, 17 December 2013

計画倒れしやすいこと

そういへば、あみものやタティングレースについては今年は目標をたててゐなかつた。

過去には「今年は毛糸は買はない」だとか「今年は毛は買はない」だとか「くつ下編みに俺はなる」だとかいふやうな目標をたてたものだつた。

まづ、「毛糸は買はない」の「ものを増やさない」系の目標はまつたく守れたことがない。
むしろ、なにも目標をたててゐない今年の方が買ふ量が大幅に減つてゐるくらゐだ。
これはおそらく、「買はない」といふ目標をたてたものの、「ま、いいか」と買つてしまつたときに、リミッタがはづれるからではないかと思はれる。
「買はないことにしてゐたけど、もう買つちやつたんだし、だつたらもつと買つてもいいよね」といふ気分になつてしまふのだ。
多分。

「くつ下編みに俺はなる」は、だいぶ以前に一度たてて、そのときは達成できなかつた。
理由は、手元にくつ下の編み方がほとんどなかつたからだと思つてゐる。
当時は今とちがつて、ネット上にいくらでもフリーパターンがあるわけではなかつた。
しかも、英文の編み方に慣れてゐないころだつた。
もつといふと、編み方イコール編み図だと思つてゐたころだつた。

次の年だつたかさらに翌年だつたか、もう一度「くつ下編みに俺はなる」といふ目標をたてて、このときは達成できた、と思ふ。
二年がかりの目標だつた。
さういふ長期間にわたる目標があつてもいい。

さて。
今年なにを完成させたかといふと、これが実にお粗末な結果になつてゐる。
ショールが二枚、指なし手袋がニ対、レッグウォーマが一足、くつ下が二足。
そんな感じである。
今編んでゐるラグラン袖のタートルネックリブセーターは年内には仕上がらないだらう。
タティングレースで作つてゐたモチーフつなぎはもう少しモチーフを足す予定だ。これもできあがらない。第一、タティングレースでは現在年賀状用のモチーフを作りためてゐるところだ。この期に及んで。

夏に、玉編み模様風のスカーフを編んでゐて時間をとられたのがきいてるんだよなあ。あれは結局まだ編みかけのままだ。
編みきるつもりはあるものの、うーん、いつのことになるやら。
残り一玉といふところまで編んだのだから、完成させたいんだがね。そこまでにかけた時間もあるし。
といふ考へ方は「サンクコスト」といふ、といふのは以前も書いたとほりだ。

あとは、テレビを見なくなつた、といふのが地味ぃに効いてゐる。
いままでは、テレビを見てゐて手持ち無沙汰なので編む、といふことが多かつた。
それが、朝のニュースくらゐしか見なくなつてしまつた。朝のニュースなんて、時計代はりにつけてゐるものだ。そのあひだに編むことはまづない。
而して、編む時間の減少である。

ぢやあテレビを見ることにすればいいぢやないか、といふのは本末転倒なのである。
だいたい見られる時間帯に見たい番組もないしねえ。

さういへば、「SHERLOCK」を見ながら編んでゐたショールがあつた。
伏せ止めに入つたところで、放置状態である。
円形のショールだから、伏せ止めに異様に時間がかかつてゐるのだつた。
そして、「SHERLOCK」は見終はつてしまつたのだつた。
だいたい地上波しか見られないから、まだSeason 1しか手元にはない。Season 2は借りて見た。
地上波でSeason 2が放映されたら、伏せ止めも進むかのう。
それはないか。

そんなわけで、来年の目標には「去年より完成作品を増やす」といふのを掲げたいところだが。
趣味のことくらゐ、目標などたてずに過ごしたいねえ。

あー、でも、タティングレースのモチーフつなぎはなんとかしたいなあ。

Monday, 16 December 2013

セーターの胴体部分ほぼ完成

ラグラン袖のタートルネックリブセーターは、胴体部分を編み終はつた。

ラグラン袖のリブタートルネックセーター in progress

あれだけ悩んでゐた伏せ止めには、結局二目ゴム編みの止め方を採用した。
最初は、編みながら伏せ止めしていく方法をとつた。
うつくしくなかつた。
仕方なく、二目ゴム編みの止め方をすることにした。
結果として、これが幸を奏した。
よかつた点は二つある。
一見、首から編み始めたのかそれとも裾からか、よくわからないやうな出来になつた。首もゴム編みの作り目ではじめたからである。
これが一点。
二目ゴム編みの止め方の方が伏せ止めよりも伸縮性のある編み地になる。
これがもう一点。

仕上がりにがつかりして伏せ止めをやめて、二目ゴム編みの止め方で止めはじめても、しばらくは悩んでゐた。
編みながら伏せ止めしていくよりも時間がかかるだらうなあ。
それに、糸端をかなり長く取らなければならない。
なにしろ、胴体一周分を止めるに足る糸の長さが必要なのだ。
実際にはじめてみて、「ひねもすだなあ」と思つた。
これはいつ胴体部分が終はるかわからないぞ。
糸端がからまないやうに気をつけるのも骨だつた。

それに、だ。
このセーターを輪に編むことにしたのは、黒い糸で脇や袖のとじはぎをする気力がなかつたからだつた。
黒い糸で二目ゴム編み止めとか、やつてること変はらないぢやん。
さうも思つた。

しかし、これは、案に相違してたいしたことはなかつた。
さんざんつま先から編みはじめるくつ下を編んできたせゐだらう。
手が二目ゴム編み止めを覚えてゐる。
たしかに、針を編み目にとほすときには目で確認する。
だが、そのあとはいはば「手で見てゐる」やうな感じでできてしまふのである。
脇のとじはぎぢやあかうはいかない。
慣れてゐないからだ。
これまでさんざん脇のとじはぎをやつてきた人なら、今回のやつがれの二目ゴム編み止めとおなじやうに、黒い糸でもとじはぎができてしまふのかもしれない。
慣れつてすごい。

