コロンボ風味の「岡崎の段」
先週、11/8(金)に、国立文楽劇場で「伊賀越道中双六」の通しを見てきた。
ほんたうは九月に国立劇場で見たかつた。行ける日に席がなかつた。
どうも東京で文楽を見やうとするとさういふことになつてしまふ。
ゆゑに、ここのところ文楽とはご無沙汰であつた。
「伊賀越道中双六」を見に行つた理由はいくつかある。
ひとつは、「これを逃したら今度は二十年後だ」である。
前回、「伊賀越道中双六」の通し上演があつたのは、二十二年前のことだ。
その間、三大浄瑠璃はともかくとして、「妹背山婦女庭訓」とか「本朝廿四孝」とかは二度くらゐ通し上演をやつてゐるやうに思ふ。
なぜ「伊賀越道中双六」はないのだらうか。
地味だからかな。
ほかの理由として、今年は京都の顔見世に行かないから、といふのもある。
だつたら十一月に大阪に行つてもよからう。
さう思つたのだ。
今回一番楽しみにしてゐたのは、「岡崎の段」だつた。
見たことがないからである。
手持ちの歌舞伎のムックで、いまの坂田藤十郎が中村扇雀だつたころの写真を見たことがある。お谷をやつてゐた。夜、雪の降る中、戸口に立ち尽くしてゐるところを写したものだ。ちいさな写真だつた。
本などにあたると、必ずといつていいほど、このお谷が生まれたばかりの巳之助をつれて、いづことも知れぬ夫・唐木政右衛門を探してまはる話が出てくる。
やつとの思ひで偶然にも政右衛門と巡り会ひ、しかし、政右衛門は巳之助を殺さねばならない。
その悲劇が語られる。
いや、「岡崎の段」って、さういふ話ぢやないから。
この段の眼目は、謎解きである。
それも、コロンボ風の、「いつ如何にしてなにを手かがりに政右衛門の正体がバレるのか」といふ話だ。
実にわくわくと心躍る話なのである。
なんだよ、「沼津の段」よりよつぽど楽しいぢやんよ。
お浄瑠璃には、たまにかういふ話がある。
たとへば「本朝廿四孝」だ。
「本朝廿四孝」といふと、八重垣姫の話ばかりが取りざたされるけれど、お浄瑠璃全体からいつたら、犯人当ての物語である。
すなはち、「Whodunit」の話だ。
はじめて「本朝廿四孝」の通しを見たときは、大詰めがあつて、ちやんと犯人当てもしてゐた。
ニ度めの通しのときは、奥庭で終はつた。確かにその方がもりあがるけど、それぢやあ犯人がわかんないまんまぢやん。しかも、濡衣はただの「簑作の女房」で終はつてしまふ。そりやないよなー。
といふわけで、以下、「岡崎の段」のたねあかしになるので、おイヤな人とは、ここでおさらばでござんす。
さて。
「岡崎の段」で、なぜお谷が出てくるのか。
来なかつたら巳之助も殺されずにすんだのに。
そんな発言をしてゐる人を見かけた。
そんなものは、「岡崎の段」を通して見れば一目瞭然である。
お谷が、いやさ、巳之助が出てきたのは、政右衛門の正体を知らせるため、である。
つまり、お谷ひとりなら出てこなかつた。あるいは、もう少しちがふ展開になつてゐた。
巳之助が生まれたばつかりに、お谷はわざわざ出て来ざるを得ず、その巳之助を失ふことになつたのである。
巳之助にとつては迷惑な話だよなー。
「岡崎の段」では、和田志津馬が志津馬に惚れたお袖といふ娘につれられて、関所を守る幸兵衛の家に身を寄せることになる。
幸兵衛は、志津馬の敵である沢井股五郎に義理がある。
よつて志津馬は正体を明かすことができない。偽つて、「自分こそが沢井股五郎」と称して幸兵衛宅にやつかいになることにする。
志津馬に遅れてやつてきた政右衛門は、実はこどものころ幸兵衛から剣術の指南を受けてゐた。
幸兵衛は政右衛門の幼名しか知らない。
政右衛門は敢て名を名乗らず、幸兵衛から沢井股五郎の味方をしてもらへないかと頼まれる。
してやつたりの政右衛門。
さて、志津馬と政右衛門と、その正体はいつバレるのか。あるいはいつみづから明かすのか。
といふのが、「岡崎の段」の眼目である。
志津馬については、幸兵衛は最初から股五郎でないことを知つてゐた。
その風体から、股五郎ではあり得ないことを見抜いてゐたのである。
では政右衛門の正体は、いつ知つたのか。
幸兵衛は云ふ。
幼子を殺すとき、目に一瞬涙が見えた。
それで「ああ、こいつはこの赤子の父親、すなはち唐木政右衛門なのだ」とわかつた、と。
すなはち、巳之助がゐなかつたら、政右衛門の正体は明かされなかつた、といふことになる。
逆にいふと、巳之助は政右衛門の正体を明かすためにこそ、この場に出てきたのだ。
さういふことだつたのかー。
見てゐて、心中うなつた。
さういふ、作為の透けてみえる展開つてどうなのよ、とは思ふときもある。とくに推理小説ではよく思ふけれど、でも、「岡崎の段」はさうでもない。
よくできてるなー、と思つた。
なんでこれが上演されないのかね。
歌舞伎で上演されない理由はなんとなくわかる。
おそらく、歌舞伎では志津馬が幸兵衛の家に入るくだりはやらないのだらう。
そして、お谷と巳之助の悲劇ばかりが強調される展開なんだらう。
それではあまりにおもしろくない。ただ悲惨なだけだ。
敵討ちがあつて、敵と敵との腹のさぐりあひがあつて、それでこそ「岡崎の段」だと思ふ。
今回、語りは嶋大夫と千歳大夫とで、迫力と物語の骨格をくつきりと浮かびあがらせる点とでは申し分ない。
いやー、いいぢやん、「岡崎の段」。
このあとの「伏見北国屋の段」にもちよつとしたかけひきがあつて、おもしろい。
「伊賀越道中双六」は「沼津の段」ばかりぢやないんだなあ。
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