On Name
名前には思ふところがいろいろある。
おそらく、自分の名前に文句のない人はゐないだらう。
こどものころに「なんでこんな名前なのかなあ」と、つけた親や親族、または親の知り合ひを恨んだことも一度や二度はあるにちがひない。
それで、絵を描いたり文章を書いたりするこどもは、そのうち面妖な「雅号」をつけるやうになるのだらう。
絵や文をみづから為すこどもは、自意識もまたほかの子より強い。
そこで、「読めないよ」とか「男か女かわかんないよ」といふやうなペンネームをつけてしまふ。
ところで、やつがれの本名は、男につけても女につけてもいいやうな名前ではある。
こどものころはそれが大いに不満であつた。
もつとどちらかはつきりした名前をつけてくれよ、と、親に改名をせまつたことも一度ならず。
そのときに、改名にともなふ手続きの煩雑さを説明されて、こども心にあきらめたのだつた。
いまは昔の物語である。
長じてのち、ネットのあれやこれやに参加するうち「ハンドルネーム」といふやうなものを持つことになつた。
それで、性別のはつきりするやうな名前をつけるやうになつたか、といふと、まあ、ご覧のとほり、である。
どつちかわかんない。
多分、わからない。
もつと幼いころ、自分の名前に対する不満に満ち満ちてゐたころにハンドルネームを持つことになつてゐたら、見ただけで性別のわかる名前をつけてゐただらうか。
それもないな。
そんな気がする。
それはもう、もとの名前がどうかういふ問題ではないのだらう。
「他人にわかられたくない」といふ意識のあらはれなのだと思ふ。
理解されることを拒否してゐる。
さういふことなんだらう。
どこかで書いた気がするが、自分の名前とは、ある時点で和解した。
まあ、いいんぢやない。
とりあへず、あんまり「グローバル」な名前ぢやないけど。
「グローバル」な名前には、少なくともハ行の字は入つてゐてはいけない。
その昔、岩城宏之が、「小沢征爾は「セージ」でいいけど、自分は「ヒロ」と名乗るとフランス語などラテン系の言語を母国語とする人には発音できない。それで「ユキ」と呼んでもらふやうにしてゐる」と書いてゐるのを読んだことがある。
そんなこと云つてゐると、使へる字はほとんどなくなつてしまふ。chだつてダメだらうし、jも微妙だ。
まあそこは無視することにして、とりあへず、自分の名前を受け入れることにしたのだつた。
ここ一年ばかり、漢詩を読む機会が増えた。
気がつくと、自分の名前を為す漢字が使はれてゐる詩を探してゐる。
国字を使つた名前の人にはチトできない楽しみである。
これが、案外ないものだ。
先日、やつと李賀の詩の中にひとつだけ見つけた。
長い詩である。
これだけの量がないとダメなのか。
次点で、杜甫の「蜀相」がある。
あと一文字入つてゐれば完璧なのに。
さういふ、ちよつと欠けてゐるところがいい。
昨日、緊張を緩和するためだらう、気がつくと反故紙に「蜀相」を書き散らかしてゐた。
自分の名前を書き散らかすよりはよからう。
和解してずいぶんたつが、やはり自分の名前に対するわだかまりは完全に解けてはゐないのだつた。
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