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Wednesday, 31 July 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 「黄巾」と「桃園」

渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行くと、人形劇三国志は物語序盤の登場人物を見ることができる。現時点では。

「黄巾」といふことで張宝、張角、張梁の三兄弟、「桃園」といふことで、関羽、玄徳、張飛の三兄弟がならんでゐる。

張宝、張角、張梁は、現在飯田市川本喜八郎人形美術館に、人形劇に出てゐた面々が飾られてゐる。
比べてみると、ヒカリエにゐる三兄弟の方が立派に見える。主に衣装、かな。ことに沓はヒカリエの方がいいものに見える。

人形劇三国志に出てくる親子兄弟は互ひに似てゐない場合が多い、とは、以前も書いた。
曹嵩と曹操、曹操と曹丕・曹植、孫堅と孫策・孫権・貞姫、玄徳と劉禅、いづれも似たところがないやうに見受けられる。
張宝、張角、張梁も一見似てゐるやうには見えない。
張宝はどちらかといふと切れ者のやうな顔立ちで、張角はとらへどころのない尊師タイプ、張梁はソンブレロをかぶつたらそのまま西部劇に出てきさうな顔をしてゐる。
だが、よくよく見てみればこはいかに。
三人とも、顔の輪郭がそつくりではないか。
えらの張つたところが実によく似てゐる。
さうなのか、さういふ細かいところを見ないとダメなのか。
ほかの親子兄弟の似てゐるところはまだわからないが、今後探していきたいと思つてゐる。

玄徳、関羽、張飛の鎧がお揃ひのやうに、張角、張宝、張梁も衣装はちよつとお揃ひつぽい。
鎧の前垂れとでもいふのだらうか、その部分の模様がうろこのやうなのだ。張宝だけはちよつと模様に丸みが足りなくて煉瓦のやうに見えなくもないが、でもお揃ひ感が出てゐる。

飯田の人形との比較で云ふと、張宝は、飯田にゐる方が妖術使ひつぽい。といふのは、目の下にうつすらと藍隈を描くときに使ふやうな色で線が入つてゐるからだ。渋谷の張宝にはその線がない。
張角は、飯田の方がとらへどころのない尊師つぽい。渋谷の張角は、もつと強い表情を浮かべてゐる。
張梁はどちらもそんなに変はらないかな。上にも書いたけれど、飯田の張梁も渋谷の張梁もソンブレロが似合ふラテンな男だ。

「桃園」は、桃園の誓ひの場面を再現したやうになつてゐる。
関羽、玄徳、張飛の背後に桃の花の絵を描いたバネルがはられてゐて、三人とも座してそれぞれ杯を手にしてゐる。
関羽は、人形劇でこんな衣装で出てきたことがあるかなあ。ちよつと記憶にない。緑といふか黄色といふか、カーキといふかそんなやうな色合ひの、丈の長いガウンのやうなものを着てゐる。これがお大尽然としてゐて、実にやうすがいい。顔も、前回ヒカリエに飾られてゐたものとちがつて、かなり人形劇のときに近い。
玄徳の衣装は人形劇のときに近いが、もつとやはらかさうな素材である。色は水色。あのやはらかさうな感じはなんだらう、もともとこどもの着物ででもあつたのかな。顔も人形劇のときよりもつと大人しげな感じだ。
張飛の衣装は人形劇のときとあまり変はらない。鎧を脱いだらこんな感じだつた。胸毛もの見えないなあ。顔は人形劇のときよりずつとおとなびてゐる。ひとりだけ杯を高くかかげて、乾杯の音頭を取つてゐるかのやうに見える。
上にも書いたけれど、この三人のところだけ、物語の中の一場面を再現したやうになつてゐて、実にいい。前回もこんな展示はなかつた。場面の再現にはスペースが必要だつたりするのかもしれないが、かういふ試みは今後も見てみたいなあと思つてゐる。

先日も書いたが、玄徳、関羽、張飛の前には「(有)川本プロダクション」といふ札が見える。川本プロダクションから借り受けたものなのだらう。
前回の展示のときにも当然この三兄弟はゐたわけだが、前回の展示はチト期間が長過ぎた。見る側からすると、もつと見たいといつたところではあつたけれど、照明であちこち傷むからね。定期的に入れ替へてあげないとかはいさうだ。
さうわかつてはゐても、玄徳・関羽・張飛のゐない人形劇三国志なんて、といつたところだつたんだらう。この三人がゐないとしまらない。
これも以前書いたが、放映当時のNHKセンター入り口の展示にはさうした心遣ひはなかつたけれどもね。出番の終はつた人形が有名無名に関はらず飾られてゐた。
さういふ展示もありかなあ、といふ気もする。
NHKセンターの場合は、収録中だつたといふこともあるし、一月に一度くらゐは人形の入れ替へがおこなはれてゐたやうに思ふので、それで成立してゐたのかもしれないが。

ところで、展示替へと同時にギャラリーの中に液晶のモニタがおかれるやうになつた。
ずつと「調性中」といふ紙が貼られてゐたが、つい最近、「スライド準備中」に変はつた。
いつから見られるのか、楽しみにしてゐる。

また、去年は八月に人形劇の中から選りすぐり(だらう)の話を五つ上映する会があつたけれど、今年はないのかな。
あつたとしても、「DVDで見ればいいんぢやない」といつたところではあるのだが。

川本喜八郎人形ギャラリーの外の展示についてはこちら
川本喜八郎人形ギャラリーの「漢室」の展示についてはこちら

Tuesday, 30 July 2013

人生如何に編むべきか

遅々として進まずといつたところながら、タティングレースはちよこちよこ続けてゐる。

以前も書いた、Jon YusoffデザインのThe Twirlyといふ六角形のモチーフを七つばかりつなげるつもりである。
つなげてみて気に入ったら、もつとつなげやうかと思つてゐる。

なかなか進まないのはなぜか。
圧倒的にタティングレースをする時間がないから、といつてしまへばそれまでだが。
どうも、ほかに作りたいものがあるからなんではないか、といふ気がしてゐる。

現在ある作品を手がけてゐるが、ほかに作りたいものがある、そんな場合、どういふ策をとるべきか。
現在作つてゐる作品をちやつちやと仕上げるか。
それとも作つてゐるものをはふりだして、作りたいものに着手するか。
あるいは「あつちが作りたいのになあ」と思ひながら、しぶしぶ現在の作品を作りつづけるか。
もしくは両方同時進行にするか。

いづれにしても、あまりよい結果にはならない気がする。

一番いいのは、最後の「両方同時進行にする」かもしれない。

一見、現在作つてゐる作品をちやつちやと仕上げるのが一番いいやうに見えるが、この場合、下手すると仕上げが雑になることがある。
すくなくとも、残念ながらやつがれの場合はさうである。
次のことに気を取られちやふんだな。取られ過ぎてしまふ、といふべきかもしれない。
とりあへず作り終へたからいいだらう。
そんな風になりがちだ。

いま作つてゐるものをやめて、作りたいものを作る、といふのも、実はかなり良手だ。
エコロジカルではない、といふ向きもあるかもしれない。
でも、人間のやることなんて所詮みな環境破壊につながつてゐるのだ。
あみものだつたら作るのをやめても、糸をほどいて別なものを作ればいい。タティングレースだとさうはなかなかいかないけれど、ものによつてはドイリーになる予定だつたものがコースターになる、くらゐのことはあつたりする。
まつたく無駄にはならない。
無駄になるのは、そこまでに費やした時間だけだ。
この策をとるとして、問題はなにかといふと、自分で「エコロジカルぢやないなあ」とか「これまでかけた時間が無駄」とか思ひ悩んだりすることだらう。
ここらへんの考へ方は以前書いた「サンクコスト」に詳しい。
「これはサンクコストだ」と思へば、さうした憂鬱な気分も晴れる。かもしれない。
どうせ、趣味などといふものはサンクコストのかたまりなのだし。

三番目の「あれが作りたいのに」と思ひながら現在手がけてゐる作品を作りつづけるのが、一番悪手かと思ふ。
なかなかすすまないからだ。
達成感を求める向きにはとくに向かない。
いつそのこと思ひきつて、いま作つてゐるものはなかつたことにして、作りたいと思ふものを作る方がまし。
そんな気がする。

最良手とした「両方同時進行」は、それができれば一番いいと思つてゐる。
とりあへず作りたいものにも着手して、ちよつとあきてきたら前のものに戻る、んでまた作りたいものに着手して……とくりかへしていくと、いつのまにかできあがつてゐる、といふこともある。やつがれの場合はね。調子のいいときにかぎるけど。
この策の問題は、結局二番目の策になつてしまつたりすること、だらうか。
同時進行するつもりが、作りたい方ばかりに手がいつてしまひ、もともと作つてゐた方はおろそかになつてしまふ、なんてなことになりがちである。
また、作りたいものを作りはじめてみたら、案外おもしろくなくて、結局もともと作つてゐたものに戻る、といふこともある。

いづれにせよ、人生は短い。
作りたいものを作らずに、なんの浮き世か。
さう思ふ。

まあでも、The Twirlyは好きなモチーフなので、いまでも十分楽しいんだがね。
一番の問題は、やはり時間がない、といふことか。

Monday, 29 July 2013

勤め人は手芸をたしなんではならぬのらしい

あみもの教室は、なぜか平日にしか開催されない。

「あみもの教室」と書いたが、手芸系の「お教室」は全般的にさうである。
カルチャースクールであつても、土日に教室のある手芸は少ない。

教室ばかりではない。
原毛屋に顕著だが、なぜか土日は休みといふ店が多い。
日曜日も営業してゐるといふ店はまれである。

土日には生徒や客は来ないのだらうか。

それが以前からふしぎでならなかつた。

なにを隠さうやつがれは、「お教室」のたぐひが苦手である。
「お教室」形式よりも「授業」形式の方が落ち着く。
さういふたちである。

それでも、once in a while、「お教室に通つてみやうかなあ」と思つたりすることもある。

そこからあれこれ調べると、通へさうな日時にやつてゐる講座はほぼないことに気がつく。

平日の午前中や昼下がりに、そんなに人が集まるのだらうか。
さう思ふくらゐ、月曜日から金曜日のどこかで開かれる教室ばかりである。

ヴォーグ学園を見てもらふと一番わかりやすいかもしれない。
ヴォーグ学園くらゐの規模になると、土曜開催のクラスも当然あるのだが、圧倒的に多いのは平日の昼間のクラスだ。
しかも、ヴォーグ学園は、日本各地にある。

そして、ほかの手芸系のお教室やカルチャースクールも、おなじ傾向にある。

もしかして、月曜から金曜に勤めに出てゐるやうな人間は、手芸をたしなんではいけないのだらうか。

そんな気持ちになるくらゐだ。

まあ、さうなのだらうなあ。
と、東京駅は八重洲口を出たあたり、地下鉄でいふと京橋付近にある、越前屋に行くと思ふことがある。
越前屋は日曜日は休み、といふことで、土曜日に芝居見物の帰りにふらりと立ち寄ることがある。
いつ行つても、それほどにぎはつてゐない。
そもそも、土曜日のあの界隈がにぎはつてゐない。
ちよつと行けば高島屋や丸善がある。そちらはまあまあの人手だ。
また、反対方向にちよつと行けば銀座だ。
越前屋付近はどちらかといふとオフィス街なのかもしれない。

ずつとそんな風に思つてゐたのだが。
あるとき、平日にちよつと時間ができたので、越前屋に寄つてみたらばこはいかに。
なんだか店内が込み合つてゐるではないか。
どうやらおなじお教室に通ふ奥様方が何人かでつれだつて来店してゐるのらしい。そんなグループが二つくらゐあつた。
しかも、そのうちの一つのグループは、お教室の先生も同行してゐて、なんだかものすごい量の刺繍用の布を購入してゐた。

