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Friday, 30 August 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館 黄巾の乱

次に飯田市川本喜八郎人形美術館に行くのは、りんごの季節にするつもりだつた。
いまでもなかばはそんなつもりで、しかし、ここのところとみに行きたくてたまらない。

りんごの季節に泊まりがけで、といふのが、次の飯田行きの予定であつた。
前回行つたときは、日帰りにした。
弾丸旅行は覚悟してゐたものの、なんとなく物足りない気分で帰つてくることになつた。
さうだよな、一日の大半はバスか電車の中なのだもの。
しかもそのまへに行つたときは、一泊して両日会ひに行つたのだもの。
まあ、このときに、「さすがに連日あらはれるつてどーよ」と思はないでもなかつたので、日帰りにしたわけだが。
いづれにしても一長一短。
でもわざわざ時間をかけて行くのなら、滞在時間も長くしたい。
そんな気もする。

などと云ひながら、りんごの季節のまへに行くとしたなら、たぶん日帰りだらうなあ。
実は、りんごの季節に一泊で、といふのにはわけがある。
りんごを収穫するころになると、飯田の町の路上などでりんごの販売がはじまる、といふのだね。
それで、まづ一日目は一個づつとか、りんごを買つて宿に行つて食べてみて、おいしかつたのを次の日みやげに買つて帰るのはどうだらうか、と思つたわけだ。
なんだか買つたりんごは全部おいしいのではないかといふ予感もしないではないのだが。
万が一路上売りがなくても、どこかで売られてゐるだらうし。

さういふ予定ともいへぬ予定をたててゐたのだ。

でもなー、この際、りんごの季節にはまた行くとして、いま行きたい。すぐ行きたい。即行きたい。

といふわけで、九分九厘(「人形劇三国志」によく出てくることばである)、行くやうな気はしてゐる。
現在の展示については、行つてからあらためて書くことにしやうかと思ふてはみたのだが。

しかし、第一印象つて大事だよな。
かくして、ここから先が、六月に飯田に行つたときの展示の内容と相成る。

現在の飯田市川本喜八郎人形美術館の展示内容は、人形劇系は「人形劇三国志」のみ、人形アニメーション系は「死者の書」のみである。

まづ展示室に入ると、例によつて紳々竜々が飾られてゐる。
番組開始直後の出で立ちである。
紳々竜々は、紳助竜介を模した人形である。ゆゑに人気があつたり、逆にほかの人形たちより低く見られたりすることがある。
実を云ふとやつがれは後者の方だつた。
それが、最近ちよつと変はつてきた。
変化は、まづ衣装への興味からはじまつた。
以前も書いたが、「人形劇三国志」や「平家物語」の人形の多くは、人間の着物、おもに帯を紐解いた縫つた衣装を身にまとつてゐる。絢爛豪華だつたり、一見地味でもよくよく見るといい生地を使つてゐたりするのはそのためだ。
紳々竜々はちがふ。
いつ見ても、なんとなく粗末な感じの衣装である。
おそらく綿だらう、人形用にはちよつと目の粗いやうな生地の衣装を着てゐる。だいたい色違ひのお揃ひだ。
ほかの人形の衣装は、おそらく動かしたときの効果ゆゑかとは思ふが、裾は縫はれてはゐない。糊で止めしつかりアイロンをかけて押さへてあるやうに見受けられる。
これも、紳々竜々の衣装はちがつてゐて、裾は縫つてある。針目が見える。それがなんともおもしろい。

また、番組をあらためて見るうちに気がついたのだが、紳々竜々の動きといふのは、実にちよこまかとしてゐてかはいらしいのだ。人形遣ひがいいんだらうなあ。聲の演技はおいておいて、人形の演技だけ見てゐると、まことにすばらしい。
コミカルな部分だけではなく、たとへば、第37回「王覇の業」などは趣があつていい。このとき紳々竜々は呉の軍にゐる。荊州攻略に失敗した呉の船団が、日のとつぷりと暮れた長江をしづしづと下つてゆく。その中の船に紳々竜々は乗つてゐて、疲れ切つたやうすでよりそつて眠つてゐる。そのやうすがなんといふか、「戦ひ済んで日が暮れて」といふ感じでいいんだなあ。

といふわけで、まづ紳々竜々を堪能する。

次のケースには、黄巾の乱といふことで、張角、張宝、張梁と盧植が並んでゐる。
張角、張宝、張梁に関しては現在の川本喜八郎人形ギャラリーにも並んでゐて、そこで飯田の三人についてもすこしふれてゐる。ヒカリエにゐる三兄弟の方が立派に見える、とかね。
張宝は、しかし、飯田の方が妖術遣ひめいてゐてよい。目の下に藍隈を入れるときの色でアイラインが入つてゐるんだよね。ヒカリエの張宝にはこれがない。ちよつとした違ひなんだけど、それでかなりちがふ。
張梁が一番変はらないかな。ヒカリエのときにも書いたけれど、ソンブレロをかぶつたらそのまま西部劇に出てきてもをかしかないやうなラテンな男だ。
張角は、ヒカリエの方が胸に一物ある感じで、飯田の方は茫洋としてとらへどころのない感じがする。個人的には飯田の「茫洋としてとらへどころのない」感じの方が新興宗教の尊師つぽいと思つてゐる。
まあ、張角については、飯田の方が旗揚げのころで、ヒカリエの方がその後野心に火がついたころ、といつた感じなのかもしれない。

このケースでは、盧植が実にいい。
なんといふか、「ダンディなをぢさま」風なのである。
人形劇の盧植はもつと厳格な感じの人だつたがなあ、と思ひつつも、やさしげなやうすに目を奪われる。
表情がまづやさしげなんだよね。眉と目の感じかな、と思ふ。
人形劇だと、張飛を叱りつけたり、何進に反論したり、厳しくも正しい姿が印象深いからなあ。
宮中に出入りするときの衣装で、細い前垂れは灰色地にいまでいふ五月の花と鳥などが刺繍されてゐて、これがまたいいのだ。

といふわけで、以下つづく。

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Thursday, 29 August 2013

それでも来年の手帳について考へる

来年の手帳が決まりつつある。

ほぼ日手帳は、オリジナルを中身だけ買ふつもり。
心動かされるカヴァがないからだ。あんなに数があるのにねえ。ふしぎである。以前は「今年はカヴァは買ふまい」と思ひつつもつい買ふてしまふカヴァがあつたのだがなあ。
選択肢が増えたのに、選びたいものがない、といふ、ふしぎな現象である。

最後に買つたのはぬめ革のカヴァ。もう三年目くらゐにはなるだらうか。手触りはいまひとつなのだが、色はだいぶいい感じになつてきてゐる。
来年は、カンダミサコの文庫本サイズ手帳用の革カヴァを使ふ予定。色はオルテンシア。
なぜこのカヴァにしたのかといふと、先日も書いたとほり、ほぼ日手帳を持ち歩かうと思つてゐるからだ。
持ち歩くにあたつて、ほぼ日手帳では書ききれなかつたことを記すノートがほしい。同じ文庫本サイズのうすい手帳を一緒に持ち歩けるカヴァ、といふことで、選んだカヴァだ。
このカンダミサコのカヴァがかなりステキなので、カヴァの種類が増えてもなかなか「これ!」といつたカヴァに出会へない、といふこともあるかもしれない。

今年はカズンも使つてゐて、実は自分が欲してゐるのはオリジナルではなくてカズンなのではないかといふ気もしてはゐるのだが。
いかんせん、カズンはデカい。
もちろん持ち歩くつもりはまつたくないが、置き場所にも困るんだよね、以外と。
うーん、カズン、どうするかなあ。
カズンも、以前買つたカヴァがお気に入りなので、買ふとしても中身だけになるかと思つてゐる。

SmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S DIARY)は、例年オレンジ色の表紙のものを購入してゐたが、来年は黒を選んでみた。はじめての黒革の手帳である。いや、Smythsonについては、ね。
なぜオレンジなのか、といふと、えうはかばんの中から取り出しやすいからだな。内装が赤とかオレンジとかいふことがなければ、ぱつと目に付き取り出しやすい。とくに今使つてゐるかばんはいづれも黒よりもオレンジの方が見つけやすいものばかりである。
敢て黒を選んだ理由は……うーん、特にない。なんか、そんな気分だつた。そのていどの感じである。

ところで、SCHOTT'S DIARYは、今までスケジュール帳として使つたことはない。
一冊はミケブログで拝見したのかと思ふが、本や映画、テレビ番組などから気になつたことばを書き記すのに使ふてゐる。
もう一冊は句帖。
どちらも手放せない感じだ。
とくにことば手帳の方は、書き込むところがなくなつても、持ち歩くやうかもしれないなあと思ふことがある。
たまに読み返すとこれが結構おもしろい。
試しに開いてみたページには、こんなことが記してある。

美の過剰、あるいは生の横溢こそが、謝霊運の悲劇であつた。何かが足りなかったのではなく、人生という器を壊すほどに、何かが過剰だったのである。
これは齋藤希史の「漢文スタイル」の42ページ目に書かれてゐるのらしい。

そんなわけで、来年のSCHOTT'S DIARYは、スケジュール帳として使つてみやうかなあ、と思つたりもしてゐる。
SCHOTT'S DIARYのよいところは、持ち歩きやすい、といふことだ。
うすくて小さい。
たぶん、手持ちのどんなかばんにも入るし、邪魔にならない。
しかも萬年筆との相性もいい。
問題は、書き記すほどのスケジュールもない、といふことだが、ま、そこはそれ、だ。

来年用のMIGNONの手帳は買はないかもしれないなあ。
でも、伊東屋の手帳フェアに行つたら買つてしまふか知らん。

そんな感じで、まだまだ来年の手帳については悩むやうである。
楽しいのう。

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Wednesday, 28 August 2013

スピニング・パーティーに行くか行かぬか

楽しみにしてゐたスピニング・パーティーだが、今回は行かないかもしれない。

一番大きい理由は、9/7(土)は、十月大歌舞伎のチケット前売り開始日だから、である。
正直云つて、十月と十一月の歌舞伎座にはかけてゐる。
新装開場この方まだ一度も座つてゐない一等席に、今回は座らうかともくろんでゐるほどだ。
したがつて、十月十一月の席は自宅から落ち着いておさへることにしたい。

