スピニング・パーティーに行くか行かぬか
楽しみにしてゐたスピニング・パーティーだが、今回は行かないかもしれない。
一番大きい理由は、9/7(土)は、十月大歌舞伎のチケット前売り開始日だから、である。
正直云つて、十月と十一月の歌舞伎座にはかけてゐる。
新装開場この方まだ一度も座つてゐない一等席に、今回は座らうかともくろんでゐるほどだ。
したがつて、十月十一月の席は自宅から落ち着いておさへることにしたい。
それが終はつてから出かけるとなると、到着して中を見て回れるのはお昼過ぎてしまふのではないか。
そんな気がするからである。
ほかにも、もうこれ以上毛だの糸だのを増やしてどうする、といふのもある。
だが、まあ、それは買はなければすむ話だ。
もしかすると、一番大きい理由は、「無秩序に耐へられないから」、もつと云ふと、「ちやんと列に並べない人々に耐へられないから」なのかもしれない。
ここでいふ「無秩序」とはスピニング・パーティー会場内のことではない。会場内も講習会場が変更になつてもまつたく連絡がないとか、あれとそれとは名前が似てゐてどちらがどちらなのか、あるいはどちらも同じものをさしてゐるのかさつぱりわからないとか、結構混沌としてゐるが、まあ、それは仕方のないことなのかな、と思はないでもない。
問題は、会場にやつてくるひとりひとりの人間の意識だ。
まづ、東京駅前のバス停の状態からしてひどい。
列に並んでバスを待つことを知らない人々であふれてゐる。
それも、みないい年をした大人なのである。
もしかして、その人たちの住むあたりでは、バスに乗るのに並んで乗らないのだらうか。
さういふ文化もあるかもしれない。京都市内のバス停などは、観光客のせゐでさうなつてゐる場合もある。
それはそれでいいとして、ぢやあ譲りあつて乗るのかといふと、これまたそんなことはない。
我先に乗らうとする。
並んでもゐないのに、である。
ダメだらう、それ。
仮にも大勢人の集まるところで、それはやつてはいけないことだ。
おそらくはこどももゐて、たぶんに孫もゐるやうな人々が、さうなのである。
この人々に育てられた人間がゐるかと思ふとおそろしくなる。
と、いつもなら、まあ、「さういふ人もゐるよね」くらゐですませられるのだが。
いまの状態だとちよつとそれは無理な気がする。
許容量がゼロなんだよね。
まあまだ一週間以上先のことなので、精神的に余裕ができたら行くかもしない。
「さういふ人たちがゐる」といふことはあらかじめわかつてゐることだしね。
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