さうなのか。
土曜日の越前屋は仮の姿。
ほんとの姿はこれなのだ。
あなたの知らない越前屋。
まさにそんな感じであった。

それでちよつと謎がとけた。
手芸系のお教室が平日にしか開かれないのは、その方が生徒さんが集まるからだ。
土日しか時間のないやうな人間は、そのたいせつな時間をつぶしてまでお稽古ごとに通はうなんて思はない人が多いのだらう。
考へてみたらやつがれだつて、土日がつぶれたら芝居に行けなくなる。
芝居とお教室とどつちをとるか、と云はれたら、いまはまだ芝居だものなあ。

また、手芸系のお教室や原毛屋などが土日は営業しないのには、教へる側や店側の都合もあるものと思はれる。
先生や店主には家族がある。
土日は休みで家にゐたりするのだらう。
それで、土日は家族と一緒に過ごしたいとか、あるいは単に目が離せないとか、さうした理由があるのにちがひない。

どうやらやつがれがお教室に通へるやうになるには、まだまだ相当時間がかかりさうだ。
そして、そのころには頭も手も指先もすつかりかたくなつてしまつて、通ふ意義も見いだせなくなつてゐることだらう。

Friday, 26 July 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 漢室の人々

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの現時点の展示では、人形劇三国志の人形は十四体。物語序盤に登場する人物を主にあつめてゐる。
前回の展示とは、平家物語とケースが入れ替はつてゐる。

入り口に一番近いところには、十常侍の宦官たちが三人ゐる。
向かつて左から順番に、段珪、蹇碩、趙忠だ。
段珪は、下がり目の下に袋のある中年、趙忠はちいさく丸い目を見張つた賢しげな若者、そして、蹇碩は全体を牛耳る権高な老人といつた印象だ。

段珪と趙忠とは、宦官の冠を頭にいただいてゐるが、蹇碩はちがふ。ほかの文官たちも冠るやうな丸みを帯びた直方体の冠である。
衣装も、段珪と趙忠とは朱色と深い緑を主に使つたものを身につけてゐるが、蹇碩は明るい牡丹色の衣装で、前垂れも立派である。真ん中にゐることもあつて、いかにも「首領」といつた趣である。
蹇碩は、人形劇三国志では、まちつとするどい感じだつた。ヒカリエにゐる蹇碩はなんとなく丸い、ともいへる。
人形劇三国志に出てゐた蹇碩は、先代の河原崎権十郎にそつくりだつた。特に山崎屋が悪役をやるときの、鋭い目元がよく似てゐた。
そんなわけで、ひそかに頭の中では山崎屋の聲に吹き替へたりしたものだつた。
山崎屋の悪役は、迫力のある低音のすばらしい聲だつた。なのでうつかりさういふ聲で吹き替へてしまつたりしてゐたけれど、考へてみたら、蹇碩は宦官だ。そんな、深くて低い聲はしてゐなかつたらう。
でも大丈夫。山崎屋さんは女方もよくした。栄御前みたやうな聲に吹き替へればいいのだ。
ところが、ヒカリエの蹇碩は、山崎屋を思はせるやうなところは微塵もない。
チト残念である、といふのは個人的な意見で、ヒカリエの蹇碩は人形劇に出てゐた蹇碩にくらべてより威厳のある感じがするし、衣装も立派だし、この蹇碩が人形劇に出てゐればまたちがつたらうなあ、といふところ。

その隣が、陳留王、弘農王、そして何太后だ。
この三人は、現在飯田市川本喜八郎人形美術館に、人形劇に出てきた人形が展示されてゐる。
陳留王は、朱色の上着に緑の袴状の衣装で、ちよつとにつこりした顔で立つてゐる。
その横の弘農王(だらう。それとも少帝といふべきなのだらうか)は、衣装は似たやうな感じだが、前垂れがついてゐる。これが実に愚鈍さうな表情をしてゐて、つい陳留王と見比べてしまふ。ちよつとした違ひだと思ふんだがなあ。
柴田錬三郎だつたらうか、ルーブル美術館などに行つて、歴代の国王や宰相の肖像画を見てゐると、賢いものは賢いなりに、愚かなものは愚かな感じに描かれてゐる、と云つてゐたが、まさにそんな感じだらうか。
ただし、ヒカリエの陳留王は、「賢しげ」といふ感じで、必ずしもいい印象があるとはいへない。飯田の陳留王は、利発さうでかはいいんだけどなあ。照明の感じなのかもしれない、と思ひつつ、比べてみると、ヒカリエの陳留王の方が、なんとなく表情がかたい感じがする、そのせゐで生まれる違ひかも、と思ふ。

何太后は、人形劇に出てゐたときによりも髪の毛の盛りがずつしりと増えてをり、その分髪飾りなんかもちよつと豪華で、その表情もさらに驕慢さを増してゐる。飯田の何太后と比べると、その違ひは一目瞭然だ。ヒカリエの何太后の方が、やんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまつた高飛車な女、といふ感じがよく出てゐる。それに、ヒカリエの何太后の方が肉感てきなんだよね。なんだらう、唇の感じ、かな。この驕慢さうで脂ののつた感じは、前回平家物語で展示されてゐた祇園女御と思ひ起こさせるんだなあ。

その隣が、袁紹と許攸である。
なんで「漢室」に袁紹と許攸となんだよ、とは云ふてはくれるな。
今回の人形劇三国志の展示で、一番好きなのはこの二人かな。
特に袁紹。
顔立ちも冠も、人形劇のときと変はらない。つりあがつた眉毛に三日月を寝かせてくぼんだ方を上に向けたやうな目の形、人形劇のときのままだ。
人形劇のときのままなのだが、なんとなく顔のパーツひとつひとつがくつきりしてゐるやうな感じがする。
また、衣装はオレンジと紫といふ、フィーニックス・サンズのやうな色合ひで、これがよくうつる。人形劇のときはこんな色合ひぢやなかつたよね。
どうもやつがれは、話しかけたさうにしてゐる人形に弱いところがあつて、この袁紹がまさにそんな感じなのだつた。
いや、袁紹だから、単に自分が話したいだけかな。
人形劇のときより頬が赤いかな。そんなところもいい。

許攸は、人形劇のときより顔が細くなつてゐる。顎なんか、とくに細くなつた感じ。
人形劇のときは、時折立川志らくに似てゐるなあと思ふことがあつたが、ヒカリエの許攸はそんなことはない。
眉根を寄せて困つたやうな表情は人形劇のときとおなじだが、なんだらう、人形劇のときは、もつと人がよささうな感じだつたのに、そんなやうすが失せてしまつてゐる。
人形劇のときは、官渡の戦ひのときにはじめて出てきて、正しいことを進言してゐるのに受け入れられない、みたやうな役どころだつたから、それで人がよささうに見えたのかもしれない。
人形劇では許攸はその後も殺されることなく赤壁の戦ひ前夜まで活躍するのだが、ヒカリエの許攸は官渡の戦ひが終はつたら、さつさと殺されてさうだ。

残りの黄巾の人々と三兄弟については、また機会をあらためて。

Thursday, 25 July 2013

川本喜八郎人形ギャラリーの外

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの展示替へから、ずいぶんたつてしまつた。
去年の開場から展示されてきた人形は、今年の四月十八日でお役御免になり、四月二十六日から現在の展示にかはつてゐる。
前回は、平家物語から十四体、人形劇三国志から十九体だつた。
現在は、平家物語から二十七体、人形劇三国志から十四体だ。
平家物語には、今若・乙若・牛若がこどもで出てゐるのと、馬が三頭出てゐるのとで、以前よりだいぶ増えてゐるが、見たところそれほど窮屈さうではない。まあ、清盛と時子との居場所がチト奥過ぎる気はするが、それくらゐ。

また、平家物語の方が圧倒的に人数が多いのは、おそらく人形劇三国志の方はさほど作り替へた人形がゐないからなのでは、といふ気がする。
ヒカリエにゐる平家物語の人形は人形劇に出てゐた面々だが、人形劇三国志の面々は新たに作り替へたものだからだ。
そのせゐか、玄徳・関羽・張飛の三人の前には「(有)川本プロダクション」といふ表示がある。プロダクションから借り受けたものなのだらう。
前回の展示のときにゐた人形は休ませないとならないが、玄徳・関羽・張飛のゐない人形劇三国志といふのは、なんともしまらない。それで借りたものなのにちがひない。
ほかの人形の所属がどうなつてゐるのかは、定かではないけれど。

そんなわけで、平家物語の方は「保元の乱」と「平治の乱」とがfeatureされてゐるのだが、義朝はゐない。前回の展示のときにゐたからである。鳥羽院、崇徳院も同様。なので、たまに「保元・平治なのに義朝がゐないなんて」とか云つてゐる人がゐるが、残念でした、といつたところか。

同様な理由で、人形劇三国志の方には曹懆もゐないし、孔明もゐない。
そのうち、帰つてくるものと思ふがな。

ところで、ギャラリーの外の展示もすこし変はつた。
以前は、人形のポスターをパネルにしたものが飾られてゐる部分に、川本喜八郎の私物とおぼしきものが展示されてゐる。
これが、実に楽しい。

木製とおぼしきちいさな机の上に、これまた木製の書類用引き出しが乗つてゐる。書類用の引き出しよりひとつひとつの引き出しが深いかもしれない。
上に、羽根箒や彫刻刀、筆をこれでもかとつめこんだ筆立てがふたつくらゐ乗つてゐる。
引き出しはちよつとづつあいてゐて、針や糸、リキテックスなどの画材や定規、あとなにに遣ふのかよくわからないやうなものが、種類別に入つてゐるのが見える。筆や彫刻刀、それにリキテックスといつた画材はかなり使ひこまれてゐるやうに見受けられる。針にはまだ新しいものもある。
机にはほかにメガネもおかれてゐる。最近でいふところのリーディンググラスのやうなものだらう。メガネチェーンはマクラメ編みのコードがついてゐる。ヘンプだらう。きつちり結ばれてゐて、誰かの手作りなのか売られてゐたものなのかチトわからない。

机の脇には、人形劇三国志の脚本が何冊か並んでゐる。
表紙に「川本用」と書かれてゐるものもある。おそらくそのほかも川本喜八郎用だつたのだらう。
三十年前に藁半紙に刷つたものだと思はれる(表紙は色紙)が、非常に保存状態がよいやうに見受けられる。手に取つてみたら、はかなげなのかもしれないが、まあ、よくぞ、こんなにきれいな状態で取つてあつたものよ、とまづそこに感動する。
実にありがたいことだ。
保存状態がよかつたから、そしてさうなるやうに保存してくれてゐたから、いまかうして見ることがかなふのだから。

なかに一冊だけ開かれてゐる脚本がある。
内容からいつて、「三顧の礼」で玄徳が孔明の草廬をおとづれたところだらう。ちやうど、孔明が「天下三分の計」を説いてゐる場面とおぼしい。
当時のことだから手書きなわけだけれど、これがいちいち読みやすくてねえ。
さういへば、就職した当時、書庫にある資料を探したことがあるけれど、ちよつと前の資料はすべて手書きで、それもかつちりとした読みやすい字で書いてあつたものだつた。資料書き専門の社員でもゐたのだらうか、と思ふくらゐ、どの書類もきつちりした字で書かれてゐた。

人形もさうだけれども、この、川本喜八郎の遺品のまへでも、つい佇んでしまふ。

Wednesday, 24 July 2013

疲れの目安

毎月一冊は英語の洋書を読むやうにしてゐる。
今年からはじめた。

これまで読んだ本は順番に、

Quiet: The power of introverts in a world that can't stop talking
Elizabeth Zimmermann's Knitter's Almanac
The Icarus Deception: How High Will You Fly?
The Last Dragonslayer (Chronicles of Kazam)
The Art of Column Writing
Shades of Grey
Uncertainty: Turning Fear and Doubt into Fuel for Brilliance

