一藝と多藝と
昨日は、「細部しか見えなくてなにが悪い」といふ件について書いた。
有り体にさう書いてはゐないが、まあ、さういふことだ。
世間に出てゐると、それではダメだと云はれる。
これも、面と向かつてさうは云はれはしないが、さう云はれてゐるも同然だ。
社会人としては、あるいは会社人としては、ものごとの大筋がつかめないとダメらしい。
もつと云ふと、ものごとの本質をつかめないとダメらしいのだ。
無論、ものごとの本質はつかめた方がいい。
しかし、そんなの、ものごとの本質をつかむのが得意な誰かにまかせておけばいいぢやあないか。
残念ながらやつがれは、枝葉末節ばかりが気になる性質である。
だつたら細かいことばかり見せておいてくれればいいのに、とよく思ふ。
大筋やあらましは、さういふのを見るのが得意な人が見ればいい。
遠くを見るのが得意な人には遠くを、近くを見るのが得意な人には近くを見るやうにさせておけばいい。
社会とは、あるいは会社とは、いろんな特性を持つた人々の集合体だらう。さうではないのだらうか。
どうも、社会は、いやさ、会社は、さう思つてはゐないやうなんだよなあ。
社員ひとりひとりに相反する要素を求めてくる。
近くを見るのはもちろん、遠くも見えなければならない。
大筋をつかむと同時に、細かいところも見えなければならない。
なんか、もつと、かう、ひとりひとりの特性を生かすことはできないものなのだらうか。
わかりやすくいへば、営業が得意な人には営業を、経理が得意な人には経理を、事務の得意な人には事務を、といふやうになつてゐればいいのに、と思ふ。
もちろん、営業職でも経理のことは知つてゐた方がいいし、vice versaではある。
でも、せつかくおなじところにゐるんだから、互ひに相手の足りないところを補ひあつていけばいいぢやあないか。
それぢやダメなのかなあ。
ダメなんだらうな。
個人の特性を生かした仕事をさせる場合、その集合体をまとめる人物が必要になつてくる。
ほんとは各人が得意なことをして、自然とまとまるのが一番いいんだらうけどね。
大抵の場合はリーダー格が必要とされる。
そして、そのリーダー職を得意とする人物が、少ないのだらう。
そんな気がする。
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