My Photo
October 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

« August 2013 | Main | October 2013 »

Monday, 30 September 2013

Can't Stand It

かぎ針編みのスカーフはまつたく進んでゐない。
以上。

と、書きたいところだが。
金曜日の夜、突然、「縄編みがしたい!」といふので急遽編み始めたのがこれである。

Viking Sock in Progress

Viking Socksといふらしい。
くつ下と指なし手袋とどちらにするか悩んだ。
いまやる気がないし、といふことは、親指部分に穴あけて編むとか、ちよつと出来さうにないし、ぢやあくつ下か、といふことで、くつ下になつた。

糸は、PuppyのNew 4Ply。たまたま手元にあつた糸だ。
何年前に買つたものかなあ。実はうつかり日の当たるところにおいてゐた時期があつて、ちよつと色褪せてしまつてゐる。写真からだとわからないか。

なにしろ久しぶりの棒針編みである。
ニ目ゴム編みで編み始めるのだが、最初のうちはなんだかawkwardであつた。ぎくしやくする、といふか、すいすい編めない、といふか。
しかし、昔取つた篠塚、ぢやなくて昔とつた杵柄とはよく云ふたもので、十段くらゐ編むとなんとなくスムースに編めるやうになつてきた。
でも、考へてみたら、あみものつて編みはじめの数段は編みづらいよね。
単にさういふことだつたのかもしれない。

ところで、先週「あまちゃん」が最終回を迎へた。
いつもは日曜日にまとめて先週分の録画を見るのだが、先週だけは土曜日の最終回にあはせて日々録画を消化してゐた。
といふわけで、無事土曜日にリアルタイムで最終回を見ることはできたのだが、習慣といふのは実におそろしいもので、昨日も先週分の「あまちゃん」の録画を見てしまつた。
見ながら編んだ。
見ながら編むと、編み図を確認するのがおろそかになる。
また、ひさしぶりの棒針編みのせゐか、気がつくと目が落ちてゐたりする。

縄編みつて、間違へた部分をほどくときに気を使ふよね。
目を交差してゐる関係で、目自体がちよつときつくなつてゐたりする。
その目をほどくと、下の段までほどけてしまつたりするんだよね。
やつがれはそれほど手がきついといふわけではない。どちらかといふとゆるい方かな。それでかうなんだから、きつい人はもつと大変なんだらう。

さう思ひつつ、間違へに気づいてはほどき、落ちた目に気づいてはかぎ針でせつせと拾ひ、とりあへず、写真のやうな状態になつたわけだ。

ところで、ほどくときはどうしてゐるかといふと、模様編みの部分だけほどくやうにしてゐる。
だいたい次の交差のときに間違ひに気がつくので、四本針なり五本針の模様編みの部分だけ二段分ほどいて、模様どほりにかぎ針で拾ひなほす。
全体的にほどいちやつた方が早いんぢやないの、とも思ふが、まあ、気分の問題かな。
あと、上に書いたとほり、くつ下は細い糸をきつめに編むことが多いので、ほどいた時にさらに下の段までほどけてしまつたりしがちだ。だから全体をほどくことはあまりしない。
ほかの人はどうなんだらうなあ。

そんなわけで、それでなくても「履くくつ下三千足」なのに、さらに増やさうとしてゐる。「憂ひによりてかくの如し」つて感じかな。
曹操は「何以解憂唯有杜康」と詩に詠んだ。
それも確かなんだけれども、どうやらやつがれにはくつ下編みもありさうだ。

Friday, 27 September 2013

TVを見るといふ習慣

「半沢直樹」は見てゐなかつたが、「あまちゃん」は見てゐた。
「あまちゃん」は録画予約をしてゐたから見てゐられたのだと思ふ。
最近、テレビを見る習慣がなくなつてしまひ、毎日とか毎週とか決まつた時間に決まつたチャンネルを見る、といふことがなくなつてしまつた。
「半沢直樹」については、途中から見はじめた人々が「なんで最初から見ておかなかつたのか」と嘆いてゐる姿を見てゐたので、「ぢやあ見るのはやめておかう」と思つた、といふのも大きい。
これだけ人気があればそのうち再放送をするだらう。
つづきかスペシャル番組が作られて、その前に再放送する可能性も高い。
そんなわけで、「半沢直樹」についてはそのうち見てゐるんぢやないかな。

テレビをまつたく見ないといふわけではない。
朝は一応ニュースを見てゐる。
天気予報と交通情報といふ、その時点で見てもあまり役に立たない情報を、気休めに見る。
それに、時計を見なくても「いまこの内容を取り上げてゐるといふことはだいたい何時」といふのがわかるようになつてゐるのがいい。
ときどき、朝はテレビをつけない方が支度が早く整ふ、といふ人がゐる。
試してみたが、残念ながらやつがれにはこれはあたらなかつた。
テレビをつけないとしよつ中時計を確認することになる。
朝はメガネをかけてゐないので、時間を確認するたびにメガネをかけたりはづしたりしないといけない。
そのうへ、時計のあるところに移動しないといけない。
テレビをつけておけば、音でだいたいの時間がわかる。
したがつて、朝はテレビをつける。
ときどき一大事がもちあがつてこの技を使へなくなることもあるが、まあ、それはそれ、だ。

あと日曜日の朝はなんとなく見てゐる。
テレビ朝日系列の朝のこども番組を見たあと、NHK教育にうつつて「日曜美術館」とか将棋を見る。そのあと昼のニュースを見て、おしまひ。
このあと、先週分の「あまちゃん」をまとめて見てゐたが、それも今度の日曜日で終はりだなあ。

昨日、今年度下期のNHKの語学講座を見られないのではないか、と、書いたのも、このためだ。
録画すれば、見るだらう。この日のこの時間に見なければならない、といふ縛りがなくなるからだ。
しかし、それは予定の先延ばしにしかならない。録画する、といふことは、いづれ見る、といふことだ。どこかで放映分の時間を割く必要がある、といふことである。
なんかもう、さういふの、耐へられない気がするんだよね。

来週から見やうと思つてゐるのは「テレビでイタリア語」と「テレビでドイツ語」だけど、イタリアやドイツに行く予定はまつたくないし、周囲に話す人もゐない。昨日は「歌曲やオペラの歌詞がすこしでもわかるやうになるといいと思つて」などと書いたが、去年あたりから演奏会やオペラのたぐひには行かなくなつてしまつた。先立つものがないといふのと、平日の夜出かけるのがつらくなつてきたから、である。
イタリア語やドイツ語で読みたいものがある、といふわけでもない。
つまり、なんといふか、役に立たないのである。

個人的には、語学の勉強などといふのは役に立たないものの最たるもので、「役に立たないからこそいい」と思つてゐたりもする。
だから昨年度もなんだかんだ云ひながら見てゐたわけだしね。
ただ、テレビを見るといふ習慣のなくなつた今、去年とおなじやうに見続けられるかどうか、自信がないのである。

おそらく、「テレビを見る」といふのは習慣なのだらう。
以前、まんがの好きな友人が云つてゐた。
高校生のときに、二ヶ月ほどアメリカでホームステイを経験したといふ。
そのあひだ、まんがにまつたく触れることはなかつた。
帰国したら、あんなに好きだつたまんがを読めなくなつてゐるではないか。
「まんがを読むにもお約束がいろいろあつて、二ヶ月も読まないとそれを躰が忘れてしまひ、うまく読み進むことができないんだと思つた」、と云つてゐた。
「まんがを読むのつて、習慣なんだよね」とも。

テレビを見るのもさうなんだらう。
見なくなると、テレビがあつてもテレビをつけやうと思はなくなる。
「このドラマ、人気があるんですよ」と云はれても、途中から見やうとは思はない。
映画はDVDでも借りて見ればいい。
やつがれの場合はなぜか民放を見なくなつてゐるから、CMとも縁がなくなる。
それで困るか、といふと……うーん、いまのところ、困つてないんぢやないかなあ。

それでゐて、「テレビを捨てやう」といふ気にはならないあたり、テレビにはなにかまだ魔力があるのかもしれない。
そんな気のする秋のゆふぐれ。

Thursday, 26 September 2013

2013年度下期のNHK語学講座受講予定

毎年十月は、NHK語学講座の下期のはじまりである。
すなはち、今月、もつといふと今週上期が終はる、といふことだ。

とりあへず下期も上期とおなじ講座を聞き続けることにした。
テキストで購入するのは「ラジオ英会話」「実践ビジネス英語」「まいにちドイツ語」「まいにちイタリア語」の四つ。録音して聞く関係から、「入門ビジネス英語」も聞いてはゐる。

イタリア語については聞きつづけたものかどうか、悩んだ。
上期を聞きはじめたきつかけは、去年度のTV講座を一年間見続けたから、だつた。
去年度の「テレビでイタリア語」は上期は北村一輝、下期は高橋克実が出てゐた。

北村一輝はちやうど映画「テルマエ・ロマエ」に出演したばかりといふこともあつて、端々にさういふ話があつておもしろかつた。
また、同時期に「テレビでドイツ語」には勝村政信が出てゐて、たまに勝村政信に対するライヴァル心のやうなものを見せてゐたりして、それも楽しく見てゐた。

高橋克実は、同時期に他の言語の番組に出てゐた人々のなかでは一番自然な感じが好もしかつた。役者なので、「自然な感じに好もしい人物を演じてゐるんだらうな」とは思つてゐたけれど、番組側からもさういふ感じを求められてゐたのだらう。

見続けて、イタリア語が喋れるやうになつたのか、といふと、まつたくさういふことはない、といふのが、これまた近頃面目次第もございませぬ、といふところである。
だいたい週に一回三十分にも満たぬやうな番組を見るだけで喋れるやうになるわけがない。
せめて復習でもしてゐればちがふかもしれないけれども。

そんな状態で、ではなぜラジオ講座を聞くやうになつたのか。
イタリア語の響きが好きだから、といふのもあるかとは思ふが、やはり歌詞を理解したいから、といふのがどこかにある。そんな気がする。
歌詞、といふのは、歌曲とかオペラとかの歌詞、だな。

ドイツ語とか、フランス語とかの歌詞といふのは、TV講座をすこし見ると、なんとなくわかるやうになつたりする。使はれてゐる単語が出てくると、「ああ、あれはさういふことだつたのか」合点がいく。
ながいこと、gegangenといふ単語が不思議でならなかつたのだが、それもgehenの活用形といふことがわかれば、「なーんだ」である。

ところがイタリア語にはそれがない。
TV講座を見てゐただけでは、「Tre giorni son che Nina」ひとつわからない。
treは三、giorniはgiornoの複数形で日、といふのはわかつて、んぢやson cheとはなんなのか。
Ne sun dormaつて、なんなの。dormireにはdormaなんて活用形はないよ(すくなくともTV講座を見てゐるかぎりでは)。

そんなわけで、多分、イタリア語をわかるやうにはならない。喋れるやうにもならないだらう。
でも、聞きつづけてゐればそのうち「sta'nfronte a te」とか、わかるやうになるかもしれないぢやあないか。

TVだのラジオだのの講座に頼る以前にさういふことを調べやうとする意思がないあたりに、「わかるやうになるわけがない」といふ根拠が見えるわけだが。
ま、負担になつたらやめるよ。