である。

ここまで七冊読んだうちの二冊がJasper Ffordeの本だ。
実は、Jasper Ffordeを読むうちに、なんだか英語の本がとても読めるやうな気がするやうになつた。
四年くらゐ前のことだらうか。
Jasper Ffordeの本では、本邦では「サーズデー・ネクスト」シリーズが三冊訳されてゐる。
「サーズデー・ネクスト」シリーズはその後も続々新刊が出てゐるが、本邦では四冊目以降、出版されるやうすがない。
しかも、「サーズデー・ネクスト」シリーズのスピンオフ作品である「Nursery Crime」シリーズも刊行されてゐるといふ。
それに、一冊目は文庫化されたが、二冊目と三冊目は文庫になる気配がなかつた。

読みたい。

いまだつて大したことはないが、当時はもつと英語を読めなかつた。
それでも読みたかつた。
そんなわけで、無謀を承知で続きを読みはじめた。

わけわからんと思ひながら、「Nursery Crime」シリーズの二冊目を読んでゐたときである。
話も佳境、もう終盤に入つたといふころ、突然、なにを書いてあるのか、わかるやうになつた。
わかる、といふのは、かういふことか。
感覚でしかないが、その違ひはあきらかだつた。
ついさつきまで、なんだかよくわからないまま字面を追ふだけだつた。
それが、いきなり、わかるやうになつた。

あの感覚は、いまでも忘れることができない。

人生五十年とするならば、すでに人生の終盤戦に入つたころのことである。
この年になつても、伸びる能力もあるのか。
それも驚きだつた。

その後も、Jasper Ffordeは読み続けてゐて、しかし、定期的に読むやうなことはなかつた。
なまけものだからである。

このままだとまたもとに戻つてしまふ。
さう思つて、今年から、すくなくとも一ヶ月に一冊は英語の本を読むことにしやう、と、さう決めた。
いまのところ、なんとか守れてきてゐる。

今月は、Uncertaintyを読んだ。
おなじ作者のCareer Renegadeは去年読んだ。
Career Renegadeは、たいへんわかりやすい文章で書かれてゐた。
内容が参考になるか、と云はれると、起業するつもりなどまつたくない自分には参考になることはないといふ感じだつたが、しかし、よくわかるといふ点ではとても勉強になつた。

ところが、Uncertaintyである。
読んでもわからない。
わからないといふよりは、内容がすこしも頭に入つてこない。

この本は、最初は読むつもりはなかつた。
Amazonでサンプルをダウンロードするつもりで、うつかり購入してしまつたものだつた。

しかし、考へた。

The older I get, the stronger my intolerance of uncertainty becomes.

さういふ思ひは、つねづねあつた。

もともと、不確かなものが苦手だ。
臨機応変の才のないためかと思ふ。
職場でも自宅でも、できるだけ、「予め準備をする」やうにしてゐる。
なにかあつたときに即対応できないからだ。
しかも、めんどくさがりなので、その準備も怠りがちだつたりする。
それで結局不確かなもの、想像だにしなかつたものに遭遇してしまひ、四苦八苦する。
そんなだらしのないことのくり返しである。

なんとかならないものか。
おそらく、不確かなもの、予測不可能なことにうまく対応できないといふこの特質は、年をとるほどひどくなつていくことだらう。

さう思つて、Uncertaintyを読んでみた。

ところが、ちつとも内容が頭に入つてこない、とは、すでに書いた。
もしかして、怠つてゐるから、また英語の読めない状態に戻つてしまつたのだらうか。
さう不安を抱きつつ、なんとか読み終はつた。

ところで、Uncertaintyには「塞翁が馬」を紹介した部分がある。
問題は、「仏教の寓話」として紹介されてゐることだ。しかも、塞翁は農夫だつた、と書いてある。

「塞翁が馬」の出典は「淮南子」である。
「淮南子」は、Wikipediaなどで見ればわかることとは思ふが、漢の武帝のころ書かれたものである。紀元前130年前後といつたところか。
中国に仏教が伝来したのは、後漢末、西暦でいふと二世紀の終はりから三世紀のはじめにかけて、といふことになつてゐる。
「淮南子」に、仏教の入る余地はない。

さうは云つても、釈迦は紀元前六世紀とか五世紀の人だし、仏教は伝来しないまでもその教義はもつと早いうちに中国にもわたつてゐたのではないか。
さういふ意見もあらう。

「淮南子」は、百科全書的な書である、とは上に書いたとほりだ。
漢以前の中国で主流だつた思想を網羅した書だ。ほとんどは道教や儒教だが、諸子百家の思想をまとめた書、ともいへる。
その「淮南子」に仏教に関する記述はない。
すくなくと、やつがれの読んだ範囲ではない。

それに、いいことと悪いことといふのは、陰陽の関係にある、といへる。
陰陽思想と仏教とはまたちがふものだらう。

塞翁が農夫ではなく、占ひ師である、といふのは、おそらく「淮南子」の書かれたころには重要な点だつたと思はれる。

これつて、もしかして、著者に云つた方がいいのかなあ。
大きなお世話かもしれないけど。

さう思つて逡巡することしばし。
なぜといつて、読んだときにほとんど理解できなかつたからだ。
そんな、たいして読めてゐない本について、「ここ、をかしいですよ」とか指摘するのつて、僭越にもほどがあるのではあるまいか。

だつたら読みなほしてから書けばいい。
さう思つて、ゆつくり休んだ今日、読みなほしてみたらこは如何に。

なんだらう。
なんだか、よくわかるんだけど。
忘れられない、と書いた、その感覚とはまたちがふのだが、なんであのとき「理解できん」と思つのただらうか、と、ふしぎになるほど、読める。

一度読んでゐるからだらう。
さう思つて、最近ときどき読んでゐるTHE ÜMLAUTを読んでみた。

読める。
一応、読める。

どうやら、「読めない」「わからない」と思つてゐたのは、疲れてゐたからだつたらしい。
なんだ、そんなことだつたのか。

といふか、疲れてるくらゐで読めなくなるなんて、だらしないなあ。
さう思ふと同時に、どれくらゐ読めるかが疲れ具合の基準にもなるなあ、とも思つた。
わからなくなつてきたら、休み時、といふことだ。

さういへば、「淮南子」もなんだかよくわかんなかつたんだよなあ。
といふのは、これは単純に漢籍を読みこなす力がついてゐないからだけど。

Tuesday, 23 July 2013

旅先で身辺整理に思ひを馳せる

先週末、大阪と京都とに行つてきた。
この時期、毎年大阪に行く。大阪松竹座に行くためである。
「なんか、もう、今年はいいかな」と思つても気がつくと行つてゐる。
今年はまさにその「もういいかな」つてな気分になつたりはしたのだが……まあ、そこはそれ、だ。

行き帰りには、新幹線を使ふ。
贅沢だなあと思はば思へ、翌日しなければならないこととそのための体調管理などを考へると、結局さうなつてしまふ。

新幹線のなかでなにをするのか。
行きは、できるだけ睡眠を補給したいといつも思つてゐる。
富士山とか浜名湖とか、見たいものはいろいろあるんだがね。
今年は、新富士駅を過ぎたところでふり返つたら、雲のすきまからうつすらと富士山が見えた。
富士山はいいとして、浜名湖まで見てしまふと、あつといふ間に名古屋だ。名古屋を過ぎると、これまたあつといふ間に京都についてしまふ。
寝てゐる暇がない。
旅行の前の日といふのは、たいてい夜更かしをしてしまふ。
かばんにものをつめたりしてゐると時間がたつてしまふのだ。
それでもだいぶ早くなつてきたのだが、うつかり仕事で帰りが遅くなつたりすると、もういけない。
そんな睡眠不足のままで芝居を見るのは心配だ。といふわけで、車中ではできるだけ眠つて行きたい。
さう思ふと、これがかへつて眠れない。
そんなわけで、iPodなどを出してきて、なにか聞きながら行かうといふことになる。

あるいは眠くなるまで、なにか手作業でもしやうか、といふこともある。
以前は新幹線に乗り込んだところからくつ下を編みはじめる、なんてなことをしたこともあつた。
最近はもつぱらタティングレースだ。
道具が小さくて、持ち運びやすいので、旅のお供に最適である。

今回は宿で過ごす時間が短かつたので、シャトルを手にしたのはほぼ帰りの新幹線の中だけだつた。
成果はこんな感じ。

motif

以前も書いたけれど、これまで自分が編んだり結んだりできてゐたのは、睡眠時間を削つてゐたからだといふのがここのところ如実に身にしみる。
いまはとにかく睡眠時間優先。
夜はなかなか床につくふんぎりがつかずにだらだらしてしまふことも多いが、それでもちよつと前まで早起きしてゐたせゐか、すこし寝る時間が早くなつてゐる。
この調子で負債を返せないまでも、これ以上負債をふやさないやうにしたい。

ただ、さうすると、編んだり結んだりしてゐる時間がなくなつちやふんだよなあ。

これまた以前「達成感」などといふことを書いたけれど、ここのところまつたく達成感を得てゐない。

しかも、こんな感じで睡眠負債に気を遣つてゐたら、手持ちの毛糸やレース糸の減る暇がない。
……処分しちやはうかな。
そんなことも思ふ。

いつそのこと、手持ちの毛糸やレース糸をきれいさつぱり処分してしまつて、心持ちも新たに現在編んでゐるものや結んでゐるものに向かふといふのはどうだらうか。
さう思つたりもする。

ま、思ふだけだがね。
それができたら苦労しないのだ。
処分するといつて毛糸を出してきて、「これはもう廃番になつたものだから」とか「これはあれを作るのに買つたものだから」とか「これは旅先で買つたものだから」とか、さんざんに云ひ訳して、結局なにも処分できない。
目に見えてゐる。

そんなわけで、すきま時間を見つけては、ちよこちよこ編んだり結んだりするしかないのだつた。

といふことは、やはり毛糸やレース糸は処分しなければ、といふことだよな。

Monday, 22 July 2013

あみものとヲタク心

残念ながら、originalityといふものがない。

あみものとかタティングレースとか、どなたかの作つてくれた編み図なり編み方なりにしたがつて編むのが精一杯である。
自分でデザインを考へて、かうすれば仕上がるのではないかとか試行錯誤をしながら作品を作る、なんてなことはできた試しがない。

タティングレースが一番いい例で、「こんなものを作りたい」「こんなモチーフをつないでみたい」といふ曖昧模糊としたイメージはあるものの、それを形にすることができない。
手持の本やWebを探して、イメージどほりのものが見つからぬ、と嘆くばかりである。

嘆くくらゐなら、自分のイメージを形にすればいいのだが。
それができないから嘆いてゐるんだよなあ。

できることといつたら、「ゴム編みのときはやつぱりゴム編みの作り目で編みはじめるよなー」であるとか、「くつ下の踵は引き返し編みの方が好きなんだよねー」であるとか、「違ふ配色で編みたいんだよねー」であるとか、せいぜいその程度である。

そんな流れで編んでみたのが、下のリストウォーマだ。

中村座定式幕仕様

デザインは林ことみの「北欧ワンダーニット」に掲載されてゐるエストニアンスパイラルである。

色合ひは、中村座の定式幕をもとにしてゐる。
一昨年の秋、平成中村座に行く、といふので急遽作つたものだ。
平成中村座は、巨大なテントだ。
すなはち、11月ともなると、天候次第では冷えることもありうる。
さう思つて用意したものだつた。