二目ゴム編み止めでは、心配してゐた毛玉はできなかつたし、糸の切れるやうすもなかつたのは重畳だ。
それに、上にも書いたが、伸縮性のある編み地になつたのはよかつた。
裾がつれちやつたら、お話にならないもんね。

試着してみたところ、もうちよつと躰にぴつたりした感じでもよかつたかなあ、と思つた。
もともとさういふセーターになるはずだつた。
編んでゐる途中で「これはなんだか小さいかもしれないぞ」と思つてゐたやつがれが愚かであつた。
二目ゴム編みの伸縮性をなめてゐた。
あるいは、編んでゐる最中に手がゆるんだのかもしれない。
これも、実は編んでゐるときは、「ゲージ取つたときよりも手がきついかもしれないなあ」と思つてゐた。
どうやらさうでもなかつたのらしい。
まあ、小さくて着られないよりは、いいか。

胴体部分はできた、とは書いたが、糸端の始末がまだである。
袖部分も編みはじめてはゐない。
セーター着手から二ヶ月で、こんな感じである。
はたしてこの冬のうちにこのセーターは仕上がるのだらうか。

それは次回の講釈で。

Friday, 13 December 2013

今年入手した萬年筆 パイロットエリート95S

六月にパイロット エリート95Sを入手した。

パイロットエリート95S

とにかく、インキフローがいい。
極細・細字・中字とあるうち、細字を購入したけれども、中字といつてもとほると思ふ。
それくらゐ、いい。

ゆゑに使ひづらい。
なぜといつて、かういふちいさなペンは、ちよこちよこ細かい文字を書くときに用ゐることが多いからだ。
もつといふと、手帳などに細々と書き入れる用途を考へて購入したからだ。

インキフローがいいことがわかつたなら、用途を変へればいいのである。
それができないのはやつがれの不明である。

しかし。
たとへば、NBAを見てゐると、チームのエースが怪我で欠けると、途端に勝てなくなつたりすることがある。
そして、エースが復帰する前にヘッドコーチ(監督、ですな)が交代する。
そんなことを何度か見てきた。
監督の手持には、おそらく、エースありきのカードしかないのだらう。
苟も監督なのだから、ほかにもいろいろ策はあるのだらうが、人間の頭といふのはさうかんたんに切り替はるものではないのだ。

その一方で、ちいさいペンで太い文字を書くといふのはいいものだ、といふ気もする。
ペリカンのスーベレーンの一番ちいさいペンをM300といふ。
フルハルターでは「ヒュプシュ」と呼んでゐる。
hübschとはドイツ語で「可愛い」といふ意味だ。
この可愛いペンに、極太ペンをつけて使ふのが洒落てゐる、と、フルハルターのサイトにはある。
なるほど。さうかもしれんなあ。
どうもやつがれにはさういふ遊び心が足りない。

そんなわけで、買つたときについて来たカートリッジのうち、いまでもまだ二本目を使つてゐる。
K.ITOYA 1904でこのペンを買つたとき、黒・ブルーブラック・青のカートリッジそれぞれ一本づつと一緒にお手入れセットがついてきた、といふ話は以前書いた
最初に黒を試してた、といふ話も書いた。
何度か書いてゐるやうに、黒いインキを入れたペンは自然と使はなくなる。
エリート95Sに入れたときは、意識して使ふやうにしてゐた。
黒いインキのペンも一本くらゐは持つてゐるべきだ。
さうも思ふ。
さうも思ひつつ、しばらく使はないうちにインキがかたまりさうな気がするんだよなあ。
かういふときこそスリップシール機構のペンの出番なのかもしれない。

細字が中字になるくらゐインキフローがいいといふことは、過剰なのかもしれない。
しかし、それで困るといふことはない。
困るとしたら、もともと想定してゐた用途に使へない、といふことくらゐだ。
むしろ、インキフローが渋いよりはまし、とも考へられる。
なんとか頭を切り替へて使つていきたい。
なんといつても、こいつも「hübsch」なペンだからね。

Thursday, 12 December 2013

今年の目標達成状況

この一月にたてた今年の目標で一番重要なのは「分相応」といふことであつた。
具体的には、芝居見物の遠征は二回まで、かばんば買はない、といふ目標をたてた。
どちらも達成できなかつた。

芝居見物といふことでいへば、二回は達成できてゐる。
七月の大阪松竹座と、八月の国立文楽劇場だ。
毎年恒例南座の顔見世には今年は行かない。
やつたぢやん。

さう思つて考へてみたら、先月国立文楽劇場に行つてゐるのであつた。
嗚呼。
文楽だから数に入れるのをすつかり忘れてゐたよ。

といふわけで、今年は三回遠征してしまつた。
来年はどうだらうか。
来年はまちつと増えるかなあ。
歌右衛門襲名披露次第といふ気もする。

襲名はいづれするとして、今回はちよつと延期した方がいいんぢやあるまいか。
大方の見方はかうだらうと思つてゐる。
松竹株式会社としてはさうはいかないんだらうな。
今年度の売り上げや利益を来年度上回るには、なにか大きなことをやらかさねばならない。
株式会社といふのはさういふものである。
それは非難しても仕方がない。
だつてさういふものなんだもん。
今年度は新装歌舞伎座のこけら落しがあつたからそれで潤つてゐるのであつて、来年度はまた別。
企業はそんな風には考へないのである。
松竹ひとりの罪ではない。

歌右衛門襲名披露を公表したといふことは、内部ではすでにいろいろ動いてゐる
ことだらう。
外から見てもわからぬが、それはもう止め難いところまで来てゐるのかもしれない。
そんな風にも思ふ。

それでも敢て、福助には十分休息をしてもらつて、それから襲名でも遅くはない、と、さう思ふんだがなあ。

といふわけで、来年の遠征計画については、まちつと考へることにしやう。

あ、達成できなかつた理由、か。
それは八月に国立文楽劇場に行つたから、だな。
目標をたてるときに、「今年は七月の大阪と十二月の京都に行けば十分だな」と思つたのである。
実際、その時点ではそのとほりだつた。
状況が変はつた。
分を守るために八月の国立文楽劇場はなかつたことにするか。
あるいは、せつかくの機会だし、行くことにするか。
迷つたすゑ、後者を取つたのである。

