知らなきやダメかな
いつのことだか覚えちやゐないが、読売新聞夕刊の書評欄で、「年齢を明かさない作者の本なんて読めない」と書いてゐる作家がゐた。
作者の年齢がわからないと、その意見に同意したものかどうかわからない、とまで書いてゐた。
えー、さうかなあ。
べつに、作者が何歳だらうが、性別がなんだらうが、どこで生まれてどこで暮らしてゐやうが、どーでもいい話ぢやん?
もちろん、わかつた方が楽しめる、といふ意見もわかる。
また、作品によつてもちがふのかもしれない。
小説ならわからなくてもいいけど、随筆なら知りたい、とか。
「俳句いきなり入門」で、千野帽子が、「作者の生い立ちとか知らないと味はへないやうな作品」について、conな意見を書いてゐたので、突然思ひ出した。
さういへば、ここ一年ばかり漢詩の本をたまに読むけれど、その中にも、「この詩を書いた時の詩人の境遇がわからないと詩を鑑賞できない」とかいふやうな意見があつたなあ。
この詩を書いたとき、この詩人は左遷されて陽関の西にゐた、とか、この詩を書いたとき、この詩人は杭州にゐた、とか、家族が何人ゐて、こどもが生まれたばかりだつた、とか。
でも、昔の人のことだから、いつ書かれた詩だかはつきりわからないことだつて多い。もつといふと、詩を書いた人もたくさんゐて、李白や杜甫、白居易といつたbig namesならともかく、伝記のはつきりしない詩人もかなりゐる。
その李白、杜甫、白居易にしたつて、「この詩はいつごろ書かれたものかはつきりしません」といふものがあるのだから、なほのこと、だ。
つまり、伝記のはつきりしない詩人の詩は鑑賞できない、いつ書かれたものだかわからない詩は鑑賞できない。
さう云ひたいのだらうか。
そんなことはないだらう。
お母さんが誰だかなんて知らなくても小式部内侍の歌はわかるし、太宰府に流されたことを知らなくても菅原道真の歌を読むことはできる。
さう思ふんだがなあ。
無論、学者はまた別だ。
ある小説家、ある詩人を学問として研究するのなら、その作者の生い立ち、作品を書いたときの境遇、趣味嗜好、さうしたものを理解する必要がある、というのは理解できる。
しかし、普通に読むのに、そんなことが必要かね。
とても疑問だ。
世の中には、シリーズものの小説やまんがは最初から読みたい、といふ向きがある。
やつがれにも若干ないわけぢやあない。
でも考へてみたら、「緋色の研究」を読んだのは一番最後の方だつたし、「カーテン」はあらかじめ書かれてゐたといふし、それつてほんとに意味があるのか、といふ気もする。「すべてがFになる」も書かれた順番としては最初ではないはずだ。
この、「シリーズものは最初から読みたい」といふのも、どこかで「作家の生い立ちを知らないと鑑賞できない」といふ考へ方に似てゐる。
なんでそんな枷をわざわざはめたがるかね。
やつかいな話だ。
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