西陣と嵐山
11/9(土)、京都に行つてきた。
京都へ行つた理由は、その前の日に大阪で文楽を見たからである。
できれば日帰りしたかつた。しかし、終演時間がチト遅かつた。
ゆゑに一泊することにして、翌日は京都へ行くことにしたのだつた。
行つたのは、西陣にある浄福寺と大河内山荘。
浄福寺は、新聞の記事で約百年ぶりのご開帳があるといふので行くことにした。
歌舞伎を見てゐると、ご開帳といふのが一大イヴェントだつたことが知れる。
ありがたいので三度も行つてしまつた、とか、近いからと思つてゐるうちに行きそびれてゐる、とか、往来の人々が話してゐたりする。
さういふ気分を味はへたら、といふ思ひもあつた。
最初のみものは本堂だつた。
なんでも、「日本最古の違法建築」だといふ。
享保年間の大火事で本堂が焼けてしまつた。さて、建てなほさうといふ段になつて、「三間梁規制」といふ法律のせゐで焼ける前の大きさで建てることができないことが判明した。
享保といふから、「奢侈規制の一種かな」と思つたけれど、解説では「建物内を広くすると幕府転覆をはかる輩が集まるから」といふので規制をしたのらしい。ふーん、なんだらう、天一坊事件のあとに強化された法律なのかな。
それぢやあといふので、中は元通りの広さに作つて、外から見たら二棟の建物に見えるやうに作ろう、といふので建てられたのがいまの本堂であるといふ。
本堂は広くて立派だ。でも、部分部分でいろんな建築方法を使つて、「つながつて見えるけどちがふ建物ですよ」といふ風に押し通したのらしい。
その「ひとつの本堂にいろんな建築方法を使つてゐる」といふのが、いまでは目玉になつてゐるのだといふから、わからないものだよねえ。
本堂の片隅に、なぜかアップライトのピアノがおかれてゐた。そこだけなんだか「アットホーム」な感じがした。
浄福寺は幼稚園を経営してゐるといふので、園児のお遊戯用のピアノなのかもしれない。後でさう思つた。
大火事はたびたびあつて、一度などは門のすぐ手前まで来て、しかし寺は無事だつた、といふことがあつたのだといふ。
人々は「鞍馬山の天狗が降りてきて風で火を消してくれたのだ」と噂したのだとか。
そんなわけで、浄福寺にはしつぽが天狗の団扇になつてゐる狛犬がゐる。これがなんだか妙に可愛い。
順路にしたがつて歩いていくと、「仏教まんがコーナー」とか、遊戯ものをおいたコーナーに出くはした。
おどろいてゐると、ご住職の絵解き法話がはじまるといふ。
これまでも京都の特別拝観には何度か行つてゐるが、ご住職のお話があるお寺なんてはじめてだつた。
もちろん聞くことにした。
お話は、主にお釈迦さまの生まれたばかりのときの絵とお釈迦さまが悟りをひらいて最初の説法をおこなつたときの絵とを中心に、展開した。主たる話は、貪・瞋・癡の三毒についてだつた。
絵を使ふとか、わかりやすい話とか、やはり園児に説明することがあるからかなあ、と思つたりした。
宗教の教へといふのは、如何に世の中自他との摩擦を減らして楽に生きるかにつきるのでは、とも思つた。
遊戯ものには、輪投げ、コリントゲーム、双六があつた。
コリントゲームは、玉が地獄に入ると、「部屋の隅にある地獄の箱を覗いてもいいですよ」といふことになつてゐる。なんだか楽しい。
仏教マンガコーナーには手塚治虫の「ブッダ」とひろさちやの本とがおかれてゐた。
ほかにも鳴き龍を見て、実際に絵の下で手をたたいてみたり、ありがたいご開帳を見たり、いろいろと忘れがたいことが多いお寺だつた。
平安時代のものといふ四天王は、現在東京区国立博物館で修復中だといふ。来年の京都の特別拝観のときに見せることができたら、といふ話だつた。
うまいな。
そのあと、らんでんに乗つて嵐山に出た。
ここでの目的地は大河内山荘だ。
ご存じ大河内傳次郎の所有する地だつたものを、いまでは一般公開してゐる。そんなところである。
七年くらゐ前に一度行つて、たいへんによいところだと思つた。
なにがいいつて、「大河内傳次郎」といふのがまつたく前面にでてきてゐないのがいい。
たぶん、ここをおとづれる人の大半は、そんなことを意識せずにゐるのではあるまいか。
まあ、来ようと思つた動機は「大河内傳次郎」なのかもしれないけれども。
竹林の小径をずつと行つたところに、大河内山荘はある。
まだ早いから今回は紅葉はのぞめまいと思つてゐた。
あつたね、どうも。
ここのところ朝晩と冷える日がつづいたせゐか、葉の色づいてゐる木々もあつた。
緑多めの中に、赤い木がぽつりとある。
風情ではあるまいか。
大河内山荘は、「金を使ふなら、かう使ひたいね」と思つてしまふ、そんなところである。
山全体が庭になつてゐて、さらに嵐山や京都の町が借景になつてゐる。
当時はどうだつたのか知らないが、山の木々にはあまり手は加へられてゐないやうに見受けられる。それでゐて、あれこれきちんと計算されてゐる。
傳次郎は、太秦での撮影のあるときに、ここで過ごしたのだらう。
最初に建てたのは持仏堂だといふ。撮影の合間にそこにこもつて座禅を組んだりしてゐたのらしい。
持仏堂は、戸が閉じられてゐて内部は見えない。中にはきつと仏像が鎮座在してゐることだらう。
贅沢ぢやあないか。
前回来たときに一番気に入つてゐたのが、頂上付近の四阿から見える景色だつた。四阿には「月香」と額が飾られてゐる。
横長の写真がそこから撮つたものだ。
写真だとよさが伝はらないなあ。
木々のトンネルをくぐりぬけて、ちよつと開けた場所にこの四阿があつて、そして眼前にひろがるこの景色、である。
脱力する、といふか、肩から力が抜ける、といふか、とにかくすばらしい展望だ。
「月」といふからには、月夜にここから下界を眺めたりしたのだらうか。月明かりに照らされる比叡山や京の町は、どれほどうつくしかつたことだらう。
お抹茶をいただいて、さらに周囲の景色を満喫する。
実にのんびりできていいところだ。
ついさつきまでは嵐山の喧噪の中にゐたといふのに。
最後に、「大河内傳次郎資料館」に立ち寄つた。
「資料館」といひながら、単に壁をぐるりと四角に囲つただけの、野天の建築物である。壁の内側に、傳次郎の写真や経歴、それとおそらく縁の人だらうと思はれる画家の絵が飾られてゐる。
中に一枚、撮影の合間に撮られたものだと思はれる写真がある。浪人態の傳次郎が、監督たちと並んで、実にいい表情でほほえんでゐる写真だ。こんな顔もするんだなあ、と、しみじみ見てしまつた。
前回はここで傳次郎の出演映画の断片を見ることができた。
今回は機械の不調か見られなかつた。
残念だなあ。
大河内山荘で傳次郎を思はせるのはこの資料館の一角だけだ。
しかも、順路にはづれたところに、ちんまりと存在してゐる。
いいなあ。かへつて大物感が出てゐるよなあ。
一度、花の時期に来てみたいものである。
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