それが終はつてから出かけるとなると、到着して中を見て回れるのはお昼過ぎてしまふのではないか。
そんな気がするからである。

ほかにも、もうこれ以上毛だの糸だのを増やしてどうする、といふのもある。
だが、まあ、それは買はなければすむ話だ。

もしかすると、一番大きい理由は、「無秩序に耐へられないから」、もつと云ふと、「ちやんと列に並べない人々に耐へられないから」なのかもしれない。

ここでいふ「無秩序」とはスピニング・パーティー会場内のことではない。会場内も講習会場が変更になつてもまつたく連絡がないとか、あれとそれとは名前が似てゐてどちらがどちらなのか、あるいはどちらも同じものをさしてゐるのかさつぱりわからないとか、結構混沌としてゐるが、まあ、それは仕方のないことなのかな、と思はないでもない。

問題は、会場にやつてくるひとりひとりの人間の意識だ。

まづ、東京駅前のバス停の状態からしてひどい。
列に並んでバスを待つことを知らない人々であふれてゐる。
それも、みないい年をした大人なのである。
もしかして、その人たちの住むあたりでは、バスに乗るのに並んで乗らないのだらうか。
さういふ文化もあるかもしれない。京都市内のバス停などは、観光客のせゐでさうなつてゐる場合もある。
それはそれでいいとして、ぢやあ譲りあつて乗るのかといふと、これまたそんなことはない。
我先に乗らうとする。
並んでもゐないのに、である。
ダメだらう、それ。
仮にも大勢人の集まるところで、それはやつてはいけないことだ。
おそらくはこどももゐて、たぶんに孫もゐるやうな人々が、さうなのである。
この人々に育てられた人間がゐるかと思ふとおそろしくなる。

と、いつもなら、まあ、「さういふ人もゐるよね」くらゐですませられるのだが。
いまの状態だとちよつとそれは無理な気がする。
許容量がゼロなんだよね。

まあまだ一週間以上先のことなので、精神的に余裕ができたら行くかもしない。
「さういふ人たちがゐる」といふことはあらかじめわかつてゐることだしね。

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Tuesday, 27 August 2013

役に立たないつて素晴らしい

タティングレースのなにが好きか、といふと、役に立たないところである。

こんなことを云ふとタティングレースを愛する人々から怒られてしまふかもしれないが、ほんたうのことだから仕方がない。

タティングレースで作るものの大半は、なくてもいいものである。

たとへばドイリー。
いらんだらう。
いるかね?
いらないね。
なくても生活になんの支障もない。
もしかすると、ある方が支障があるかもしれない。
部屋の雰囲気にあはない、とかさー。
あるいはドイリーの端になにかひつかけて、ついでに上にのつてゐた皿を落としてしまつた、とかさー。

エジングでも栞でもおなじだらう。
絶対に必要といふことはない。
なくてもなんとかなる。
ない方がいい場合もある。
タティングレースで作るものの大半はさうした、「あつてもなくてもいいもの」なのだ。

そこがいいんだよねえ。

これがあみものだと、ちよつと事情がちがつてくる。
秋冬、とくに冬のあみものは、防寒といふ意味でとても役に立つたりする。
セーターやカーディガンは云ふに及ばず、帽子、マフラー、手袋、くつ下、はては腹巻きなどに至るまで、作つて身につければあたたかい。非常に有用である。

それぢやあなんであみものは好きなのか、といふと、それは、家庭科で習はないから、である。
いや、わかつてゐる。家庭科の授業でもあみものをやる場合もある。
しかし、年がら年中やつてゐるわけではないし、やつがれの経験では、小学五年生から授業がはじまつて高校を卒業するまでに、家庭科であみものをしたのは一度だけだつた。和裁よりましかなといふていどである。
家庭科でとりあげられないといふことは、成績と関係がない、といふことだ。

そこがいいんだよねえ。

といふことを理解できない人がゐるのもよくわかる。
「役に立たないものを作るなんて、ムダでしかない」といふ意見もあらう。

実は自分でも、あみものやタティングレースをするよりも裁縫のできた方がどれだけいいだらうと思ふことがある。
でもやらない。
やるとしても、人形の服を縫ふくらゐだらう。
なぜつて、人形の服なんてあつてもなくてもいいものだからだ。

役に立つものを作りたい、といふのは大変結構だとは思ふが、趣味と呼ぶにはどうにも功利主義的な感じがして、ダメなのである。
趣味つて、なんかもつと、こー、ムダなものでせう?
すくなくともやつがれにとつてはさうだ。

そんなわけで、今日も「これ、できあがつてもなんの役にも立たないんだよなあ」と思ひながらタティングをするのである。

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Monday, 26 August 2013

秋冬もののあみものの新刊を見てみた

やつと、秋冬のあみものの新刊を本屋の店頭で手に取つてみた。
先週の金曜日のことである。

先週の金曜日は、「挑む」といふ歌舞伎の公演に行つた。ところは日本橋蛎殻町。帰りに丸の内の丸善に寄つて、その場にならんでゐた本をぱらぱらと見てみた、といふわけ。

例年であつたら、秋冬の新作毛糸が出たら、暑いさなか見に行つたり、ときには買つたりしてゐたのだが、今年はどうにもさういふ気にならなかつた。
暑すぎる、といふのもあるし、年を取つたせゐで暑さに躰がついていかない、といふこともあらう。
先日、ちらつと書いたが、あみものに対する愛が薄れてゐるのかも、と、おそれる気持ちのないでもない。

これもすこし前に書いたが、この秋冬はパピーのプリンセスアニーで、たた&たた夫さんのリブタートルネックセーターを編まうと思つてゐる。指定糸はデビー・ブリスのベビーキャッシュメリノだが、あいにくそんな毛糸は持つてゐないし、入手もむづかしさうだ。
だいたいデビー・ブリスの毛糸は本邦での販売元が転々としたのがよくなかつたやうに思ふ。なんとかならなかつたのかね、あれは。

もとい。

たた&たた夫さんのリブタートルネックセーターのような躰にぴつたりとしたデザインのものは、昨今のあみものの本ではあまり見かけない。
まあ、そもそものファッション誌にもほとんどないやうに見受けられるし、町行く人の身につけてゐるものも、どちらかといふとたつぷりしたシルエットのものが多い。

そんなわけで、セーターは編むとして、その上に羽織るものがほしいな、と思つてゐる。

羽織るものといつて、ここ二年ばかりはmichiyoデザインのカーディガンやヴェストを編んできた。あ、この前の冬は「毛糸だま」に出てゐたシェットランドレースinspiredなヴェスト(本では「マーガレット」になつてゐたが)も編んだつけか。

今年は、なんか、こー、細い毛糸でレースつぽいものを編んでみたいなあ。
着るものではなくてもいい。まきものでいいので、そんなのをひとつ。

さう思つてゐる。

さうなると、実は新刊とかつて邪魔だつたりするんだよね。
編みたいものがすでに決まつてゐて、しかもそれがそれなりに時間のかかりさうな場合、おそらく新刊に載つてゐる作品を手がける時間といふのはない。おそらく、ぢやなくて、まづない。
とりあへず買つてみて、ぱらぱら眺めて、そのうち腐海の奥底に沈んでいくばかり、といふことになつてしまふ。

さう考へて、去年の秋くらゐから、あみものの本を買ふのはなるべく控へるやうにしてはゐる。
だいたい手元にあみものの本ばかり、山のやうにあるわけだしね。
問題は、その、富士山と比してもいいくらゐあるあみものの本の中に、「どーしてもこれを編みたい!」と思ふやうな作品がない、といふことなのだらうなあ。
「かういふものを編みたい」といふので、蔵書をあさつても、「これ!」と思ふものがない。
あみものの本といふのはさうしたものだ。
そして、毛糸もまた、さうしたものだつたりする。
「かういふものを編みたい」と思つて毛糸を探しに行くと、「これ!」といふものがない。なんとなくこれが近いかな、といふ感じだ。だいたい毛糸だと実際に編んでみないとわからなかつたりするしな。

たぶん、今は、さうした不確定要素にふりまはされても大丈夫なほどの気力がないのだ。

あみものの新刊は、まちつと涼しくなつてきたら買ふつもりである。

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Friday, 23 August 2013

長使英雄涙満襟

杜甫を、いや、漢詩を読む人であれば、とくに「三国志演義が好き」といふことがなくても、「蜀相」といふ詩を知つてゐることと思ふ。
とりあへず、やつがれも「三国志演義が好き」といふわけではないが知つてゐる。

丞相祠堂何処尋
錦官城外柏森森
ではじまるこの詩には、つい先日も書いたが、やつがれの名前を成す漢字のうち一文字をのぞいてすべて使はれてゐる。
そんなわけで、はじめて知つたころからなんとなく気になる詩ではあつた。

漢詩や杜甫に関する本を読んでゐるとたいてい出てくるので、なんとなく読み方も覚える。
「柏」が日本でいふところの「カシハ」ではなく、「コノテガシハ」のことだ、とか、さういふ注も自然と覚える。

七言律詩のこの詩を、しかし、空で書けるとは、長いこと思つてゐなかつた。
書けることに気がついたのはつい最近のことである。

「漢文法基礎」を読み終はつて、はじめて気がついた。
このときに、覚えるともなく覚えてゐたことにも気がついた。

「漢文法基礎」は大部なので、すべて理解したとはいへないが、それでもぼんやりとはわかつたこともあるのだらう。
ある日、なんの気なしに、目の前の反故紙に、手にしたペンで書いてみたら書けた。
杜甫にしては難解な漢字がない、といふのが書けた理由かと思ふ。

これまただいぶ以前に、「春望」は学校で習つたこともないのに、なぜか暗唱できる、といふ話を書いた。
文化つて、さういふことなんぢやないかな、とそのときに記した。
つまり、とくに学校で教はらなくても、自然と目に入り耳にする、さうして詩やら文章やらを覚えるともなしに(ぼんやりと、ではあるが)覚える。
それが文化といふものなのではないか。そんな気がする。

「蜀相」は「春望」とはちがふ。
すくなくともやつがれの中ではちがふ。
「蜀相」はなぜか、なにかにつけて目にすることの多い詩だつた。
そこが「春望」とちがふ。

書けるとうれしいもので、つい書いてしまう。
つい最近、ちよつと緊張することがあつて、それをやはらげるのに書き散らしてゐたのもそれだつた。

ところで、冒頭にも書いたとほり、とくに「三国志演義が好き」といふわけではない。
さういふわけで、別段実際に「丞相祠堂何処尋」などとやつてみたいわけではない。
だいたい今は「隔葉黄鸝空好音」といふこともないだらう。
観光客がわんさとゐさうだからな。

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Thursday, 22 August 2013

What a Wonderful World

好きなことをしてゐると、なぜか罪悪感にかられることがある。
こんなことをしてゐていいのか。
なにかもつとほかにやることがあるのではないか。

そのとほりなのである。
ほかにもつとやることがあるのだ。
掃除をするとか、仕事のための勉強をするとか。
なにかしら、やることがあるのだ。

と、書いて、そんなこと微塵も思つてゐないことにも気がつく。
掃除などそこそこやつておけばいいし、仕事のための勉強なんてしてもしなくても。
さう思つてゐる。

しかし、それもなにかしら「ポーズ」なのだらう。
だから罪悪感にかられるのだ。

最近、そんな気分になつたのは、「三国志演義〈3〉」を読んでゐたときだつた。

「三国志演義」はそんなに好きぢやない。
人形劇三国志」を見る参考に読んでゐるにすぎない。
しかも、徳間文庫の第三巻は、物語の冒頭から活躍してきた登場人物が次々と死んでゆく巻だ。
楽しくないはずなんだが、なんだか、楽しかつたんだな、どうも。

なるほど、もしかしたら、そんなに好きでもないのに楽しかつたから罪悪感にかられたのだらうか。
ほんたうに好きなものは別にあるのに、と。
あるいは、次から次へと人の死ぬ巻を楽しんでゐることに罪悪感を覚えたのか。

それとも、「人生とはもつと苦しいもののはず」「もつとつらいもののはず」といふ刷り込みのあるせゐか。

いづれにしても、世の中、もつと楽しくてもいいのにな。

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Wednesday, 21 August 2013

セーラームーンが何をリメイクするといふのか

「セーラームーンがリメイクする」
「ペットボトルカヴァがいろいろ売つてゐる」

なにを?