観劇の日、「お祭り」を踊つて引つ込んで行く役者が、揚幕脇に座るやつがれの手元に一瞬視線を向けた、そんな気がしたものだつた。
さういへば、去年の南座の顔見世にもこのリストウォーマをして行つたのだが、襲名口上に出てきた役者がやはりちらつとこちらの手元に目を向けた気がしたものだつけか。
もちろん、これは、よくある「役者さんと目があつたのよー!」といふ思ひ込みとおなじものである。
実際にさういふことはない。

む、なんだかさみしい気分にひたつてしまつた。

もとい、当時は「これつて、ヲタ編みだよねー」などと思ひながら編んでゐた。
あみものつて、結構「フリーダム」だ。
「こんなものを編みたいなー」と思ふと、案外編めてしまふ。

SFドラマによくある、未来の人々が身につけてゐる身体にぴつたりとした衣装とか、色と模様だけ真似すれば、普通にセーターを編む要領で編めてしまふのである。
たとへば、「スタートレック」といふか「宇宙大作戦」といふかに出てくる制服だ。
黄色とか青は、あのとほりの色を探してくるのがむづかしいかもしれないが、赤だつたらかなり近い色の毛糸を見つけてくることは可能だらう。
あとは、ふつーのセーターの本でも見つけてきて、ちよつと細めになるやうに編めば、かなり近いものを編むことができる。
「別に身体にぴつたりしなくてもいいやー」といふ向きには、それこそふつーに編めばいい。

男の編み物、橋本治の手トリ足トリ」で、橋本治は歌舞伎の登場人物が着る衣装の模様を再現した羽織ものを編んでゐた。さういへば橋本治はデニムのパンツだかに桜の模様かなにかを刺繍して、伸縮性がなくなつてしまつて難儀した、なんてなこともどこかで書いてゐたつけか。

橋本治の域に達することはむづかしいかもしれないが、中村座の定式幕模様のリストウォーマくらゐなら、ちよつとあみものをしたことのある人なら、ちよちよいのちよい、である。

最近では「SHERLOCK」のジョンが着てゐるセーターを復元してゐる人もゐるんぢやないかな。縄編みだつたり編み込みだつたり、ジョンの着てゐるセーターはちよつと編み心を誘ふんだよね。
あるいは「あまちゃん」でアキちやんの身につけてゐるヴェストや帽子なんかにも、編み心そそられる。

さういへばかつては男性アイドルをfeatureしたセーターブックなんてあつたよねえ。
最後に見たのはオダギリジョーだつたか、柳家花緑だつたか。
これはヲタ編みとはちよつと違ふけれど、でもあみもの好きといふよりはそのアイドルのファンに向けたものだつたらうことを考へると、そんなに遠いものでもなからう。

などと思ひ出にふけりつつ、ヂヤンテイ織やドミノ編みで弁慶格子を再現できないだらうか、とか、矢羽根の茶羽織なんぞを編めないものだらうか、とか、無謀なことを考へたりしてゐる。

Friday, 19 July 2013

「グローバル社会」非適応

先日、枝葉しか見なくても「本望である」と書いた。

その翌日、「それでは「グローバル社会」で通用しません」と云はれてしまつた。

どうやら「グローバル社会」とやらでは、ものごとの要旨をばつちりつかめるやうでないと生きてゆけないのらしい。

「グローバル社会」、かー。

かつこつきで書いてゐるのですでにおわかりかとは思ふが、そんなものがほんたうにあるのだらうか、といふ感じがしてゐる。

世の中は、とつくのとうに、グローバルだつたのではないか。

そんな気もする。

南條武則も書いてゐたが、「「グローバル社会」がくるぞ」だとか、「そんなことではグローバリゼーションについていけないぞ」と云ふことで、儲かる人がゐるんだらう。儲からなくても、なにかしら得する向きがあるのにちがひない。

だいたいやつがれはもともとドメスティックなたちだ。
その上、やつがれを見て、「「グローバル」なことに向いてゐる」と思ふ人はゐない。
このままおとなしくしてゐれば、なんだかよくわけのわからない「グローバル社会」とやらとはかかはらなくても済みさうだ。
なんてなことを、今日「一條大蔵譚」を見ながら考へてゐた。

とか考へる後ろ向きな人間には、「グローバル」な世界で生きていけるわけがない。

「グローバル」な世界といふものが、あるとして、だが。

Thursday, 18 July 2013

一藝と多藝と

昨日は、「細部しか見えなくてなにが悪い」といふ件について書いた。
有り体にさう書いてはゐないが、まあ、さういふことだ。

世間に出てゐると、それではダメだと云はれる。
これも、面と向かつてさうは云はれはしないが、さう云はれてゐるも同然だ。

社会人としては、あるいは会社人としては、ものごとの大筋がつかめないとダメらしい。
もつと云ふと、ものごとの本質をつかめないとダメらしいのだ。

無論、ものごとの本質はつかめた方がいい。
しかし、そんなの、ものごとの本質をつかむのが得意な誰かにまかせておけばいいぢやあないか。

残念ながらやつがれは、枝葉末節ばかりが気になる性質である。
だつたら細かいことばかり見せておいてくれればいいのに、とよく思ふ。
大筋やあらましは、さういふのを見るのが得意な人が見ればいい。
遠くを見るのが得意な人には遠くを、近くを見るのが得意な人には近くを見るやうにさせておけばいい。
社会とは、あるいは会社とは、いろんな特性を持つた人々の集合体だらう。さうではないのだらうか。

どうも、社会は、いやさ、会社は、さう思つてはゐないやうなんだよなあ。
社員ひとりひとりに相反する要素を求めてくる。
近くを見るのはもちろん、遠くも見えなければならない。
大筋をつかむと同時に、細かいところも見えなければならない。

なんか、もつと、かう、ひとりひとりの特性を生かすことはできないものなのだらうか。
わかりやすくいへば、営業が得意な人には営業を、経理が得意な人には経理を、事務の得意な人には事務を、といふやうになつてゐればいいのに、と思ふ。
もちろん、営業職でも経理のことは知つてゐた方がいいし、vice versaではある。
でも、せつかくおなじところにゐるんだから、互ひに相手の足りないところを補ひあつていけばいいぢやあないか。

それぢやダメなのかなあ。
ダメなんだらうな。

個人の特性を生かした仕事をさせる場合、その集合体をまとめる人物が必要になつてくる。
ほんとは各人が得意なことをして、自然とまとまるのが一番いいんだらうけどね。
大抵の場合はリーダー格が必要とされる。
そして、そのリーダー職を得意とする人物が、少ないのだらう。
そんな気がする。

Wednesday, 17 July 2013

重箱の隅をつつく

国語の授業で、「この話の要旨をまとめなさい」などといふ問題の出ることがある。
これがたいへん苦手であつた。
あらすじを書くのも苦手である。

頭が悪いんだよなあ。
当時からさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。

ものごとの大意をつかむことができない。
小説とか映画とかドラマだけでなく、世の中のことすべてにおいて、大筋といふものを自分なりに説明することができない。
枝葉にばかり目がいつてしまふ。

たとへば「三銃士」だ。
すでに何度か書いてゐるが、こどものころ「三銃士」のなにがおもしろいのか、さつぱりわからなかつた。
手元にあつたのは、こども向けにこどもには理解できない理解してほしくないと大人が判断した部分を抜いたダイジェスト版だつた。
「鉄仮面」も同様だつた。
小学五年生のときに、学級文庫に「鉄仮面」があつた。
自分の手元にあるのとはちがひ、かなり分厚い本だつた。
すでに「おもしろくない」と判断してゐたが、なんの気の迷ひか、この本を借りてみた。
おもしろかつた。
なんだらう、このおもしろさは。
なぜかつて読んだ「鉄仮面」をおもしろいと思はなかつたのだらうか。

後に知るのだが、このとき学級文庫にあつた「鉄仮面」は、ほぼ「ダルタニャン物語」の「鉄仮面」の部分がまるごと抜き出されたものだつた。
つまり、細部まで採録されてゐた、といふことである。

「鉄仮面」がおもしろいのなら、「三銃士」もおもしろからう。
さう思つて、これも手元にあつたものより分厚い本を選んで読んでみた。
いやー、なんでいままでこのおもしろさがわからなかつたんだらう。

あるていど年を重ねて、それでやつとその作品のおもしろさがわかるやうになつたのだらうか。
それも考へられる。
もつと幼いころのやつがれには、「三銃士」なり「鉄仮面」なりのおもしろさを理解できなかつた。
それが、五年生になつて、やつとわかるやうになつた。
それもあらう。

だが、細部まできちんと描かれたものを読んだからだ、とも考へられる。

その後、「三銃士」の映画化された作品を見る機会があつた。
一番気に入つてゐるのは、最初に見たリチャード・レスター版だが、それにも不満がないわけぢやない。
たとへば、「三銃士」には、アラミスはジョゼフ神父に似たところがあり、またアーモンドのクリームを塗つて手の手入れをしてゐる、しかし、なんの手入れもしてゐないアトスの手の方がきれい、といふやうなことが書かれてゐる部分がある。
映画には、さうした描写はない。限られた時間の中で、そこまで描くのはムリだ。それは理解してゐる。だが、さうした雰囲気さへない、といふのが、なんとなく納得いかないんだよなあ。
雰囲気なら、伝へやうがある。
そして、雰囲気さへ伝へられれば、多少原作とはちがふ展開になっても、場合によつては原作とはまつたくちがふ展開になつても、納得のゆく作品になるのではあるまいか。

その「雰囲気」も、実は「細部」ではなくて「大筋」なのかなあ。
といふのは、よく「マクベス」の映画化作品で一番は「蜘蛛の巣城」だ、といふ話を聞くからだ。
ほかに「マクベス」の映画化作品を見たことがないからなんともいへないが、「蜘蛛の巣城」は「マクベス」のエッセンスともいふべきものを持つた作品である。スコットランドぢやないし、話の展開はところどころちがふし、でも、さうなのである。

やつぱり、大筋とか大意とかをつかめないとダメなのか。
さうだよな。
修学旅行で薬師寺に行つたとき、東塔の説明を受けたことがある。
三重の塔のてつぺんには、非常に細かい細工のほどこされた飾りがついてゐる。
えうするに「神は細部に宿るのだ」といふやうな話だつた。

でもそれつて、三重の塔があるからなりたつてゐるんだよな。
もし三重の塔がなくて、その飾りだけが麗々しくそのあたりに飾られてゐたらどうだらう。
たしかに、すばらしい技術の結晶ではあるのかもしれないが、それほどありがたいとは思はないのではあるまいか。

三重の塔といふ根となり幹となる部分があるからこそ、細部が生きる。

「ディテールこそ命だ」といふ人もゐるけれど、それはそのディテールを生かせる中心となるものがあるからだ。
それがなければなんのディテール。

わかつてゐても、やはり細かいところ、自分の気になるところばかりを見てしまふ。
一生、世の中の大意などつかめぬまま終はるのにちがひない。
本望である。

Tuesday, 16 July 2013

四角いモチーフつなぎたい

眠い。

夕べはひさしぶりに涼しい夜だつた。
梅雨があけてからといふもの、寝るときには氷枕を使つてゐたが、夕べは使ふ必要がなかつた。
タオルケットもしつかりかけて寝てゐたやうだ。

そんなわけで、よく眠れたはずなのだが、まだ眠い。
こんな気持ちのよい朝に、なぜ起きなければならないのだらうか。
そんな心持ちである。

昨日は、家にゐればそれほど暑くはなかつた。
おそらく比較の問題で、それまでが暑過ぎたのだらう。

だから、といふのではないが、こんなものを作つてみた。

Square Motif

昨日も書いたJan StawaszのTatted Treasuresに出てくるモチーフである。
本ではいくつもつないでドイリーと銘打つて紹介されてゐる。
ドイリーといふよりはテーブルクロスといつた巨大さになつてゐるけどな。
周囲にはすこし形をかへたモチーフをつないで、さらにその外側にことなるモチーフをつないでしあげてゐる。
この本には、さうした作品がいくつかある。

