マダム・ドファルジュにならないために
あひかはらず「風工房のシンプル夏ニット、こもの」からH玉編み模様のスカーフとSケーブル模様のジレを編んでゐる。
どちらかといふと、玉編み模様のスカーフを編んでゐるときの方が多いかな。
かぎ針編みの方がぱつと手にとつてさつと編みやすい。
そんな気がする。
玉編み模様のスカーフはまだ二玉目のままだけどな。
ケーブル模様のジレ(やつがれはヴェストと思ひながら編んでゐるが)の方は三玉目に入つた。
この違ひは、単に糸の違ひだらう。
ジレの方はハマナカのフラックスKを5号針で編んでゐるが、スカーフの方はおなじくハマナカのポーム無垢綿のレースをNo.0針で編んでゐる。
それゆゑかと思ふ。
ところで、やつがれは編むときにほかのことをせずにはゐられない。
なにかひとつだけやることができない、とでも云ふべきか。
たとへば、以前「SHERLOCK」を見るためにショールを編みはじめたといふエントリを書いた。
「SHERLOCK」は一話90分。NHKで放映するから途中にCMは入らない。
その間、なにもせずに画面を見つめてゐるのか。
それはできない。
さう思つた。
このとき編みはじめたショールは、まだできあがつてゐない。
伏せ止めに入つたところで、とまつてゐる。
ショール、ことに円形ショールは、中心から編みはじめるときはいいが、伏せ止めをするのが実に難儀である。PI Shawlで学んだはずだつたんだがなあ。
もう暑くなつてきてしまつたから、終はらせるにしても、涼しくなつてからだらう。
そのときに、「SHERLOCK」でも放映してゐれば御の字なんだがなあ。
「SHERLOCK」については、衛星放送を見られる環境にないので、まだシーズン1しか録画できてゐない。シーズン2は借りて見た。地上波ではシーズン2はまだ、といふことを考へると、シーズン3が放映されたとしても、見ることができるのはずつと先のことだらう。
といふことは、なにか別の物を見ながら編むんだらうな。
こんな感じで、たいていはなにかを見ながら編んでゐる。
そんなわけで、編み上がつたものを見ては、「ああ、これはあれを見てゐたときに編んだなあ」と思ひ出すことが多い。
ときどき、「空飛ぶモンティ・パイソン」にはまりまくつてそればつかり見てゐるときがある。そんなときは、「ああ、これはモンティ・パイソンを見ながら編んだものだなあ」といふことがある。
かういふのは日時はあまり関係ない。
ゆゑに、どれを先に編んだのか時系列が曖昧になつたりする。
現在編んでゐる玉編みのスカーフとケーブル模様のヴェストとは、「あまちゃん」や「間違われちゃった男」の録画を見ながら編んでゐることが多い。
できあがつたあかつきには、「ああ、これを編んでたときは「あまちゃん」を見てゐたなあ」だとか、「「間違われちゃった男」なんて番組、あつたよなあ」と思ひ出すのであらう。
だからといつて、「あみものは記憶を編み込むもの」などと云ふつもりはない。
そんなことしたら、マダム・ドファルジュみたやうぢやん。
「二都物語」は好きな話だが、ただ一点、マダム・ドファルジュのあみものだけはいただけない。
ちかごろは知らず、この小説を読んであみものをする人にたいして「執念深く恨みの深い人」といふ印象をいだく人がゐるからだ。
だいたい米国の高校では一年生(四年制高校の二年生。sophomore)のときに「二都物語」を必修で読ませたりするところもあるくらゐだ。
全員が全員、全部読むとはかぎらないが、しかし、マダム・ドファルジュの印象は大きいだらう。
しかし、だとしたら、逆、だらうか。
復讐心だとか恨み節だとかを編み込むだけぢやなく、そのときそのときの記憶、見てゐた番組、読んでゐた本、聞いてゐた音楽、そんなやうなことを思ひ出すよすがになるものを編む。
さういへばいいのかもしれない。
あの夏はなかなか暑くならなくて、いつまでも羊毛の毛糸で編んでゐたよなあ、とか。
あの冬はじめて毛布を編んでみやうと思つて編んだんだつけ、とか。
日時の特定はできない、そんな記憶を思ひ出すきつかけになるものを編む。
それは悪くないやうな気がする。
でもやつぱり、「あみものは記憶を編み込むもの」などと云ふつもりはない。
恥づかしいぢやんよ、そんなの。
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