上記のやうな文章を見ると、かならずさう思つてしまふ。

セーラームーンがなにをリメイクするのか。
いろいろのなにを売つてゐるといふのだらう。

わかつてゐる。
ことばは世につれ、だ。
これもまた「ら抜き」ことばの一変形なのだらうとは思ふ。

この、「無機物がなにかする」といふ表現については、だいぶ前にも書いたことがある。「新刊が本屋で売つてゐる」とかね。新刊がなにを売るといふのか。
最近ではNHKのニュースでもアナウンサがかういふ表現を使ふことがある。ニュースなんだから原稿があるだらう。といふことは、原稿にさう書かれてゐる、といふことだ。まあ、外からの中継のときだつたりするから、各アナウンサの個人的な表現なのかもしれないが。

ことばは世につれ、は、いい。
問題は、過渡期である。
えうは、「ら抜き」ことばなどでもさうなのだが、一般的にはもうどうしやうもないほどひろまつてしまつた表現でも、ビジネスの場では誤用とみなされる表現を、どうしたらいいのか、なのだ。

どうしたらいいのかもなにも、ダメなものはダメだらう。
それはそのとほりなのだが、普段から「来れる」とか「新刊が売つてゐる」などと口にしてゐる、いや、もつといふと、PCや携帯電話、スマートフォンなどから打つてゐる人々に、それがなぜダメなのかを、どうやつて説明すればいいのか。

そこが困るのである。

理解できないでせう、いきなり「ダメ」つて云つたつて。
文法を持ち出してきて説明すればいいのかもしれないが、そんなの、学校ですませてゐるはずのことだ。相手が授業でサボつた結果を、なぜこのやつがれが埋め合はせしてやらねばならんのだ。

いろいろ納得がいかない。

普段話してゐるときや、私的なメール、SNSなどでの発言についてとやかくいふつもりはない。
いつても意味ないし。
くどいやうだが、「ことばは世につれ」だし。

職場などの公の場で、ちやんと話したり書いたりしてくれれば、それでいいのだ。
なぜそれができないのだらう。
いや、できないのはともかく、なぜそれがダメだといふことがわからないのか。

個人的な趣味嗜好もあるから、仕方ないのかな。

かくいふやつがれは、職場の直属の上司にはばか丁寧な敬語を使ふ必要はないと思つてゐる。
さういふのは、もつと上の上司とかお客相手のときにとつておくものだと思ふからだ。
しかし、世間の常識としては、どうもさうではないらしい。
まはりに直属の上司を超える役職の人がゐない場合には、やつがれの考へるところの「ばか丁寧な」敬語を使ふものらしいのだ。

たとへば、直属の上司について「いらつしやる」は過剰だと思つてゐる。「お出でになる」くらゐぢやないかなあ。
と、思ふのだが、どうもさうではないらしい。

まあ、かうして理屈を述べてはゐるが、ぢやあ実際の場面でここに書いてゐるやうにことばを口にできるかといふと、それもまたアヤシい。

世の中さうしたものか。

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Tuesday, 20 August 2013

A Knight in Tatting Armor

つねづね書いてゐるが、ひきこもり願望が強い。
できるだけ出かけたくない。
家でぢつと本を読むなりあみものをするなりしてゐたい。

ところが、昨日も書いたとほり、ここのところやたらと出かけてゐる。
わかつてゐる。
出かけた方がいい。

出かけるとムダな出費が増えたり、すなはちよけいなものを買つてしまつたりしてしまひがちだが、それでも出かけた方がいい。
なぜ、と訊かれると、「これこれかうだから」とは答へられない。
おそらく、刷り込みだからだらう。
こどものころから、親に「外で遊べ」「みんなと遊べ」と云はれつづけてきた。
そのせゐで、家にゐてひとりでできることをやつてゐるのは「悪」である、と、さういふ思ひがあるのだ。

それに、最近は外出してもひきこもつてる人はたくさんゐるしね。

最初はWalkmanだつたのではあるまいか。
外にゐるのに、ヘッドフォンで耳を覆つて、外の世界を拒絶してゐる。
頭の中には、自分の好きな音楽が鳴つてゐる。
外にゐて、中にゐる。
さういふ人間が増えた。

その次が携帯電話だ。
いまや電車に乗つてゐても、その場にゐると認識してゐる人はほとんどゐない。
みな携帯電話やスマートフォンの画面に見入つてゐる。
まれに、着信音が鳴つて、「いま電車だから」とことはる人の姿も見るが、まれなことだ。
電車の中でもかまはずに電話を受ける人が増えてゐる。
道を歩いてゐても、携帯電話にむかつてなにごとか話してゐる。
さういふ人に、周囲にゐる他人は目に入つてゐないだらう。
外にゐて、中にゐる。
まさにそんな感じだ。

Walkmanの前には新聞や書籍があつた。
しかし、Walkmanほどの閉鎖感、拒絶感があつたか、といふと、さうでもないんぢやないかな。
本を読んでゐても、耳はあいてゐる。まあ、まれに本にすつかり没頭してしまつて、周囲のことがわからなくなつてしまふ、といふこともあるが、それでも耳をふさぐことはできない。
Walkmanの場合は、耳はすでにふさがれてゐる。さらに目を閉ざしてしまへば、世の中を閉め出してしまふのは容易なことだ。

残念ながらやつがれはヘッドフォンの類が苦手なので、外で音楽を聞くことは稀である。一度はじめるとしばらく聞いたりはするが、さう長くはつづかない。
ヘッドフォンに違和感を抱くことがなければ、外出時は四六時中なにかしら聞いてゐることだらうな。
さうして、ひきこもることにするだらう。

多分、なにかしら「身を守る」ものが必要なんだよな。
「男は敷居をまたげば七人の敵あり」といふ。
いまは「男」を「人」に置き換へるべきだらう。
さうした敵と立ち向かふか、あるいはないものとしてやりすごすか。
いづれにしてもなにかしら身を守るものが必要になる。
さうした防御の一として、Walkmanなり携帯電話が使はれてゐるんぢやあるまいか。

やつがれにとつては、タティングレースもその防御のひとつだ。
ひとりぼんやり外で腰掛けてゐるときに、「話しかけるな」オーラを醸し出すべく気を遣ひながら、タティングレースにいそしむ。いそしんでゐるふりをする。
家にゐるときとおなじことをすることで、外界から己が身を守つてゐる。
外でタティングレースをする、といふことは、やつがれにとつてはさういふことだ。

あみものでも、外出先で編むことを「Knit in Public」、略して「KIP」などと称したりする。
同好の士があつまつて、さういふイヴェントをするのは楽しいことである。
でも、たとへば、ひとりでKIPもしくはTIP(Tat in Public、な)をする場合、すくなくともやつがれの場合は、外の世界を閉め出してゐる状態だ。
はふつておいてほしい。
話しかけないでほしい。
さう思つてゐる。

KIPをつねにする人などの話を読むと、「あみもののおもしろさを世に広めたい」といふてゐる。
頭が下がるなあ。
やつがれはなぜさう思へないのだらう。

ひきこもり願望の強すぎるせゐか。

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Monday, 19 August 2013

少しだけ進む

ひさしぶりに編んだ。
この週末のことである。

ここ二週間ばかり、家にゐてもまつたく編まない日がつづいてゐた。
あみものに対する愛情がさめてしまつたのか。
それはあるかもね。
そんな風に思つてゐた。

タティングレースはあひかはらず昼休みのあいた時間につづけてゐる。
いつそ、かぎ針編みのスカーフを持ち歩いてその時間帯に編めばいいのだらうか。

あれこれ考へつつ、なにも実行にうつしてはゐなかつた。

昨日は、一日部屋の中に風が通つてゐた。
暑いことは暑いが、風は涼しいので、座つてゐればさしてつらくない。
また、ここ数週間ではじめて、出かけない日曜日であつた。
参議院選以来、かなあ。
土日は、どちらか出かけたらどちらかは家にゐるやうにしてゐる。
体力がないからだ。
大抵は日曜日だな。朝から将棋とか見たかつたりするし。

それが選挙の日は土曜日が芝居で、せつかく投票に行くのなら、と、横浜人形の家に川本喜八郎の南総里見八犬伝の人形を見に行つた。
次の週は、日曜日に歌舞伎の巡業公演を見にいくことになつてゐたので、土曜日に人形の家に行つて、日曜日は出かけた。
その次の週は、土曜日は大阪に日帰り遠征、次の日は川本喜八郎人形ギャラリーにガイドの方々が来るのだと聞いて渋谷に出かけた。
この土曜日は歌舞伎座に第一部を見に行つて、昨日はのんべんだらりんとしてゐた。

出かけるには理由がある。
家にゐても「暑いー」といふだけでなにもしないだらうからだ。
それならいつそ、出かけてしまへ。もしかしたら外の方が涼しい施設とかあるかもしれないし。

そんなわけで、ここのところしよつ中出かけてゐたのだが。
これがやつぱり負担だつたのだらうなあ。
何度か書いてゐるが、ひきこもり願望が強いたちである。
週に五日職場に通ふのもつらいといつた状態だ。
土日くらゐはひきこもつて暮らしたい。

