詩情に乏しき歌ぞ詠みける
散文的、といふことばには、いい意味がない。
本来は、「韻文的」に対することばであつたらう。
韻文のやう、に対する、散文のやう、と意味のはずだ。
「韻文的」とは、云はないがね。
韻文には「これ!」といふきまつた形がある。
ゆゑに、「的」とかいふ曖昧なことばをくつつけると妙な感じがするのだらう。
散文には、きまつた形がない。
ゆゑに、「的」とかいふ「それつぽい」といふやうなことばをくつつけてもはまるのだ。
自分は「散文的」な人間だ、と思つてゐる。
辞書の第二義にある「詩情にとぼしく、無趣味でおもしろくないさま」といふ意味もふくめて、さう思ふ。
読む方も書く方も「散文的」だ。
昔からさうだ。
韻文は苦手である。
ほとんど読んだことはない。
一度は「詩集を読む」ことにあこがれて、読んでみたこともあるけれど、ピンとこなかつた。小学生のときの話である。
小学生だから韻文のよさがわからなかつたのか。
年齢は関係あるまい。
やつがれには韻文は向かない。
あるいは、読んだのが翻訳された詩だつたのがよくなかつたのかもしれない。
翻訳すると、韻文の韻文らしさが失はれるからだ。
がんばつてる翻訳もあるけどね。
書く方もからきしだ。
ほんたうは、和歌とか書いてみたい。
枡野浩一の提唱するやうな短歌ではなくて、山本夏彦が「正岡子規のせゐで書く習慣を奪はれてしまつた」といふ、そんな短歌を作つてみたい。
山本夏彦によると、昔の人は折りに触れ、三十一文字でその日の感想などを書いてゐた、といふ。日記の最後に一行、短歌を書き入れる。そんな感じで、老いも若きも、男も女も、学校に通つてゐやうがなからうが、つまり、教養があらうがなからうが、さうしてゐた、といふのだ。
さういふ短歌だから、べつにおもしろいものではない。
どちらかといふと、韻文だといふのに、極めて散文的な内容のものばかりではあつたらう。
桜散り掃き清めたる庭を見し君の姿も一昨年の夢
とかなんとか、「そんなのわざわざ三十一文字」にすることないだらう、といふやうな、そんな歌が多い。さうさう、伊藤園のお茶のペットボトルにはりつけられてゐる俳句とも呼べぬ俳句のやうな、そんな歌が多かつたらうと思ふ。
でも、それでいいと思ふんだよね。
つばめが飛んでゐる。
ああ、今年もやつてきたんだなあ。
そんな気持ちを歌にしてみる。
つばくらめ飛び交ふさまをひとり見て去年は隣にゐた人思ふ
とか、そんなんでいいぢやん。
たれに見せるわけでもない。
オリジナリティ? どうでもいいぢやん。
個性よりも、本歌取りとかなんとか、さういふ方が重要だと思ふがなあ。
#上の歌が本歌取りをしてゐる、といふわけではない。念のため。
どんなにつまらなくても、五七五七七にことばをつめこんでみる。
さうやつて、和歌は連綿と受け継がれてきたのだらう。
さう思ふがなあ。
短歌で生きていきたい、とか、歌人になりたい、といふ人は別だ。
でも、さういふ気がないのなら、見やう見まねの、下手くそで、つまらない、そんな歌を詠んでもいいぢやあないか。
むしろ、どんどん詠めばいいのに。
さう思ふ。
さう思ふなら、やつてみろ。
心の聲はさう云ふが。
うーん、それはどーだろーかー。
と、散文的な人は戸惑ふ。
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