「グローバル社会」非適応
先日、枝葉しか見なくても「本望である」と書いた。
その翌日、「それでは「グローバル社会」で通用しません」と云はれてしまつた。
どうやら「グローバル社会」とやらでは、ものごとの要旨をばつちりつかめるやうでないと生きてゆけないのらしい。
「グローバル社会」、かー。
かつこつきで書いてゐるのですでにおわかりかとは思ふが、そんなものがほんたうにあるのだらうか、といふ感じがしてゐる。
世の中は、とつくのとうに、グローバルだつたのではないか。
そんな気もする。
南條武則も書いてゐたが、「「グローバル社会」がくるぞ」だとか、「そんなことではグローバリゼーションについていけないぞ」と云ふことで、儲かる人がゐるんだらう。儲からなくても、なにかしら得する向きがあるのにちがひない。
だいたいやつがれはもともとドメスティックなたちだ。
その上、やつがれを見て、「「グローバル」なことに向いてゐる」と思ふ人はゐない。
このままおとなしくしてゐれば、なんだかよくわけのわからない「グローバル社会」とやらとはかかはらなくても済みさうだ。
なんてなことを、今日「一條大蔵譚」を見ながら考へてゐた。
とか考へる後ろ向きな人間には、「グローバル」な世界で生きていけるわけがない。
「グローバル」な世界といふものが、あるとして、だが。
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