恰好つけの辭
心弱ると漢詩を読む。
あるいは史記、孫子。
恰好つけてるな、と我ながら思ふ。
昔から、漢文が好きではあつた。
中学高校の国語の授業では、つまらなくなると教科書にある漢文の教材を読んでゐた。
中学校にあがると、同級生らはこぞつて英語に夢中になり、寄せ書きなどにもつたない英文を書き散らしたものだつた。やつがれ一人は漢字ばかりを書いてゐた。
以前も書いたと思ふ。
同級生らのそんなさまを見て、「さばかり賢しだち英語書き散らして」と、やつがれは思ふてゐた。
「さばかり賢しだち真名書き散らして侍るほどにもよく見れば(いや、よく見ずとも)まだいと堪えぬこと多かり」だつたのは、やつがれの方だつた。
その後、とくに漢文に親しむこともなく、月日は流れた。
去年、「日本人の9割に英語はいらない」と、すこしおいて「日本語が亡びるとき」とを読んだ。
「日本語が亡びるとき」については、以前もすこし書いた。
どちらも、「英語が必要な日本人はそれほどゐない」といふ点で共通してゐる。特に後者は「一部のエリートだけできればよい」といつてゐる。
そして、その他下々のものについては、「英語なんか勉強してゐる暇があつたら本を読め」といふ点も共通してゐる。
それはそのとほりだらう。
実際、日々生きてゐて、英語が必要になる場面がない。
朝起きて、出勤して、帰つて寝る。
休みの日は芝居に行つたりする。
その間、英語にふれる機会があるだらうか。
ない。
まつたくないのである。
前者にも言及されてゐるが、日本では海外の書籍がかなり翻訳されてゐる。
映画も字幕つきがあたりまへで、最近では吹替も多い。
街中の人々も英語で喋つたりしないし、ましてや家族や友人、である。
やつがれに英語は必要ない。
その点で、この二冊に対して異論はない。
あるとしたら、「では英語の代はりになにをするか」だ。
どちらも「本を読め」は共通してゐて、その読むべき本をあげてゐる。
成毛眞の本には具体的にこれこれと題名があげてある。
水村美苗は「近現代の日本文学、ただし谷崎潤一郎まで」と書いてゐる。
そこに、漢籍の本が一冊もないのである。
これは、もしかしたら大人への配慮なのだらうか。
いまさら漢籍を学ぶのは遅過ぎる。
それよりは読んですぐわかるものを読んでおけ。
さういふことなのだらうか。
こどものころ読んだ少女まんがには、ラテン語を学ぶイギリスやドイツのエリート校の生徒の姿が描かれてゐた。
すこし古い話だらうかと当時は思つてゐたが、どうやらイギリスのプレップスクールやパブリックスクールではいまでもギリシャ語・ラテン語が必修なのらしい。
なぜか、日本ではさういふ話を聞かない。
あれだけ欧米、とくに米と英とに学べ、といふ日本で、なぜこの話を聞かないのか。
それでゐて、日本語検定の問題は、級があがればあがるほど、漢籍からの出題が増える。
先日見せてもらつた問題集には曹操の詩の一節が出てゐた。
曹操の詩など、三国志好きでもなければ知らないのではあるまいか。しかも「短歌行」からの一節ではないのだ。
曹操の詩が出るといふことは、李白・杜甫や、白居易の詩は当然知つてゐるといふ前提だらう。
なぜさうなる。
漱石が英文学を学んで幻滅した所以は、そこに漢籍にあるやうな深遠なものがなかつたから、と聞く。
それはさうだらう。
そんなものを求めたいのであれば、ギリシャ語・ラテン語の書物にあたるべきだつたのだ。
おそらく学問をはじめた当初にはそんな知識はなかつたのだらう。
必要なのは、過去から脈々と受け継がれてきた漢籍の教養。
さうなのではあるまいか。
とか、理論武装するから、恰好つけになつちやふんだよなあ。
史記とか、単純におもしろいのである。
読んでゐて、身につまされたり、「ああ、こんな人、ゐるよなあ」と思ふのである。
左遷されてわびしいなあといふ詩や、左遷されゆく友を見送つて「今度会へるのはいつの日か、いや、そんな日がやつてくるのか」といふ詩を読んで、しみじみするのである。
栄耀栄華を尽した過去の英雄はもうゐない、それでも毎年めぐつてくる春は誰が為か、といふ一節にじーんとするのである。
えうは、さういふ話なのだ。
たまたま、やつがれの好みにあつてしまつた。
それだけのことなのである。
それだけのことについて、こんなに書いてしまふから、恰好つけ、になつてしまふのだ。
わかつてゐるのに。
愚かなり、やつがれ。
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