来年の目標をたてるときには、「これで十分だな」と思つた回数より一二回増やすことにしやう。

さて、かばんである。
萬年筆も増やしてはならないし、かばんも増やしてはならない。
人生有窮拙、といつたところか。
増やしたら増やした分だけ処分すればいい。
さうも思ふ。
さう思つて実践した結果、手元には処分し難いかばんしか残つてはゐない。
だつたら増やさねばいい。

さうなんだけどさ。

今年は、ブロガーズトートを買つてしまつた。
それでもずいぶん悩んだのだ。
実をいふと、トートバッグはそれほど好きではない。
口がしまらないものが多い、といふのがその理由である。
それでもブロガーズトートを買つてしまつたのは、「右肩にかけて使ふやうにできてゐるから」だつた。
それはすでに何回か書いてゐる。

世の中のかばんといふのは、なぜか左肩にかけて使ふやうにできてゐる。
右肩にかけるとファスナーの引き手がうしろにいく。
仕方がないからかばんを裏表にして持つ。
さういふものだと思つてゐて、でも心中ずつと不満だつた。

ブロガーズトートはちがふ。
ブロガーズトートは、右肩にかけて使ふことを前提に作られてゐる。
これがね、こんなに使ひやすいものとは思はなかつたね。
快適。
左肩にかばんをかける人は、いつもこんな感じなのか。
新鮮だつた。

案じてゐたとほり、通勤電車にはときに大きすぎるやうに感じることもある。
でもまあ、これひとつ持つて出かければいい、といふ安心感信頼感は絶大だ。

来年になると、消費税率があがる。
それもあはせて考へるとやはりかばんはもうこれ以上増やせない。
増やせないんだがなあ。
来年の目標に組み入れるかどうかは、ちよつと考へやう。
「分相応」はそのまま目標として持ち越すつもりだがね。

Wednesday, 11 December 2013

今年入手した萬年筆 パイロットCocoon

今年購入した萬年筆は八本。
多分。
うちわけは、パイロットのCocoon、おなじくパイロットのエリート95S、ナガサワオリジナルの透明軸が二本、大橋堂の細字、中屋万年筆の中軟、そしてパイロットのカクノが二本である。

……数へるんぢやなかつたな。
数へるまへは、「今年は四本くらゐだつたかなぁ」と思つてゐた。
もうペンとか増やしちやいけないのよ。ほんたうよ。

買ふ都度、ここにもちよこちよこ記してきた。
主にインキはなにを入れるか、とかだけど。
そんなわけで、これまで使つてきてどうかといふ棚卸しを少々書いておかうと思ふ。

PILOT COCOON

パイロットのCocoonは、丸善のポイントカードでたまりにたまつたポイントをはじめてお買ひ物券と引き替へて入手したものだ。
なんだか忘れ難い。
細字を買つた。
インキはPen and messageオリジナルの山野草。紫色のインキである。
紫色といふと、パイロットの色彩雫にある紫式部も気になつてゐた。Cocoonを入手したときに、紫式部も一緒に買はうか、としばし悩んだ。
紫式部は山野草にくらべるとすこし明るい感じの紫である。
でも、ペンの中で熟成しちやつたら似たやうな色になるんだよなー。
しばし悩んで、結局、もともと手元にあつた山野草を入れた。

書き心地は大変よい。
カクノの感想を書いたときに、「カクノは鉛筆の延長線上にある書き味で、Cocoonは萬年筆の書き味だ」といふやうなことを書いた。
Cocoonくらゐの価格帯だと、鉛筆の延長線上の書き味、といふか、鉛筆の代はりに使ふやうなペンが多い。
あ、やつがれは、ね。
LAMYのサファリがさうだ。
透明軸の極細にヤンセンインクのシェイクスピアを入れて使つてゐる。このペンのかたい書き味はどこか鉛筆を思はせるところがある。はじめて手にしたMoleskineにはこのペンで書き込むことが多かつた。当時、Moleskineの紙はいまのやうににぢんだり裏ぬけしたりしなかつたのである。

先日ちよこつと書いたパイロットのプレラは、そこいくと「萬年筆」だ。使ふときも、「ああ、萬年筆だなあ」と思つて使つてゐる。
鉛筆つぽいかさうでないかは、どうやら書き味の硬さで決めてしまふのらしい。

Cocoonはプレラによく似てゐる気がする。プレラより萬年筆らしく感じるのは、持つたときに重たいのも理由のひとつかと思ふ。
キャップをさして書くと、重心がかなりうしろに寄るのもまた好みである。
また、その外見ゆゑもあらう。
細長い流線型のメタリックな外観は、細長い樽型のプレラよりもよりペンらしく見えるやうに思ふ。

四月に購入して以来、日々使つてゐる。
幕間にノートを取りだして書き込むときに使ふのもCocoonが多いやうに思ふ。
出先でノートを出して机のないところで書く場合、これまでは鉛筆つぽいペンを選びがちだつた。
さつと取り出せてぱつと書ける手持ちのペンがさうだつたからかもしれない。
Cocoonを手に入れてからはCocoonで書くことが多いなあ。
これつておそらく江戸時代の人が外で立つたまま巻紙を取り出して筆でさらさら書きつけるといふのと似てゐるんぢやあるまいか。
下から巻紙を押さへてゐるのはおそらく親指一本だ。それだけの支へで、筆ならさらさらと書けてしまふ。
鉛筆だとかうはいかない。
現時点では、筆に近い書き味の萬年筆が一番さういふ用途に向く。
まあ、無論、幕間に書きつけるときだつて、かばんなりなんなりを下敷きにしてはゐるのだがね。

とても気に入つてゐるので、もう一本くらゐほしいと思ふてここまできてしまつた。
先にも書いたとほり、これ以上ペンを増やしてもゐられない。
この一本を大事に使つていくかな。

