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Wednesday, 24 July 2013

疲れの目安

毎月一冊は英語の洋書を読むやうにしてゐる。
今年からはじめた。

これまで読んだ本は順番に、

Quiet: The power of introverts in a world that can't stop talking
Elizabeth Zimmermann's Knitter's Almanac
The Icarus Deception: How High Will You Fly?
The Last Dragonslayer (Chronicles of Kazam)
The Art of Column Writing
Shades of Grey
Uncertainty: Turning Fear and Doubt into Fuel for Brilliance

である。

ここまで七冊読んだうちの二冊がJasper Ffordeの本だ。
実は、Jasper Ffordeを読むうちに、なんだか英語の本がとても読めるやうな気がするやうになつた。
四年くらゐ前のことだらうか。
Jasper Ffordeの本では、本邦では「サーズデー・ネクスト」シリーズが三冊訳されてゐる。
「サーズデー・ネクスト」シリーズはその後も続々新刊が出てゐるが、本邦では四冊目以降、出版されるやうすがない。
しかも、「サーズデー・ネクスト」シリーズのスピンオフ作品である「Nursery Crime」シリーズも刊行されてゐるといふ。
それに、一冊目は文庫化されたが、二冊目と三冊目は文庫になる気配がなかつた。

読みたい。

いまだつて大したことはないが、当時はもつと英語を読めなかつた。
それでも読みたかつた。
そんなわけで、無謀を承知で続きを読みはじめた。

わけわからんと思ひながら、「Nursery Crime」シリーズの二冊目を読んでゐたときである。
話も佳境、もう終盤に入つたといふころ、突然、なにを書いてあるのか、わかるやうになつた。
わかる、といふのは、かういふことか。
感覚でしかないが、その違ひはあきらかだつた。
ついさつきまで、なんだかよくわからないまま字面を追ふだけだつた。
それが、いきなり、わかるやうになつた。

あの感覚は、いまでも忘れることができない。

人生五十年とするならば、すでに人生の終盤戦に入つたころのことである。
この年になつても、伸びる能力もあるのか。
それも驚きだつた。

その後も、Jasper Ffordeは読み続けてゐて、しかし、定期的に読むやうなことはなかつた。
なまけものだからである。

このままだとまたもとに戻つてしまふ。
さう思つて、今年から、すくなくとも一ヶ月に一冊は英語の本を読むことにしやう、と、さう決めた。
いまのところ、なんとか守れてきてゐる。

今月は、Uncertaintyを読んだ。
おなじ作者のCareer Renegadeは去年読んだ。
Career Renegadeは、たいへんわかりやすい文章で書かれてゐた。
内容が参考になるか、と云はれると、起業するつもりなどまつたくない自分には参考になることはないといふ感じだつたが、しかし、よくわかるといふ点ではとても勉強になつた。

ところが、Uncertaintyである。
読んでもわからない。
わからないといふよりは、内容がすこしも頭に入つてこない。

この本は、最初は読むつもりはなかつた。
Amazonでサンプルをダウンロードするつもりで、うつかり購入してしまつたものだつた。

しかし、考へた。

The older I get, the stronger my intolerance of uncertainty becomes.

さういふ思ひは、つねづねあつた。

もともと、不確かなものが苦手だ。
臨機応変の才のないためかと思ふ。
職場でも自宅でも、できるだけ、「予め準備をする」やうにしてゐる。
なにかあつたときに即対応できないからだ。
しかも、めんどくさがりなので、その準備も怠りがちだつたりする。
それで結局不確かなもの、想像だにしなかつたものに遭遇してしまひ、四苦八苦する。
そんなだらしのないことのくり返しである。

なんとかならないものか。
おそらく、不確かなもの、予測不可能なことにうまく対応できないといふこの特質は、年をとるほどひどくなつていくことだらう。

さう思つて、Uncertaintyを読んでみた。

ところが、ちつとも内容が頭に入つてこない、とは、すでに書いた。
もしかして、怠つてゐるから、また英語の読めない状態に戻つてしまつたのだらうか。
さう不安を抱きつつ、なんとか読み終はつた。

ところで、Uncertaintyには「塞翁が馬」を紹介した部分がある。
問題は、「仏教の寓話」として紹介されてゐることだ。しかも、塞翁は農夫だつた、と書いてある。

「塞翁が馬」の出典は「淮南子」である。
「淮南子」は、Wikipediaなどで見ればわかることとは思ふが、漢の武帝のころ書かれたものである。紀元前130年前後といつたところか。
中国に仏教が伝来したのは、後漢末、西暦でいふと二世紀の終はりから三世紀のはじめにかけて、といふことになつてゐる。
「淮南子」に、仏教の入る余地はない。

さうは云つても、釈迦は紀元前六世紀とか五世紀の人だし、仏教は伝来しないまでもその教義はもつと早いうちに中国にもわたつてゐたのではないか。
さういふ意見もあらう。

「淮南子」は、百科全書的な書である、とは上に書いたとほりだ。
漢以前の中国で主流だつた思想を網羅した書だ。ほとんどは道教や儒教だが、諸子百家の思想をまとめた書、ともいへる。
その「淮南子」に仏教に関する記述はない。
すくなくと、やつがれの読んだ範囲ではない。

それに、いいことと悪いことといふのは、陰陽の関係にある、といへる。
陰陽思想と仏教とはまたちがふものだらう。

塞翁が農夫ではなく、占ひ師である、といふのは、おそらく「淮南子」の書かれたころには重要な点だつたと思はれる。

これつて、もしかして、著者に云つた方がいいのかなあ。
大きなお世話かもしれないけど。

さう思つて逡巡することしばし。
なぜといつて、読んだときにほとんど理解できなかつたからだ。
そんな、たいして読めてゐない本について、「ここ、をかしいですよ」とか指摘するのつて、僭越にもほどがあるのではあるまいか。

だつたら読みなほしてから書けばいい。
さう思つて、ゆつくり休んだ今日、読みなほしてみたらこは如何に。

なんだらう。
なんだか、よくわかるんだけど。
忘れられない、と書いた、その感覚とはまたちがふのだが、なんであのとき「理解できん」と思つのただらうか、と、ふしぎになるほど、読める。

一度読んでゐるからだらう。
さう思つて、最近ときどき読んでゐるTHE ÜMLAUTを読んでみた。

読める。
一応、読める。

どうやら、「読めない」「わからない」と思つてゐたのは、疲れてゐたからだつたらしい。
なんだ、そんなことだつたのか。

といふか、疲れてるくらゐで読めなくなるなんて、だらしないなあ。
さう思ふと同時に、どれくらゐ読めるかが疲れ具合の基準にもなるなあ、とも思つた。
わからなくなつてきたら、休み時、といふことだ。

さういへば、「淮南子」もなんだかよくわかんなかつたんだよなあ。
といふのは、これは単純に漢籍を読みこなす力がついてゐないからだけど。

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