来年の手帳 第一弾
来年の手帳がやつてきた。
向かつて右端の黒い手帳がそれである。
SmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S DIARY) 2014だ。
「黒革の手帳」、だな。
ほかの手帳は、左からことば書留用のSCHOTT'S DIARY 2009、句帖用のSCHOTT'S DIARY 2010、そして、現在使用中のPanamaである。
ことば書留用と句帖用については、先週ちよこつと書いた。
ことば書留用は、ミケブログで見かけてその使ひ方はいいなと思つて真似したもの。
句帖用は、藤田湘子の「20週俳句入門」を読んだところ、句を作るのなら用意すること、といふやうなことが書かれてゐたので使ひはじめた。この手帳を選んだのは、一日分のスペースに一句書けばいいかな、と思つたからである。
ところで、SCHOTT'S DIARY 2009は、やつがれにとつてはじめてのSmythsonの手帳だつた。
この選択は正しかつたと思つてゐる。
なぜといつて、書き込む前からSmythson Panamaを楽しめるからである。
無論、なにも書いてゐないPanamaの手帳でも、楽しめないことはない。
手に取つて、革の表紙の手触りを愛で、製本具合を鑑賞する。水色の紙のうすさ、小口のやうす、栞の色の表紙と似つかはしいこと、などなど、見て楽しいことはいくらでもあげられる。
Smythsonの手帳のいいところはなんだらうか。
その点については、すでに先達が書き尽くしてゐることだろう。
ここで、あらためてご大層に述べることもないと思ひつつ、敢て書くと、それは、「ページをめくる楽しみがあること」だ。
現在、Panamaの手帳を使つてゐて、気がつくと意味もなくページをくつてゐることがある。
やつがれの書くことだから、至極くだらないことが書いてある。
くだらないとわかつてゐて、ぺらぺらとめくつてしまふ。
めくるときの感覚がすばらしいからだ。
水色のうすい紙は張りがあつて、めくるときにちよつと音がする。
これがまづいい。
字の書き込まれた紙は、すこしよれてゐて、新品のときとはまたちがつた趣がある。
それもいい。
そして、たくまずして日々の振り返りができる。
これもいい。
かうした楽しみは、ただの手帳であつたら、あるていど書き込んでからはじめて享受できるものである。
SCHOTT'S DIARYはちがふ。
使ひこまれたよれはないけれど、買つた直後から読む楽しみ、ページをめくる楽しみのある手帳だ。
ベン・ショットの集めた雑学が、あちらこちらにちりばめられてゐるからだ。
ほぼ日手帳に「今日のひとこと」があるやうに、SCHOTT'S DIARYには、その日の歴史的できごとが書かれてゐる。巻末のメモページには引用句がある。
その他、年によつて内容はことなるけれど、こんな感じでとにかく「読みでのあるスケジュール帳」なのである。
さらに、ことば書留用にしたことが、余計に「めくりたい病」に拍車をかけたのだらう。
昨日、2020年オリンピックの東京開催がきまつた、といふことで、「みんなが七年後を思つて希望を抱くやうになつた」といふやうな発言を耳にした。
「えー、別に、希望なんて抱いてないけどな」と、やつがれは思ふ。
きつと、やつがれは「みんな」ではないのだ。
こんなとき、なんかあつたな、と、SCHOTT'S DIARY 2009のページをくる。
あつたあつた。
なぜ宗教が怖いと思うのか。と、みうらじゆんは「マイ仏教」で書いてゐる。
自分なりに考えて出した結論は、その団体感です。
つづけて、
似た考えの人が集まって、ひとつの目標に向かって頑張らなければいけない、という状態が非常に怖いのです。自由の根本は、「みんなちがって、みんないい」のはずで、マイナーな意見が潰されがちな団体というものがとにかく怖いのです。とも云つてゐる。
こんな感じで、なんとなくぱらぱらとめくつたり、あるいは意識をもつてめくつたり、とにかくSmythsonの手帳はページをくるのが楽しい。
書き込む前からその楽しみを味はせてくれるSCHOTT'S DIARYは、はじめてのSmythsonの手帳として、最高だつたんぢやあるまいか。
そんなことを思つたりしてゐる。
さて、「第一弾」といふことで、実はまだ来年のほぼ日手帳を注文してゐない。
オリジナルのカヴァなしだけ、のつもりでゐたのだが、職場でカズンを使つてゐたら、「やつぱりカズンもいいなあ」と、悩みが生じたからである。
うーん、中身しか買はないつもりだから、まだ悩んでても大丈夫かな。
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