モチーフとしては六角形が好きだ。
理由はとくにない。
その一方で、四角形のモチーフをつないだものも好きだ。
四角形の四隅をちよつとした工夫すると、つないだときにそこに異なる模様があらはれるからである。
下の写真はMary KoniorのPatchwork。四角いモチーフを四つつないだものだが、中央にもうひとつモチーフであるかのやうな模様があらはれてゐる。

Patchwork

これは、かぎ針編みでもよく見る効果だ。
四角形のモチーフをつないだら、四隅をつないだところに別の模様があらはれる。
さうした作品がある。

六角形でもできないことはないんだらうけど、タティングレースでもかぎ針編みでも、似たやうな効果をもつ作品を見た記憶はない。

最初の写真のモチーフも、つなぐと別の模様がうかびあがつてくる。
それがいいなあと思つたのだが、モチーフ自体をうまく作れなかつた。
リングが大きすぎてうまく糸を引けないといふのがひとつ。
もうひとつは、シャトルをふたつ使ふこと。
シャトルをふたつ使ふと、どうしても作つてゐるあひだに手が止まる。
シャトルひとつであれば手で持つてゐるシャトルの糸を出し入れすれば済むところを、ふたつあると手に持つてゐない方のシャトルの糸も出し入れしなければならないからだ。
このときに、それまでの流れが途切れてしまひがちなのである。

慣れの問題なのかなあ。
シャトルふたつ使ひになれれば、そんなことあたりまへになつて、双方のシャトルの糸を出し入れするのも自然な流れのなかでできるやうになるのだらうか。
持ち歩くには、シャトルひとつと糸玉でできる作品でも、糸玉側をシャトルにすると荷物がちいさくて済む。でもその場合、糸玉代はりのシャトルからも糸を出したりしないといけないんだよなあ、といふのでいつも躊躇してしまふ。
シャトルの代はりに食パンについてくるバッククロージャとやらを使つてもいいんだけどね。
でもなんとなく、糸玉を使ふときには糸玉をそのまま持ち歩いてしまひがちだ。

そんなわけで、といふわけでもないのだが、Jon YusoffのTatted Snowflakes CollectionからThe Twirlyを作つてゐる。
以前も書いたが、この本の中では一番好きなモチーフだ。

The Twirly

写真は一年半ほどまへに作つたもの。
いまは別の糸で作つてゐる。
これをつないでまづはドイリーを目指してゐる。

Monday, 15 July 2013

Mistakes, Mistakes

あみものはまつたく進んでゐない。
例によつて「風工房のシンプル夏ニット、こもの」からH玉編み模様のスカーフとSケーブル模様のジレとを編んでゐる。

といふよりは、暑さに負けて編めてゐない。

スカーフの方はかぎ針編みで手に取りやすいといふこともあつて、ちよこちよこ編んではゐるけれど、先週あたりは、ちよつと編んでは一段下の編み間違ひに気づいてはほどき、また編んではその下の段の間違ひに気づいてはほどき、を二回くらゐやつて、疲れきつてしまつた。

ほどくだけまし。
さうは思ふ。
ほんとに疲れきつてしまつてゐたら、「ま、いいか」と、編み間違ひを放置してしまふだらうからだ。

ほどいて編みなほす気力はあるのだ。
まだいける。

さう思ふやうにしてゐる。

といふわけで、今回はそんなさつぱり進んでゐないあみものの方はあとにまはして、ちよつと進展のあつたタティングレースについて書かう。

Cross

日曜日に、注文してゐたものがいろいろ届いた。
なかに、Jan StawaszのTatted Treasuresがある。
買ふつもりはなかつたのだが、魔がさした。
そんなわけで、突然、栞など作つてみてしまつた。
NHKの将棋番組を見つつはじめて、お昼のニュースのあと録画した「あまちゃん」など見ながら作り終へた。
たつたこれだけのなかに、間違つてゐる部分が何カ所もある。
Jan Stawasz式のピコの作り方の部分は気をつけてゐるのでそれほど間違つてはゐない。「ここはいつものピコ」、と気の抜けたところで間違つてゐる。

世の中では、「猿も木から落ちる」といふ。
あるいは「河童の川流れ」「弘法も筆の誤り」などと云ふ。
一方で、たいていの蟹は木からは落ちないし、一反木綿は川を流れたりしない。筆を持たない現代人は筆で書いたときに間違つた字を書くことはない。

人は、自分が得意なこと、得意だと思つてゐることで失敗する。
天狗になつてゐるからか。
それもあらう。
なぜ得意なはずのことで失敗をするのか。
それは、「よく行ふこと」だからだ。
人間は完璧ではあり得ない。
十回やつて十回成功することでも、十一回目で失敗する。または百一回目、千一回目で。
自分のせゐではないかもしれない。失敗の原因は周囲のせゐだつたり環境のせゐだつたりすることもあらう。
だが失敗は失敗だ。

たいていの蟹は木に登らない。だから木から落ちない。
一反木綿は泳がない。だから川で流されたりしない。
筆を持たない人が筆で字を書いて失敗することがあらうか。

つまりはさういふことなのだ。

と、思つて先に進むやうにしてゐる。
なんて前向きなんだらう。

あはせて、こんなものも作つてみた。

Clasp

本にはClaspと書いてあつた。
Clasp、ねえ。
これはこのままどこかへ行つてしまひさうだな。

Friday, 12 July 2013

手ぬぐひとハンカチ

手ぬぐひを愛用してゐる。

きつかけはなんだつたのか定かではない。
たぶん、丸の内に丸善ができて、行つてみたら手ぬぐひが売られてゐた、とか、そんなやうな感じだと思ふ。
その証拠に、はじめのころ買つた手ぬぐひには「本棚」とか「ペン」とか、丸善とかまわぬのコラボレーションによる手ぬぐひが何本かある。

夏になると、手ぬぐひ以外にタオルハンカチを常備するやうになる。
手ぬぐひは手拭き用、タオルハンカチは汗拭き用だ。

なぜ手ぬぐひを汗拭き用に使はないのか。
洗ふのがめんどくさいからである。
手ぬぐひは、手で洗ふやうにしてゐる。
夏の汗は脂が多い。
より念入りに洗ふ必要がある。
その手間を惜しむがゆゑである。

もともと、手ぬぐひを愛用するまへはタオルハンカチを愛用してゐた。
アイロンをかける必要がないからである。
手ぬぐひも、ことによつてはアイロンをかける場合もあるやうだが、やつがれはかけたことがない。
洗つて、乾かして、ふんはりやはらかいものを使ふ。
これがいい。

実を云ふと、冬のあひだもタオルハンカチは常備してゐる。
手ぬぐひを忘れたときのために、上着やコートのポケットにつねに入れてゐるのだ。
「こんなこともあらうかと」といふアレである。
そんなわけで、ほとんど出番はない。

夏のあひだはちがふ。
タオルハンカチも一軍選手だ。

タオルハンカチを愛用してゐたときも、夏は二枚持ち歩いてゐた。
手拭き用と汗拭き用と、だ。
汗を拭くときに、水をふくんだハンカチで拭くとなんとなくイヤな感触がするからである。
現在手ぬぐひとタオルハンカチとを持ち歩くのも、それゆゑである。
汗拭くときは、乾いたもので拭ひたいんだよね。

先日、たれのつぶやきかは失念したが、夏は手拭き用、汗拭き用、それと保冷剤を包む用の三枚の手ぬぐひを使ふといい、といふ発言を見かけた。
なるほど。それはいいかも。
自宅にゐるときは、手ぬぐひを汗拭き用にも使つてゐる。一日家にゐるやうなときは、ぬらしてしぼつたものを首にかけてゐる。
一昨年、しろくまといふぬらして冷を楽しむネクタイのやうなものを買つたのだが、これがやつがれにはあはなかつた。
たしかにひんやり冷たい感触はあるのだが、なんとなくベタついた感じがして、あまり涼しくないのだ。
だつたら手ぬぐひをぬらしたものを首にかけてみやう。
さう思つて実践してみたところ、これが案外いい。
家にゐるから、乾いてもすぐぬらすことができるしね。
両端はぬらさずにおいて汗拭きに使へるのもいい。
ぬらしても、かたくしぼつて、時折額や頬にのせてみると、これがまたひんやりとしていい感じ。

この時期、ついつい青系の手ぬぐひを選んでしまふ。
鬼灯の手ぬぐひなどは、赤いので、うつかり四万六千日の日に出してくるるのを忘れてしまひがちだ。
今年は前日に使つたけどな。
向日葵の手ぬぐひも持つてゐて、これがものすごい山吹色だ。最初手にするのを躊躇するが、一度使ふとなぜか使ひつづけてしまふ。

そんな感じで、日々使つてゐる手ぬぐひの写真をtumblrに投稿してゐる。
これまた、一年前の記録を見返すと、「は、今年はまだこの手ぬぐひを使つてゐない」などと思ひ出すのにちやうどいい。

今日の手ぬぐひは遊中川の金魚。
金魚は年中ゐるけれど、どうもこの季節に選びがちな手ぬぐひである。

Thursday, 11 July 2013

勝てオレ戀し

禁酒してゐる。

健康診断までのこと、と思つてはじめた。
例年であれば、先月には終はつてゐたはずだつた。
今年はまだ健康診断がない。
そんなわけで、五月の連休明けくらゐからずつと禁酒中である。

などと云ひながら、実は先月末に一度飲んだ。
学生時代の友人たちとひさしぶりに会ふことになつたからだ。
で、そこから飲むやうになつたか、といふと、またそこから禁酒がつづいてゐる。

アルコール依存症の治療には、まづ三ヶ月禁酒するといふ。
さう考へると、やつがれの禁酒なんてかはいいもんだ。
正直云つて、「禁酒」ともいへない。
なにしろ、健康診断が終はつたら、即飲むつもりである。
バリウムを飲んだりするので、直後の飲み食ひはつらいこととは思ふが、いまはそんなことは気にならない。

しばしのあひだ、アルコールを断つてみて思つた。
やつがれにとつては、アルコールよりカフェインを断つ方がつらい。
かう打ついまも、コーヒーを飲んでゐる。
コーヒーでなければ紅茶。さもなければ日本茶。
なにかしらカフェインの入つたのみものを飲んでしまふ。

カフェイン断ちにも挑戦したことがある。
麦茶とか、ルイボスティーとか、牛乳とか、水とか、意識してさうしたものを飲むやうにしてみた。
ところが、気がつくと、まづはうじ茶を飲んでゐる。
そして、うつかり緑茶などを入れてゐる。
しまつた、と思つても、もう遅い。

それまで、カフェイン依存症である、といふ認識はまつたくなかつた。
断つてみてはじめて気がついた。
カフェインなしではゐられない。

あるいは、なにかしらする前に、お茶やコーヒーを入れる、といふ動作をすることがまづ前提になつてゐるのかもしれない。
はたまた後か。
たとへば、起きたらまづコーヒーを入れる、とか。
帰宅したら、とりあへずお茶を入れる、とか。

さういふ云ひ訳を考へるところがもう依存症だ。

ところで、コーヒーを飲むと眠れない、といふ人がゐる。
うらやましい話だ。
コーヒーを飲んで眠れなくなつた、といふ経験がない。
高校生のときに、一度だけ、夜紅茶を飲んだら眠れなくなつた、といふことがあつた。
いま、あのときの記憶を頼りに紅茶を飲んでみても、ばつちり眠れてしまふ。

これにはほとほと困つてゐる。
職場などで眠くなつたときに、対処方法がないからだ。
眠々打破などを飲んでみたこともある。
これがまつたく効かない。
おそらくモカも効かないだらう。

そんなやつがれが飲んで、ひとつだけ効いたことがあるものがある。
それは、AGFで出してゐた勝てオレといふコーヒーだ。
受験シーズンに受験生向けに出してゐた、粉末をスティック状の袋につめた商品だつた。
これが効く。
半信半疑で飲んでみたら、眠たいのに眠れないのだ。
これはすごい。
ただし、飲むと心臓がが異様にバクバクする。
これがおそろしくて、いざといふときだけ飲むやうにしてゐた。
しよつ中飲んでゐたら効かなくなる可能性もあるしな。

ところが、この勝てオレ、去年の受験シーズンには売り出されなかつたやうなのだ。
店頭で、一度も見かけなかつた。
味の素のWebサイトを見に行つてもなささうである。
なんといふことだ。

受験生向けだとあまり売れなかつたのだらうか。
だいたい、受験勉強なんて、寝てなんぼ、といふところがある。
以前も書いたが、やつがれは徹夜で勉強とか夜遅くまで勉強とかしたことがない。
試験前は寝る。
試験中も寝る。
それでなんとか生き延びてきた。

勝てオレは、眠いのに眠るわけにはいかない社会人にこそ、向いた商品だ。
ターゲットを変更して、いまからでも売り出してくれないだらうか。
年中売つてくれると助かる。
とはいへ、書いたとほり、心臓がバクバクするから、さうさう飲むわけにもいかないんだがな。

Wednesday, 10 July 2013

知らなきやダメかな

いつのことだか覚えちやゐないが、読売新聞夕刊の書評欄で、「年齢を明かさない作者の本なんて読めない」と書いてゐる作家がゐた。
作者の年齢がわからないと、その意見に同意したものかどうかわからない、とまで書いてゐた。

えー、さうかなあ。
べつに、作者が何歳だらうが、性別がなんだらうが、どこで生まれてどこで暮らしてゐやうが、どーでもいい話ぢやん?