ところで、その「テレビでイタリア語」だが、ここのところ毎年度下期は前年度の上期の再放送といふことになつてゐる。
すなはち、北村一輝が出てくる、といふことだ。
実は前年度の上期にはもうひとつ気に入つてゐることがある。
講師の先生の聲が可愛い、といふことだ。
可愛い、といつても、昨今のアニメーションなどで聞くやうな聲ではない。
自然な(あたりまへか)おとなの可愛らしさなんだよなあ。
NHKのイタリア語講座に出演する講師には、もうひとり、可愛い聲の人がゐる。
ほかの言語ではチトないこと、だと思ふ。

そんなわけで、もういまさらテキストは買はなけいれど、下期の「テレビでイタリア語」と「テレビでドイツ語(勝村政信が出るからだ。しかも最後には赤頭巾ちやん役までやるんだぜ)」とは、見るかなあ、と思つてゐる。
問題は、短い番組とはいへ、TV番組を見るとなると、その時間束縛される、といふのが不安ではある。

それ以前に第一回の放映を、きれいさつぱり忘れ去つてゐるやうな気がならない。

Wednesday, 25 September 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 死者の書

実はこのエントリは月曜の夜に書いてゐる。
明日飯田に行つて再見するまへに、六月に見た印象を書き記しておきたかつたからだ。

といふわけで、以下は六月十五日に飯田市川本喜八郎人形美術館をおとづれた際の感想である。

人形アニメーションの展示は、「死者の書」の登場人物のみである。
まづあぐらをかいて座した大津皇子が目を引く。大津皇子が、といふよりは、その背後にある七歩の詩が、かもしれない。
七歩の詩といへば、曹植だものな。
こんなところでつながつてゐるのだねえ、今回の展示は。
残念ながら、今回三国志の展示には曹植はゐないけれども。
皇子は巻紙にむかつてなにやら書いてゐるの心。

その横のケースに弓を持つたをばさん態の女の人が立つてゐる。身狭乳母だ。
背を大きく反らしたやうすが実にいい。
口元が督郵もかくやといふ形になつてゐて、よく動くんだらうなあといつたところ。
顔立ちも勇ましい。全体的にとても強さうに見える。

その後ろのケースは持統天皇。赤い衣装で、髪の毛は背後で一度上にもちあげて結つてある。これで毛先が下におちてゐたら完璧だらう。なにが完璧つて、高松塚古墳の絵にそつくりといふ意味で、である。
大変きつぱりとした表情をしてゐる。今回飾られてゐる「死者の書」の人形では唯一目がガラスもしくはアクリル製だ。きらりと光るんだらうな。
横顔がどこか坂東玉三郎に似てゐる。

郎女と語り部の媼のケースは、織り機がとにかく圧巻。撮影用にあらかじめ実際に織つたのださうだ。人形サイズの織り機で、だ。それも、きちんと反物に見えるやうに、だ。
それを考へただけで気が遠くなつてしまふ。
絹糸のかせの山もすごい。絹、だらうな。レーヨンといふことはあるまい。人形用だから、かなり細い糸である。かせは、人形用にはチト大きい気がするが、まあ、許容範囲かな。
大きいといへば、糸繰り機がかなり巨大だ。チト大き過ぎるんぢやないかな、とも思ふが、ご愛嬌といつたところか。それともこの時代の糸繰り機は巨大だつたのかなあ。

最後のケースは恵美押勝と大伴家持とが酒盛りをしてゐるところ。
玻璃の杯を使つてゐたり、侍る女の二人のやうすが高松塚古墳の絵の人に似てゐたり、屏風の模様が正倉院とかにあるものに似てゐたり(といふのは、国立劇場とか南座の緞帳の模様に似てゐるからさう思つたのだが)、いろいろ細かい。
恵美押勝の意味ありげな表情と家持の大人しげな表情が対照的でおもしろい。
「死者の書」も見てみたいなあ。
でも長いからなあ。

展示室の外のこども向け作品用の人形は、前回シンデレラだつたケースがババヤガーになつてゐた。発泡スチロールつぽい質感だけど、なにを使つてゐるんだらう。
このときのendlessヴィデオは人形劇三国志の二巻だつた。今度はなにかなあ。

今回もかなりしつこく書いたつもりでゐたけれども、前回はもつとしつこかつたやうだ。
二日間見たからかなあ。
三時間ちよいではこんなものか。
美術館自体は一時間もあれば十分見てまはれるくらゐの大きさなんだけれどもね。つい、ぐるぐる何度も何度も見てしまふんだよね。
やはり泊まりがけで行くべきなのかなあ。
悩む。

「黄巾の乱」についてはこちら
「宮廷の抗争」と「連環の計」についてはこちら
「玄徳の周辺」についてはこちら
「曹操の王国」についてはこちら
「江東の群像」と「特異なキャラクター」とについてはこちら

Tuesday, 24 September 2013

Slower but Steady

タティングレースは見た目にわかるくらゐは進んでゐる。
例によつて作りかけのぐしやぐしやな写真で恐縮至極である。

The Twirlies

とりあへず、ドイリー状のものが二つつながりかけてゐる。
この調子なら、もうひとつくらゐはつなげられさうだな。まだこのモチーフに飽きてゐないし。
念のため記しておくと、このモチーフは、The Twirly といつて、デザイナはJon Yusoff。
かうしてみると、つなぐとやつぱりtwirly感が失はれる気がするなあ。

ほんたうは、タティングレースではほかのものも作りたい。
先日、LisbethのWedgewood Dkといふいい色の糸を買つた。日々眺めては、なにかにしたいなあ、と思つてゐる。思つてゐるだけで、その先が進まない。

栞も作りたい。
来年のほぼ日手帳は、カンダミサコの文庫本サイズ手帳カヴァに包んで使ふつもりだ。このカヴァには栞がない。よつて、栞を作りたいんだな。
すでに作つたままお蔵入りになつてゐる栞が捨てるほどあるのだが、今回はほぼ日手帳用にちよつと作り方を考へてゐるのだつた。ゆゑに、新たなものを作りたいのである。

また、時計をぶら下げる紐状のものも作りたい。糸は買つて、ビーズを入れるところまでは決まつてゐて、そこから先が決まらぬまま早幾星霜。買つておいた金具がどうも時計とあはなくて、中断中、といふ話もある。

そんな感じでやりたいことはいくつもあつて、でもこのなにになるのか我ながら不明なものをせつせと作つてゐる、といふわけ。

なにかしら作つてないと不安だしね。

Monday, 23 September 2013

あたりまへのことは書くべきにや

もうおきまりのことを書くのはやめやう。
とは思ふのだが。

たとへば、春秋左氏伝である。
春秋左氏伝といふのは、昔の中国の歴史書だ。
特徴はといふと、「あたりまへのことは書かれてゐない」である。
すなはち、変事しか書かれてゐない。さういふことになつてゐる。
したがつて、春秋左氏伝に書かれてゐるといふことは、それはなにかしら変はつたできごと、書きとめるべきできごとだ、といふことだ。

書いた直後はそれでもいいだらう。
なにがあたりまへでなにがさうでないか、自明の理だからである。
おそらく、読み手側もその情報を共有してゐるだらう。

春秋左氏伝が書かれたのは、2500年近くまへのことだ。
当時のあたりまへはいまのあたりまへではない。
幸ひなことに、春秋左氏伝の研究結果が連綿と受け継がれてきてゐるので、当時のあたりまへはなにかといふのはわかるけれど、それがなかつたらまつたくお手上げだ。

研究結果があるのは、春秋左氏伝だからである。
自分で書いたメモにはそんなものは存在しない。
書き記したそのときは、「あたりまへ」だつたことが、読み返すときには「なんだつたつけ」に変はる。
それも、一年もしないうちに、下手をすると一週間くらゐで「あたりまへ」は「なんだつたつけ」に変はるのである。

なんといふことでせう。

といふわけで、くだくだしくあれこれ書いたが、つまりかぎ針編みのスカーフは進んでゐない。
編んではゐる。
だからまつたく進んではゐないわけではないが、見た目はちつとも変はつてゐない。
それでも編んでゐる。
かぎ針編みのスカーフについては以上。

さて、この秋冬に編まうと思つてゐたたたとたた夫さんのラグランのリブタートルセーターだが。
指定糸であるデビー・ブリスのベビー・キャッシュメリノが入手困難ないま、プリンセスアニーで編んでみやう、と、いふところまでは書いた。

前回は、色番No.503で編まうと思つてゐた、と書いた。
こんな色である。

Lacy Shrug

さう、すでに編んでゐるのだ。
これは去年の毛糸だまに載つてゐたシェットランドレースのマーガレットだ。やつがれはヴェストと思つてゐるけれど。

ところが、この色がどうやら今年は廃番らしい。
どうする。

いろいろ考へたが、No.503は膨張色だ。
それに廃番だ。
だつたら、指定色の黒にしやう。
黒だつたら廃番になることはないだらうし。

そこまで考へて、だが待てよ、と思つた。
もしかしたら、チャコールグレイなんかもいいんぢやないか知らん。色があれば、だけど。
それにプリンセスアニーといへば、紺灰色とでも呼びたいやうな、とてもいい色がある。
こんな色である。

Crochet Cardigan

さう、
これまた既に編んでゐるのである。

といふわけで、やはり黒かな。
あるいはチャコールグレイ。
店頭で見て決めるつもりだ。

問題は、黒で編むといふことは、ただでさへ苦手な脇の綴じなどがますます面倒だ、といふことだ。
といふわけで、編めるところは輪に編まうと目論んでゐる。

かうして、野望ばかりが燃え上がる、まだまだ暑い九月なのであつた。

Friday, 20 September 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 江東の群像と特異なキャラクター

以下は、今年六月に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つたときの感想記である。
前回前々回と書くのを忘れてしまつた。
近頃面目次第もござりませぬ。

さて。
「玄徳の周辺」の右隣のケースは、「江東の群像」のケースである。
左端奥は呉国太。濃いベージュといふかカーキ色といふかの地に、瓢箪がぽちぽちと散らされた衣装が可愛い。人形劇のときに着てゐたものとおなじはずなのだが、人形劇のときは瓢箪には気がつかなかつたなあ。
そして、表情がとても穏やかで、見惚れてしまふ。人形劇ではもつと厳しい感じだと思つてゐたがなあ。こちらが下から見上げてゐるせゐでやさしげな表情に見えるのか知らん。あるいは、衣装の瓢箪も一躍かつてゐるのか知らん。
前回あんなに可愛かつた貞姫が、今回はたいして可愛くないのと対照的な気がする。

さう、前回は、「え、貞姫つてこんなに可愛かつたつけ」と、何度も何度も見てしまつた貞姫が、今回の展示ではたいして可愛くない。なぜだ。展示されてゐる位置も格好も前回とそんなにかわつてゐないのに。むう。
長刀のかまへ方なんかは袖を巻いた感じで今回のもすてきなんだけどな。
思はず淑玲と見比べたりもした。
人形劇では淑玲と貞姫とは似てゐる、といふことになつてゐるけれど、そんなに似てないよね。人形劇を見てゐるときからさう思つてゐたけれど、かうして比べてみると、やはり似てゐない、と思ふ。どこが似てるのかなあ。