Tuesday, 10 December 2013

出かけたくない

年賀状用のはがき、まだ買つてないや。
早く買はなければ、と思ひつつ、先延ばしになつてゐる。
もう来年の年賀状は出さないかもしれない。
毎年のやうにさう思ふ。

といふわけで、タティングレースのモチーフもほぼまつたくすすんではゐない。
いま三つめがやつとできあがらうとしてゐるところだ。
先日も書いたやうに、以前作つて使い道もなくはふつてあるモチーフもある。それも戦力にするとしても、圧倒的に数が足りない。

あー、こもつてタティング三昧したいなー。

逃避である。
逃避とわかつてゐつつも、さう思ふ。

だいたい外に出るのが好きではない。
小学校のころは、晴れた日はすこし長めの休み時間には校庭に出て遊ばねばならない、といふきまりがあつた。
一年生のころ、どうしても読みたい本が学級文庫にあつた。
「ちいさいモモちやん」だつたやうな気がする。
いま考へてみれば借りて帰ればよかつたのに、と思ふ。もしかしたら借りられなかつたのかもしれない。当時、学級文庫の本を借りて帰つた記憶がない。
休み時間がやつてきて、晴れてゐたにもかかはらず、やつがれはそのまま教室でその本を読んだ。
教室にはほかにも三名ほど級友がゐたやうに思ふ。
見回りの教師がやつてきて、なぜ外に出ないのか、と訊いてきた。
その後、無理矢理外に出されたのかもしれない。記憶は定かではない。
もしかすると、そのころはまだ外で遊ぶことは強制ではなかつたのかもしれない。

いづれにしても、家の中ですることの方が好きだ。
本を読むにしてもさう。あみものにしても、タティングレースにしてもさうである。
多分、唯一外出しないといけない趣味といふのは、芝居見物だ。
だがその芝居見物だとて、外出はするものの、実際はずつと屋内で過ごすことになる。野外劇場なんてのもあるけれど、さういへばそんなところで芝居見物など久しくしてゐない。

もちろん、本は買ひに行かねばならないし、あみものやタティングレースも糸や道具は買ひに行かねばならない。
通信販売といふ手ももちろんある。でもやつぱり実物を見たいやね。

もしかすると、出かけ方が下手なのかな、と思ふこともある。
休みの日に出かけることになると、ついつい一日それでつぶしてしまふ。
出かける前の時間や帰つてきた後の時間を有効活用できない。
一日を終へて考へてみると、芝居にしか行つてゐないことに気づく。
行く前は「遅刻してはいけない」といふことで汲々としてしまひ、帰つてくれば「疲れた」といふのでなにもできない。場合によつては「もう寝ないと」といふ時間になつてしまふ。
そんなことも多い。

これつてやつぱり出かけ慣れてゐないからなんだらうか。
出かけ慣れてゐる人は、出かける前後の時間も有効に使つてゐるのかな。
しよつ中出かけてゐれば、そこらへんの時間をうまく使へるやうになるのだらうか。

とりあへず、幕間にタティングレースをしたりすることはあるけれども、ねえ。

そんなやつがれが出かける気になるのは、かばんを新調したとき、だ。
あるいは、お気に入りのかばんを見てゐても出かけたくなるときがある。出かけたくなる、といふよりは、かばんを使ひたくなる、わけだけれども。
そんなわけで、出不精なのにかばんだけは多い。

以前から書いてゐるやうに、タティングレースは出先でもわりと気軽にできる手藝だと思ふ。
道具がちいさいし、必要なものもすくない。
あたらしいかばんでも買つて、せいぜい出かけることにするかなあ。

Monday, 09 December 2013

伏せ止めに悩む

ラグラン袖のタートルリブセーターは、胴体部分の増やし目があと一回といふところまできた。
残り15段。
ここから先が長い。

なぜといつて、一段編むのに15分くらゐかかるからだ。
……といふことは、胴体にあと4時間?
うーん、遠いなあ。
かかる時間を正確にはかつてゐるわけではないから、もしかするともつと早く終はるかもしれないし、逆もありうる。
まあ、毎日編んでゐればいつか終はるよ。

ここで、いままで後回しにしてきた問題が浮上してきた。
伏せ止めの方法である。
ニ目ゴム編みで編んできたからには、伏せ止めもニ目ゴム編み止めを採用したい。
その方がきれいだからだ。
ニ目ゴム編み止めをすると、まるで編みながらそのまま伏せ止めをしたかのやうな仕上がりになる。
そして、ニ目ゴム編み止めは、くつ下をつま先から編んだときにはよく使ふ技法である。
それほど苦手だといふ意識はない。

問題は、伏せ止めしなければならない目数が多いことだ。
ニ目ゴム編み止めは毛糸用の針に糸を通して行ふ。
だいたいの糸の長さを計算して(止める長さの三倍ていど)、毛糸だまから切りはなして止める。
すなはち、伏せ止めの途中で糸が足りなくなるといふ事態が発生する之可能性がある、といふことだ。

だからといつて糸をあまりにも長くとると、伏せ止めをしてゐるときにじゃまになる。
また、目の間をとほしながら止めていくので、摩擦のため糸に毛玉を生じることもありうる。最悪、糸が切れる。

そんなわけで、目数の多いゴム編みの伏せ止めには普通の伏せ止め、つまり編みながら止めていく方法を用ゐることが多いやうに思ふ。表目は表目に裏目は裏目に止める。

その方法でいいかなあ。
悩んでゐる。

おそらく、袖口はニ目ゴム編み止めにするだらう。
裾とはちがつてもいいだらうか。
いいことにするか。

と、書くといふことは、全然「いい」とは思つてゐない、といふことだ。
まあ、伏せ止めするのはもうすこし先のことだし、まちつと悩むことにするか。

Friday, 06 December 2013

インキを補充する

Fountain Pens

朝から萬年筆にインキを補充した。
今朝は五本あつた。
どのペンもインキの量はちがふし、ペンを使ふ頻度もちがふ。
なぜ一斉に切れるのだらうか。
先日も、五本一度にインキを補充した。
このときは、「ま、次の機会でいいか」とかるく洗つたままはふつてあつたペンもあつた。だから五本くらゐあつても「そんなものか」と思つた。

