あまり毛糸でわかる編み物の向き不向き
群ようこに、「毛糸に恋した」といふ著作がある。
あみものに関するエッセイ集だ。
編み図が掲載されてゐなくてあみもの業界の人間が書いたものではない本といふのは、めづらしい。
図書館で見つけて読み、その後文庫本が出たのを知つて購入した。
以前も書いたが、好きなことに関する本を読むのが好きだ。
芝居や萬年筆、Palm Pilotなど、そのときどきであれこれ探してきて読んだものだ。
なかでも、あみものに関する本はひどくすくない。
大抵のあみもの本は、いはゆる「あみものの本」だからだ。
すなはち、セーターなどをモデルが着た写真が掲載されてゐて、編み方がそのあとに載つてゐる、そんな本だ。
しばしばここでも話題にしてゐる橋本治の「男のニット 手トリ足トリ」は、あみもの関連の本の中ではとくに好きな一冊だが、この本にもセーターの編み方は掲載されてゐる。
しかるに「毛糸に恋した」にはさうしたものがまつたくない。
あみものを扱つたCosy Mysteryにさへ、編み方が掲載される世の中だといふのに。
いいなあ。イカすなあ。
「毛糸に恋した」には、群ようことあみもの仲間との座談記録も掲載されてゐる。
曰く、出勤前に三分でも時間があつたら玄関先で立つたまま編んでしまふ、とか。
あみものが趣味ですといふと女らしいといふやうなことを云はれるが、実際自分のまはりにゐるあみものをする人はさばさばした性格の人ばかりだ、とか。
あみものをやつてゐたらくよくよ悩んでなどゐられない、ほどくときはいさぎよく一気にほどく、とか。
「うんうん、さうだよねえ」と、経験のある人ならうなづく点も多からう。
ところで、中に、あまり毛糸を使ふ達人の話が出てくる。
これも群ようこのあみもの仲間の話だつたと記憶する。
実際に編んだものの写真もいくつか掲載されてゐるのだが、これがほんたうにすばらしい。
色合はせの妙といふか、柄の選択のセンスのよさといふか、さうした諸々の能力が結晶となつたやうな作品もある。
その達人が云ふには、あまり毛糸を消費しやうと思つたら、あまり毛糸だけを使つてはならないのらしい。
新たに毛糸を買ひ足して、編むのだ、といふ。
えーと、それつて、新たなあまり毛糸を生むことになりやしませんかね。
この本の中には、長い経験と深い知識を持つデパートの店員の話も出てくる。
群ようこが、セーターを編むのに毛糸を買ひに行つたら、その店員が、「これぢや足りませんよ。もう一玉お買ひなさい」と云つた、といふのだ。
いはれるままに買つて帰つて半信半疑で編んでみたところ、はたしてその店員の云つたとほりになつた、といふ。
手芸店の店員がみなこのデパートの店員のやうだつたら、あまり毛糸の心配などさほどしなくてもいいのかもしれない。
実際大手手芸店に行くとわかるが、さうした店員ばかりではないといふのが現実である。
かくして余分に毛糸を購入してあまり毛糸が増える。いや、もつとひどいのは、毛糸が足らなくて買ひ足したらあまつてしまつた場合だ。
以前も書いたが、あみものをする人には、なぜかあまり毛糸を捨てる人がすくない。
もしかしたら捨ててゐるのかもしれないが、大抵の場合は「あまり毛糸を活用しました」だとか、「糸端をあつめてあみぐるみの綿代はりにしました」だとか、徹底的に毛糸を使ひつくす話が巷にはあふれてゐる。
あみものをしやうなんてな人は、創意工夫にあふれてゐる人ばかりなのかもしれないなあ。
やつがれのやうに、創意工夫の「そ」の字もない人間は、あみものをしてはいけないんだらうなあ。
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