孫権は、どうしていつもおなじ格好なのだらうか。どつしりと椅子に座した態。たまにはちがふ格好も見てみたいものだ。でも考へてみたら、人形劇に出てゐたときも、そんなに動く人形ではなかつたかも。
孫権は衣装の前垂れがとても立派だ。クレヨンにありさうな鮮やかな緑の地に龍の模様が刺繍されてゐる。学芸員の方が、政治家系の前垂れは帯のおたいこ部分を使つてゐる、と教へてくだすつた。いつたい誰がこんなおたいこの帯を締めてゐたのだらう。気になるなあ。
さういふ点でいくと、今回の前垂れ大賞(つてなんだよ)は、盧植だなあ。渋い中にも華やかな季節感があつて、よい。

喬国老は、呉国太とはちがつて、人形劇のときはもうちよつと穏やかな感じに見えたのに今回の展示では厳しいジイサンといつた趣で立つてゐる。顔の作りは現在ヒカリエにゐる蹇碩に似てゐる気がするな。ほら、なんだか陰険さうでせう。

ここまでが一応孫家の人々といつたくくりなのだが、なぜかここに黄蓋が入る。ふしぎなことである。ここにゐるなかでは黄蓋だけ目がガラスといふかアクリルといふかでできてゐる。なぜなんだらう。なんか、この仕掛を生かす演出が人形劇にあつただらうか。チト思ひ出せぬ。
赤壁のくだりを見直すよい口実ができたかもしれない。

諸葛瑾は、どこかもの云ひだけなやうすで立つてゐる。ちよつと見上げたやうすで、なにか云ひたさうにしてゐる。かういふ、「なにか云ひたげ」な感じに弱いんだよなあ。前回の展示でいふと夏侯惇か。
諸葛瑾ならばさぞかし云ひたいこともあらう。うんうん、聞くよ。

闞沢は、人形劇を見てゐたときから思つてゐたが、かういふ顔のをばさん、ゐるよね、といつた感じだ。展示されてゐるのを見てもさう思ふ。これで髭を取つたら、そこらへんを歩いてゐさうな顔立ちだもの。をばさんだけど。

陸遜は、かうして見るとやはり悪人面だなあ。まちつと若々しい感じでもいいのになあ。演義とかだともうちよつと好青年な気がするんだけどなあ。人形劇でも玄徳との戦ひのあたりは、ちよつといい人つぽかつたけど、人相が邪魔してるんだよなあ。チト可愛さう。

呉の家臣団の中心は周瑜。当然だな。例によつてフリオ・イグレシアスとおなじ方向から見たときがいい男に見える。気がする。
中心にゐなくても中心つぽく見えるつてところも如何にも周瑜だ。

魯粛は、顔の向きがちよつと内側すぎるのがつまらない。まはりこむと背中しか見えなくなつてしまふでな。

その隣のケースが「特異なキャラクター」。
于吉仙人は、服がところどころやぶれてゐたりするところがいい。杖は木目のはつきり見えるタイプ。ちよつとびつくりしたやうな表情で立つてゐる。

左慈の杖は、木目はほぼなしで、于吉仙人のものよりこぶこぶしてゐる。前回はダーク・フォースのジェダイ・マスターといつた趣で立つてゐて、実にやうすがよかつたのだが、今回も右側から見るとなんだかやうすがいい。左慈なのに。
学芸員さんが、左慈の目の光るやうすを見せてくだすつた。ありがたい。なかに電球がしこんであつて、赤く光るんだよね。

曹豹は、張飛になぐられたあとの青あざも痛々しい顔のまま展示されてゐる。殴られてしりもちをついてしまつた、といふ態。あはれだがなぜかユーモラスだ。
しかし、曹豹、「特異なキャラクター」か?

張松は、前回は手前にゐて今回は奥の上段。これといつて変はつたやうすはない。衣装も地味さうでゐてよくよく見るといいもののやうに見受けられる。

督郵は、その口の造形、とくに下唇に目を奪はれる。実際に動いてゐるところを見てみたいなあ。人形劇ではよく動いてゐたけれど。たつた一回、それもたいして出番もない人形までよくできてゐるよなあ。
こちらも玄徳・関羽・張飛あたりに脅されて座り込んだといつた感じだ。
袖に小槌や桐が家紋のやうに散らされてゐる。学芸員の方は、川本喜八郎は豊臣家由縁の着物を集めてゐて、それを使つたのでは、と説明してゐた。前半はともかく、後半はどうかな。督郵にそんな柄を使ふか知らん。まあ、桐の模様も五三の桐といふわけではないので、豊臣家由縁のものではない、とも云へる。

華陀は、このケースで唯一見てゐてほつとする人だ。ふつくらほつこり系なんだよね。癒し系の医師。

紫虚上人は、今回もやはり座つてゐる。両手の指を上にして掌の方をみせてゐて、驚いてゐるのかといつた態。皮膚は鬼ちりめん、と云ふてゐた。もしかして、紫虚上人は立つことができないのかな。さうかなさうかも。

蒋幹は、この中でただひとり衣装が派手。牡丹色でサテンのやうな光沢のある生地だものな。目立つわー。目の玉もまん丸だし。
しかし、「特異なキャラクター」と云はれると、さうなのだらうか、と思つてしまふ。周瑜の友人だから「特異」なのだらうか。「曹操の王国」には入れてもらへなかつたのね、といふ点があはれをさそふ。

ここまでが人形劇の展示。
人形アニメーションの展示はまたいづれ。

「黄巾の乱」についてはこちら
「宮廷の抗争」と「連環の計」についてはこちら
「玄徳の周辺」についてはこちら
「曹操の王国」についてはこちら

Thursday, 19 September 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 曹操の王国

「玄徳の周辺」の対面は「曹操の王国」のケースである。
左右が荀彧と許褚とといふ点は前回の展示とおなじだ。ふたりの格好もおなじやうに見受けられた。

「曹操の王国」の特徴は、女つ気がない、といふことだ。
「江東の群像」には貞姫と呉国太、「玄徳の周辺」には淑玲と美芳とがゐる。
「曹操の王国」は男だらけだ。それでゐて「江東の群像」のケースや「玄徳の周辺」のケースよりも華やかに見える。すくなくとも見劣りはしない。
前回の展示のときも書いたけれど、曹操の「人材好き」のたまものか、と思ふ。

ケースの一番入り口に近い側、すなはち右に立つてゐるのは許褚。もしかして「曹操の王国」の右端は許褚、といふきまりでもあるのだらうか。単に偶然かな。

夏侯惇は、前回の展示ではあんなにも思慮深げだつたのがうそのやうだ。如何にも「夏侯惇」といつた趣で立つてゐる。展示の仕方ひとつでこんなに変はるんだなあ。今回は槍の先を地すりに構へて、寄らば斬るぞといつた出で立ちである。この方が「夏侯惇らしい」とは思ふ。前回の展示もよかつたけれど。

龐徳は、ここにゐるとなんとなく浮くなあ。いろいろありはしたが、馬超と並んでゐた方がしつくりくるんぢやあるまいか。衣装のせゐでさう思へるのかな。おとなしげな顔立ちではあるけれど、ひとくせありそげな感じもある。

于禁は、人のよささうな。于禁と李典とはいつもどちらがどちらだつたかごつちやになるけれど(近頃面目次第もござりませぬ)、これで覚えたな。人がよささうといはうか、どこか気弱げに見えるのは、のちのことを知つてゐるからかもしれない。

龐徳と于禁のおかげかもしれないが、曹仁は、今回はちよつと猛々しげだ。顎をあげて敵をあふつてゐるやうな表情だからかもしれない。前回の展示のときは、なんとなく印象が薄いといふか、おとなしさうに見えたんだよね。

曹操は、若いころの出で立ちである。眉間の皺が藍隈の色で書かれてゐて、「さうか、曹操、実悪か!」と、いまさらながらに腑に落ちた。そりや好きなはずだわ。実悪だもの。
さう考へてみると、人形劇三国志には色悪はゐないなあ。
今回の衣装は、前回の展示のときほど傷んでは見えない。前回の展示のときは、繊維までぼろぼろになつてゐたものなあ。

夏侯淵も、若いころの衣装。人形劇を見てゐるときはそんなことは思はないけれども、かうして見るとヒカリエの前回の展示のときにゐた夏侯淵の方がほんのちよつぴりいい男である。

驚いたのは郭嘉だ。
いや、郭嘉、こんな顔ぢやないし。
なんといふか、皮が乾いてひきつれちやつたやうな表情をしてゐる。
をかしい。
郭嘉といへばいい男のはずだつたのに。
なにしろ我が家では孔明がでてきたときに「前の人(郭嘉だ)の方がいい男だつたね」と云つてゐたほどなのだ。おそらく聲が一緒で軍師恪、といふところが「前の人」といふ発言を引き出したのだと思ふ。
人形劇を見てゐても、郭嘉はいい男だがなあ。放蕩児といふにはチトまぢめ過ぎる風貌ではあるものの、それはおモテになるでせう、といつた趣だものなあ。
人形劇の郭嘉がいい男なのは、多分に「悪」なところがあるからだ。下手したら曹操より「悪」。さういふところがいいのよねえ。この郭嘉も、「悪」といふことでいへばかなり「悪」な表情をしてはゐる。
衣装も紫色がだいぶ褪せてしまつた感じだなあ。楽しみにしてゐただけに、とても残念。前回ヒカリエの展示のときにゐた郭嘉はいい男だつたがね。

仲達は、今回はただ立つてゐるだけといつた格好で、目も眉も通常の位置。郭嘉ショックであまり印象にない。前回の展示のときは、孔明と向かひ合はせに立たせてゐる、といふ話だつた。今回はそんなことはない。今回の展示が基本的には物語冒頭をイメージしてゐるからかもしれない。前回の展示は物語終盤のイメージだつたからな。それで、孔明と仲達との対決をそれとなくfeatureしてゐたのだらう。

程昱は、現在ヒカリエにゐる平忠正とおなじやうな格好で立つてゐる。衣装の模様が源氏香で、ついつい見入つてしまつた。人形劇のときには気づかなかつたなあ。あとで呉国太のところでも書くけれど、かういふ細かい模様とかに気づいたりぢつくり見ることができたりするのが、かうした展示の醍醐味だよねえ。

荀攸は、一度きりの出番だつたのが惜しまれるほど立派な出来だ。もつと出番のある予定だつたのかもしれない。人形劇だと許攸がだいぶ長いこと出ていたからなあ。結局殺されもしなかつたし。
人形劇を見て、おなじ場面を三国志演義で読みなほすと、「ああ、ここは荀攸だつたのに!」とか「これを献策したのは荀彧だつたか」とかいふやうなことが多くてねえ。

荀彧は、前回の展示のときとおなじ格好である。例によつて恨めしさうな面持ちで立つてゐる。
かうして荀攸、荀彧と並べてみると、荀彧が老人態なのは、荀攸とのちがひを明らかにするためだつたのかもしれないなあ、と思ふ。或は、荀彧とのちがひを際立たせるために、荀攸は壮年のやうすのいい感じに作つたのだらうか。
荀彧は、ほんたうは曹操より若いのにね。年より老けてみえる人といふのもゐるけれどさ。

かうして見ると、荀彧と荀攸とはもうちよつと活躍するところを見てみたかつたねえ。人形劇では曹操の参謀役は郭嘉と許攸と程昱とで持ち回りみたやうな感じだつたからなあ。荀彧は、官渡の戦ひのときに名前だけは出てきたりするんだけどね。