ところがこの八月は、八月だといふのに、毎週のやうに芝居見物に行くことになつてゐる。
しかも、上にも書いたやうに、横浜人形の家で特別展示があつたり、ヒカリエでイヴェントがあつたりして、やたらと出かけてばかりゐる。
これがまた九月もつづくんだよなあ。
うーん。

芝居や人形は好きで見に行くから、まあいいんだけどね。
だから今月もいままでなんとかなつてきたのだと思ふし。

昨日は、一日なにもすることがなく、のんびり「あまちゃん」の録画など見ながらのんびりかぎ針編みのスカーフのつづきを編んだ。
自分ではずいぶん編んだつもりなのだが、糸はあまり減つてゐない。
現在全四玉中の三玉めで編んでゐる。
しあがるのは十月だな。

並行してすすめてゐたジレといふ名のヴェストも全然進んでゐない。
もうひとつ夏ものを編むつもりで買つてある糸があるんだがなあ。

まさかこんなに編めないとは思つてもみなかつた。

出かけて疲れてゐる、といふのはもちろんあるのだが、もつと根本的な理由は、やはり暑さに負けてゐる、といふことなのだらうと思つてゐる。

うーん、これは涼しくなつても(いつたいそんな日がいつやつてくるのか不明だが)、しばらくは夏糸を編んでゐるやうかなあ。

その一方で、今年はプリンセスアニーでたたとたた夫さんのリブセーターを編まうかなどと野心に燃えてゐるのだが。
それはまた別の話。

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Friday, 16 August 2013

「新薄雪物語」のこと

云ひたいことを云へるなら、こんな物語は生まれたりはしない。
「新薄雪物語」といふのは、さういふ話である。

あらすじはこんな感じ。
薄雪姫はおなじ家中の園部左衛門に恋をして、判じ絵に託してひそかに会ひたい旨を告げる。
ところがお家転覆をはかる悪人がその判じ絵を手に入れて、薄雪姫と左衛門とに謀反の企てあり、と騒ぎ立てる。
判じ絵なもんだから、如何様にも解釈できるわけだね。
薄雪姫と左衛門とは詮議を受け、葛城民部のはからひでたがひに相手の家にお預けといふことになる。
そんな中、薄雪姫の父である幸崎伊賀守は、左衛門の父である園部兵衛宅をおとづれる。
伊賀守も兵衛も、おのが身を犠牲にしてもこどもたちを救はうとするのであつた。

別段むづかしい話ぢやあない。
序幕は桜の花咲く清水寺に、赤姫のこしらへの薄雪姫と二枚目の左衛門、うつくしい腰元の籬としのびあふ中の奴妻平といふ、如何にも歌舞伎らしい極彩色の絢爛豪華な舞台面を楽しむことができる。
時代ものだからせりふも如何にも歌舞伎な感じだ。
それを楽しめればいいんぢやない。

でもそれだけではすまないのがこのお浄瑠璃だ。

たとへば、薄雪姫は左衛門に判じ絵を送る際、文をつけるわけだが、そこに「谷蔭の春の薄雪」と署名する。
そのこころは、「谷蔭にあるからすぐにとはいひませんけれども、春の薄雪はあつといふ間にとけてしまふものなんですよ」だ。
もちろん、そんな説明は芝居を見てゐてもどこにも出てこない。見ながら勝手に解釈していくしかない。

そこが「新薄雪物語」の、そして似たやうな時代もののおもしろいところである。
舞台の端々、せりふの端々にさうした仕掛けがほどこされてゐる。
実におもしろい。

それだけだつたら、別の時代もののお浄瑠璃でもいいのだが。

「新薄雪物語」のいいところは、冒頭にも書いたとほり、「ほんたうに云ひたいことは口に出せない」といふところだ。

薄雪姫だつて、なにもわざわざ判じ絵なんぞ描かなくてもよかつたのだ。そんなことをするから、騒動に巻き込まれるのである。
最初から、せいぜい和歌かなにかで伝へておけばよかつたのである。
まあその和歌も三十一文字では悪人の手に入りでもしたら、勝手な解釈をされて謀反人扱ひされてしまふのかもしれないが、おそらくは判じ絵よりはましなはずだ。
でも云へない。
だつてほんたうのことなんですもの。

葛城民部もさうだ。
民部にはわかつてゐる。
薄雪姫にも左衛門にも、謀反の心などまつたくない、と、すつかりのみこんではゐるのだ。
でもさうは云へない。
秋月父子の手前、さういふことにはできないのだ。
だから、たがひに慕ひあふ薄雪姫と左衛門との手をとつて、扇で隠すのが精一杯、なのである。
ここの葛城民部は、吉右衛門が大層よかつた。いつたい吉右衛門といふ役者は、正面きつて座つてゐるだけ、みたやうな役が異様にいい。「石切梶原」などでも、上手の大庭と俣野、下手の六郎太夫が芝居をしてゐるところで、ぢつとまんなかに座つてゐて、それだけで芝居になつてゐる。扇の要とはかういふものかといつも思ふ。

薄雪姫と左衛門との親同士もおなじこと。
ほんたうのことを云ひたいが、それを申し出るに足る証拠がない。そもそも証拠などあるわけがない。判じ絵のことなど、悪人の云ひがかりなのだから。
それでも、色に目のくらんだ子らであつても、みづからのそして相手のこどもを救ふために、大事をなして、笑ひあふ、それしかできないのである。

民部と伊賀守、兵衛とは、どちらかといふと宮仕へゆゑ、世間体ゆゑの「云ひたいことは云へないの」だが、判じ絵にゆゑありの署名なんかは、「好きだからこそ云へないの」といふ感じだと思ふ。

この、「ほんたうに云ひたいことは口に出せない」といふのが、実になんとも、はがゆくもたまらないのだなあ。

考へてみれば、お浄瑠璃の大半はそんな感じかと思ふ。
そして、多くの場合はみづからの死とひきかへに、本心を語るといふ展開になる。
ほんたうのことを口にするには、死ぬしかない。

だから、葛城民部も扇でかくすだけである。

伊賀守と兵衛とだけが、本心を明かすことを許されるのだ。そして、それにあやかる薄雪姫と左衛門とも。

「新薄雪物語」とは、そんなところに心引かれるお浄瑠璃なのである。やつがれにとつては。

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Thursday, 15 August 2013

終戦記念日に思ふ来年の手帳

来年の手帳について考へる時期がやつてきた。
この暑いのに。

来年の手帳の売り出しは、年々早くなつてゐるやうな気がする。
以前はもつとゆつくりだつたやうな気がするがなあ。
それは単に、伊東屋の手帳フェアにしか行くことがなかつたから、といふのが理由だつたりするのだらうか。
その伊東屋の手帳フェアは、今年は松屋で開催されると聞いた。仮店舗では手狭なのだらう。

来年は、ほぼ日手帳を持ち歩きたいなあと思つてゐる。
思へば、最初の四年くらゐは持ち歩いてゐた。
はじめてほぼ日手帳を手にしたころは、勤務先が田舎だつた。田舎から田舎へかよふので、バスも一時間に二本とか一本とか、そんな感じでやつて来た。
一本逃して待つあひだ、バス停のベンチに座つてほぼ日手帳にあれこれ書き込む、そんなやうなこともあつた。

持ち歩かなくなつたのはここ二三年。重たいからである。
去年の北欧旅行にはつれて行つたが、それ以外は基本的に置き手帳として使つてゐる。

使ひ方はずーつとかはつてゐない。
いはゆる「日記」だ。
起きて、だるくて、でも出勤して、職場でもだるくて、帰りついてだらだらしてしまつた、とか。
こんなものを編みはじめた、こんなものが仕上がつた、とか。
芝居を見に行つて、あれはよかつたけどあれはダメだつた、とか。
こんな本を読んだ、とか。

一日ページにはさうした日々の行動の記録が並んでゐる。
感想などは最小限。さうしたものは書ききれないので、また別のノートに書きつけてゐる。
マンスリーのページには予定を書き込む。
予定は、iPhoneをメインに使つてゐるが、ま、バックアップみたやうな感じかな。

持ち歩くにあたつて、使ひ方も変へたいなあと思つてゐる。
ほぼ日手帳を使ひはじめたころ、持ち歩いてゐたのは、これ一冊でなんとかなつたからだ。
なんでも書き込める。
そのうへ、ほぼ日手帳のカヴァにはいろいろはさみこむことができる。

さうやつて便利に使つてゐたのだが、あるとき限界がやつてきた。
もつと書きたいのである。
一日一ページぢや足りないのだ。

かくして、ほぼ日手帳には「必要最低限(と自分が思ふ内容)」を書き込むやうになり、その結果、置き手帳になつたのだつた。

この流れを考へると、いまさらほぼ日手帳を持ち歩く生活には戻れないやうな気もしてゐる。
だいたい持ち歩くかばんが小さくなつた。

ブロガーズトートを使つてゐるときはいい。
いや、それさへもよくないのかな。
ブロガーズトートを持ち歩くやうになつて、また荷物が増えつつあるからだ。

先日も同好の士と話したのだが、ブロガーズトートはよくできてゐる。
以前ここにも書いたが、必要なものや大切なものを入れる内袋が充実してゐる。ゆゑにかばんは巨大だが、さつと取り出したいものが迷子になるといふことが少ない。
それでゐて、大容量である。
そんなわけで、気がつくと出かけるときに持つてゐるのはブロガーズトート。
そんな風になつてゐる。

その一方で、ル・ボナーのコンフェッティネコリュック、カンダミサコのdumiも愛用してゐる。

ネコリュックはいい。
コンフェッティもほかの荷物を減らせば入るだらう。
でもdumiはどうかなあ。

しかも、かうしたかばんを使ふことで、やつと持ち歩くものがすこし減つたといふのに。

手帳を変へる、手帳の使ひ方を変へる、といふのは、結局、日々持ち歩くものを変へる、といふことだ。
つまり、日々のスタイルを変へねばならない。
孫子風にいふと、手帳選びは暮らしの大事也、察せざるべからず、といふことになる。

終戦記念日にふさはしいエントリになつただらうか。

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Wednesday, 14 August 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 平治の乱

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーでは、「保元」と「平治」といふ主題で平家物語の人形を展示してゐる。
保元の乱については前回書いたので、今回は「平治」について書く。

くどいやうだが、「平治の乱」だからといつて、義朝とかはゐない。前回の展示のときにゐたからである。現在、ギャラリー内の液晶モニタで前回の展示のスライドを流してゐるので、それを見られたい。

