それでも来年の手帳について考へる
来年の手帳が決まりつつある。
ほぼ日手帳は、オリジナルを中身だけ買ふつもり。
心動かされるカヴァがないからだ。あんなに数があるのにねえ。ふしぎである。以前は「今年はカヴァは買ふまい」と思ひつつもつい買ふてしまふカヴァがあつたのだがなあ。
選択肢が増えたのに、選びたいものがない、といふ、ふしぎな現象である。
最後に買つたのはぬめ革のカヴァ。もう三年目くらゐにはなるだらうか。手触りはいまひとつなのだが、色はだいぶいい感じになつてきてゐる。
来年は、カンダミサコの文庫本サイズ手帳用の革カヴァを使ふ予定。色はオルテンシア。
なぜこのカヴァにしたのかといふと、先日も書いたとほり、ほぼ日手帳を持ち歩かうと思つてゐるからだ。
持ち歩くにあたつて、ほぼ日手帳では書ききれなかつたことを記すノートがほしい。同じ文庫本サイズのうすい手帳を一緒に持ち歩けるカヴァ、といふことで、選んだカヴァだ。
このカンダミサコのカヴァがかなりステキなので、カヴァの種類が増えてもなかなか「これ!」といつたカヴァに出会へない、といふこともあるかもしれない。
今年はカズンも使つてゐて、実は自分が欲してゐるのはオリジナルではなくてカズンなのではないかといふ気もしてはゐるのだが。
いかんせん、カズンはデカい。
もちろん持ち歩くつもりはまつたくないが、置き場所にも困るんだよね、以外と。
うーん、カズン、どうするかなあ。
カズンも、以前買つたカヴァがお気に入りなので、買ふとしても中身だけになるかと思つてゐる。
SmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S DIARY)は、例年オレンジ色の表紙のものを購入してゐたが、来年は黒を選んでみた。はじめての黒革の手帳である。いや、Smythsonについては、ね。
なぜオレンジなのか、といふと、えうはかばんの中から取り出しやすいからだな。内装が赤とかオレンジとかいふことがなければ、ぱつと目に付き取り出しやすい。とくに今使つてゐるかばんはいづれも黒よりもオレンジの方が見つけやすいものばかりである。
敢て黒を選んだ理由は……うーん、特にない。なんか、そんな気分だつた。そのていどの感じである。
ところで、SCHOTT'S DIARYは、今までスケジュール帳として使つたことはない。
一冊はミケブログで拝見したのかと思ふが、本や映画、テレビ番組などから気になつたことばを書き記すのに使ふてゐる。
もう一冊は句帖。
どちらも手放せない感じだ。
とくにことば手帳の方は、書き込むところがなくなつても、持ち歩くやうかもしれないなあと思ふことがある。
たまに読み返すとこれが結構おもしろい。
試しに開いてみたページには、こんなことが記してある。
美の過剰、あるいは生の横溢こそが、謝霊運の悲劇であつた。何かが足りなかったのではなく、人生という器を壊すほどに、何かが過剰だったのである。これは齋藤希史の「漢文スタイル」の42ページ目に書かれてゐるのらしい。
そんなわけで、来年のSCHOTT'S DIARYは、スケジュール帳として使つてみやうかなあ、と思つたりもしてゐる。
SCHOTT'S DIARYのよいところは、持ち歩きやすい、といふことだ。
うすくて小さい。
たぶん、手持ちのどんなかばんにも入るし、邪魔にならない。
しかも萬年筆との相性もいい。
問題は、書き記すほどのスケジュールもない、といふことだが、ま、そこはそれ、だ。
来年用のMIGNONの手帳は買はないかもしれないなあ。
でも、伊東屋の手帳フェアに行つたら買つてしまふか知らん。
そんな感じで、まだまだ来年の手帳については悩むやうである。
楽しいのう。
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