「黄巾の乱」についてはこちら
「宮廷の抗争」と「連環の計」についてはこちら
「玄徳の周辺」についてはこちら

Wednesday, 18 September 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 玄徳の周辺

六月に見に行つた飯田市川本喜八郎人形美術館についてのつづき。
次のケースは、「玄徳の周辺」。赤兎に乗つた関羽の背中が見えただけでテンションあがる。

ケースの後方一番左側にゐるのは馬超。かうして見ると、やつぱり馬超はほかの人とはちよつと違ふ感じだな。馬騰と馬休とは親子でよく似てゐたけれど、馬超はそれほど似てゐない。馬騰も馬休も目が大きかつたけれど、馬超はさうでもないんだよね。でも顔立ちは他の人と比べるとどこかエキゾチックなのかもしれない。
ちよつと、野球選手にこんな感じの人ゐるよね、といふ感じもする。ターコイズの衣装が似合ふなあ。

その手前が赤兎に乗つた関羽。とにかく背中が広い。まづはその大きな背中を眺めながら、ゆつくりとまはりこむ。鼻の先と頬のラインの見えるあたりで一旦立ち止まる。このアングルがいい。そこからさらにまはりこんで、横顔がまたいい。その関羽の横顔と赤兎の顔とのあひだ、V字になつた部分に沈思黙考の態の孔明が見える。この位置が今回の展示のベストアングルと見たね。立派な関羽と赤兎に、物思はしげな孔明といふとりあはせがいい。すこし視線を動かせば、馬超と白竜とも見える。関平が赤兎に隠れてしまふのがチト惜しい。
赤兎はやはり他の馬とはちがふ。立派。でも、ヒカリエにゐた赤兎の方が大きかつたな。たてがみや尾の感じが豪華だつたんだよね、ヒカリエにゐた赤兎の方が。しかも、ヒカリエの呂布と赤兎との方が動きがあつたんだよなあ。

といふわけで、その隣が関平。正面向いて立つてゐるとちよつと阿呆面。人形劇の関平さんは「いい人」だからなあ。あまり賢しげな感じはないんだらう。前回の展示のときも書いたけれど、関平はちよつと衣装が褪色しかけてゐて、それもチトあはれな感じ。

その後ろが孔明。ちよつとうつむき加減なところがいい。黒い衣装。ヒカリエにゐた孔明のものよりもさらに薄地のやうに見える。薄地だけどちやんと模様が入つてゐる。前回の展示ではちよいと上向き気味で、しかも勝手に「死に態の孔明」と呼んでゐる白い衣装だつたから、今回の方がいいと思ふなあ。

中央は白竜に乗つた玄徳。髭のかしら。前回も髭だつたし、今回はなくてもいいのに、と思はないでもないが、五虎大将勢揃ひだし、さういふわけにもいかないのか知らん。
白竜の横顔がとても可愛い。こんなに可愛かつたらうか。目がつぶらで、王子さまの白馬つて感じ。なんてーんですか、Prince Charmingの馬はかくもあらんかといつたところだ。馬上の玄徳がまたやうすがいいんだよね。凛々しい。玄徳のかしらの元は源太だと思つてゐたけれど、髭ありは孔明かもしれないなあ、なんぞと益体もないことを考へたりした。

その前に淑玲。これが実に可愛い。淑玲は、人形劇のときも、ものすごく可愛いときと、なんだかもつさりとしたときとあつたものだが、今回の展示では文句なく可愛いな。ちよつと上を向いた感じ、胸のあたりで腕を抱いたやうな感じ。可愛い可愛い。

さらにその前は、左手に趙雲、右手に孫乾が、片膝をついて控へてゐる。
「孫乾!」と、個人的にかなり盛り上がる。実は飯田に行くちよつと前に突然孫乾を見たくなつて「玄徳の失敗」の回を見返したところだつたんだよね。
趙雲は槍を手挟んでいる。これがまた惚れ惚れとするやうないい男で、なあ。ちよつとうつむき加減なところがまたいいつて、うつむき加減が好きか、ヲレ! どうやら好きらしい。かしこまつてゐるわりにはどこか勇壮な雰囲気もある。
一方孫乾は、趙雲に比べるとかなり大人しげな印象。肩当てがないから、かなあ。肘の張り具合もおとなしいのか。あと、孫乾は剣を腰から下げてるだけだしね。ちなみに、孫乾の兜には「大吉」の文字が刻まれてゐる。他の人の兜も確認したが、文字が刻まれてゐるのは張角の「黄」だけで、他の人は花模様だつたりした。うーん、なぜ大吉? しかも孫乾。人形劇の孫乾は、ちよつと困つたやうな「いい人」つぽい顔つきがいいねえ。

そのうしろは龐統。今回はなにも銜へてゐない。ぐるりとまはりこんでもよく見えないやうな位置にゐるのが残念である。そのとなりにゐる黄忠とあはせて、今回はあまりよく見えなかつた。残念。

淑玲の横に美芳。張飛の方を見てゐる心、なのだらうか。まはりこんでちよつと後方から見たときの美芳が実にいい。見る角度によつて全然ちがふんだよねえ。

一番右手前方が馬上の張飛。赤兎・白竜と比べるとチト落ちる馬なのが残念といふか可哀想といふか。あと、蛇矛の構へかたのせゐか、いろんなアングルから見るのがむづかしい、といふのがチト惜しまれる。

その後ろが黄忠。
前回の展示のときも思つたけど、かうして見ると、黄忠つてダンディなおじ(い)さま、だよなあ。思慮深さう。あんな、老いぼれと云はれて怒つて出陣するやうな、そんな短気なところは微塵もないやうに見える。ふしぎなものである。

この玄徳のケースと曹操のケースとのあひだに、メカ馬のケースがある。
#妾馬ぢやないよ。
はじめて見るかも。
騎馬での行軍を実現するための、コンピュータ制御の馬の一群、とでも云ふべきか。サイズは、人形アニメーション用の人形よりさらに一回りくらゐちいさいと思ふ。
各馬の足下にあるモータを入れたケースも見られる。これが、一頭一頭中身がちがつてゐる。ただ走るだけだつたり落馬させたりといつたちがひによつて、中身もちがふ、とのこと。
騎馬兵もひとりひとり装ひも頭の形などもちがふし、馬も尾の感じから装飾品まで異なつてゐる。馬にはいろんなブレードが用ゐてあつた。人間は表情もひとりひとりちがつてゐた。
実によくできてゐる。動いてゐるところも見たかつたなあ。

「黄巾の乱」についてはこちら
「宮廷の抗争」と「連環の計」についてはこちら

Tuesday, 17 September 2013

野望と無謀との間で

出かけないとタティングしない日々がつづいてゐる。

昨日は東京マッハが出張しておこなつた札幌マッハをUSTREAMで視聴した。そのあひだ、手元ではかぎ針編みのスカーフを編んでゐた。といふか、編んだり選句結果やメモを書き記したりしてゐた。

東京マッハといふのは公開句会だ。メンバーは千野帽子、長嶋有、堀本裕樹、米光一成(五十音順)の四人で、そこにゲストが加はる。
昨日は、颱風のせゐで札幌にいけなかつた客のために急遽USTREAM中継がおこなはれた。やつがれは、その恩恵を受けることができた、といふ寸法である。

ついかぎ針編みのスカーフに手を出してしまふのは、もういい加減早く仕上げたい、といふ心があるからである。
颱風一過、いきなり涼しくなつてきたせゐもある。
はやく毛糸で編みたいでせう。
綿の糸もいいけどさ。デビー・ブリスなんかは、コットンで編んだセーターなどは一年中着られる、といふやうなことを云つてゐたと思ふけどさ。そしてそれはそのとほりなんだけどさ。

しかし、もう秋である。
十月といへば、暦の上ではDecember、ではなくて、冬である。すくなくとも昔の中国や漢詩の世界ではさう。最近、酩酊状態で史記を読んだり、漢詩を読んだりしてゐるので、すつかり暦と季節の感覚がずれつつある。
七月は秋。蘇軾だつて「壬戌之秋七月既望」つて「赤壁賦」に書いてるぢやん。七夕は秋の行事。
八月は晩秋の趣を強く感じるのは、土井晩翠の「星落秋風五丈原」のせゐだらう。つてこれは漢詩ぢやあないか。

もとい。

そんなわけで、もう秋なのである。
といふか、秋も終はりかけてゐる。
夏糸でスカーフなんか編んでゐる場合ぢやあないのだ。
その結果、この連休中は、可能なかぎりかぎ針編みをしてゐた。と思ふ。たぶん。

で、タティングレースの方は、一向にすすんでゐない。
例によつて、Jon YusoffデザインのThe Twirlyといふモチーフを作つてはせつせとつないでゐる。
七つつないだドイリー状のものができたあと、もうひとつおなじものを作つてつなげやうとしてゐて、現在そちらは四枚つないである。前回も書いたやうに思ふが、どうやらすこし手が速くなつてきたのらしい。慣れてきたのだらうな。

この勢ひに乗じて、がんがんタティングしやうぜ。
さう思はないでもないのだが、なぜかこの連休中は一度もシャトルを手にすることはなかつた。
すすまないわけである。
タティングしたい気持ちはある。
気持ちはあつて、しかし、目の前に編みかけのかぎ針編みのスカーフがあると、そちらを先になんとかしなければ、といふ気持ちになつてしまふのだ。
こればかりは如何ともし難い。

それにしても、この、The Twirlyをつなぎまくつたものを、やつがれはどうしやうといふのか。
我ながら謎である。
もつとたくさんつないで、おほきなものを作らうといふのか。
うん、まあ、そんなところかな。
できたらそれこそスカーフとかもつと云ふとショールとかになるくらゐつなげてみたい。
そんな気がしてゐる。

しかし、いまのペースとタティングに割ける時間とを勘定に入れると、それはいはゆる「無謀」なんだよなあ。
きりのいいところで切り上げるべき、なのかなあ。

Monday, 16 September 2013

なにを買はうかな

颱風がきてゐる。
いや、もう過ぎ去つたのか。余韻が残つてゐるのか。
颱風は、過ぎたら案外すかつと晴れて蒸し蒸しするもの、と思ふてゐたが、近年、颱風が去ると涼しく感じることが多い。
通り過ぎてもいつまでも風雨が強いといふのも、ここ数年のことかと思ふ。
我が家のあたりは、風雨については爆弾低気圧のときの方がひどかつた。
しかし、颱風の方が、風雨の強い時間が長いからなあ。

さて、しつこく何度も書いてゐるかぎ針編みのスカーフについて、である。
風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐる玉編み風のスカーフだ。

昨日めでたく、三玉目を編み終へた。
即刻最後の四玉目に着手した。
ここから先がまた長いのだが……この三連休あたりは、颱風のせゐで蒸してゐたこともあつて、ひどく暑かつた。
去年あたりからうすうす感じてはゐたが、どうやらやつがれは暑さより湿気に弱いらしい。
湿気はどうにもならないからなあ。そして、ここ数年、毎年夏の湿気はひどくなつてゐるやうに感じる。

そんなわけで、もうしばらくは暑いのかな、といふ気もしないではない。
天気予報では、颱風の去つた明日からは朝夕はすかつと涼しくなる、といふのだが。
さうなつたら、このスカーフも使へさうだ。
といふか、それよりも編めよ、といふところだ。

