重箱の隅をつつく
国語の授業で、「この話の要旨をまとめなさい」などといふ問題の出ることがある。
これがたいへん苦手であつた。
あらすじを書くのも苦手である。
頭が悪いんだよなあ。
当時からさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。
ものごとの大意をつかむことができない。
小説とか映画とかドラマだけでなく、世の中のことすべてにおいて、大筋といふものを自分なりに説明することができない。
枝葉にばかり目がいつてしまふ。
たとへば「三銃士」だ。
すでに何度か書いてゐるが、こどものころ「三銃士」のなにがおもしろいのか、さつぱりわからなかつた。
手元にあつたのは、こども向けにこどもには理解できない理解してほしくないと大人が判断した部分を抜いたダイジェスト版だつた。
「鉄仮面」も同様だつた。
小学五年生のときに、学級文庫に「鉄仮面」があつた。
自分の手元にあるのとはちがひ、かなり分厚い本だつた。
すでに「おもしろくない」と判断してゐたが、なんの気の迷ひか、この本を借りてみた。
おもしろかつた。
なんだらう、このおもしろさは。
なぜかつて読んだ「鉄仮面」をおもしろいと思はなかつたのだらうか。
後に知るのだが、このとき学級文庫にあつた「鉄仮面」は、ほぼ「ダルタニャン物語」の「鉄仮面」の部分がまるごと抜き出されたものだつた。
つまり、細部まで採録されてゐた、といふことである。
「鉄仮面」がおもしろいのなら、「三銃士」もおもしろからう。
さう思つて、これも手元にあつたものより分厚い本を選んで読んでみた。
いやー、なんでいままでこのおもしろさがわからなかつたんだらう。
あるていど年を重ねて、それでやつとその作品のおもしろさがわかるやうになつたのだらうか。
それも考へられる。
もつと幼いころのやつがれには、「三銃士」なり「鉄仮面」なりのおもしろさを理解できなかつた。
それが、五年生になつて、やつとわかるやうになつた。
それもあらう。
だが、細部まできちんと描かれたものを読んだからだ、とも考へられる。
その後、「三銃士」の映画化された作品を見る機会があつた。
一番気に入つてゐるのは、最初に見たリチャード・レスター版だが、それにも不満がないわけぢやない。
たとへば、「三銃士」には、アラミスはジョゼフ神父に似たところがあり、またアーモンドのクリームを塗つて手の手入れをしてゐる、しかし、なんの手入れもしてゐないアトスの手の方がきれい、といふやうなことが書かれてゐる部分がある。
映画には、さうした描写はない。限られた時間の中で、そこまで描くのはムリだ。それは理解してゐる。だが、さうした雰囲気さへない、といふのが、なんとなく納得いかないんだよなあ。
雰囲気なら、伝へやうがある。
そして、雰囲気さへ伝へられれば、多少原作とはちがふ展開になっても、場合によつては原作とはまつたくちがふ展開になつても、納得のゆく作品になるのではあるまいか。
その「雰囲気」も、実は「細部」ではなくて「大筋」なのかなあ。
といふのは、よく「マクベス」の映画化作品で一番は「蜘蛛の巣城」だ、といふ話を聞くからだ。
ほかに「マクベス」の映画化作品を見たことがないからなんともいへないが、「蜘蛛の巣城」は「マクベス」のエッセンスともいふべきものを持つた作品である。スコットランドぢやないし、話の展開はところどころちがふし、でも、さうなのである。
やつぱり、大筋とか大意とかをつかめないとダメなのか。
さうだよな。
修学旅行で薬師寺に行つたとき、東塔の説明を受けたことがある。
三重の塔のてつぺんには、非常に細かい細工のほどこされた飾りがついてゐる。
えうするに「神は細部に宿るのだ」といふやうな話だつた。
でもそれつて、三重の塔があるからなりたつてゐるんだよな。
もし三重の塔がなくて、その飾りだけが麗々しくそのあたりに飾られてゐたらどうだらう。
たしかに、すばらしい技術の結晶ではあるのかもしれないが、それほどありがたいとは思はないのではあるまいか。
三重の塔といふ根となり幹となる部分があるからこそ、細部が生きる。
「ディテールこそ命だ」といふ人もゐるけれど、それはそのディテールを生かせる中心となるものがあるからだ。
それがなければなんのディテール。
わかつてゐても、やはり細かいところ、自分の気になるところばかりを見てしまふ。
一生、世の中の大意などつかめぬまま終はるのにちがひない。
本望である。
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