もちろん、わかつた方が楽しめる、といふ意見もわかる。
また、作品によつてもちがふのかもしれない。
小説ならわからなくてもいいけど、随筆なら知りたい、とか。

俳句いきなり入門」で、千野帽子が、「作者の生い立ちとか知らないと味はへないやうな作品」について、conな意見を書いてゐたので、突然思ひ出した。

さういへば、ここ一年ばかり漢詩の本をたまに読むけれど、その中にも、「この詩を書いた時の詩人の境遇がわからないと詩を鑑賞できない」とかいふやうな意見があつたなあ。
この詩を書いたとき、この詩人は左遷されて陽関の西にゐた、とか、この詩を書いたとき、この詩人は杭州にゐた、とか、家族が何人ゐて、こどもが生まれたばかりだつた、とか。

でも、昔の人のことだから、いつ書かれた詩だかはつきりわからないことだつて多い。もつといふと、詩を書いた人もたくさんゐて、李白や杜甫、白居易といつたbig namesならともかく、伝記のはつきりしない詩人もかなりゐる。
その李白、杜甫、白居易にしたつて、「この詩はいつごろ書かれたものかはつきりしません」といふものがあるのだから、なほのこと、だ。

つまり、伝記のはつきりしない詩人の詩は鑑賞できない、いつ書かれたものだかわからない詩は鑑賞できない。
さう云ひたいのだらうか。

そんなことはないだらう。
お母さんが誰だかなんて知らなくても小式部内侍の歌はわかるし、太宰府に流されたことを知らなくても菅原道真の歌を読むことはできる。

さう思ふんだがなあ。

無論、学者はまた別だ。
ある小説家、ある詩人を学問として研究するのなら、その作者の生い立ち、作品を書いたときの境遇、趣味嗜好、さうしたものを理解する必要がある、というのは理解できる。
しかし、普通に読むのに、そんなことが必要かね。
とても疑問だ。

世の中には、シリーズものの小説やまんがは最初から読みたい、といふ向きがある。
やつがれにも若干ないわけぢやあない。
でも考へてみたら、「緋色の研究」を読んだのは一番最後の方だつたし、「カーテン」はあらかじめ書かれてゐたといふし、それつてほんとに意味があるのか、といふ気もする。「すべてがFになる」も書かれた順番としては最初ではないはずだ。

この、「シリーズものは最初から読みたい」といふのも、どこかで「作家の生い立ちを知らないと鑑賞できない」といふ考へ方に似てゐる。

なんでそんな枷をわざわざはめたがるかね。
やつかいな話だ。

Tuesday, 09 July 2013

色いろいろ

去年のいまごろ、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーにはじめて行つた。
正確には六月の最終週だ。

七月にシアター・コクーンに「天日坊」を見に行つた帰りにも寄つてゐるが、このころはそんな感じで、足繁く通ふといふほどでもなかつた。

本格的に通ひはじめるのは、八月に「其礼成心中」を見に行つてからだ。
これも正確に云ふと、「其礼成心中」を見たあと、川本喜八郎人形ギャラリーに近い渋谷区防災センターで、「人形劇三国志」の「赤壁の戦ひ」の回を見てから、である。

この件についてはすでに何度も書いてゐる。
「其礼成心中」は、たしかによかつたのだが、そのあと見た「赤壁の戦ひ」に全部持つていかれてしまつた。
そんな感じだつたのだ。

といふわけで、これまで渋谷と新宿と池袋とは、乗り換へでさへ降りるのはいや、といふやつがれであつたが、「隙あらばヒカリエ」とばかりに渋谷に出没するやうになつた。
まあ、ヒカリエにしか、もつと云ふと、川本喜八郎人形ギャラリーにしか行かないけど。

「人形劇三国志」の人形たちには、ひとりひとりなんとなくテーマカラーがある。
関羽が緑、といふのは、まあ、京劇からのお約束だらうか。
曹懆が赤、とか、孫権はオレンジ、とか、周瑜は黄色で、郭嘉は紫、張飛は、うーん、ピンクかな。

普段使ふかばんとして、ル・ボナーのネコリュックとコンフェッティとを愛用してゐる。どちらもシュランケンカーフのヴァイオレットで、この色を「郭嘉ヴァイオレット」と呼んでゐる、といふ話も以前どこかで書いた。
光の加減によつて、茶色にも見え、また紫にも見えるやうな色が、なんとなく人形劇の郭嘉の衣装の色を思はせるからだ。

日本橋丸善限定のインキ、エターナルブルーを「玄徳ブルー」と呼んでゐる、といふ話もしつこいくらゐ書いてゐる。
これも、人形劇の玄徳の頭巾などの青い色を思はせるやうなインキの色ゆゑだ。

先日、Lisbeth #40のレース糸を注文してしまつた。
もうこれ以上糸は増やさないのではなかつのたか。
うむ。まあ、さうなのだが、ここのところしばらく買つてないしね。
とか云ひながら先月越前屋で佐賀錦を買つたか。でもまあ、あれは用途があるものなので、といひわけがましく書いておかう。

Lisbethは何色か注文したのだが、なかに「孔明ブルー」と呼び習はしてゐる色がある。
あ、これもどこかで書いたな。
人形劇の孔明は、川本喜八郎のイメージとしては白なのださうなのだが、白い衣装は中国では喪服と云はれて断念したのださうな。
最終回とその前二回ほど、白い衣装で出てくるが、それをしてやづかれは「死に態の孔明」と呼んでゐる。
それはさておき。
そんなわけで、出廬してからの孔明は、薄い黒地の上つ張りを着て、その下には水色の衣装をつけてゐる。
水色、と書いたが、ほんのり紫がかつた感じの色である。
英語で云ふと、periwinkleつて感じかな。
毛糸だと、パピーのNew 2PlyやNew 4Plyに似たやうな色がある。

これ以上、糸を増やしてどうする。
しかも全然減つてゐないのに。
さうも思ふが、夏だし、いいかなつて。
いまタティングレースで使つてるのは、濃い牡丹色つて感じだし。これはこれできれいな色で気に入つてゐるけれども。

ちよつと多めに買つたので、すこし大きいものでも作つてみやうかなあと思ひつつ、タティングレースの本など眺めたりしてゐる日々である。

ほんとは「曹懆レッド」もほしいところである。朱金のやうな赤、かなあ。
なかなかお目にかからないのだが。

Monday, 08 July 2013

熱中したい


夏が来た。

突然、夏がやつて来た。
湿気がすくなくなつたのはなによりだが、とにかく暑い。
昨日などは、朝方から昼間にかけては風があつたのでなんとかなつたが、日が落ちるととたんに風が止まり、寝づらくてたまらなかつた。

昨日も恒例の「あまちゃん」や「押忍!! ふんどし部!」などの録画を見ながら「風工房の夏ニット、こもの」から玉編み風のスカーフを編んだりしてゐたのだが、これがなかなか進まない。

進まないのなら書くべきではない。
「春秋左氏伝」には、あたりまへのことは書かれてゐないのだといふ。常と変はつたこと、驚くべき事態を書きとめてある、とのことだ。

たぶん、当時はそれでよかつたのだらう。
なにが常のことでなにがさうでないか、広く知れわたつてゐたのにちがひない。

だが、いまはさうではない。
春秋時代のむかし、なにがあたりまへでなにがさうではなかつたのかなんて、わかりつこないぢやあないか。

春秋左氏伝」を読むやうな人は、そんなことくらゐ、事前に調べて知つてゐるのかもしれないが。
知らなかつた以前のやつがれはあつといふ間に挫折してしまつた。

それはさておき。

そんなわけで、十年一日のごとき内容を書くのもどうかとは思ひつつも、とりあへず、編んではゐるが進んでゐない、と書きとめておくことにする。

先週は、それでも進展があつたのだがな。
なんと、かぎ針編みのスカーフは、三玉めに入つたのだ。
これまでさんざん「二玉めが終はらない二玉めが終はらない」と書きつづけてきたが、先週の火曜日、やつと二玉編みきつた。
かうなると、やはりちよつとした達成感はある。

それで進むやうになつたか、といふと……
うーん、さうでもないんだなあ。
あひかはらず、日々時間を見つけてはちよこちよこと編んではゐるのだが、進捗はあまりはかばかしくない。
最初に書いたとほり、昨日も録画を消化しながら編んではゐたのだが、すぐに糸をかけた左手が汗ばんでくるので、ちよつと編んでは休みまた編んでは休みといつた具合だつた。

もう、この夏はこのスカーフだけで終はりだな。

と、これも先日も書いたな。

ところで、iPhoneにTimeHopといふアプリケーションがある。
TwitterやFacebook、InstagramやFlickr、4squareなどから過去のその日のデータを表示する、といふアプリケーションである。
一年前の今日、二年前の今日、もつとさかのぼつて六年前の今日、なにをしてどこに行つてどんな写真を撮つたのか、わかる、といふ寸法だ。
Twitterの方は2000つぶやき前くらゐまでしかさかのぼれないのでなにも出てこないことが多いが、これが案外楽しい。

六年前の今日、やつがれはどうやらくつ下を編んでゐたやうである。
編みかけのくつ下の写真をFlickrにアップロードしてゐた。

さうか。くつ下か。
もういつだつたか忘れてしまつたが、ある夏に、レース編みの毛糸の手袋を編んで、「なんだ、これなら夏でも羊毛で編めるぢやん」と気づいたのがはじまりだつた。
マフラーやセーターなどは、編んでる最中に編めた部分が膝に乗つたりして、暑くてたまらない。
でもくつ下や手袋なら、躰につかないし、暑いのは糸をかけてる左手だけだからなんとかなる。
そのことに、遅まきながら気がついた。