さて、前回も書いたやうすのいい馬上の為朝の向かつて左隣には、藤原姓の三人がならんでゐる。
藤原信頼、藤原惟方、藤原経宗だ。
一番右端が惟方。眉はなく引いてもゐない。眉のあるあたりと目のあひだとが妙にあいてゐる。凡庸さうな感じだが、かういふ人間が実は一番やつかいだつたりするのが常である。実際、惟方は、信頼たちを裏切つて、二条帝を清盛んところにつれてつちやふんだもんね。

真ん中の信頼は、去年の大河ドラマ「平清盛」に出てゐた信頼とは似ても似つかない、まつしろな瓜実顔のお貴族様である。衣装も惟方や経宗よりは派手だ。正面切つて立つてゐるが、えらさうではあるもののたよりになるやうすは微塵もない。「信頼」なんて名前負けし過ぎ。かうして見ると、頼長の方がやつぱりしつかりしてゐるよなあ。前回は「賢さうには見えない」とか書いたけど。

経宗は、今回展示されてゐる人形の中では、一番生きてゐるやうな表情を浮かべてゐるかもしれない。わづかに斜めを向いて、口元に扇をあてて右をながめてゐる態。そのやうすが、如何にも胸に一物ありさうな、そんな感じがするのである。衣装は朱色と緑を基調としたもので、どことなく田舎つぽいといふか、あかぬけない感じはする。

その隣が鹿毛の馬に乗つた源義平。さらにその隣には白馬に乗つた平重盛がゐて、ふたりの決戦のやうすを再現しやうとしたものかと思はれる。
義平は手綱を引いて、馬をいさめる態。手にした刀もやや後方に下げた形で持つてゐる。表情は実にふてぶてしい「悪源太」な感じ。
一方重盛は、前のめりに馬をけしかけるやうすで、刀をかかげて突進する態だ。
いさましいはずなのだが、どこか頼りなささうなのは、さういふ目で見てしまふからか。どことなく中村梅玉におもざしが似てゐる気がする。御曹司顔なのだらう。平家だけど。

為朝の青毛の馬もさうなんだが、かうして馬を見てゐると、赤兎は愛されてたんだなあ、と、しみじみ思ふ。前回の展示の赤兎は、なんだかもつと猛々しいやうすで、生きてゐるやうだつたもの。今回の展示の馬三頭は、いづれもなんだか可愛い感じがする。それはそれでいいのかもしれない。考へてみたら、今飯田に展示されてゐる白竜も、可愛いもんな。Prince Charmingでも乗せてさうな感じ、
とでもいはうか。

重盛の隣には信西。あぐらをかいて座つてゐて、足の裏が見える。足の裏を見せてる人形なんて、なかなかないぞ。
どこか酩酊のやうすにも見えるのは、片手をふりあげてゐるからか。人を呼んで、「おい、呑まうぜ」とかいふてゐるやうに感じる。
まれに、見る角度にもよるのかもしれないが、阿部サダヲの信西を思ひだすことがある。全然似てないんだがね。渋谷の信西は、目もちいさいし、横に丸い顔をしてゐるし。でも、「もしかして、阿部サダヲ、「平家物語」見てたのかなあ」とか、やくたいもないことを考へたりしてしまふ。

信西の背後に二条帝と多子。なんとなくお雛様を髣髴とさせるふたりである。
二条帝は銀色に近いやうな白地に刺繍を施した衣装。色合ひ的には地味かもしれないが、上品な柄である。
多子は座つてゐて、若干うつむき加減。川本喜八郎のおんなの人形は、ふりあふいだときにやさしい表情になるやうになつてゐることが多いが、多子はうつむいてゐてもなんだかやさしげだ。ちよつと、「どうしてもこの人を后に!」とか思はせるやうなところはないやうに見受けられる。

一番入り口から遠いところにゐるのが、池禅尼、常盤御前と今若・乙若・牛若、そして少年時代の頼朝である。
池禅尼は、川本喜八郎のおんなの人形にはめづらしくたれ目で、ゆゑにまことに人のよささうな感じがする。平家方から見たら「諸悪の根源」だが、これまた案外諸悪の根源なぞといふのはかうした人のよさげな表情をしてゐるものなのかもしれない。

奥に子連れの常盤御前。雪の山中を行くのこころ、だ。
常盤御前といふと、芝居でいくと「鬼一法眼三略巻」の「一条大蔵譚」とか、見たことないけど「平家女護島」に出てきたりする。
「一条大蔵譚」の常盤御前は、これまた見たことないけど死んだ歌右衛門の流れなのか、きりつと気高い感じの人だつたりする場合が多い。
「平家女護島」の常盤御前も、(見たことないけど)さうだ。俊寛の妻・東屋の死について、「俊寛風情の妻なら死を選ぶこともできやうが、源氏の頭領の妻たる身がみづから命をたつてよいものか」みたやうな啖呵をきる。
さういふ、強いおんなな印象のある常盤御前だが、ヒカリエにゐる常盤御前はちがふ。
三人の幼子を抱へた母でありながら、どこか頼りなげだ。これからどう逃れたらよからうなあ。そんな弱さが見え隠れする。
先月、大阪松竹座で見た「一条大蔵譚」の常盤御前もさうだつた。気高くはあつても、かよはくて思はず守りたくなつちやふやうな姫さま。
常盤御前といふ人は、さういふ人だつたのかもしれないなあ、と思つたものだ。
ちなみに今回、ギャラリーの外に飾られてゐるのも、常盤御前。こちらはおすべらかしに十二単で華やかな印象だが、やはりどこかさみしげな感じがする。
ギャラリー内にもどると、今若はしつかりした表情、乙若は無邪気でどこかこの状況を楽しんでゐるかのやうな表情、そして乳飲み子の牛若は泣いてゐる、そんな風情もいとをかし。

頼朝は少年ながら鎧姿で髪は垂らして立つてゐる。向かつて右の目じりのほくろが目を引く。なりは小さいけれど、武士の表情かと思ふ。今後展示替へがあつたら、成長した姿も見られるのだらうか。ちよつと楽しみである。

川本喜八郎人形ギャラリーの外の展示についてはこちら
同人形劇三国志の「漢室の人々」についてはこちら
同人形劇三国志の「黄巾」と「桃園」についてはこちら
同平家物語の「保元」についてはこちら

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Tuesday, 13 August 2013

暑さの過ぎるを待つ心

あひかはらず、The Twirlyをつなげつづけてゐる。

五枚つないだ。
あと二枚つなげばなんとなくドイリーつぽいものは完成する。
ほんたうは、去る週末大阪行きのときに新幹線のなかででもタティングするつもりでゐた。
なぜかやる気にならなかつた。
せめて日頃の睡眠不足をおぎなはうとも思つたが、車内で眠ることができなかつた。
お盆のこととて、子連れ客が多かつたことはたしかだ。
しかし、あちらもこちらも乳幼児をつれた客だといふのに、奇跡的なほどに車内はしづかだつた。
みんな、気を遣つてるんだらうな。

もとい。

おそらく、暑さにやられてしまつてゐるんだと思ふ。
大阪への行きも帰りも、寝不足と暑さとで疲れきつてゐるはずなのに、一睡もできなかつた。
自宅でも、一旦いすに座ると、もうあとはなにもやる気がしない。
目の前には編みかけのスカーフがある。
しかし、手に取ることができない。
むむー。

この時期、暑いといふのでなにもできず、また、涼しければ涼しいでなにもできなかつたりする。
あれは不思議だね。
暑さのなか、まれに涼風の吹き込んでくることがある。
するとどうだらう。
「すずしー」とかひとりごちて、あとはもうなにもできないのだ。
ただ座してあるいは臥して涼風になぶられるのみ。
せつかく涼しいんだから、あれもしやう、これもしやう。
さうは思ふのだが、躰が動かない。
もつたいないなあ。

そんな、暑さにだらけきつた精神状態のわりには、「やつぱりこのモチーフ、もつとつないでみやうかな」なんぞと思つたりはする。
おもに職場で。
なぜなら空調がきいてゐて、からつと涼しいから。
自宅にゐるときは、そんなこと考へてもみないもんな。

何度か書いたが、The TwirlyはJon Yusoffデザインのモチーフである。
こぶりなモチーフだがスプリットリングがあるのでシャトルはどうしても二つ遣ひになる。
これまた何度か書いてゐるが、やつがれはシャトルの二つ遣ひはどうも苦手だ。
ふたつのシャトルから糸をくりだしたりしまつたり、といふ作業がどうも手間に思へて仕方がないからだ。
シャトルはひとつであとは糸玉。
それが理想的だと思つてゐる。

しかし、The Twirlyでは、糸を巻いたりくりだしたりといふ作業がそれほど苦ではない。
シャトルを休ませるときに、前のリングなりチェインなりで使つてあまつた糸が、ほぼそのまま使へるからではないか。
そんな気がする。
シャトルを休ませるから、あるいは次はこのシャトルを使ふからといつて、糸を引き出したり、あるいはまた巻き付けたりといふ作業が、それほど多くないのだ。ほかのモチーフなりエジングなどに比して。
さういふことなのだと思ふ。

このモチーフは、Aerlit Shuttlesを使つて作つてゐる。
もともと、Aerlitは使ひやすいなあとは思つてゐた。
ここのところ慣れてきて、ますます使ひやすいなあと思ふやうになつた。
やつぱり道具は慣れだな。
ちつとぺかぺかした感じの質感は苦手なのだが、えうは使ひやすいかどうかだよな。

ところで家には二ヶ月前に越前屋で購入した佐賀錦なんかもあつて、首からさげるストラップのやうなものを作らうともうせん思つてゐたりはするのだが。
とりあへず、暑さがどうにかなつてから、かのう。

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Monday, 12 August 2013

実際に好きなことについて語る

好きなことについて話をする機会があるだらうか。

たとへば、「あみもの」と口に出して誰かと話すことがどれくらゐあるだらう。
あるいは「作り目」だとか「減らし目」だとか「縄編み」だとか。
「パピーのシェットランドの緑が深くていい色なんだよねえ」とか、「クロバーの匠は最高だよね」とか。
実際に他人とさうやつて話す機会のある人つて、どれくらゐゐるんだらう。

お教室にでも通つてゐれば、あるんだらうなあ。
はたまた同好の士としげく会ふ人だつたら、あるだらう。

幸ひなことに、やつがれもさういふ機会にめぐまれてゐる。
「あみもの」はもちろん、毛糸の話や編み方の話、編み地の話、Ravelryの話に至るまで、好き放題に話せる環境がある。
まことにありがたいことである。

世の中には、好きでたまらないのに、「あみもの」とすら口に出すことなく暮らしてゐる人もあるだらう。
周囲に同好の士や理解者がゐないとさうなると思ふんだよね。
blogや、最近ではTwitterなりFacebookなりLINEなりで同好の士と趣味の話でもりあがることもあるのかもしれない。
でも、実際に口に出すのとは、全然違ふ。

