息をのむやら見惚れるやら
日々ちよこちよこと「人形劇三国志」を見てゐる。
大抵は寝入り際にニ三分だけ、前の日のつづきを見る。
いまは第十四回と第四十回とを見てゐる。
第十四回は玄徳が都から徐州に逃れて袁術を討つあたり。
第四十回は曹操対馬超。人形劇ではこの回で夏侯惇が片目を失ふことになる。もうないんぢやないかと思つてゐたがなー。
これは呟きもしたのだが、さうやつて見てゐると、関羽が出てくるたびにため息をつくやら息をのむやらでいそがしい。
わかつてゐるのに、である。
なんだらう、やはりあの髯が豪華だからだらうか。
そのやうすのよさに見とれること一度ならず。
人形としてのトータルな出来はともかく、人形劇に出てくる関羽は文句なく男前だ。いや、「漢前」とでも云ふべきか。
カメラ写りがいいのかもしれないなあ。
人形と人形遣ひとカメラパーソンとのchemistry、なのかもしれない。
第四十回では馬超も妙にやうすがいい。
見てゐて、「無駄にやうすがいいし無駄に強い」と思つてしまふ。
なぜか「無駄に」といふことばが前につく。
負けるとわかつてゐるからか。あるいは今後それほど活躍するわけでもない、といふことを知つてゐるからか。
このあと馬超の見せ場つて、張飛との一騎打ちくらゐな気がする。いつのまにか死んでるしね。
趙雲は見るたびにさはやかで颯爽としてゐて、これまた毎度のやうに惚れ惚れするやうな若武者ぶりに見とれてしまふ。
これもわかつてゐるのである。
趙雲つてさういふ感じだよね、とわかつてゐてもさうなつてしまふ。
人形自体はどちらかといふと地味な感じだ。
先月飯田で見てきて、端正な横顔にどきりとしたりはしたけれどね。
それが動いてゐると、実に、かう、すてきなんだなあ。
ところで、飯田市川本喜八郎人形美術館の学芸員曰く、最高傑作は諸葛孔明である、と。
その孔明の最高傑作ぶりが遺憾なく発揮されるのが、第六十四回だ。
そこまでは、なんといふか、「眠たい顔のをぢさん」といふのが孔明の印象だつたりする。
とくに初登場のときの真正面を向いた顔が眠たさうなんだよね。
ついさつきまで寝てゐたからか。
ま、いつか。
第六十四回だけは、なんだか別人のやうにいい。
どのカットを見てもどのアングルを見ても、はた云ふべきにもあらず、といつたよさだ。
孔明なので、「いい男」に見えたり「かつこよく」見えたりするわけではない。
ただ、なんかもう、いい、のである。
ちよつとした顔の角度、なんといふことはない所作、袖をかろくはらつたり、羽扇をふつと顔に寄せたり、そんなことはこれまでの回でもさんざん見てきたことだといふのに、この回だけは別もののやうに見える。
人形劇三国志では第六十四回で玄徳が死ぬ。
正直云つて、ここで終はつておけばよかつたのに、とつねづね思つてゐる。
このあとさらに四回つづくのだが、どれもつつこみどころ満載でねえ。
人形劇三国志自体がつつこみどころ満載といへばそれまでなのだが、最後の四回は休むいとまもなくつつこめてしまへさうな気さへする。
強いていへば第六十七回の馬謖の死の回だけは、馬謖を中心に据ゑて見るとそれなりにいい出来かとは思ふが、それくらゐかなあ。
今回あらためて第六十四回を見て、もう「すごい」としか云へない孔明のやうすを目の当たりにし、「やつぱりここで終はつておくべきだつたねえ」としみじみ思ふのだつた。
たぶんこの先どこかでつづく。
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