しかし、インキを補充するときは一本だけといふことはまづない。
大抵三本くらゐは一緒に補充してゐる気がする。
そんなものなのかなあ。

一番左端はパイロットのカクノだ。
まさかこんなに早くインキを補充することになるとは。
だつてそんなにたくさん書いてないし。
それとも買つたばかりで、書きやすくて、うれしていろいろ書いてしまつたのかなあ。
これは細字で、もう一本中字があつて、そちらももうほぼインキがない。
中字はそれほど使つてゐないにも関はらず、である。
うーん、もしかして、カクノはインキが蒸発しやすいのか知らん。
ま、まちつと使つてみるか。
このカクノにはパイロットの色彩雫の孔雀を入れてゐる。
孔雀はほかのペンに入れてみたところ、なんとなくかたまりやすくて敬遠してゐた。カクノでは問題なく使へてゐる。

その隣がプラチナの本栖である。
インキはプライベートリザーブのアヴォカドだ。
アヴォカドもなんとなくかたまりやすい気がしてゐて、それでこのスリップシール機構のキャップをもつ本栖に入れてみた。
使ひはじめてほぼ二年半、問題なく使へてゐる。
緑色のインキは、感想用に使用してゐる。
インキの色によつてなにを書くか決めるのは、あまりよくないかもと思つてはゐる。
そのペンがないときやインキが切れてゐるときに、感想を書けないことになるからだ。
しかし、ひとつのノートになにもかも書くやうにしてゐると、この「書く内容によつてインキの色をかへる」をやつてゐるときは役立つ。ぱつと見てなにを書いてあるかわかるからだ。
そんなわけで、本栖はインキが切れると即補充するペンのひとつである。

真ん中が大橋堂のペンだ。
セーラーのスカイハイを入れてゐる。
これについてはだいぶ迷つた。このblogにもどうしやうか悩んだあとがある。
ペンを見ての第一印象は、「黒、だな」だつた。
どう見ても、黒いインキの似合ふ佇まひだ。はじめてインキを入れる前にさう云はれたことがある。
しかし、スカイハイにしてしまつた。
正解だつたと思ふ。
非常によく使用してゐるからだ。
何度か書いてゐるけれど、黒いインキを入れたペンはなぜか自然と使はなくなる。
黒のもつ断定力が苦手なのだ。
黒インキといつても、各社によつてその色合ひはさまざまなんだがねえ。さうした色の違ひを楽しむのも一興とは思ひつつ、どうも苦手だ。
もともと、細字のペンが好きといふのも理由のひとつかもしれない。細字だとインキの微妙な色の違ひが出にくいからだ。
このペンも、インキが切れると即補充するペンだ。使つてゐて気持ちがいいからだ。書き心地がふはふはとやはらかなくて、ずつと書いてゐたい欲望にかられる。
危険なペンである。

その隣がNAGASAWA オリジナル クリア万年筆である。
おなじナガサワ文具センターオリジナルのフェルメールブルーを入れるために買つた。
このペンは中細字くらゐかと思ふ。使つてみたら書きやすくて、しかもきれいに洗へてそれを確認することもできるので愛用してゐる。おなじナガサワのルノワールピンクのインキ用にもこのペンを買つた。

一番右端がパイロットのプレラだ。
ヤンセンインクのフレデリック・ショパンを入れてゐる。緑色のインキだ。これも感想用である。
本栖だと書きづらい紙とか、もつと細く書きたいときに使つてゐる。
Moleskineを常用ノートにしたときも、感想はこのペンで書く。にぢまないといふわけぢやあないが、本栖とアヴォカドの組み合はせよりはにぢみづらい。
すなはちMoleskineを使ふやうになると本栖の出番がなくなる。ここがつらい。でもまあ、スリップシール機構だから、と思ふことにしてゐる。
プレラも何本か使つてゐる。このペンが一番使用頻度が高いかな。
これがちよつとミルクティーのやうな色で、濃いコーヒーのやうな色のペンとあはせて使つてゐた。使つてゐないときも、ミルクティーとブラックコーヒーとの色の取り合はせを見てゐるだけで楽しい。

結局、コンヴァータを使つてゐるのがいけないんだよなあ。
カートリッジを使へばいいのである。
さうすれば、インキ補充の手間を避けることができる。
でも、インキ補充も萬年筆を使ふ楽しみのひとつではあるんだよなあ。
常用してゐるペンの中でには、しかし、有事にそなへてカートリッジを使用してゐるものもある。
萬年筆は切らしたくないからね。

Thursday, 05 December 2013

手帳に書くこと

来年の手帳を使ひはじめてゐる。
来年の手帳はSmythsonのSchott's Miscellany Diaryだ。
11月の最終週から使へるやうになつてゐる。
使ふ前は、11月25日を心待ちにしてゐた。
気がつけばその日だつた。
実際には、それ以前から予定などをちよこちよこ書き込んではゐたけれど、手帳が来たばかりのころは来年の用事といつて、青山劇場の「真田十勇士」しか入つてゐなかつた。
いまでも芝居の予定以外は入つてゐないなあ、来年については。

Panamas

もともと、やつがれにはあまり予定などない。
あるといつて、芝居見物の予定くらゐである。
芝居見物に行ける日は限られてゐる。
したがつて、予定が重ならないやうにしたい。
手帳を使ふ理由といつたらそれくらゐかなあ。

仕事関連の予定は、持ち歩くものにあれこれ書き込むのはちよつと抵抗があるんだよね。
昨今、「セキュリティセキュリティ」とたくさんさうにかまびすしいからだ。
それで書き込むとしても、なんの、とは書かずにただ「会議」とか、会議室の場所だけ書くとか、客先の最寄り駅だけ書くとか、さういふことになる。