といふことに気がついたのは、つい最近のことである。
Twitterを使つた診断サービスで、「夏侯惇とばかり云ふてゐる人」みたやうな結果が出たことがあつた。

最後に「夏侯惇」とか口に出したのはいつのことだらうか。
多分、口に出したことはある。
あるけれども、それはもう遠い過去の話だ。
このblogにも書いたやうに、前回の飯田市川本喜八郎人形美術館での夏侯惇がそれはそれはすばらしくいい男に展示されてゐて、それで何度もTwitter上で「夏侯惇がよくて」などとつぶやいたといふことはあるけれども、「夏侯惇がそれはそれはよくてさー」とか、誰かに云つただらうか。

云つてない。
云つてゐないと思ふ。
云つてないんぢやないかな。

だいたい、口に出すとして、まづ「夏侯惇とはどういふ人物か」といふ説明からはじめないといけない。
しかも「人形劇三国志」の夏侯惇はいはゆる「三国志演義」に出てくる夏侯惇とはまたちよつと違ふ。

ないなー。
そこから話す、とか、ないわー。

先週、Twitterで知り合つた人とはじめて会ふ機会があつた。
Twitter歴六年にしてはじめてのことである。
主に芝居の話をした。

実は普段もまつたく芝居の話をしないわけぢやない。
なんとかこの話題は避けやうとか思ひつつ、だつていい芝居見ちやつたんだからさー、とか、どーしよーもない芝居を見ちやつたもんで、とか、我と我が身に云ひわけしながら、話してしまふことが多々ある。

でも、さういふときに出す名前つて、TVによく出る役者止まりなんだよね。
幹部でもTVなどにあまり出ない役者の名前は出さないし、ましてや脇の役者。
演目だつて、同様だ。

昨日、川本喜八郎人形ギャラリーに行つた。
この件については後日詳しく書くとして、行くと川本プロダクションの方々がゐて、その場で人形を操作して見せてくれたり、人形に触らせてくれたりしてゐた。
その場で先日も書いたすばらしい為朝の話をしてしまつたりした。
「為朝」とか、口に出して云ふのはいつ以来だらう。
あ、もしかして、去年「平清盛」を見てて、橋本さとしの鎮西八郎があまりにもすばらしかつたから、「為朝」とか口にしてるかな。あの橋本さとしの為朝は実によかつた。出番が少なかつたのが惜しまれるほどだ。為朝にはああいふ「全身是兵器」みたやうなところがあつたかもなー、とか思つてしまつたものなあ。

しかし、源平もので口にするとしたら、せいぜい義経とか弁慶とかだよな。出て頼朝。清盛もか。
最後に「小松殿」とか云つたのつていつだらう。もしかしたら、いままで一度も口に出したことはないかもしれない。

「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば」と「徒然草」にはある。
好きなこともさうだらう。
そんなわけで「あじきなきすさびにてかつやりすつべきものなれば人の見るべきにもあらず」とばかりにblogに書き散らしたりもするわけだが。

でもやつぱり、実際に口に出して、話のできる相手のゐるといふのはいいものなのだなあ。

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Friday, 09 August 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 保元の乱

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの平家物語の現在の展示は、「保元・平治の乱」といふ主題である。
「保元・平治なのに、義朝がゐない」だとか、「崇徳院もゐない」だとかいふ向きもあるが、どちらも前回の展示のときにゐたので、今回はゐない。人形は照明にさらされつづけると傷む。どうなるかは、飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる曹懆を見るとわかる。が、いまゐる曹懆はそれほど傷んでないな。
褪色の具合を見るなら、飯田の孫権を見るといいかもしれない。

もとい。

入り口に近い方から、保元の乱にまつはる人々が並んでゐる。
まづ、源為朝。
これが、今回の展示の中では一番のお気に入りである。
今回の展示には、為朝はニ体飾られてゐる。
馬上にいままさに弓を引かんとしてゐる姿の為朝。
腕の筋を切られ、敗残の態の為朝。
入り口に一番近いところにゐるのは後者の為朝である。
これが実にいい。
髪はざんばら、衣装は白地に黒の絞りの模様で、顎には髭の点々と生え、腕はだらりとたれさがつてゐる。
敗軍の将の色気のにほひたつやうな姿である。
それでゐて、尾羽打ち枯らしたといつたやうすもない。
不敵に中空を見つめてゐる。
うーん、いい。惚れ惚れするなあ。

そんなわけで、為朝に目を奪われてしまふため、その周囲の人々には今一つ目がいかなくなる。
為朝の斜め後ろには、悪左府・藤原頼長がゐる。
色白の瓜実顔で、閉じた扇を口元によせて向かつて右側を眺めやる態、衣装は国立劇場の緞帳を思はせるやうな古代つぽい柄で、落ち着いた紫色の地である。
見るからに陰湿さうではあるが、あまり賢さうには見えない。残念ながら。

そのとなりが藤原忠通。
こちらはさらに凡庸な表情である。「その他大勢」でもかまはないやうな顔立ちだ。
弟にくらべると衣装も地味。茶色系で、それはそれで趣はあるんだけど、なにしろ顔が地味だからな。

そんな地味な忠通の前にゐるのが平忠正。
こちらはなんとも小ずるさうな表情のおつちやんである。
衣装は赤地に青や緑のグラデーションの模様を散らしたもので、派手なんだけど、表情の小物感のせゐか、そんなに目立つといふ印象はない。

贔屓目だけど、頼長・忠通・忠正の三人で鎮西八郎を引き立ててゐる、そんな感じの一角である。

すこしはなれて、清盛と時子、それに経盛、教盛がゐる。
時子は、川本喜八郎の女の人によくあるつり目ではあるものの、目、とくに黒目の大きいせゐか、それほどきつい表情にはなつてゐない。凛と正面を見据ゑてゐる。
飯田市川本喜八郎人形美術館の前回の展示は、平家物語は「女人平家」と題して中央に二位の尼を配してゐたのだが、これが実によかつた。神々しいといつてもいいやうな出来で、何度も二位の尼の前でたちどまつてしまつた。
ヒカリエの時子には、その二位の尼の雰囲気がわづかに感じられる気がする。

その隣が鎧姿の清盛。
清盛は、前回のヒカリエの展示ではあまり印象に残らなかつた。
一生懸命いいところを探さうとして、結局展示替へまでのあひだに見つけることができなかつた。まあ、それは忠盛もさうだつたんだけどさ。
まあ、なかば部屋住みのやうな感じでうだつのあがらぬころの清盛だから仕方がなかつたんだらうけれども。
今回は鎧姿できりりとしてゐることもあつて、かなりやうすがよくなつてゐる。
とはいへ、主人公のオーラはあまり感じられないんだなあ、これが。

両親の前にゐる教盛と経盛とは、まだ成長途中といつた、中途半端さがいい。元服するかしないかといつた時分の、こどもらしさの残るやうなところが、ね。
衣装もどことなく地味。表情もなんとなく覇気に欠ける。
このふたりを出すよりは、清盛と時子とを前面に出した方がよかつたんぢやないかなあ。どうせ、ふたりとも成人した姿で出てくるんだらうし。

ケースの一番奥にゐるのが馬上の為朝。
青毛の馬にまたがつて、鎧姿も凛々しく大きな弓に矢をつがへんとした姿が、実にいい。
馬にまちつと動きがあればさらによかつたんぢやないかな。
一番入り口に近いところにゐる為朝もさうだけど、今回の展示の主役はどう見ても為朝だなあ。一等やうすがいいもの。
このあと、馬上の義平とか馬上の重盛とかが出てくるのだが、鎮西八郎のまへにはかすんでしまふんだよなあ。

ことはつておくと、やつがれは別段為朝が好きなわけではない。
好きなわけではないが、今回の展示で一番目を引くのは、為朝なのであつた。

川本喜八郎人形ギャラリーの外の展示についてはこちら
同人形劇三国志の「漢室の人々」についてはこちら
同人形劇三国志の「黄巾」と「桃園」についてはこちら

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Thursday, 08 August 2013

俳号について

さうだ、俳句を作らう。
さう思つたのは、俳号に、「子」の字で終はる名前が多いことに気がついたからだ。
高浜虚子。山口誓子。水原秋桜子。
俳句を作ることにして、最後に「子」の字のつく俳号をつければいいではないか。

例によつて本末が転倒しまくつてゐるが、それは気にしてはいけない。

しかし、待てよ。
世の中、俳号の最後に「子」の字がつくのは、どうやら男の人ばかりのやうではあるまいか。
本名をそのまま俳号にしてゐる人はいざ知らず、上にあげた三人にしても、みな男。
女の人はどうなのか、といふと、どうやら最後に「女」をつけるのらしい。
杉田久女。中村汀女。三橋鷹女。

むむー、それはどうだらうか。
あ、あれか、いつそのこと、「求女」とかつてつけるか。「妹背山婦女庭訓」だな。でも俳号の場合はきつと「きうじよ」とかつて読ませるんだらう。
それもなにかがちがふ。

まあもとからなにかがちがふのだから、どうでもいい話か。

ところで俳号といふと、歌舞伎役者にもいくらもある。

俳句を作るかどうかは知らないが、俳名をもつ役者といふのは結構ゐて、その名前が弟子筋の役者の名前になつてゐたりすることがある。
また、俳名をつけたお家の藝をまとめたものとか、俳名を冠した興行なんてのもあつたりする。

普段、そんなことはまつたく意識しないで芝居を見てゐるが、ちよつとさういふことを考へながら見るのもおもしろかつたりするんぢやあるまいか。

もひとつところで、「芥川竜之介俳句集」なんぞを見てゐると、「これは芝居由来の句だな」といふのがいくつも見られる。
芝居と句とはつくものなのかな。

龍之介の俳号は我鬼。
鬼才にあやかつたものか。

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Wednesday, 07 August 2013

On Name

名前には思ふところがいろいろある。

おそらく、自分の名前に文句のない人はゐないだらう。
こどものころに「なんでこんな名前なのかなあ」と、つけた親や親族、または親の知り合ひを恨んだことも一度や二度はあるにちがひない。
それで、絵を描いたり文章を書いたりするこどもは、そのうち面妖な「雅号」をつけるやうになるのだらう。
絵や文をみづから為すこどもは、自意識もまたほかの子より強い。
そこで、「読めないよ」とか「男か女かわかんないよ」といふやうなペンネームをつけてしまふ。