その後しばらくは夏はくつ下を編んでゐたのだつた。

くつ下、編むかなあ。
でもそんなことをしたら、いま編んでゐるスカーフやジレが仕上がらなくなりさうだ。

しかも、その一方で、いまタティングレースをやりたいきもちでいつぱいなのだつた。
それはまた別の話。

Friday, 05 July 2013

顧みて省みる

「マナーのいい方ね」

三月、新橋演舞場に昼の部を見に行つたときのことだつた。
幕間に、隣の席のご婦人がなにかと話しかけてきてくだすつた。
どうやら菊之助のひいきらしく、お三輪ちやんを一生懸命オペラグラスで見つめてゐた。
お三輪ちやん、よかつたよね。
七之助のお三輪ちやんが「娘のパワフル」なら、菊之助のお三輪ちやんは「娘のリリカル」だ。
最後、苧環を抱へておちいるところなど、可憐であはれでよかつたなあ。

といふやうな話もした。

また、「さつき買つてきたのよ」などとおつしやつて、榮太郎飴をくだすつたりもした。

冒頭のせりふは、別れ際にご婦人から云はれたことばである。
とんでもない話である。
もし万が一やつがれが「マナーのいい」人であつたとしたら、世界中の人がマナーのいい人、といふことになるだらう。

このblogをご覧の向きにはご存じかとは思ふが、やつがれは世に云ふ「ヤな奴」である。
底意地の悪い、といふのが一番あたつてゐるかな。
自分で自分のことを「悪い奴」と思つてゐるので、他人からだまされる、といふことも往々にしてないわけぢやあない。
自分のやうな悪い人間をだまさうなんて相手がゐるわけがない。
さう思ひこんでゐるところがある。
「ああ、さうか、自分は「悪い奴」ぢやなくて、「ダメな奴」なんだな」と、そんなときは思ふ。

たぶん、近所の人に訊いても、やつがれのことを「マナーのいい人」といふ人はひとりもゐまい。社交辞令は別として、だ。
挨拶はするし、ゴミは決められた日に、まあそれなりに分別して出してるし(それなりに、といふのは、自分の理解できてゐる範囲で、くらゐの意味である)、できるだけ騒音の出ないやうに暮らしてゐる。
とはいへ、最低限の常識のうち、できてゐないことがまだまだある。
そんな気がする。

職場でも同様だ。
基本的に、ルールやきまりは守る方だと思ふ。
だが、押しつけられるとむやみに反発してしまふ。
昔からさうだ。
校則は守つてゐるんだけど、教師からむりやり押しつけられたやうなルールは、どこかでやぶるやうにしてゐた。してゐた、といふか、せずにはゐられなかつた。
その時点で「さういふルールも守らないといけないんだよ」といふことを学ぶべきだつたのだ、と、いまになつて思ふが、あとのまつりである。

そんなわけで、昔から誉められるといふことがない。
最後に誉められたのつていつだらう。
あ、この三月のときか。

マナーとはなんだらうか。
たまに、関内ホールに落語を聞きにいく。
関内ホールは、築25年以上になる。
舞台から見ると青い客席が海を思はせる、そんなホールだが、それほど広くはない。
広くはないから、通路からはなれた席に入るときに、通路側の席に人が座つてゐたりすると、「すいません」などと云ひ云ひ席につくことになる。
それ事態はどんな劇場、ホールでもあることだ。
関内ホールで上演される噺家の独演会でちがふことは、このとき、先に席についてゐる人がにこやかなことだ。
「すいません」と云ふと、「どうぞ」と微笑んでくれる人が多い。
お互ひさまですよね、といふ感じなのだらうか。
あるいは、「今夜は楽しみに来てるんですもんね」といふ感じか。
いづれにしても、サントリーホールや歌舞伎座ではお目にかかつたことのない人々だ。

ちよつと不便ではあるけれど、関内ホールに行くのは、さうした客が多いからかもしれない。

「マナーのいい人」といつて思ひ出すのは、関内ホールで落語を聞きにくる客である。
自分はあんな風にできてゐるだらうか。

いやー、いやいや。
それはないなあ。

ときどき、「マナーのいい方ね」と誉められたことを思ひ出す。
誉められ慣れないからだらう。
慣れないことだから、妙にうれしい。
だからといつて舞ひあがつちやあなんねーぞ、と、普段のみづからの言動を省みて心する。

Thursday, 04 July 2013

その後のポメラDM100

ポメラはちよこちよこ使つてゐる。

購入したのは四月十九日。
まだ三ヶ月たつてないのか。去年の暮れあたりに買つたのかと思つてゐた。
やつがれのポメラはDM100。
横長で、B5を縦半分にしたくらゐのサイズの黒い奴である。

これくらゐのサイズだと、案外かばんを選ぶ。
ブロガーズトートのときは問題ないけど、minimumなかばんのときはまづ入らない。
それと、出先で使ふつてちよつと気が引けたりするんだよね。
スターバックスや喫茶店でポメラを取り出すのつて、なんとなく気恥づかしい。結局手帳と萬年筆とを取り出す、といふことが多い。
そんなわけで、もつぱら自宅で使つてゐる。

といふ、これもポメラで打つてゐる。

これくらゐの文章なら、ポメラでとくに困ることはない。
飯田に行つたときにポメラを持参して、宿でぺちぺち打つたときには困つたけどな。
なにしろ、人名が出ない。
世の中にはATOKをほめたたへる人々が多い。
なにかといふとATOKと比較する。
やれ、ことえりはダメだの。
iOSの変換はクヅだの。
なぜATOKを載せないのかだの。

ポメラを使ふと、「ATOK、使へん」といふことがよくわかる。
なにしろ、ちよつとした人名さへ変換できない。
iOSでは、以前から書いてゐるが、なにをいつても王羲之が出る。
出るだけではない。
褚遂良の場合は、「褚」の字が化けることがあるので、「チョ遂良」も候補に出てくるのだ。
なんといふ気配り。
ATOKには、すくなくともポメラのATOKにはさうした心遣ひは微塵もない。

多分、ATOKをほめたたへる人々は、単にATOKを使ひ慣れてゐる、といふだけなのだ。
ATOKに慣れた躰には、ほかの変換システムは使ひづらからう。
そんな当然のことを、「やはりこれはダメだ」「ほかのソフトウェアではダメだ」「ATOK最高」などと、ぶちあげてゐるだけなのだ。
「ATOKが他より優れてゐる」のではなくて、単に「自分はATOKが好きだ」「自分は使ひこなすほど使つてないソフトウェアのことをバカにする人間だ」と世界中に知らしめてゐるだけなのである。

PCでATOKを使つてゐる人は、どうやら設定などをポメラにも引き継げるやうになつてゐるので、使ひやすくなるのかもしれない、とは思ふ。

とりあへず、今日ここまで打つてきて、困つたのは「王羲之」と「褚遂良」とだけなので、そんなに悪くはない。
うーん、ついnegativeな発言になつてしまふな。
いい。
このサイズでこれだけ打てたら、文句ないよ。
あとは、よく使ふやうな人名(「曹操」とか「関羽」とか「蘇軾」とか)は登録しておけばいいんだよな。
つて、それはそれで負けなやうな気がして、まだできてゐないのだが。
といふわけで、上の三人の名前を変換するだけで、ここまで打つてきたのとおなじくらゐの時間がかかつてゐるわけだが。
しかも、よくよく考へてみたら、そんなに使はない気もするしな。

それはさておき。

それでは、ポメラでなにを打つてゐるのか。
かうしてblogのエントリを打つこともある。
一番よく打つのは、むかしの記憶のことだ。
四歳くらゐまでのことで、覚えてゐることを思ひ出したときに打つてゐる。

四歳くらゐころのことを覚えてゐるものなのか。
人によつてまちまちだらう。
四歳の十二月に引つ越しをした。
引つ越し先には同い年くらゐのこどもがまつたくゐなかつた。
ゆゑに、当時遊んだ記憶があるとしたら、それは四歳の十二月までのこと、といふことだ。
さう思つてゐる。

そんなわけで、思ひ出すままに、一内容一ファイルでちよこちよこ打つてゐる。
さういふ内容だから、ATOKが貧弱でも、まあなんとかなつてゐる。
むしろ、向いてるんぢやないかな、ポメラに。

思ひ出の外部記憶として、ポメラは役にたつてゐる。

Wednesday, 03 July 2013

ほんとのことを云へばいいのに

店員と会話をしなければならない店は苦手である。
具体的には美容院とか化粧品売り場のカウンタとか役所とか銀行とかである。
分類としては、美容院や化粧品売り場と、役所と銀行とにわかれる。
美容院や化粧品売り場では、なぜかついついウソをついてしまふことが多い。
役所や銀行ではさういふことはない。
さういふ違ひがある。

さういや、自動車の教習所でもさうだつたな。
はじめてあたる指導員は、まづ書類を見て、「どこそこ出身なんだ。いいところだよね」と云ふ。
やつがれの本籍は祖父の家のあつたところで、その祖父自身も祖母と暮らすやうになつたころには上京してゐた。
本籍地には行つたことがない。
その住所にはもう家なんかないのださうである。
最初のうちは、いちいちさう説明してゐた。
そのうちめんどくさくなつた。
「いいところだよね」と云はれたら、「さうなんですよ」とかなんとか、いい加減なことを答へてゐた。
「ぼくもそこの出身なんだよねー」とか云はれることがなくて、幸ひだつた。

美容院とか化粧品売り場はまたこれとはちよつとちがふ。

「かういふことを云つた方が、喜ばれるだらうか」
返事をするまへに、そんなことを考へてしまふのである。

こちらが相手をentertainする必要はまつたくない。
まつたくないはずなのだが、気がつくと、「かう云つておくべきか知らん」などと考へてゐるのである。
疲れる。

正直に話せばいい。
わかつてゐて、それができない。
ありのままを話すと、相手を不快にするのではないか。
さういふ不安がある。

はじめて美容院に行つたときに、美容院さんと話をして、「ムースとか使ふといいですよ」と云はれ、「さうなんですかー」と受けたら、相手は非常に微妙な表情をした。鑑越しに見た。
「それくらゐ、当然だらう」
「そんなことも知らないのか」
さういふ表情に見えた。

考へてみたら、この「さうなんですかー」も、半ばはウソである。
整髪料を使つたらいいことは、わかつてゐた。
わかつてゐたが、専門家のことばだから、ひとまづ「さうなんですかー」と受けた。
すなほな態をよそほつたのである。

さうか、そこからすでにまちがつてゐたのか。

なるほど、相手をentertainするため、といふよりは、相手にあなどられないやうにするために、ウソをついてゐるのだな。

そりや疲れるだらう。

blogに書いたつもりで、書いてゐないことがある。
去年博多座に行つたときのことだ。
夜の部の終演後、せつかく博多に来たのだから、と、居酒屋に寄つてみた。
ひとりだつたこともあつてカウンタ席にとほされた。
このとき、席をゆづつてくれた二人連れがゐた。
店の大将に、「観光ですか」と訊かれて、一瞬迷つた。
ほんたうのことを云ふべきか。
あるいは、「さうなんですー」とか答へておくべきか。

いつもだつたら、「さうなんですー」とか「ともだちを訪ねて」とかウソを云ふところである。
芝居を見に来たとか云つたら、芝居好きだとバレてしまふではないか。
どうも昔から好きなことの話を避けたがつてしまふ。
好きなことの話をしやうとして、どうもタイミングをつかめずに話せぬままになつてしまふ。
さういふところがある。

このときは、しかし、正直に、「博多座に芝居を見に来た」と答へた。
すると、さきほど席をちよつとゆづつてくれた客のひとりが、「ありがたうございます」とか云ふてきた。
なんだらう、わざわざ芝居を見に来て、博多にお金を落としてくれてありがたうといふ意味なのだらうか。
話をして、謎が解けた。
その人は、博多座の音響さんだつたのだ。

そのあとは、問はず語りに、そのときの公演のこと、その他の公演のこと、役者のことなど、いろいろ話してくれた。
正直に「芝居を見に来た」と云はなければ、聞くことのできなかつた話である。