ところで世間で「セキュリティ」とかいふときに問題になつてゐるのは、持ち運びのかんたんなノートPCとかタブレットPC、携帯電話にスマートフォン、と相場がきまつてゐる。
手帳は、見過ごされてゐることが多い。
先日、手帳を落としたといふ人の話を聞いた。
関係先を謝罪して回つたとのことだけれども、社用の携帯電話やPCをなくした時ほどのお沙汰はなかつたやうだ。
をかしい。
手帳の方がよほど危険なのに。

だいたい社用PCや携帯電話には、パスワードを設定するきまりがあることが多いと思ふ。最近ではさうしたきまりのない企業の方が少ないのではあるまいか。
だとしたら、誰かが置き忘れたPCを入手したとしても、なかの情報を取り出すにはそれなりに苦労しなければならないはずだ。
なかにはさうしたことを生業にしてゐる人もゐやうから、「そんなの、かんたんだよ」といふ向きもあらう。
でもなあ、やつがれだつたらやらないな。めんどくさいもの。

その点手帳はちがふ。
開いたら即中身が見える。
鍵付き手帳を使つてゐるならともかく、そんな人は見たことないしなあ。かく云ふやつがれも使つたことはない。

「自分は悪筆だから大丈夫」といふ人もあらう。
さういふことはあるかな、とは思ふ。
しかし、いくらなんでも最低限自分には読める字で書くだらう。
といふことは、ほかの誰かにも読める可能性が高い、といふことだ。
悪筆読解担当だつたことのあるやつがれの云ふことだ。間違ひはない。

とはいふものの、世の中の「セキュリティ」とかいふものは、ちよつと過剰になりすぎてゐる気はする。
それくらゐしないと、といふか、それくらゐやつてもなほ、セキュリティに対する意識の低い人は低いし、なにも考へてゐない人もゐる。
だから仕方ないのかなあと思ふ一方で、どうも「取り締まるために取り締まつてゐる」やうすが見受けられるのだ。
社内でセキュリティ担当になつた人を見てゐるとわかる。
自分には社のセキュリティを守るといふ任務が与へられてゐる。
そのためには、どんな過酷なことでもする。

こんなことを書くと、「そんな人間、ゐないよ」といふ人もゐるかもしれない。
人間は、取り締まる側に回ると、なんでもする。
大義名分を与へられると、人殺しも辞さない。
校門圧死事件がいい例である。
遅刻はいけないことだ。取り締まる必要もあらう。
だが、遅刻した人間を殺してもいいものだらうか。
取り締まる側は、「遅刻はいけないことだ」「取り締まらねばならない」といふ思ひにとらはれて、そして、そんな他人を取り締まる力を持つた自分にいつしか酔ふて、大切なことを忘れてしまふのだ。

手帳には、そんなことも書き込んだりしてゐる。
なにしろ予定がないものでな。

Wednesday, 04 December 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 【鞍馬の牛若】

11月16日にはじまつた川本喜八郎人形ギャラリーの新展示のうち、今回は【鞍馬の牛若】について書く。
「鞍馬の」といひながら、秀衡がゐるのがご愛嬌、かな。

向かつて一番左端にゐるのが金売り吉次である。
大河ドラマの「義経」では市川左團次が演じてゐた役だらうか。
このあと出てくる鎌田正近もさうなんだけれども、「こんな顔の人、ゐるよねー」といふ感じだ。前回書いた定綱もさうだつたつけか。
吉次は、細面といふか頬の肉の削げた顔をしてゐる。神妙な顔つきで、実直さうでゐてかつ抜け目もなささうだ。地味だけど、実際にいろいろ動かしてゐるのはこの人、といふやうな佇まひである。

その隣すこし奥が藤原秀衡だ。
今回、平家物語の中では一番立派な人物、といふ印象を受ける。清盛? 時政? お話にならないよ。
顔立ちはふつくらとして、それでゐて威厳がある。髪や髭は白い。
衣装も立派だ。黒地に金糸銀糸の刺繍があるといふのがいい。
顔がふつくらしてゐるせゐか、福々しい印象もあり、それでゐて厳しさうでもあり、いきのいい若いもの(牛若丸だな)を見て内心喜んでゐるかのやうな感じもする。

その隣が牛若丸。
天狗の面をはづしたところ、といふやうに、右手に天狗の面を掲げて脚を開いて立つてゐる。見得をしてゐる感じもする。
正面から見ると、当代の市川猿之助にそつくりだ。
だいたい毎回ひとりは役者に似た印象の人形がゐる。
最初の展示では貂蝉だつた。どこか市川笑三郎に似た面影があり、内心「笑三郎」と呼んでゐた。今回の展示の貂蝉は笑三郎に似たところはまるでないがなー。
前回の展示では多子だつた。ひそかに「扇雀」と呼んでゐた。若いころの山城屋にそつくりだつたからである。
今回は牛若丸できまりだな。
これもふしぎなもので、横から見ると、猿之助の面影は消へてしまふ。真正面から見たときだけ、そつくりなのだ。

その手前が鎌田正近だ。
山伏の姿で立つてゐる。
顔は四角く長く、意志の強さうな印象を受ける。それでゐてなんとなく困つたやうな表情を浮かべてゐるやうにも見える。口元、かなあ。
目はきつぱりとしてゐて、とても強さうだ。今回平家物語の面々の中では一番腕つぷしの強い人物に見える。

そのななめ左奥に、幼いころの牛若丸と静がゐる。
牛若丸は幼少のころ、白拍子の一段に混ぢつてゐて、そのときに静と知り合つた、といふ設定だ。えうは、幼馴染同士といふことだ。
こちらの牛若丸は、猿之助には似てゐない。顔には化粧をしてゐて、女の子のやうである。女の子のやうではあるものの、どこかきつぱりして見えるのは、こちらが「牛若」とわかつて見てゐるからかもしれない。
静は木目込人形のやうでもある。筒井筒な感じもするなあ、などと思ひつつ見てゐる。