ところで、やつがれの本名は、男につけても女につけてもいいやうな名前ではある。
こどものころはそれが大いに不満であつた。
もつとどちらかはつきりした名前をつけてくれよ、と、親に改名をせまつたことも一度ならず。
そのときに、改名にともなふ手続きの煩雑さを説明されて、こども心にあきらめたのだつた。
いまは昔の物語である。

長じてのち、ネットのあれやこれやに参加するうち「ハンドルネーム」といふやうなものを持つことになつた。
それで、性別のはつきりするやうな名前をつけるやうになつたか、といふと、まあ、ご覧のとほり、である。
どつちかわかんない。
多分、わからない。

もつと幼いころ、自分の名前に対する不満に満ち満ちてゐたころにハンドルネームを持つことになつてゐたら、見ただけで性別のわかる名前をつけてゐただらうか。
それもないな。
そんな気がする。

それはもう、もとの名前がどうかういふ問題ではないのだらう。
「他人にわかられたくない」といふ意識のあらはれなのだと思ふ。
理解されることを拒否してゐる。
さういふことなんだらう。

どこかで書いた気がするが、自分の名前とは、ある時点で和解した。
まあ、いいんぢやない。
とりあへず、あんまり「グローバル」な名前ぢやないけど。
「グローバル」な名前には、少なくともハ行の字は入つてゐてはいけない。
その昔、岩城宏之が、「小沢征爾は「セージ」でいいけど、自分は「ヒロ」と名乗るとフランス語などラテン系の言語を母国語とする人には発音できない。それで「ユキ」と呼んでもらふやうにしてゐる」と書いてゐるのを読んだことがある。
そんなこと云つてゐると、使へる字はほとんどなくなつてしまふ。chだつてダメだらうし、jも微妙だ。
まあそこは無視することにして、とりあへず、自分の名前を受け入れることにしたのだつた。

ここ一年ばかり、漢詩を読む機会が増えた。
気がつくと、自分の名前を為す漢字が使はれてゐる詩を探してゐる。
国字を使つた名前の人にはチトできない楽しみである。
これが、案外ないものだ。
先日、やつと李賀の詩の中にひとつだけ見つけた。
長い詩である。
これだけの量がないとダメなのか。

次点で、杜甫の「蜀相」がある。
あと一文字入つてゐれば完璧なのに。
さういふ、ちよつと欠けてゐるところがいい。
昨日、緊張を緩和するためだらう、気がつくと反故紙に「蜀相」を書き散らかしてゐた。
自分の名前を書き散らかすよりはよからう。

和解してずいぶんたつが、やはり自分の名前に対するわだかまりは完全に解けてはゐないのだつた。

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Tuesday, 06 August 2013

達成感を得るには

暑いときと寒いときと、どちらの方がタティングレース作成にむいてゐるだらうか。

我ながら愚問だな。

レースの作成には、「いい季節」がむいてゐる。
すなはち、窓からそよそよと心地よい風が吹ききたり、暑すぎず寒すぎず、「あー、なんか今日はいい日だなあ」、と、そんな心持ちになる季節、だ。

春か秋、空気のcrispな感じのころ、は、ちよつといきすぎかもしれないが、いづれにしても、ちよつとからりとした気候の方がむいてゐると思ふ。

そんなの、タティングレースにかぎらないよなあ。
あみものは、とくに毛糸を使ふ場合は寒い方がいいのかもしれないが、あまり寒すぎても今度は手が動かなくなる。

なんでそんこなとを考へてゐるのか、といふと、もちろん、あみもの・タティングレースともに進んでゐないからである。
家に帰り着いても、手に取る気がしない。
この土日は両日とも出かけてゐたので、やはりあまり進んでゐない。
「あまちゃん」の録画や、「宇宙戦艦ヤマト2199」などを見ながら編んではみたけれど、それだけぢやたいしてはかどらないんだよね。

といふ話は、もう何度もくりかへしてゐる。
くどくてすまぬ。

達成感が得られない、といふ話も何度も書いてゐる。
なぜ達成感が得られないのか。
仕上がらないからだ、といふのはかんたんだ。
しかし、あみものだのタティングレースだのは、さうさうかんたんに仕上がるものでもない。
とりあへず糸端の始末まではできたとして、その後の整形だのなんだのは、仕事から帰ってきてからやる気にはチトならない。
休みの日の、時間のあるときにのんびりやりたいところだ。

ほんたうは、あみものでもタティングレースでも、時間のあるときにのびのびしみじみとやりたいものではあるのだが。

先日、勤め人はあみものをやるべきではないのか、といふやうなことを書いたが、この「のびのびしみじみ」を求めるのなら、やはり勤め人はあみものをやるべきではないのかもしれない。
もちろん、平生いそがしく働いてゐて、ふつと休みのとれたときに、のびのびしみじみと手作業にいそしむ、などといふこともあらう。
いいなあ、あこがれるなあ、そんな雰囲気。

しかし、実際に編んだり結んだりしてゐるときはどういふ状況か、といふと、すこしでも早くすこしでも多くすこしでも遠くにたどりつきたい、と思つてゐるやうな気がする。
オリンピックか。

「スラムダンク」に「バスケは算数ぢやない」といふやうなせりふがある。
あみものは、そしてタティングレースは、競技ぢやない。
世の中にあみもの競技があるのは確かだけれども、やつがれには縁遠い世界の話である。

ひとりでやつてゐるんだから、そんなに「もつともつと」と求めなくてもいいのに。

といふわけで、あくせくすることなく達成感を得るにはどうしたらいいか。
以前もちよつと書いたが、今度はまちつと具体的に考へてみた。

まづは、自分の力量を知ることだ。
たとへば、中細の糸に1号の針だつたら一時間にメリヤス編みでどれくらゐ編めるか、だとか。
タティングレースなら、このモチーフひとつに作るのに何分かかるか、だとか。

それがわかると、「今日はタティングレースにこれくらゐ時間をかけられるから、ここまではいけるはず」といふだいたいの目標ができる。
実際は、失敗してほどいたり、途中で糸を足したりといつた作業も入る可能性があるので、必ずしも予定どほりにはすすまなかつたりもするが、そこはそれ、である。
だいたいの目標ができれば、そこに達した時点であるていど満足感を得ることができる。
また、作業をすすめるうちに、手が慣れてきて、かかる時間が短縮することもあらう。さうすると、また別の達成感を得ることもできる。

と、わかつてゐながら、さうした目標を定められずにゐるのが、やつがれの現状なのだがな。

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Monday, 05 August 2013

あまり毛糸でわかる編み物の向き不向き

群ようこに、「毛糸に恋した」といふ著作がある。
あみものに関するエッセイ集だ。
編み図が掲載されてゐなくてあみもの業界の人間が書いたものではない本といふのは、めづらしい。
図書館で見つけて読み、その後文庫本が出たのを知つて購入した。

以前も書いたが、好きなことに関する本を読むのが好きだ。
芝居や萬年筆、Palm Pilotなど、そのときどきであれこれ探してきて読んだものだ。
なかでも、あみものに関する本はひどくすくない。
大抵のあみもの本は、いはゆる「あみものの本」だからだ。
すなはち、セーターなどをモデルが着た写真が掲載されてゐて、編み方がそのあとに載つてゐる、そんな本だ。
しばしばここでも話題にしてゐる橋本治の「男のニット 手トリ足トリ」は、あみもの関連の本の中ではとくに好きな一冊だが、この本にもセーターの編み方は掲載されてゐる。
しかるに「毛糸に恋した」にはさうしたものがまつたくない。
あみものを扱つたCosy Mysteryにさへ、編み方が掲載される世の中だといふのに。
いいなあ。イカすなあ。

「毛糸に恋した」には、群ようことあみもの仲間との座談記録も掲載されてゐる。
曰く、出勤前に三分でも時間があつたら玄関先で立つたまま編んでしまふ、とか。
あみものが趣味ですといふと女らしいといふやうなことを云はれるが、実際自分のまはりにゐるあみものをする人はさばさばした性格の人ばかりだ、とか。
あみものをやつてゐたらくよくよ悩んでなどゐられない、ほどくときはいさぎよく一気にほどく、とか。
「うんうん、さうだよねえ」と、経験のある人ならうなづく点も多からう。

ところで、中に、あまり毛糸を使ふ達人の話が出てくる。
これも群ようこのあみもの仲間の話だつたと記憶する。
実際に編んだものの写真もいくつか掲載されてゐるのだが、これがほんたうにすばらしい。
色合はせの妙といふか、柄の選択のセンスのよさといふか、さうした諸々の能力が結晶となつたやうな作品もある。
その達人が云ふには、あまり毛糸を消費しやうと思つたら、あまり毛糸だけを使つてはならないのらしい。
新たに毛糸を買ひ足して、編むのだ、といふ。

えーと、それつて、新たなあまり毛糸を生むことになりやしませんかね。

この本の中には、長い経験と深い知識を持つデパートの店員の話も出てくる。
群ようこが、セーターを編むのに毛糸を買ひに行つたら、その店員が、「これぢや足りませんよ。もう一玉お買ひなさい」と云つた、といふのだ。
いはれるままに買つて帰つて半信半疑で編んでみたところ、はたしてその店員の云つたとほりになつた、といふ。

手芸店の店員がみなこのデパートの店員のやうだつたら、あまり毛糸の心配などさほどしなくてもいいのかもしれない。
実際大手手芸店に行くとわかるが、さうした店員ばかりではないといふのが現実である。

かくして余分に毛糸を購入してあまり毛糸が増える。いや、もつとひどいのは、毛糸が足らなくて買ひ足したらあまつてしまつた場合だ。

以前も書いたが、あみものをする人には、なぜかあまり毛糸を捨てる人がすくない。
もしかしたら捨ててゐるのかもしれないが、大抵の場合は「あまり毛糸を活用しました」だとか、「糸端をあつめてあみぐるみの綿代はりにしました」だとか、徹底的に毛糸を使ひつくす話が巷にはあふれてゐる。

あみものをしやうなんてな人は、創意工夫にあふれてゐる人ばかりなのかもしれないなあ。
やつがれのやうに、創意工夫の「そ」の字もない人間は、あみものをしてはいけないんだらうなあ。

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Friday, 02 August 2013

主人公出てこないぢやん

「スラムダンク」で一番好きな試合は海南大付属(以下「海南」)対陵南である。

といふ話をしたら、「主人公、出てこないぢやないですか」と云はれてしまつた。

といふわけで、昨日の話と微妙につながつてゐる。

海南対陵南がすばらしいのは、主人公が出てこないからなんだがなあ。

一応説明をしておくと、「スラムダンク」はバスケットボールのまんがで主人公が通ふのは湘北高校。
海南といふのは県下一の強豪校で、陵南といふのは強いけど主人公のゐる高校のライヴァルといふことになつてゐる。

