忘れたくない忘れること
例によつてタティングレースはこれといつて進んでゐない。
蔓日々草色のモチーフつなぎだけは毎日昼休みにちよこちよこ作つてゐるので、遅々として進んではゐる。
それだけである。
かうなつてくると、不安になつてくることがある。
「もう自分はタティングレースを仕上げることができないのではないか」といふことだ。
杞憂。
さう、これこそまさに杞憂である。
うーん、やつがれは杞の人ぢやないからなんだらう。日憂? それぢやあ器が大きすぎるか。
もとい。
あみもので、くつ下を編む理由のひとつもそこにある。
仕上げ方を忘れたくないのだ。
仕上げ方といふのは、技術的なこともさす。メリヤスはぎだの伏せ止めだの端糸をくぐらせることだの、水通しして整形することだの。
かういふことは、やらないと手が忘れていく。やると思ひ出すけどもね。しかし、もともと苦手だつたメリヤスはぎなどは、ちよつとやらないと著しく劣化する。もうそれは目を覆ふやうな仕上がりになる。
しかし、仕上げ方といふのは、技術的な問題だけではない。
あまりにも仕上げることから遠ざかつてゐると、仕上げやうといふ気持ちをも忘れてしまふのだ。
すくなくともやつがれはさうだ。
昨日も書いたが、いまセーターを編んでゐる。
昨日も帰宅後、すこし編んだ。増やし目の段は残り一段と半分くらゐ。やはり平日はなかなか進まない。
今朝、編みかけのセーターを見て、ふと「自分はこれを完成できるのだらうか」と不安になつた。
先はまだ長い。
これから袖の部分を休めて、胴体部分の減らし目に入る。減らし目が終はつたらまた増やし目。そして、裾まはりの伏せ止めだ。
裾まはりの伏せ止めはどうしやう。できればゴム編みの伏せ止めにしたいけれど、それだと長すぎてうまくできないかもしれない。普通に目にしたがつて伏せ止めをするか。
それが終はつても今度は袖が残つてゐる。それも二本もある。
そんなことを考へてゐたら、気が遠くなつてしまつたんだな。
ここまで編んでこられたのだから、編めないはずがない。
しかも、編み終はつたと同時に着られるものができるのだ。
きつと編める。
毎日すこしづつでも編んでゐれば、いづれ編み上がる。
さうも思ふ。
しかし、おそらくやつがれは、「仕上げる」といふ心を忘れかけてゐるんだな。
よく「はじめ半分」といふ。
なにごとかに着手したらもう半分できたも同然、といふことだ。
それはそのとほりかと思ふ。
はじめなければ、なにごともできあがらないからだ。
その一方で、「十里の道を行くには九里をもつて半ばとすべし」といふことばもある。
これもよくわかる。
あみものなどをしてゐると、こちらの方が実感として強く感じる。
あみものは、編み上がつたらそれでできあがりではない。
とじたりはいだり端糸の始末をしたり、整形したりといふ作業が待つてゐる。
そこまで全部があみものだ、といふ人もゐるかもしれない。
残念ながら、やつがれにはさうは思へない。
編み針を使つてゐるあひだが「あみもの」。
さういふ気がする。
さうすると、たとへば普通にセーターを編む場合は、編み上がつてやつと半分くらゐといふことになる。
そこから脇をとじて肩をはいで、首回りなどを編んで、それでやつと着られる形になる。
このとじてはいでが異様に時間がかかる。
仕上げの作業だからだ。
ものごとを仕上げる、といふことは、それまでより時間も労力も要するもの。
さう思つてゐる。
さういふ心構へつて、やつてないと忘れちやふんだよね。
すくなくともやつがれは。
そんなわけで、ちよつと横道にそれてタティングレースの栞でも作つてみやうかなあと思つたりてゐる。
すつかり失念してゐたが、この週末は三連休なのらしいし。
それよりも、ビーズタティングをすすめるべきかなあ。
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