今後の展示では義経が中心になつていくのかなあ。
【鞍馬の牛若】の面々を見ながら、そんなことを考へたりする。

人形劇三国志の【白門楼 呂布の最期】のうち曹操とその家臣団についてはこちら
玄徳・関羽・張飛と呂布・貂蝉・陳宮についてはこちら
平家物語から【妓王と仏】についてはこちら
【伊豆の佐殿】についてはこちら

Tuesday, 03 December 2013

手のきつさ タティングレースの場合

昨日は、筆圧の低い件について書いた。
タティングレースの場合でも、結ぶ力はかなりゆるいやうな気がしてゐる。
それでゐて、芯の糸を引くときにかなり引くので、結び目がだれてゐるんぢやないかと思ふときもある。
まあ、そんなに太い糸を使ふこともないので、気になるほどでもない。
気になるのは、結んでゐる本人だけだ。
ほかの人に見られることもないしね。

ここのところ、せつせと年賀状に貼りつけるモチーフを作つてゐる。
せつせとといつてもまだふたつしかできてゐない。
それも、なんだかこんな感じだ。

Motifs

Jon Yusoff作のモチーフである。
もともとは六角形のモチーフだつた。
まづ手始めにと作つてみたら、なんだか四角くらゐでつながりさうな雰囲気だつた。
このまま六角形にすると、モチーフが盛大にうねる。
そんな予感がした。
それで五角形にしてみたのが、右のモチーフである。

このモチーフは、以前に作つたことがある。
今回はLisbeth #40を用ゐてゐる。前回作つたときはおなじLisbethの#20だつた。
そのときは、六角形でなんの問題もなかつた。
すくなくとも問題があつたといふ記憶がない。
このときも年賀状に貼りつけるために作つてゐたので、もしかすると、「のりで貼りつけちやへば、いまは多少うねつてゐたつてかまはない」と思つたのかもしれない。

手がゆるすぎたかねえ、と思ひつつ、リヴェンジしてみたのが左のモチーフだ。
チェインの芯の糸をなるべく引くやうにして、なんとか六角形におさまつた。これも、四角になつた時点で、「……今回も五角形かも」と思つた。むりやり六角形にしたけど。

タティングレースも、手がきついのが主流なのかなあ。
といふよりは、自分がゆるすぎるのかもしれない。
あみものとちがつて、タティングレースは、それでも作るものによつて多少手の加減は変へてゐるつもりだ。
栞はできるだけかつちり作る。あまりへなへなでも使ひづらいからだ。まあ、作つても使はないけどね。
ドイリーは気分にもよるが、手の加減についてはあまり考へない。これも作つても使はないな。
絹糸にビーズをとほして使ふときは、これは必然的にきつくなる。ゆるくても、なにかしら効果が出ていいんだらうか。今度機会があつたらやつてみやう。

タティングレースで手の加減ができるのは、おそらくきつくしたからといつて手を痛める確率が増す、といふわけではないからだと思ふ。
すくなくともやつがれの力程度ではそんなことはない。
世の中には、絹糸でタティングレースをしてゐて糸をきつく引きすぎて手だか肘だかを痛めてしまつたといふ人がゐると聞くし、糸を引きすぎてぶち切れてしまつた経験があるといふ人も聞く。
うーん、いまのところ、さういふことはないなあ。

まあそれも、多分に長時間タティングすることがないからだとは思ふ。
普段は、つねづね書いてゐるやうにせいぜい15分くらゐしかタティングできてゐない。最近は自宅にゐるときはセーターばかり編んでゐるので、一時間とか十分な時間をタティングにかけられずにゐる。

そんなことを云つてゐると年賀状に間に合はないので、そのうちセーターはちよつと端によけておいて、タティングばかりするやうになるのだらうなあ。

Monday, 02 December 2013

長時間編むために

先日「考える鉛筆」といふ本を読んだ。
なかに、「筆記具によつて筆圧を変へる」といふやうな一文が出てきた。
先んじて著者につぶやきでもおなじやうな発言を見てゐた。

うーん、それはチトむづかしい。

文房具関連のエントリで何度か書いてゐるとほり、やつがれは筆圧が低い。
パイロットの筆圧検査では常人の半分以下とのお墨付きである。
あのパイロットの筆圧鑑定機のうへで字を書くといふことは、相当に緊張するものだ。
A4サイズの書類箱を横長において、その上部ほぼ真ん中あたりに名詞大の感圧部分がある。その範囲内に字を書かねばならないといふ圧力に加へて、目の前には鑑定結果を見てくれる人もゐる。
なんだか緊張する場面だ。
そんなところで書いたら大半の人は普段より力が入つてしまふのではあるまいか。

もとい。
いづれにしても、やつがれは筆圧が低い。
カーボン用紙つきの荷札票はほとんど敵である。
そもそもボールペンといふ筆記具をうまく使ふことができない。
だいたい筆圧が低いのは、たくさん書くためだらう。
なにをそんなに書くことがある、と我ながら思ふけれど、たぶん、さういふことなのだ。
たくさん書く人間は、筆圧が低い。
もちろん、たくさん書く人間にも筆圧の高い人はいくらもゐる。以前もちよつと書いた草森紳一は筆圧が高くて書痙になつて、筆で書くやうになつた、といふ話だ。
つまり、たくさん書く人間は、筆圧の低い方向に流れるのだ。
筆で筆圧をかけて書いても意味はない。
あれは極力余分な力を抜いて書くやうにできてゐる。

おなじやうに、たくさん編む人間は、編み棒を握る力が弱い。あるいは、弱い方向に流れる。
さうだらう、力を入れて編んでゐたらすぐに疲れてしまふ。最悪、腱鞘炎を起こすことになる。
昨今、ものすごくきついゲージで編む作品の人気が高い。
それ以前から、「最近のあみものの本に掲載されてゐる作品は手のきつい人が編んでゐるやうだ。なかなかゲージがあはない」などといふ話をたびたび耳にしてゐた。