昨日も書いたが、主人公が出てこないから話が凝縮される。
試合の中で主人公が成長するさまとか描かなくてもいいし、家族とか仲間とかが応援するさまを描く必要もない。
それまであまり活躍しなかつた選手が出てきたときに、その過去などをほぼ一話分まるまる使つて説明する必要もない。
海南対陵南戦ではじめて出てきて活躍した福田吉兆と、つづく湘北対陵南戦でいいところでスリーポイントシュートを決めた湘北の木暮公延との描かれ方を比べるとよいかと思ふ。
#ここでの木暮さんの描かれ方は、実は物語の限界が理由なのだが。
#まあそこはそれ、だ。
さらには、この場合海南が勝つても陵南が勝つても、話の展開としてはおもしろくなる、といふ状況である。

これが主人公のチームが関はつてくるとかうはいかない。
「スラムダンク」の場合は、全国大会に出られるのが県内から二校といふので、一度は負けてもなんとかなつた。
でも普通は、試合中にいろいろあつて、それでも勝つ、みたやうな展開になるのが常だね。
その勝利の演出のためにあれこれやらなければならない。

さういへば、「ドラゴンボール」でも天下一武道会では天津飯対ジャッキー・チュンが好きなんだよなあ。
これは長いこと、「道を究めた老人から若いものへのリレー」みたやうなところが好きなんだらうと思つてゐた。
でも、考へてみたら、これも「主人公が出てこないから」いいのかもしれない。

たとへば、天津飯が主人公だつたら(天津飯が孫悟空だつたら、ではない。念のため)、この試合は、もつとウェットな描写になつてゐたらう。
悪者の師匠に育てられ、また身近に悪くてめちやくちや強い人物(桃白白)がゐて、悪の道に進むことを疑ひもせずに成長した主人公が、正義かどうかはともかくこれまためちやくちや強い老人に出会つて開眼する。
映画にありさうな展開ぢやあないか。

この試合、天津飯が勝つた方がその後の展開がもりあがるのはいふまでもないが、ジャッキー・チュンが勝つと前回の天下一武道会のリヴェンジになるのだ。

「ドカベン」にも白新対東海とかあつたよね。不知火くん対雲竜くん。
「キャプテン翼」だと明和東対東邦だらうか。それよりも明和対ふらのか。
ま、いつか。

どちらかが勝つてもいい。
その方が話としてはおもしろいぢやあないか。
といふか、やつがれはおもしろいと思ふ。

まあそれも、「主人公」といふ存在あつてのことなんだけれどね。

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Thursday, 01 August 2013

主人公不在のエピソード

毎晩寝るまへにちよこつとずつ「人形劇三国志」を見てゐる。
ここのところ、赤壁の戦ひ直前のせゐか、ほんの五分くらゐ見るつもりだつたのに延々と見続けてしまつて、気がつくとその回はほとんど見てしまつた、といふことが起こりがちだつた。
といふわけで、心を鬼にして、会話の途中であつたりしても「ここまで」と決めたところでやめるやうにしてゐる。

なにがそんなにおもしろいのか。
赤壁の戦ひは「三国志演義」全体の中でも一番もりあがる展開の部分ではある。
それゆゑのことだらうな、くらゐに考へてゐたのだが。

夕べ、突然ひらめいた。
「人形劇三国志」の赤壁の戦ひ前後がおもしろいのは、主人公がゐなくても話がサクサクすすんでいくからではないか、と。

「三国志演義」における主人公が誰なのか、といふのは、実はむづかしい問題だと考へてゐる。
でも、「人形劇三国志」はちがふ。
「人形劇三国志」の主人公は玄徳だ。
こども向けに話を展開する都合上、誰かが主人公でなければならない。
なるほど、玄徳は、主人公にたる登場人物である。
そして、玄徳(と関羽と張飛と)を主人公にすゑることで、「人形劇三国志」の物語に、あちこちひづみがある、といふのもまた事実だ。

といふ話はまたの機会にゆづることにして、主人公が不在だとなぜ話が、といふか、一エピソードがおもしろくなるのか、といふ点について考へたい。

主人公が不在だと、話が凝縮される傾向がある。
読者も、そしておそらくは作者も客観的に話を見ることができる。
とくに勝負の関はる物語に顕著だ。

主人公といふバイアスが存在しないために、「どうせ主人公が勝つんだらう」だとか、とりあへず勝利のまへに主人公をいためつけておけ、とか、さういふ予断や作為が入らない。
そのため話の流れがとぎれないし、自然でもある。
かうした物語は、主人公の成長を描くものだつたりするので、弱かつた主人公が強くなつていく課程も描かないといけなかつたりする。
さういふ描写がいちいち邪魔なこともある。
でも主人公がゐなければ、そんなものはなくても問題ない。
さらにいふと、成長過程の主人公がゐないため、いきなり頂上決戦といつたおもむきになることがあるのも、この種のエピソードの特徴である。

「人形劇三国志」の赤壁の戦ひに至るまでの四話くらゐは、舞台はほぼずつと江東で、出てくるのも当然呉の人々、もしくは曹懆軍の人々である。
こども番組の常で、玄徳とその一行は、一話につき一度は必ず出てくるけれど、「出てこなくてもいいのに」くらゐの扱ひだ。手勢もほとんどない状態だしね。もともと荊州のものだつた兵力が一万とか二万とかあるていどだ。
そこいくと曹懆軍は、だいぶさばをよんではゐるものの百万とか云ふてるし、対する江東軍も、おなじく数十万といつたところ。しかも、精鋭部隊だ。まあ、曹懆軍の方はかなり寄せ集め的だつたりするわけだけども。
ちよつとした頂上決戦ぢやあないか。

と、ここまで考へて、でも主人公側の視点もはづせないんだよなあ、といふことに気づく。
主人公側のもくろみとしては、江東軍に勝つてほしいわけだが、でも勝ちすぎてもらひたくもないのだ。
だつて曹懆がゐなくなつたら、天下三分の計がならなくなつちやふぢやん。
呉にはそこそこ勝つてもらつて、でも勝ち過ぎてはほしくない。
そこらへんの微妙な舵取りを、孔明が巧妙にこなしてゐるのがおもしろい。さうも思へる。

まあ、天下三分の計は孔明が云ひ出したことだし、この場合玄徳は「曹懆がこの戦で死ぬならそれはそれかな」くらゐに思つてゐたんぢやないかな、とは思ふけどもね。

とすると、やはり主人公は関係ないのか。

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2013年7月の読書メーター

2013年7月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2272ページ
ナイス数:5ナイス

正史 三国志〈1〉魏書 1 (ちくま学芸文庫)正史 三国志〈1〉魏書 1 (ちくま学芸文庫)感想
この巻に出てくる人々は、どうやら「男伊達気取り」だつたり「侠気があ」つたりするらしい。人々つて、曹操とか董卓とか袁術とかだけど。このあとも侠気にあふれた人々がたくさん出てくるのだらうか。なんとなく、股旅ものといふか、「木枯し紋次郎」のやうなのを考へてしまふ。股旅ものぢやなかつたら鳶の頭のやうなものか知らん。曹丕の帝位を受けるくだりが長々しいのが如何にもらしくていい。あと、曹丕が死んだあと曹植が詠んだとかいふ哀悼文がいい。結構時代はくだつてゐるはずなのに、張昭の名前が出て来て驚く。呉書で確認しなければ。
読了日:7月2日 著者:陳 寿,裴 松之
訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)感想
まちつと漢籍を読み慣れたら再度挑戦するつもり。ことばの意味の説明とかがあればもうちよつと読みやすからうと思ふんだがなあ。たとへば「穆紊陰閔」つて何よ、とか。それにしても、なにかひとつ読むと、さらに遡りたくなる欲求にかられる。詩経とか春秋左氏伝とかを読めばおさまるのか知らん。
読了日:7月8日 著者:池田 知久
唐詩選〈上〉 (岩波文庫)唐詩選〈上〉 (岩波文庫)感想
唐詩選は選び方がどーも、といままで敬遠してきたが、一念発起して読む。応制とかは好きぢやないなあ。結局、友と別れるの詩、とか、どこか黄昏れた感じの詩、または月夜の詩に惹かれる。湖とか川の水面が白いといふ感覚がよくわからぬ。
読了日:7月11日 著者:前野 直彬
俳句いきなり入門 (NHK出版新書 383)俳句いきなり入門 (NHK出版新書 383)感想
再読。ポエマはどこへ行けばいいのか。ずつとさう思つてゐたが、答へはあつた。ポエムは、「誰も聞いてゐないもんだから」呟いたり叫んだりするもの、なのらしい。つまり、ポエムはひとりでつぶやいとけ、と。
読了日:7月12日 著者:千野 帽子
Uncertainty: Turning Fear and Doubt into Fuel for BrillianceUncertainty: Turning Fear and Doubt into Fuel for Brilliance感想
体調不良のせゐか、読んでも心に響かない。そして読みなほさうといふ気力もない。塞翁が馬を紹介した部分があるが、「仏教の寓話」と書いてゐて、老占ひ師が「老いた農夫」になつてゐるのが異様に気になる。出典、「淮南子」だもんなあ。
読了日:7月22日 著者:Jonathan Fields
古人に学ぶ 中国名言集古人に学ぶ 中国名言集感想
「格言は、役立たずである」と著者は云ふ。そのとほりである。特にこの本に出てくるやうな格言はいけない。人々にその原典を忘れられて久しいからである。引用文にはその背景を含めることはできない。共通の理解がないから、自然格言は役立たずになる。その一方で、古人のことばは、特に著名な古人のことばは、ときに一時の慰めになる、とも書かれてゐる。さうなんだよなあ。だいたい、平安の昔から、人は「蒙求」だけ読んで引用文を口にしてゐたんだし、肩肘張らずに楽しまうぜ、格言をよ、といつたところ。
読了日:7月24日 著者:草森 紳一
ゼロからトースターを作ってみたゼロからトースターを作ってみた感想
醤油を一から作つてみやう。まづは大豆だ。大豆を育てるところからはじめねばならない。大豆とできあがる醤油の量とを調べなければ。その前に大豆はなにから育てるんだ? 種を蒔くとしたらいつ? など、この本を読むといろいろと応用がきくやうになる。「カール・サガン」には時代を感じるなあ。翻訳者が若過ぎるのかなあ。だつたら編集者が注意すべきだらうと思ふが如何に。あ、編集者も若いのか。いづれにしても村井理子と飛鳥新社には要注意かもしれない。
読了日:7月29日 著者:トーマス・トウェイツ

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