ところで、この秋冬のあみもの本はまだ一冊も買つてゐない。
店頭で見た感じだと、「優美な模様のニット クチュール・ニット18」はほしいかなあ、といつたところ。
志田ひとみのこのシリーズは、一冊くらゐしか買つたことはない。今回は、ちよつと編んでみたいものがあるので、候補に入れてゐる。
あとは「風工房のスタンダードニット」。こちらは店頭で見たところ、「これを編む!」といふのがなかつたので、見送るかもしれない。まあでも、「これが編みたい!」といふのは気分の問題で、見るときの気の持ちやうで変はつてくるからなあ。

発売前で、気になつてゐるのは、「毛糸玉使いきりニット セーターから小物まで」と「手編み靴下研究所 」。いづれも中身を見てからだなあと思つてゐる。とくに後者は、「輪針でニット びっくり! 楽しい「輪針」の使い方」のやうに新たな情報がない可能性がある。まあ、新たな情報がなくても、「これが編みたい!」といふ作品があつたら買ふがね。

もひとつところで、もうせん「たたとたた夫さんのリブセーターを編む」と書いてきたが、どうもこれで編まうと決めてゐたプリンセスアニーの色が廃番になつたつぽい。
どうすればいいのー、と、途方にくれてゐる状況だ。
似たやうな太さで似たやうな色の毛糸を探すしかないのか。むむー。
おなじパピーのNew 4Plyに似たやうな色があるのは知つてゐるのだが、New 4Plyぢやちよつと細いんだよなあ。New 3Plyにもおなじやうな色があれば、ひきそろへて編めばいいのか知らん。

そんなわけで、ちよつと計画がくづれてきてゐる。
思つてゐたよりも、あみものの新刊を買つてしまふかもしれない。

Friday, 13 September 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 宮廷の抗争と連環の計

「黄巾の乱」の次のケースの主題は、「宮廷の抗争」と「連環の計」とである。

「宮廷の抗争」。いい題名ぢやな。
渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーの方は、「漢室」になつてゐるが、「宮廷の抗争」の方が似つかはしい。まあ、それにしても袁紹と許攸とがゐるのは妙ちきりんな話ではあるけれど。

「宮廷の抗争」といふことで、何后、陳留王、弘農王、何進、そして董太后がゐる。
最初の三人は、作りなほされたものが現在ヒカリエにもゐる。

何后は、ヒカリエにゐる方がより驕慢で、白い皮膚の下にある脂もより濃厚な感じ。髪の毛の盛りも渋谷の方が贅沢だし、その分装身具なども豪華になつてゐるやうに思ふ。
下賎の身で皇后の位にのぼりつめた直後が飯田で、その後皇帝の母となつた姿が渋谷、といつたところか。

陳留王については、ヒカリエの展示について書いたときに記したとほり、なぜか飯田の方がいい表情をしてゐるやうに見える。
渋谷の陳竜王はなんとなく賢しげなんだよね。あれはなんでだらう。正面を向いて、ほんのり微笑んでゐるやうに見えるのだが、本心からの笑みに見えない。
一方、飯田の陳竜王は、もうすこし幼い感じで、幼いながらも賢いやうに見受けられる。
その後、飯田には行つてゐないからよくわからないが、渋谷の方は照明の加減でさう見えるのかなあ、と思つたりしてゐる。

弘農王は、つい陳留王と比べてしまふ。
どこがどうちがふか、といつて、弘農王の方が額が出てゐる、といふか、目の部分がひつこんでゐる。
普通、秀でた額といへば賢さを示す特徴だが、この場合はこれにあたらない。
両目の離れ具合とか、眉と目との離れ具合とか、さういふところで違ひが出るのだらう。
あ、あと弘農王の方が姿勢が悪い。ちよつと首が突き出たやうな姿勢で立つてゐる。
陳留王の方が姿勢がいいもんな。
姿勢、重要だな。
衣装は、弘農王の方が若干豪華。前垂れとかもあるし。

何進は、赤を貴重にした衣装。前垂れも赤地に鳳凰を刺繍したもので、とても豪華。
何進のくせに生意気だぞー、と、つい思つてしまふ。
位人臣を極めたわりには、それほどあくの強い印象はない。

どちらかといふと、その隣にゐる董太后の方が、ひとくせありさうな表情で立つてゐる。
衣装は、色味は地味。
人形劇では最期に陳留王に「人を恨んではいけない。弘農王や何后を恨まぬやうに」と云ひ残して死んでいく。そのせゐか、「いい人」といふ印象が強い。でも、考へてみたら、長年後宮で暮らしてきた人だもの、それなりにくせはあるの
かもしれないなあ。

「連環の計」には、董卓、貂蝉、王允、呂布、そして李儒がゐる。
この五人は、前回の渋谷ヒカリエの展示にもゐた面々だ。

董卓は、黒い武人の出で立ちである。
人形劇で見てゐたころは、董卓にはなんとなく「だらしない」印象があつた。
髪とか髭とかのやうすでさう思つてゐたんだらう。
きちんとしてゐるやうに見えなかつたんだよね。
渋谷で見たときに、作りなほした方はえらい立派に見えた気がした。
「だらしない」といふのは、こちらの目の誤りだつたのかもしれない。
飯田の董卓も、立派に見えるからだ。
うーん、黄巾討伐のころの董卓にだらしない印象があつて、その後もその印象を
引きずりつづけてしまつたのだらうか。

貂蝉は、飯田の方がはかなげな感じである。
より細面、なのかな。
学芸員の方に、下からふりあふぐやうに見るとふんはりとやさしい表情をしてゐるんですよ、と教へられて、かがんで見上げてみた。
なるほど、確かにいい顔に見える。
渋谷でもやつておくんだつたなー。
女の人は、この貂蝉と何后としか見てゐないけれど、作りなほした方が肉感的な感じに見受けられる。

呂布は、同じく学芸員の方から、一番最初に作成された人形だ、とうかがつた。
渋谷の呂布は、以前も書いたが、なんだか暴走族のヘッドのやう
な、嫩い印象だつた。
人形劇の呂布はもつとこー、男くささが匂ふやうな感じだつたからね。
飯田の呂布はといふと、それでも人形劇のときよりは、やはらかい印象、かなあ。正面から見たときに、とくにさう思つた。
例によつて、眦の裂けさうなほど横を睨んでゐるのだけれど、正面から見たときはそんなに怖くない。
人形劇のときは、「こいつ、キレる。脳の血管もキレてる」とか思ひながら見てゐたからなあ。さういふ、狂気の印象はない。
最初にできたといふわりには、衣装の褪色や劣化もそれほどひどくないやうだ。

王允は、人形劇のときの、小狡さうなやうすで立つてゐる。
渋谷の王允は、どちらかといふと老獪な官僚といふ感じであつたけれど、人形劇のときは小狡い小動物のやうな感じだつたものね。
同じく学芸員の方に、「王允は宦官」といふやうなお話をうかがつたが……いや、王允、宦官ぢやないし。髭あるし。
と、主張できなかつたのが心残りである。
「宦官」発言の心は、どこか柔弱である、といふことだつたんだと思ふんだけどね。
たしかに、飯田の王允のねちつとしたところは、さう思はれても仕方がないのかもしれないなあ。
正史とかではえらい褒められやうなんだけどなあ、王允。

李儒は、なにしろ渋谷の李儒がなんとも色男な感じだつた。色男といふよりは、間男、かも。
人形劇の李儒には、どこかキツネのやうな、顔の具が全体的に真ん中に寄つたやうな印象を抱いてゐた。
最近になつてDVDで見直してみて、「それとはちよつとちがふかな」とは思つてはゐた。
実物は案外いい男である。
李儒といふと、なんといつても董卓をはねとばしちやふやうな人だし(人形劇には出てこないけど)、実は董卓より悪だらう、董卓より悪つてどんだけ悪だよ、
といふやうな人物だと思ふんだが、その「悪」な感じがいいんだらうなあ。
学芸員の方も、「いいところが微塵もない」といふやうなことをおつしやつてゐた。
なるほどなあ。「いいところが微塵もない」。「全身是悪」。
いいぢやあないか。
渋谷の李儒は、黒地に色とりどりの渋めのラメを散らしたやうな、どこか七十年代のアイドルが着てゐてもをかしかないやうな衣装だつたが、こちらは人形劇のときとおなじ(あたりまへだ)、渋い衣装。
右手後方から見ると、かしらの中のあいてゐるやうすも見える。

「黄巾の乱」についてはこちら

Thursday, 12 September 2013

手帳は決まつて、さて、かばん

平日持ち歩くかばんは、ブロガーズトートに落ち着いてゐる。
これひとつ持てば忘れ物はない、といふのが大きい。
以前も書いたが、トートバッグではあるものの、内袋が充実してゐるため、大事にしまつておかなければならないものや即取り出したいものを定位置に入れることができる、といふのもいい。
とくに、ファスナーつきの内袋が二重になつてゐる点が気に入つてゐる。社員証は一番内側のファスナー付きの袋に入れて、外側の袋に財布を入れる。これで、財布を取り出したときにうつかり社員証も道連れになつてしまつた、といふ事態をふせぐことができる。

大きいので、いろんなものを持ち歩ける。
それで、一時期異様にものを増やしてしまつたので、いまはなるべく減らすやうにはしてゐる。
それでも大容量だ。
帰りに本屋に寄つて不意の買ひものをしても、袋の心配をする必要がない。
いや、不意の買ひものなど、本来はしてはならないのだが、ここではそれはおく。

さうやつて、なるべく荷物を入れないやうにしておくと、雨の日対策にもなる。
もともと雨をはぢく仕様だが、トートバッグゆゑに口が大きく開いてゐる。雨が降り込む可能性がある。
しかし、中身をすくなくしておいて、脇でぐつとしめて持てば、自然と口が閉じるので、その心配をしなくても済むのである。
まあ、多少の雨ならば、といふ条件付きではあるが。

また、くつたりしたかばんなので、うまいこと躰に沿ひ、重さを分散させてゐるやうにも思ふ。

そんなわけで、すつかり手放せなくなつたブロガーズトートだが、やはり大きい。
あたりまへなのだが、チト大きすぎるんぢやないか、と思ふときがある。
たとへば、満員電車の中で、とかね。
中身をそんなにつめないやうにしてはゐるので、なるべく内側に折り畳むやうにして持つてはゐるのだが、たとへば電車が止まつて大混雑のときに持つてゐるのは、やはり気が引ける。

ではどんなかばんを持つべきか。
ネコリュックと小さいかばん、といふのが一番いいのかなあ、と思つたり。
あるいはもつと荷物を減らして、小さいかばんで通ふやうにした方がいいのかなあ、と思つたり。

あれこれ考へてゐると、「あれしかないか」といふところに考へが落ち着く。
あれ。
すなはち、マーガリーバッグ、いまで云ふ、アメリバッグ、である。

マーガリーバッグに出会つたのは、通販生活でだつた。
何冊かカタログを見るうち、どうにも気になつて買つてみて、ほかのかばんを持てなくなつてしまつた時期がある。
マーガリーバッグのなにがいいか。
背負つたときに重さが分散されるので、大荷物でも重たく感じないところである。

小さいサイズの方を買つて、使ひつぶして、もうひとつ買つた。
やつがれがあまりにも気に入つてゐるので、母も買つた。母はいまひとつ気に入らなかつたらしく、母のかばんも使ふやうになつた。