きちきちに編んでも楽しくないのにな。
これはなにもやつがれひとりの意見ではない。
Elizabeth Zimmermannも云つてゐることである。
EZは、なにかとその発言に癖があつて、すべてがすべて「うんさうだね」といふ内容ではない。
しかし、この、「きついゲージで編んでなにが楽しい」といふ意見には諸手をあげて賛成する。

だが、これも小日向京風にいふと、「編む作品によつて手のきつさを変へるのは当然」といふことになるのだらう。
それは理想だ。
でも、たくさん編むためには、あるていど手の力は抜いた方がいい。
その方が楽に長く編めるし、手も痛めにくいからだ。

といふよりは、やつがれはさういふ風にしか編めないのである。

そんなわけで、ラグラン袖のリブタートルネックセーターは、増やし目の部分に入つた。増やし目は半分終はつたところだ。でもこれからどんどん目が増えていくので、編む量としてはまだ半分以下だなあ。
このセーター、前々から薄々察知してはゐたのだが、やつぱり小さい気がする。
編む前にはゲージを取つて、きちんと計算し、試し算までした。
それでも、心なしか小さい。
ニ目ゴム編みだから、伸びるんだけどね。
もともと伸びゲージ取つてるしね。

家でしか着ない気もするし、多少ぴつちりでも、まあよしとするかなあ。
それとも以前書いたやうに、ぴつたりの人を探して押しつけることにするか。
さて。

Sunday, 01 December 2013

2013年11月の読書メーター

2013年11月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2137ページ
ナイス数:12ナイス

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)韓非子 (第1冊) (岩波文庫)感想
たとへがうまい。よくもこんなに対句のやうなたとへが次から次へと出てくるなと感心することしきり。難言とか、プレゼンテーションに役立つんぢやあるまいか。
読了日:11月11日 著者:韓非,金谷治
トヨタ生産方式トヨタ生産方式感想
「口(くち)」の字がことごとく「ロ(ろ)」になつてゐて、それだけでこんなに読みづらいなんて、と驚愕することしきり。「下請けいぢめの手段ではない」とか「首切りの手段ではない」とか書いてあると、「ああ、実際はさうだつたんだらうな」とか思つてしまふ。豊田佐吉や豊田喜一郎への感謝の辞は各所に見られるが、斬新な方式についてきてくれた社員への謝辞・讃辞はおどろくほど少ない。「ああ、さういふことか」と思はれても致し方あるまいと思ふが如何に。
読了日:11月13日 著者:大野耐一
Twenty Years' Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Studyof International RelationsTwenty Years' Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Studyof International Relations感想
最近岩波文庫で見かけたので、改めて読みなほしてみた。ふたつの大戦間の歴史には興味があつて、学校に通つてゐた時分にもいろいろ探してみたけれど、当時はこれと斉藤孝の本くらゐしかそれらしき題名の本は見つけられなかつたのだつた。懐かしい。当時は冒頭の理想主義と現実主義とのちがひをおもしろく読んだものだつた。いま読んでもおもしろい。岩波文庫の新訳も近々読むつもり。
読了日:11月20日 著者:EdwardH.Carr
歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か (岩波新書)感想
英語では「科学(science、か)」といふ時「歴史」は含まないが、他のヨーロッパ言語では含むといふ。本当だらうか。日本語でも含まないと思ふな。「歴史(学)」を科学と呼ぶためには、歴史家のことをまづ知つてどのやうな偏見を抱いてゐるのか弁へてからその著作を読め、といふことなのだらう。他の社会科学と呼ばれてゐる学問が「科学」たるために抱へてゐる問題とおなじだ。
読了日:11月24日 著者:E.H.カー
大学生・社会人のための言語技術トレーニング大学生・社会人のための言語技術トレーニング感想
言語技術の必要性はわかるけれど、日本人はその前に自分の意見や権利を主張してもいいといふことを身につけねばならない。「問答ゲーム」はゲームのうちはいいけれど、普段の生活でこれをやる人がゐたとしたら、それは相当ヤな奴だ。理屈つぽい人間は嫌はれる。さうでない社会を作らないかぎり、言語技術は広まらない。著者は言語技術の授業を導入するやう働きかけてゐるさうだが、大学教授たちが首を縦に振らないといふ。多分、大学教授たちにはわかつてゐるのだ。その前に越えねばならない障碍のあることを。
読了日:11月26日 著者:三森ゆりか
戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編感想
モスクワ遠征は「費留」だつたのだなあ。
読了日:11月26日 著者:ロバート・B・ブルース,イアン・ディッキー,ケヴィン・キーリー,マイケル・F・パヴコヴィック,フレデリック・C・シュネイ
地政学入門―外交戦略の政治学 (中公新書 (721))地政学入門―外交戦略の政治学 (中公新書 (721))感想
冒頭、地政学を「わかりやすく」紹介する対談風の章の偏見度合ひが著しく、その後の記述も信じる気にならなくなつてしまふ。巻末に本邦における地政学の書籍を紹介してゐるが、内容の善し悪しは読者にまかせる、とか書いてあるのもなんだか悪意を感じるんだよなあ。端々にさういふ箇所があるのが惜しまれる。
読了日:11月28日 著者:曽村保信
考える鉛筆考える鉛筆感想
人によつていろいろなんだなあ。自分は文字を書くための鉛筆はできるだけ先をとがらせたい。それで字を書く時はコクヨのノートの一枚下にかための下敷きを敷きたい。それでも筆圧は平均よりだいぶ低い。筆記具として鉛筆や萬年筆を選ぶのは、多分に筆圧が低いせゐだ。色鉛筆やボールペンを使ふときは下敷きは無用。ずつとさう思つてきたけれど、この本に書かれてゐるやうな書き方はかたつぱしから試してみたい。問題は、筆圧の低い人間はなかなか筆圧を上げられない、といふことだけれども。疲れちやふからね。
読了日:11月29日 著者:小日向京

読書メーター

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