To Moleskine, or not to Moleskine
最初にMoleskineを使ひはじめたころは、「ユビキタス・キャプチャ」とやらをやつてみやうと思つてゐた。
「モレスキン 「伝説のノート」活用術」を読んだか、あるいは著者たちのblogを読んだかなにかしたのだと思ふ。
そのせゐだらう。最初のMoleskine(実ははじめてのMoleskineとはもつと前に出会つてゐて、これは二冊目なのだが)の、とくに最初のページには断片的なメモが多い。
とりあへず書きとめてみた。
そんな内容である。
使ひはじめたのはMolekineで、その後いろんな手帳を使つてきた。
RhodiaのWebNotebook、Gmundの文庫サイズ、アサヒヤ紙文具店のクイールノート、SmythsonのPanama。
どの手帳もよかつた。アサヒヤ紙文具店のクイールノートはとくに気に入つた。また使つてみたいと思つてゐる。布貼りの表紙のものを使つてゐた。使つてゐると、布の手触りがふはふはと気持ちよくなる。書き心地はもちろん、そんなところも好きなのだ。
いろんな手帳を使つてみて、その合間合間にMoleskineを使つてゐる。
「なんだかんだいつて、Moleskineに戻るんだよなあ」
そんな風に思ふ。
なぜMoleskineに戻るのか。
いや、その前になぜMoleskine以外の手帳を使ふのか。
この理由については、以前から何度も書いてゐる。
Moleskineは使ふペンを選ぶからだ。
主な筆記用具が萬年筆のやつがれにとつては、Moleskineのやたらとにぢんで裏抜けする紙は使ひづらい。
「裏抜けしてもいいや」と思つて使つてみても、そのうち使はないペンが出てくる。
大好きなペンにも関はらず、だ。
段々それに嫌気がさして、Moleskineを使ひ終はるとペンを選ばない紙を選ぶ。
でもその一冊が終はるころには、「次はやつぱりMoleskine」かな、と思ふ。
なぜかといふ話も何度も書いてゐる。
Moleskineの、とくにポケットサイズの佇まひが好きだからだ。
大きさもちやうどよく、かたい表紙もなにかの折に書きとめるのにちやうどいい。
ペンは選ぶけれど、やつがれ愛用の中屋万年筆のペンとの相性は抜群だ。
さう、Moleskineは、なにかの折にさつと取り出してぱつと書きとめるのにちやうどいい。
最初にMoleskineを使ひはじめた理由である「ユビキタス・キャプチャ」に向いてゐるのである。
ところでやつがれにはメモを取る習慣がない。
ことの善し悪しはともかく、こどものころからメモを取るといふことをあまりしない。
最近は以前よりはとるやうになつてきたかなあと思ふ。
それでも好きで使つてゐるRhodiaのメモ帳の減りが少ないことを考へると推して知るべしだ。
すなはち、ここで何度も「ユビキタス・キャプチャ」などと書いてゐるのに、あまり「ユビキタス・キャプチャ」を実践してはゐない。
いや、あるいはしてゐるのか。
多分、あらゆるところであらゆるものごとを書きとめやうとしたら、それは断片的なメモになるはずである。
長い文章を書いてゐる暇はない。
そんなことをしてゐたら、あらゆるものごとは目の前を通り過ぎていつてしまふからだ。
でも、「いま書きたい」といふときに書きたい。
さういふせめぎ合ひがあつて、それでMoleskineとその他の手帳とを行つたり来たりしてしまふ。
さういふことなんだと思ふ。
メモよりもある程度長い文章を残した方がいい。
さういふ考へもあるのださうだ。
いいかどうかはともかく、やつがれは「長い文章を残す派」だ。
現在SmythsonのPanamaを使つてゐて思ふことは、このノートを使ふやうな人はここに断片的なメモばかりを書き残すやうなことはしないのではないか、といふことだ。
Panamaには、「このまま書き続けたい」といふ欲求を呼び覚ますものがある。
そんな気がする。
だつたらMoleskineとその他のノートとを一緒に使へばいいぢやあないか。
さうも思ふ。
しかし、どうも複数のノートの使ひわけがうまくできないんだよなあ。
来年は複数ノート使ひに挑戦してみるか。
気が早過ぎるかな。
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