このときに、「正直に云つた方がいいんだ」と学んだはずだつたんだがなあ。
気がつくと、またウソをついてゐる。
これはもう習ひ性なのか。

だいたい、本籍のところでも書いたが、「めんどくさい」といふのが問題だよな。
人と会話をするのに「めんどくさい」つて、どういふことよ。
また、自分のことを知られたくない、好きなことを知られたくない、といふ思ひが先走るんだらうな。
どうせそんなに会ふ相手ではない。
知られたつてかまはないのになあ。

柴田元幸が書いてゐた。
世界中どこに行つても本屋とレコード屋(いまはCD屋か)は落ち着く、と。
なぜなら、店員がちかよつてきて、「いまこれが売れてるんですよ」とか「お客さんにはこれがお似合ひですよ」などと云つたりしないからだ、といふ。
ほんとにそのとほりだ。
本屋やレコード屋、それに文房具屋では、店員がちかよつてきて、「こちらがお似合ひだと思ひますよ」などと云ふことはない。
なんていい店なんだ。

本屋とレコード屋との問題は、買ふものによつてなにが好きなのかバレてしまふ、といふことか。

だからバレたつていいぢやんよ。

Tuesday, 02 July 2013

「すてきにハンドメイド」見ちやつたよ

先週6/27の「すてきにハンドメイド」を見ることができた。
もしかしたら、改名してからこの番組を見るのははじめてかもしれない。
「おしやれ工房」でよかつたのに。
ずつとさう思つてゐたし、いまでもさう思つてゐる。
矢野顕子の主題曲も、気に入つてゐた。

前回タティングレースについて放映されたのは、どうやら二年ほど前らしい。
ざつくりWeb検索した感じだと、だいたい二年に一度くらゐ旧「おしゃれ工房」でとりあげられてゐたやうだ。
残念ながら前回の放送は見逃してゐる。

「すてきにハンドメイド」のテキストの六月号本屋で見かけないと書いたが、その後、職場の近くにある本屋で見つけた。
自宅最寄り駅付近の本屋には一冊もなかつた。
人の生活のにほひが稀薄なところにならあるだらうといふ目論みがあたつた。

それはさておき。

「おしゃれ工房」のころから、あみものとタティングレースと以外の放送は見たことがない。
キルティングとか刺繍とか、その他の手藝の場合も、基礎の基礎から放映するのだらうか。
するのだらうな。
タティングレースは、当然ながら、スティッチの作り方からはじまる。

あと、これもほかの手藝であるのかどうかわからないが、あみものとかタティングレースの場合は、講師が「早業」を披露してくれることがある。
広瀬光治でも見たことがあるし、今回もあつた。
これつて、ほかの手藝でもあるんだらうか。
たとへば、刺繍の早刺しとか、パッチワークの早縫ひとか。
あんまり聞いたことはないなあ。
クロススティッチの早刺しなんてあつてもをかしくないと思ふけれどもね。

見ながらつぶやきもしたのだけれど、「シャトル」の発音がちがふ気がしたなあ。
TVでは、アナウンサも含めてみな「悟(さとる)」とおなじやうに発音してゐた。
ちがふなあ。
「シャトル」の発音は、「アダム」とおなじだらう?
さう思ふのだが、一度か二度、「アダム」とおなじやうな発音があつたものの、あとは「悟」と一緒だつた。
最近はNHKのアナウンサもあてにならないので(なにしろ「……せざるを得ない」をちやんと口に出して云へない人が夜九時のニュースを担当したことがあつたりするくらゐである)、「悟」とおなじが正しいと断言できないところがつらいね。

スティッチの作り方を念入りに指導するため、実際の作品の作り方はわりとあつさりした感じになる。
スティッチさへ作れるやうになれば、あとは自力でもなんとかなるので、それでいいのかもしれない。
あの栞はどんな糸を使つてゐるのだらう。それなりに太い糸を使ふてゐるやうに見えた。太い糸をタティングレースで使ふと、スティッチがふつくら大きくていいなあ。今度エミーグランデをひつぱり出してくるかなあ。

実際にTVで見たりすると、やつぱり自分でも作りたくなるのが人情といふことで、こんなやうなことをやつてゐる。

Untitled

Jon YusoffのTatted Snowflakes Collectionに掲載されてゐるモチーフだ。
この本の中では一番気に入つてゐるThe Twirlyといふモチーフである。
糸はLisbeth #40 の Scottish Thistle。
作つてどうしやうといふ気はいまのところない。

シャトルはAerlit。
慣れてくるとかなり使ひやすい。以前も書いたけれど、おそらく薄いのがいいんだと思ふ。その分ボビンに巻ける糸の量は減るが、まあそこはtrade offだ。
もとから先端にかぎ針のついたシャトルを使つてゐるからかもしれないが、かぎ針部分も邪魔にならないしね。妙なところで糸をひつかけて持つてきてしまふといふこともない。
しつぽについてゐるボビンをさして糸を巻く部分は、ここを持つてシャトルを扱ふこともできるので、切らない方がいい。オプションは多い方がいい。
Aeroのシャトルはここを切らないとどうにもならないこともあるけどね。
やつがれの手はちいさい方だし、なにより不器用なことでは人後に落ちない。それで使ひやすいと思ふのだから、いいシャトルなんだらう。

などといひながら、気がつくとGR-8 Shuttleに戻つてゐるのは、まあ、お約束だから仕方がない。

Monday, 01 July 2013

2013年6月の読書メーター

2013年6月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2897ページ
ナイス数:8ナイス

英雄三国志 5 攻防五丈原 (集英社文庫)英雄三国志 5 攻防五丈原 (集英社文庫)感想
部下にめぐまれない孔明と上司に恵まれない仲達。どつちもどつちか、と思ふが、手駒の少ない方がつらいか。ここまでどんな豪傑・智将の死でもあつさりとあしらつてきた柴錬は、孔明の死もやはりさらりと書いてしまふ。そこにぐつとくるのだつた。出番は少ないが陸遜のやうすがよすぎる。
読了日:6月2日 著者:柴田 錬三郎
知の編集術 (講談社現代新書)知の編集術 (講談社現代新書)感想
ちよつと確認したいことがあつて、ぱらぱら読んでゐるうちに全部読んでしまつた。なんとか、もうちよつと自分流に「編集」しやすいやうに噛み砕くことができるといいんだがなあ。
読了日:6月6日 著者:松岡 正剛
杜甫―偉大なる憂鬱杜甫―偉大なる憂鬱感想
ちよつと円高になると、「でも円安のあひだに上がつた価格が下がるわけぢやないし」とか、ついついnegativeな方向に考へてしまふ。そんな自分には杜甫はチトつらい。つらいけど読んでしまふ。そんな感じ。杜甫は評価されるまでちよつと時間がかかつてゐる。もしかして、孔明が「軍師」として脚光を浴びるやうになるのと、時期がおなじだつたりするのかな。杜甫の詩に出てくる孔明は「政治家」だもんね。
読了日:6月7日 著者:宇野 直人,江原 正士
孫子 (講談社学術文庫)孫子 (講談社学術文庫)感想
最初に訳文が出てくるといふのが微妙に読みづらい。原文・読み下し文・訳文・解説といふ並びの方が、訳文と解説の内容がダブらなくていいと思ふ。実際、訳文と解説がほとんど変はらない部分もある。解説が詳しくてよいが、この解説だけにとどめるのは危険。用間篇と火攻篇を入れ替へたことについてはなるほど、と思つた。確かにこの方がおさまりはよい。
読了日:6月10日 著者:浅野 裕一
Shades of GreyShades of Grey感想
赤しか認識できないつてどんな感じなんだらう。それも、強い赤しかわからないつて。その前に翻訳は出ないのだらうか。誰か訳してくれないかなあ。さうしたら苦労して読まなくて済んだのに。障碍のある戀愛つて、なかなかむづかしくなつちやつたけど、まだこの手があつたかー。これまで読んだサーズデー・ネクストやNursery Crime、The Last Dragonslayerといつたシリーズは、笑へて泣けてハッピーエンドな感じだつたけど、これはさうぢやない。つづき、読まなきやダメですか。ダメかなー。
読了日:6月22日 著者:Jasper Fforde
英雄三国志 6 夢の終焉 (集英社文庫)英雄三国志 6 夢の終焉 (集英社文庫)感想
どんなに偉大と云はれた人間でも、死んだからつて世の中ががらりと変はるわけではない。あひかはらず誰であつても柴錬はその死をさらりと書いてしまふ。でもなー、諸葛恪はともかく、姜維を孔明と比べるのはなんだか可哀想だ。柴錬はあくまでも諸葛恪は「叔父に似ぬ」といふことにしたいらしいが、一節には「父の温厚さは受け継がず、叔父の圭角のある性格を継いでしまつた」といふ話もあるのにね。ま、いづれにしても「今は昔の物語」ぢやのう。
読了日:6月23日 著者:柴田 錬三郎
チョコチップ・クッキーは見ていた (ヴィレッジブックス)チョコチップ・クッキーは見ていた (ヴィレッジブックス)感想
Cosy Mysteryのお約束として、Whodunitを求めてはいけない。出てくるクッキーが一々おいしさうなので、食餌制限中の人は要注意。つづきを読むかどうかは、ビミョー、かな。
読了日:6月26日 著者:ジョアン フルーク

読書メーター

Steady, steady, steady....still steady

例によつて、あみものは進んでゐない。

何度も書いてゐるが、「風工房のシンプル夏ニット、こもの」からH玉編み模様のスカーフとSケーブル模様のジレとを編んでゐる。
ジレ(やつがれはヴェストだと思つてゐるが)は、先週も全然編んでゐない。
スカーフの方は、四玉中の二玉目がやつと終はるか、と思はれたが、まだ残つてゐる。

ここ一月半ばかり、ずつとおなじことを書いてゐる。
変はつたことといへば、ヴェストが増えたのと、一玉目が二玉目になつたことくらゐだ。

あみものblogの危機である。
書くほどの進展がない。
進展がないので、本や毛糸も買ふてゐない。
「まだこれが編めてない」だとか「いつ終はるかまつたくわからない」だとか考へると、買はうとして、手が止まる。
いい傾向である。
いい傾向ではあるのだが、せめて糸でも買ふてゐれば、なにか披露できるものを。

かうなつてくると、手持のあみものの本なんかも、「捨てちやつていいかな」といふ気になつてくる。
どうせ編まないのだ。
中身もわからず買つて、ざつと見てそのままになつてゐる洋書なんかもある。
捨てる前に中身をスキャンして、pdfファイルにでもするか。
さう思つて、ScanSnapを買つたが、さういへば最近全然使つてないなあ。

負のスパイラルである。

思ふやうに編めない→気分が落ち込む→さらに編めない→さらに落ち込む→もうなにもかも捨てちやはうかな

みたやうな。

この調子だと、スカーフができあがるのは早くても九月の頭くらゐだらう。
あみものは算数ではない。
単純にこれまでこれくらゐかかつたからあとこれだけかければできるだらう、といふ計算がきかない。

む、これもまた負のスパイラルだらうか。

先週も書いたが、あみものに達成感を求めてゐるのがいけない。
求めるとしても、「編み上がつた」とかいふところに求めてはいけない。
今週はここまで、とか、今日はこれくらゐ、とか、さういふちいさい目標で満足することを覚えるべきだ。

いまのところ、最小単位の目標は「スカーフの二玉目を終へる」なのだが、すでに三週間くらゐ達成できてない。
昨日はいよいよ終はるか、と思はれたが、やはり終はらなかった。
ハマナカポームの無垢綿レース糸、恐るべし。

二玉目が終はつたら、すこしは達成感も得られるだらうか。
そこからあみものが進んだりするかもしれない。

などと書きながら、「いやー、それはないなー」と思つてしまふ。

以前も書いたが、これつてサンクコスト化してゐるのかもしれないな。

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