マーガリーバッグの欠点は、A4の書類が入らないことである。
Mサイズなら丸めれば入るかもしれないけれど、会社人はそんな持ち方はしない。
そんなときは別に手提げを持てばいい。
さう考へられる人には向いてゐる。

マーガリーバッグを使はなくなつたのは、通販生活での取り扱ひがなくなつたからだつた。

気がついたら、アメリバッグといふ名前になつて、あちこちで売られてゐる。
現在使つてゐるのは、化繊の生地のもので、丸善丸の内本店で買つたものだ。
マーガリーバッグのころは、革のかばんしかなかつたやうに記憶してゐる。

このかばんには、もうひとつよいところがある。
それは、内袋が充実してゐるところだ。
ブロガーズトートとの共通点である。
カラビナをかけるリングもついてゐるから、キーケースもひつかけておけるしね。

来年からは、カンダミサコの文庫サイズ手帳カヴァに入れたほぼ日手帳を持ち歩くつもりだし、それでなくても荷物が多いので、アメリバッグを通常使用にしやうかなあ。

などと、考へてゐるときが一番楽しい。

Wednesday, 11 September 2013

来年の手帳 第一弾

来年の手帳がやつてきた。

Panamas

向かつて右端の黒い手帳がそれである。
SmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S DIARY) 2014だ。
「黒革の手帳」、だな。

ほかの手帳は、左からことば書留用のSCHOTT'S DIARY 2009、句帖用のSCHOTT'S DIARY 2010、そして、現在使用中のPanamaである。

ことば書留用と句帖用については、先週ちよこつと書いた。
ことば書留用は、ミケブログで見かけてその使ひ方はいいなと思つて真似したもの。
句帖用は、藤田湘子の「20週俳句入門」を読んだところ、句を作るのなら用意すること、といふやうなことが書かれてゐたので使ひはじめた。この手帳を選んだのは、一日分のスペースに一句書けばいいかな、と思つたからである。

ところで、SCHOTT'S DIARY 2009は、やつがれにとつてはじめてのSmythsonの手帳だつた。
この選択は正しかつたと思つてゐる。
なぜといつて、書き込む前からSmythson Panamaを楽しめるからである。

無論、なにも書いてゐないPanamaの手帳でも、楽しめないことはない。
手に取つて、革の表紙の手触りを愛で、製本具合を鑑賞する。水色の紙のうすさ、小口のやうす、栞の色の表紙と似つかはしいこと、などなど、見て楽しいことはいくらでもあげられる。

Smythsonの手帳のいいところはなんだらうか。
その点については、すでに先達が書き尽くしてゐることだろう。
ここで、あらためてご大層に述べることもないと思ひつつ、敢て書くと、それは、「ページをめくる楽しみがあること」だ。

現在、Panamaの手帳を使つてゐて、気がつくと意味もなくページをくつてゐることがある。
やつがれの書くことだから、至極くだらないことが書いてある。
くだらないとわかつてゐて、ぺらぺらとめくつてしまふ。
めくるときの感覚がすばらしいからだ。
水色のうすい紙は張りがあつて、めくるときにちよつと音がする。
これがまづいい。
字の書き込まれた紙は、すこしよれてゐて、新品のときとはまたちがつた趣がある。
それもいい。
そして、たくまずして日々の振り返りができる。
これもいい。

かうした楽しみは、ただの手帳であつたら、あるていど書き込んでからはじめて享受できるものである。
SCHOTT'S DIARYはちがふ。
使ひこまれたよれはないけれど、買つた直後から読む楽しみ、ページをめくる楽しみのある手帳だ。
ベン・ショットの集めた雑学が、あちらこちらにちりばめられてゐるからだ。

ほぼ日手帳に「今日のひとこと」があるやうに、SCHOTT'S DIARYには、その日の歴史的できごとが書かれてゐる。巻末のメモページには引用句がある。
その他、年によつて内容はことなるけれど、こんな感じでとにかく「読みでのあるスケジュール帳」なのである。

さらに、ことば書留用にしたことが、余計に「めくりたい病」に拍車をかけたのだらう。
昨日、2020年オリンピックの東京開催がきまつた、といふことで、「みんなが七年後を思つて希望を抱くやうになつた」といふやうな発言を耳にした。
「えー、別に、希望なんて抱いてないけどな」と、やつがれは思ふ。
きつと、やつがれは「みんな」ではないのだ。
こんなとき、なんかあつたな、と、SCHOTT'S DIARY 2009のページをくる。
あつたあつた。

なぜ宗教が怖いと思うのか。
自分なりに考えて出した結論は、その団体感です。
と、みうらじゆんは「マイ仏教」で書いてゐる。
つづけて、
似た考えの人が集まって、ひとつの目標に向かって頑張らなければいけない、という状態が非常に怖いのです。自由の根本は、「みんなちがって、みんないい」のはずで、マイナーな意見が潰されがちな団体というものがとにかく怖いのです。
とも云つてゐる。

こんな感じで、なんとなくぱらぱらとめくつたり、あるいは意識をもつてめくつたり、とにかくSmythsonの手帳はページをくるのが楽しい。

書き込む前からその楽しみを味はせてくれるSCHOTT'S DIARYは、はじめてのSmythsonの手帳として、最高だつたんぢやあるまいか。
そんなことを思つたりしてゐる。

さて、「第一弾」といふことで、実はまだ来年のほぼ日手帳を注文してゐない。
オリジナルのカヴァなしだけ、のつもりでゐたのだが、職場でカズンを使つてゐたら、「やつぱりカズンもいいなあ」と、悩みが生じたからである。
うーん、中身しか買はないつもりだから、まだ悩んでても大丈夫かな。

Tuesday, 10 September 2013

現代のノマドへ

夕べはすこしだけかぎ針編みのスカーフを編んだ。
すこしだけ、一段も編んではゐない。

さて、一方タティングレースはどうなつてゐるかといふと、こちらも遅々としてはゐるが、進んでゐる。
先週、The Twirlyといふモチーフを七つつなぐことができた、と書いた。
その後、おなじモチーフを二つ、つなげてゐる。

The Twirlies

中心のモチーフに六つのモチーフをつないだドイリー状のものを、ならべてつなぐつもり、とは、前回も書いた。
今回、思つたより進み具合がいい。
手が慣れてきたのか。あるいは気のせゐか。

この土曜日も出かけたので、出先にタティングレース道具を持つて出た。
結局、外ではなにもできなかつた。
持ち歩いてゐてもなにもできない、といふことはよくあることだ。
そんなんだつたら持ち歩かなくてもいいのに、と思ふ。
持ち歩かなければ荷物も減るしな。
とはいへ、現在のところ、がま口の財布に入るていどのものしか入れてゐないことを考へると、まあ、それくらゐなら持ち歩いてもいいかな、といふ気もする。

さうやつて、タティングレース以外にも、たとへばいまこれを打つてゐるポメラDM100や、読みさしの本や、手帳や萬年筆、その他こまごましたものを持ち歩いてゐる。
当然かばんは重たい。
一時、ちいさいかばんを持つやうにして、だいぶ荷物が減つた。ここのところ、ブロガーズトートを愛用してゐるので、また持ち歩くものが増えてきてしまつたのらしい。

ブロガーズトートなら、編みかけのものだつて入るよなあ。
さうは思へども、それをやつたら満員電車で邪魔になるよなあ、とも思ふ。
それでなくてもかばん自体がおほきいからな。できるだけちいさく折り込んで電車に乗るやうにはしてゐるけれど、中身が増えては如何ともし難い。

さうすると、やはり、タティングレース、なんだよなあ。

これまた先日から飯田へ行きたいと書いてゐる。
実はもうだいたい行く日は決めてゐる。
考へてみたら、りんごの時期なんて、紅葉狩りの客でバスも道路も大混雑かもしれない。
それなら、時期をずらして行つた方がいいのではないか。
とかいひながら、りんごの季節にも行つてるやうな気もするけれど。

ほんたうは、飯田への道中にタティングレースとかできるといいんだがなあ。
むかしは馬車で移動中にタティングレースにいそしんでゐた人もゐるといふし。
Nina Libinあたりも「現代のノマドへ」といふやうなことを書いてゐる。シャトルにビーズをとほした糸を巻いておけば、どこでだつて作ることができる。そんなやうことを、本に書いてゐる。

どちらかといふと、ノマド、といふよりは、家に引きこもつてゐたいのだが、いまの世の中さうも云つてはゐられない。
だつたら、糸を巻いたシャトルを持つて外に出るといふのもいい手かと思ふ。
もしかしたら最善手かも。

問題は、車中で手仕事をすることに、理解のない向きもある、といふことか。

Monday, 09 September 2013

九里をもつて半ばとしたつもり


あまりにも進展しないので、書くまでもない気がする。
それでも書くのかマリン。
それでも書くのさマリン。

閑話休題。

かぎ針編みのスカーフはあひかはらず三玉目で編んでゐるところ。
八月の半ばくらゐからこの方、平日はまつたく編めずにゐる。これが進まない原因だらう。
なぜ編めないのか。
疲れ切つてゐるからだ。
暑さに、もつと云ふと湿気にやられてしまつたのである。
かつて戸川純は「となりのインド人」で「日本の夏は蒸すけど涼しい」と歌つてゐた。然るに、いまやインドも場所によつては東京より気温が低いご時世である。
まあ、インドだつてヒマラヤに近いあたりはもともとさうだつたのかもしれないけどさ。

一番ひどいときは、休みの日にすら編めなかつた。
なんだかもうぐつたりしてしまふのである。
あまりにも暑いので、家で「暑いー」とうだうだしてゐるよりは出かけやう。
もともと八月といふのに芝居の予定がつまつてゐたこともあつた。
そのうへに、無意味に出かける。
結局、横浜人形の家で開催されてゐた川本喜八郎の里見八犬伝の人形展にも二度も行つたし、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーで催されてゐた川本プロダクションのイヴェントにも二度も行つた。
ヒカリエのイヴェントなんて、大阪に日帰り旅行した次の日に行つたんだぜ。いやはや、なにを考へてゐたのだらう。暑さと湿気とで、脳味噌がやられてゐたのだとしか思はれない。そのイヴェントが楽しかつた、といふのは、すでに書いたとほりだがね。

家にゐないと、あみものは進まない。
最近あみものは外に持ち出さないからなあ。
お出かけの供はタティングレース。
さうなつてもう幾星霜(大げさ)である。

ここのところ、やつと休みの日に家にゐるときは編むやうになつてきた。例によつて録画した「あまちゃん」を見ながら、せつせと編んでゐる。
三玉目も残すところあとわづか。

ハマナカポーム無垢綿レース糸

しかし、ここからが長いのは、一玉目と二玉目で経験済みである。
二玉目のときは、このあたりから、「もう今日にも次の糸玉に入れるだらう」と毎日のやうに思つてゐた。
入れなかつた。
編んでも編んでも終はらない。
もしかしたらこの糸は、編んでも編んでもなくならない糸なのではあるまいか。
さういふ恐怖にかられたこともあつた。
なんていふの、妖怪糸たぐり? ちよつと違ふか。

