大きなひとつの目で見たら
先月、新橋演舞場で「不知火検校」を見て来た。
不知火検校は、悪党で、金に汚く、平気で人を陥れ、殺すことをも厭はない。
それでも最後は捕へられるのだが、このとき、花道で悪態をつく。
目明きのふたつの目で見る世界は、世間体にとらはれてせせこましい。やりたいこともできずにゐる。
自分は心といふひとつの目で見て、おほきいことをいろいろやつてこの世を楽しんだ。
大要は、こんなところかと思ふ。
これを聞いて、すかつとする向きと、「なに云つてやがんでい」と思ふ向きとがあるだらう。
やつがれは後者だつた。
はたして、不知火検校のしたことは、「おほきいこと」なのだらうか。
確かに、まづしい魚屋の息子として生を受け、父の因果で生まれながらに目が見えなかつた富の市が、次から次へと悪事に手を染めて、師匠を殺して検校の座につき、したい放題の日々を送る、といふのは、常人のよくするところではない。
自分にはとてもおなじやうなことはできない。
人を騙しその命を取つて、バレずにすませるやうな才覚はない。
犯罪者と手を組んで、手足のやうに動かす智略もない。
不知火検校にはとほく及ばない。
また、自分は日々汲々として暮らしてゐる。
四月から消費税があがるといふ。
いまでもあれこれ切り詰めて生きてゐるのに、四月からどうすればよいのだらう。
さう考へるだけで心しづんで、お先真つ暗な気分になる。
やりくりのことで頭がいつぱいになつて、「さぞかしいまの自分は、いやしい表情を浮かべてゐるのだらうな」と、さう考へるとさらに暗澹たる心持ちになる。
では、不知火検校のやうに生きたいか。
不知火検校の人生は、自分の欲に正直に生きる、といふものだつた。
それは、やつがれの求める「おほきなこと」ではないんだよなあ。
お金に困らぬ暮らしをしたい。
それは確かだ。
でもなあ、なんといふか、多分、不知火検校のやうな生き方は、心の休まる暇がない。
あるいは検校はそんなことはない、と云ふかもしれない。
でも、やつがれはダメだ。
あんな生活ではつねに気を張つて暮らさねばならぬだらう。
日々、おだやかに過ごしたい。
つまらぬことに心を動かすことなく、それでゐて花が咲けば花を愛で、雪が降れば雪を楽しむ、さうして暮らしてゆきたい。
それが「ふたつの目で見るせせこましい世界」なら、それでいい。
さう思ふ。
さういふやつがれから見ると、不知火検校の啖呵は「引かれものの小唄」としか思へぬのだつた。
あるいはさう思ふことにして、みづからを安心させてゐるだけかもしれないが。
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