二玉目を編んでゐたころは、それでも毎日編んでゐたので、「今日は終はるだらう」が二週間くらゐつづいた、とはすでに書いたとほりである。

ここから先も長いんだらうなあ。
さう思ふと、ちよつとうんざりしてくる。

昨日あたりは突然気温が下がつたので、「よし、毛糸を出してくるか」と思はないでもなかつた。
新たなものに着手すれば、進むのではないか。
いま編んでゐるスカーフが、ではなくて、新たに着手するなにかが。
そんな淡い期待を抱きつつ、しかし、新たなものには手を着けてゐない。
まだ湿気が多すぎる、といふこともあるが、やはりなんとなくいま編んでゐるものを完成させたいからだ。

さう、この期に及んでまだ、綿のレース糸のスカーフを完成させやうとしてゐるのだ、このやつがれは。

以前も書いたとほり、この冬はたた&たた夫さんのリブセーターを編むつもりでゐる。
予定はたててゐるのだから、即着手すればいい、と、我ながら思ふ。

しかし、それも、いま編んでゐるスカーフの完成の目処がたつたら、だらうなあ。

そんなことを云つてると、着たい時期にセーターが編み上がらないといふ、悲しい事態が発生する可能性が高まるとわかつてはゐる。
わかつてはゐて、しかし、どうにもできない身の上なのだつた。

Friday, 06 September 2013

八月の川本喜八郎人形ギャラリー

八月七日から二十一日までのあひだ、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで、ちよつとしたイヴェントがあつた。
書いたつもりでゐてすつかり忘れてゐた。
一ヶ月もたつし、もういいかなとも思つたが、記憶のよすがに残しておく。

午後一時から五時まで、川本プロダクションの方々や人形遣ひの方がギャラリーにいらして、人形の操作を実演してくれたり、その人形を実際に持たせてくれたり、いろいろ説明してくれたりしてゐた。
このとき皆さんお召しのTシャツが、一昨日書いた川本喜八郎の絵をもとにしたTシャツである。

七日から十日のあひだは、孔明をつれてきてゐたのらしい。
何度も書いてゐるが、孔明は前回の展示のときにゐたので、現在の展示にはゐない。最後に見たところ、孔明は一番傷みのすくないうちの一に見えたけれど、それでも長いこと照明にさらされてゐるとよくないからね。

やつがれが行つたのは、十一日。
たぶんまだほんとに髪の毛の黒いうちの実盛を触らせてもらつた。
あれはね、まだ染めてないと思ふんだよね。
あと、鎧兜をつけた人形。これが重たくてねー。2.5kgはあるといふ話だつた。これを頭上高くかかげて操作するのだ。鎧と兜とは京都の職人の作つたものださうで、実に精巧にうつくしくできてゐる。川本喜八郎はご満悦だつたのださうだが、人形遣ひにとつては、ねえ、といふ話もあつた。

このときは、人形遣ひの船塚洋子さんがいらしてゐて、操演もしてくだすつたし、いろいろお話もしてくだすつた。

船塚さんは、「平家物語」では義経を遣つてゐたのだと、云ふてゐた。
その後、スタッフの方々から、「人形劇三国志」では曹操を、「ひょっこりひょうたん島」では博士を遣つてゐたと教へられた。「新八犬伝」では信乃さんだつたとも聞いた。
なんだか、こー、やつがれの人形劇鑑賞歴を実際に支へてらした方が目の前にゐる、といふ、そして実際に人形を遣つてゐる、といふ、そして、お話までしてくださる、といふ、いろんな思ひがわきあがつては混迷する、そんな感じであつた。

しかも、である。
現在の展示で一等お気に入りの、敗残の為朝を見てゐたら、背後から「これ(為朝)、いいでせう」と、聲をかけてくだすつたのだよねえ。
現在の展示は、船塚さんの手によるものだといふ。
頼長や忠通の衣装はちよつと地味なので、ちよつと華やかな裏地(といつても頼長はともかく、忠通は深緑色だつたりはするのだが)を見せてゐる、とか、忠正は下に鎧を着てゐるのがわかるようになつてゐる、とかいふことも教へてくだすつた。
これまで何度も見てゐるのに、なにも見てゐなかつたんだなあ、やつがれは、と、しばし落ち込みもしたが、なに、為朝が、それも、右腕の筋を切られてそれでも不敵に天をあふぐ為朝が、一番ステキよねー、みたやうな話ができたことが、ひどくうれしかつた。
我知らず、女子高生のやうな聲になつちやつたもんね。普段はヲツサン聲なのに。

その後、川本プロダクションの方もしばしお話をしてくだすつた。
気さくな感じは、歌舞伎の大道具の長谷川勘兵衛を思ひ出させるものがあつた。長谷川勘兵衛さんは、「楽屋口で「勘兵衛を呼べ」と云つてくれれば、いつでも案内しますよ」と云ふてくれたつけか。畏れおほくてやつたことはないけれど。

ところでおわかりの向きにはご存じかと思ふが、もともとやつがれはあまり疑問といふものを抱かない。
あるがままにしなさい。Let it be。
といふか、疑問を抱くほどものごとを深く知らうとはしない。
「そーゆーものなんだー」ですませてしまふ、めんどくさがりを体現した人間である。
ゆゑに、人との会話もはづまない。
初対面の人となんて、なにを話していいかわかんないしね。
ただ、先日、三森ゆりかのセミナーを受けることがあつて、すこし質問のコツのやうなものがわかつた気がした。
それでも生来の性格といふのは如何ともし難いものはあるのだが、それでも知つただけ、すこしはましだつたのだらう。
このときも、なんとか、相づちを打ててゐたんぢやあるまいか。
いや、わかつてゐる。スタッフの方のお話がうまかつただけなんだ、ほんとは。
でもまあ、自分にしては、よかつたんぢやないかな。

このイヴェントの期間中、八月十四日から十八日のあひだは、おなじヒカリエの8Fにある渋谷区防災センター会議室で、「平家物語」の上映会があつた。
去年は同時期に「人形劇三国志」からより抜きの回を上映してゐた。
今年は「平家物語」の第一部全12話を上映した。
やつがれは17日に行つて、保元の乱前後を見てきた。
いやー、やはり実際に動いてゐる人形はいいねえ。
しかも、そこで見てもつとよく見たい、と思つた人形は、ほんの数メートル離れたところにゐるのである。
現在、まだ「人形劇三国志」のDVDを細々と買ひもとめてゐるところなのだが、「平家物語」も買ふやうだらうかー。ぬー。

川本喜八郎人形ギャラリーは、渋谷区の運営するものといふこともあつて、阿堵物の関はるやうなことにはなにかと厳しからうし、不自由もあるかとは思ふが、なんとか、できるだけよい形でつづけてくだすつたら、と、願つてやまない。

Thursday, 05 September 2013

ひとしれすこそおもひそめしか

大和和紀のまんがに「KILLA」といふ作品がある。
「はいからさんが通る」のあとに連載されたものらしい。

「好きなものごとを他人に知られるのは、弱味を握られると同義である」といふ考へは、このまんがから得た。
そんな気がする。

「はいからさんが通る」は、シリアスな展開もあつたが、結構わけのわからないギャグもたくさん入つてゐた。
当時の少女フレンド読者は大河内伝次郎とか、知つてたのかなあ。直接知らなくても、芸人が「アヤヤオヨヨ」とかいふものまねを披露してゐたりはしたのだらうか。
いろいろ謎も多い。

「KILLA」は、一転して、ギャグのかけらもないまんがである。
登場人物の笑顔すらほとんどない。
あらすじはこんな感じ。
シェークスピア演劇の世界に彗星の如くあらはれた美少年キラ・クイーン(もしかしたらここは笑ふところか。木原敏江の「天まであがれ」と同ネタかな)は、実はかつて沙翁劇で名を馳せた名優に厳しく演技を仕込まれた孤児であつた。この名優は、現在劇界をほしいままにしてゐる俳優と監督とによつて失脚させられたことを恨みに思ひ、キラを育てることで復讐をはかつてゐたのである。
復讐は一見成功したやうにみえた。しかし、キラの野心は演劇界にとどまることはなかつた。
ファンのひとりだつた社長令嬢と結婚することで、経済界に打つて出るキラ。そのためには恩師を殺すことも厭はない。
やがて、自動車会社の社長とは表向き、裏では兵器製造売買で経済界に君臨する実の父とキラとは対峙することになる。

恩師(とはいつてもキラは手ひどく扱はれたことを恨みに思つてもゐたのだが)、岳父、妻を次々と死に追ひやり、実の父を追ひおとすキラだが、そんな彼にも、たつたひとつだけ聖域がある。
幼なじみのチェス・プレイヤ、アレク・フリードキンだ。
アレクは貴族の一人息子だが、実は母親とキラの恩師との間の子である。生まれたばかりのころ、目の色が実の父親に似てゐるといふので、気のふれた母親が針でつついてしまふ。それ以来、アレクは目が見えない。
出生のあれこれはあるものの、アレクはこの物語の中では「善」をになつた存在である。

キラについて、アレクは云ふ。
羊の群の中に狼を放したとする。飢えた狼は当然羊を襲ふだらう。だが、たれが狼を責めることができやう。狼は羊を食らふやうに生まれついてゐるといふのに。
その話を聞いた別の登場人物は云ふ。
「そして、あなたは羊飼ひなのね」と。

物語の終盤、実の父親との対決が迫ると、キラの側近であるルーファスは、アレクの存在を危険に感じるやうになる。
「聖域」は、弱点になるからだ。
実の父親が本心からキラを倒さうと思つたら、アレクを手に掛けるのが一番いい方法だ。

「聖域」は、「真に好きな人」「心から好きなものごと」に置き換へられる。
好きな人、好きなものごとを他人に、とくに敵に知られることは、自殺行為なのだ。弱点を知られることになる。
そんなこと、できるか。

「敵」つて誰だよ、とか、「どんなマキャヴェリストだよ」といまになつて思ひはするが、一度身についた習ひ性は、さうさうなくなつたりはしないのであつた。

Wednesday, 04 September 2013

ミノフスキー粒子散布中

先日、川本プロダクションからTシャツを三枚購入した。
生前、川本喜八郎が描いた人形劇三国志の絵をもとにした柄のついたTシャツである。
一枚は玄徳・関羽・張飛の三人の絵、もう一枚は関羽の絵、そしてもう一枚は孔明の絵のTシャツである。

上記リンク先を見ればわかるが、このTシャツはそれぞれ100枚限定発売なのだといふ。うちわけは、LサイズとMサイズが40枚づつ、そしてSサイズが20枚づつ。
ほしい向きは(ゐるかどうかわからないが)お早めに。

このTシャツについては、八月に渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーで開かれてゐたイヴェントで知つた。その場にゐた人形遣ひの方や川本プロダクションの方々が着てゐたのだつた。
Webサイトの写真より、実際に着てゐるのを見た方がステキな感じだつた。

ところで、このTシャツは観賞用にするつもりだつた。
なぜといつて、やつがれはカテゴリー5に属するからだ。
#映画「パシフィック・リム」をご覧の方にはわかることと思ふが。
#「カテゴリー5」といふのは映画の中で最大級の怪獣の属するカテゴリーである。

そんなわけで、買つてしばらくははふつてあつたのだが、昨日なんの気なしに試着してみた。
絵は横にひろがるはずだつたのだが、なんか、まあ、いいんぢやないかな。
ぴつちぴち、といふことは無視して、着ることにした。

着たのは、玄徳・関羽・張飛の柄のシャツである。
なぜといつて、これが一番neutralな柄であると判断したからだ。
一番「人形劇三国志のTシャツ」つて感じだらう?

これが、「関羽だけ」「孔明だけ」の柄だつたらどうか。
「関羽が好き」「孔明が好き」と公言しながら歩いてゐるやうに見えるんぢやあるまいか。
そんなの、気恥づかしいやね。
「海が好き」ぢやあるまいし。

そんなわけで、先日横浜人形の家で購入した12枚組の人形劇三国志のポストカードも全部持ち歩いてゐる。
どれか一枚だけ持ち歩いてゐたら、「あら、この人が好きなのね」とか思はれてしまふぢやあないか。
ポストカードの中にも、玄徳・関羽・張飛の三人が写つてゐるものがある。三人とも馬上なのだが、残念ながら関羽の乗つてゐるのが赤兎ぢやないんだよなあ。これが赤兎だつたらこれ一枚持ち歩いてもいいんだがなあ。

自意識過剰である、といふことは重々承知の上だ。
なにを云つても三十年前のTV番組だ。
去年あたりはケーブルTVで再放送されてゐたといふ話も聞いたけれども、それすらも、何チャンネルもあるケーブルTVの中の一番組だからなあ。

といふわけで、「関羽だけ」「孔明だけ」の柄のTシャツを着て道を歩いてゐたとしても、知らない人から見たら「長い髯のオツサンの柄」「めうちきりんな団扇を持つたオツサンの柄」にしか見えないにちがひない。

もつと云ふと、人の着てゐるTシャツの柄なんぞに気のつく人も少なからう。

ところで、では誰の絵だつたら着て歩いても恥づかしいとは思はないだらうか、と、考へてみた。
いろいろ考へてみて、曹操だつたら着て歩いてもいいかも、と思ひ至つた。
おそらく、やつがれにとつては、曹操はneutralな存在なんだらうな。自分にとつて曹操は、「人形劇三国志」あるいは「三国志演義」を代表する存在なんだと思ふ。

あ、夏侯惇でもいいかも。
#ないない。

Tuesday, 03 September 2013

ドイリーにしてもよいのだが

まだ作成途中なのでグダグダだが、タティングレースのドイリー(もどき)はこんな感じである。

Tatted Motif in Progress

とりあへず、六角形のモチーフを七つつなげたので、ここで終はつてドイリーといふことにしてもいいのだが、なんとなくもつとデカいものを作りたくて、次のモチーフも作りはじめてしまつた。七つつなげてできた六角形同士をさらにつなげたいと思つてゐる。

何度か書いてゐるが、このモチーフは The Twirly。Jon Yusoff の作品である。Tatted Snowflakes Collection に出てゐるモチーフの中で一等気に入つてゐるものだ。

ただ、つなげてみるとまた印象がちがふかなあ。
モチーフひとつの状態だと、ほんたうに「twirly」といふ感じなんだよね。くるくる廻りさうな印象。ちよつと風車のやうにも見える。
そこが気に入つてゐるのだが、七つつなげてみると、「twirly」感がチト失せる気がする。
気のせゐかな。整形すれば、もつとちやんとした形に見えるだらうか。

それにしても、こんなに気に入るモチーフといふのもめづらしい。
はじめて仕上げたタティングレースの作品は、藤戸禎子の「華麗なクラシックレース タッチングレース」に出てゐるドイリーだ。
六弁のちいさな花のモチーフをつないでヘクサゴン様の星形を作るものである。

Before Blocking

写真は、その後作りなほしたものである。整形前で恐縮である。
はじめての作品といふこともあり、また、これまたはじめてシャトルと糸玉とを使つてタティングできるやうになつたといふ興奮もあつて、あまり考へもせずにできあがつてしまつた、といふ記憶がある。
写真の作品の方は、初心に返るといふことで作りはじめたものなので、もうちよつと難航した。
そもそもこのモチーフがそんなに好きではないからである。
ただこの写真の作品を作つてゐたときは、マジックスレッドを修得するといふ裏の目標もあつたので、なんとか最後のモチーフまでつなげることができた。
その後も、モチーフつなぎの作品は何度か作つてみたり、そのうちのほとんどは途中で挫折したりしてゐる。

はじめてのドイリーを作つたときは、シャトルと糸玉とを使つたタティングの仕方を覚えたばかりだつた、と書いた。
なんとか最後までできたのも、そのせゐかもしれないな。

といふのは、これまた何度か書いてゐるが、The Twirly はシャトルをふたつ使ふのだけれども、それが苦にならないからだ。
シャトルふたつ使ひが苦手、といふのも、これまた何度も書いてゐることである。
それなのに、The Twirly ではそれが苦にならない。むしろ、楽しいくらゐである。
なにか新境地が開かれつつある。
それがつづく所以なのかもしれない。

ところで、これまで一番よく作つたモチーフは、Tatting With Visual Patternsに出てゐるMasqueradeだらうと思ふ。
四つつないだり九つつないだりしたものをいくつも作つてゐる。これはいつかもつとたくさんつないだものを作りたいと思つてゐる。なににしたものか悩むところだがな。世の中にはこのモチーフをたくさんつないでショールにしてゐる人もゐるので、そんなのもいいかなあ。

Monday, 02 September 2013

九月になつてしまつた

Crochet Scarf

進まない進まないと云つてゐるうちに九月になつてしまつた。

現在、かぎ針編みのスカーフは、まだ全四玉中の三玉目で編んでゐるところである。
だいぶ玉の終はりは見えてきてはゐるのだが、ハマナカのポームのレース糸はここから先が長い。
あとちよつと、あともう少しで編みきるのに、と思ひながら、ニ玉目もそこから一週間くらゐかかつてしまつた。
「あー、今日も終はらなかつた」とがつくりきたことも幾たびか。
その分編みきつたときの達成感は大きいが、とにもかくにもそこにたどりつくまでが長すぎる。

といふわけで、まだ四玉目に入つてゐない。
このままこのスカーフを編み終へられるのだらうか。
いや、それよりも、このまま編み続けるべきなのだらうか。

世の中、さうさう突然寒くはならないから、しばらくは綿のスカーフでもしのげるかな。
さう思はないでもない。
むしろ、毛のスカーフより綿のスカーフの方が長い期間使へるのではあるまいか。

どうせまだ秋冬用の糸も買つてないし。
いや、毛糸はいくらでもあるんだけど。
でも、今年編むつもりのリブセーター用にふさはしい糸はない。
逡巡するばかりである。

ちなみに、同時進行するつもりではふつてあるジレといふ名のヴェストは、とりあへずほどくかなあと思つてゐる。たいして編めてないしね。

Sunday, 01 September 2013

2013年8月の読書メーター

2013年8月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:3170ページ
ナイス数:14ナイス

戦争論〈上〉 (中公文庫)戦争論〈上〉 (中公文庫)感想
くどい。あまりにもくど過ぎる。でもドイツの思想書つて大抵かうだよね。だから哲学者サッカーでギリシャに負けるんだよ、といふ、モンティ・パイソンネタはともかく、しかし、まつたく前提となる知識を持たぬ相手に向けてものを書くとしたら、かうなつてしまふのかもなあ、とも思ふ。ナポレオン絡みの戦争についても知りたくなつてしまふといふ危険な書だ。
読了日:8月2日 著者:カール・フォンクラウゼヴィッツ
新訂 孫子 (岩波文庫)新訂 孫子 (岩波文庫)感想
「戦争論(上)」を読んだので流れで再読。「戦争論(上)」を読んだ後だと、滅茶苦茶読みやすい! なに、この読みやすさ! 読みやすさとわかりやすさはまた別のものだがな。
読了日:8月5日 著者:
三国志演義〈3〉 (徳間文庫)三国志演義〈3〉 (徳間文庫)感想
関羽が死ぬと、まるで呼び寄せられたやうにあつといふ間にこれまで慣れ親しんだ登場人物が死んでいく。そこへ七擒七縦でちよつと気分盛り上げる、といふ展開がニクいね。
読了日:8月9日 著者:羅貫中
絵本で育てる情報分析力―論理的に考える力を引き出す〈2〉絵本で育てる情報分析力―論理的に考える力を引き出す〈2〉感想
言語技術を磨くよりも先に身につけるべきことがあるだらう、といふか、とりあへず自分だけ楽しければいいかな、といふのでこの本を選択した。分析といふとかたい感じがするかもしれないが、「もつと絵を、絵本を、物語を、ひいては世の中を楽しめるやうになりませうよ」といふ本だと思ふ。書きつぷりがくどいのはドイツの伝統なのかな、とは、クラウゼヴィッツを読んだばかりなので思ふのかもしれない。
読了日:8月16日 著者:三森ゆりか
大人の国語力がつく漢詩一〇〇選 (角川SSC新書)大人の国語力がつく漢詩一〇〇選 (角川SSC新書)感想
詩集には二種類ある。家で読みたいものと常に持ち歩きたいもの。この本は後者になる可能性を秘めつつも、長い詩はぶつたぎつたりだとか、「なぜあの詩を選んでゐないのか」だとか、いろいろ不満があるためにおそらくは持ち歩きはしないだらうといふ気がする。むづかしい説明がないので初心者向きと考へるか、詳細な説明がないのである程度漢詩に慣れ親しんだ人向けと考へるか、悩むところではある。ちなみに、「大人の」「国語力がつく」かどうかは定かではない。
読了日:8月18日 著者:守屋洋
正史 三国志〈2〉魏書 2 (ちくま学芸文庫)正史 三国志〈2〉魏書 2 (ちくま学芸文庫)感想
荀彧・荀攸はいいとして、なぜ賈詡、と思つたら、ちやーんと裴松之もつつこんでゐたよ。ナカーマ。
読了日:8月19日 著者:陳寿,裴松之
Politics as a VocationPolitics as a Vocation感想
Max Weberは英語で読んだ方がかんたん、と聞いて読んでみたのだが、選択を誤つたらしい。講義録だもんな。Friedrich Naumann Foundation for Freedomがパキスタン向けに訳したものらしいのだが、なにが脅威つてこの本の中に出てくる古典の数々がすべて英訳の題名で書かれてゐることである。マキャヴェリもフィヒテもドストエフスキーも英語で読んでゐることが前提なのだ。「日本語が亡びるとき」の云つてたのはこれか。スウェーデンで会つた人も村上春樹は英語で読んだつて云つてたつけか。
読了日:8月23日 著者:MaxWeber
The Agile Samurai: How Agile Masters Deliver Great Software (Pragmatic Programmers)The Agile Samurai: How Agile Masters Deliver Great Software (Pragmatic Programmers)感想
玉虫色なことが書いてあるなー、と思ひながら読む。丸投げしたがる客にどうやつて責任を持たせればいいのか、とか、途方に暮れるばかり。あと、introvertには向かない。絶対向かない。
読了日:8月29日 著者:JonathanRasmusson
連句の教室 (平凡社新書 (694))連句の教室 (平凡社新書 (694))感想
和光大学における講義をもとにした本。学生の俳号を見るだけでも結構楽しい。連句はひとりぢや楽しめないからなあ。あれか、一年後の自分に向けて発句を作ればいいのか。三十六年かかるよ。
読了日:8月29日 著者:深沢眞二

読書メーター

« August 2013 | Main | October 2013 »