韻文だからぢやないんだよね
なんでだらうなあ。
ずつと考へてゐる。
答へが出てから書かうと思つてゐた。
しかし、どうやら出さうにない。
出会ひは、中学の国語の授業だつた。
杜甫の絶句だ。
ルイ・アームストログに、「この素晴らしき世界」といふ歌がある。
木々は緑で バラは赤くて まるでぼくらのために咲いてゐるやう そしてつぶやく「この世はなんてすばらしいのか」といふやうな歌詞だ。
杜甫の絶句はかうである。
川は碧で鳥はますます白く見え 山は青くて花は赤い
そつくりだ。
まるでおなじやうな風景を見て、「この素晴らしき世界」は、「みんな、「ごきげんいかが」と云ひながら、ほんとは「大好きだよ」と云つてゐるんだよ」てな感じである。
一方杜甫は、
今春看又過 何日是帰年と、落とす。
おなじやうな色鮮やかな自然を目にしながら、この違ひ。
「この素晴らしき世界」は、ヴェトナム戦争に嫌気のさしてゐた世相を反映して作られた歌だ、といふ話がある。
杜甫もまた安史の乱などで世情の不安定な時期にこの詩を作つたものと思はれる。
それでこの違ひだ。
流行歌と詩とではちがふ?
そんなことはないだらう。
流行歌だつて暗い世相をあらはした歌はいくらもあるし、詩だつて世の中の明るい面をさがして詠んだものもあらう。
でもまあ、中学生の当時はさうは思はなかつたんだらうな。
おなじこと見てるのに、このちがひははなに!
さう思つたわけだ。
これが、おなじ杜甫でも「春望」とか「登高」とかだつたらまたちがつたんぢやないかな。
あるいは李白の詩だつたら、かうはならなかつただらう。
「この素晴らしき世界」といふ歌があつて、そこに杜甫の絶句を知つた。
えうはさういふことなのだと思ふ。
と、理屈をつければつけるほど、「なんかそれも違ふのでは」といふ気がしてくる。
たとへば、上でも書いたけれど、漢詩には「落とす」といふ感覚のある詩がある。
いはゆる、オチがある詩だ。
オチといつたつて笑へるものばかりではない。
うつくしい風景を歌つておいて、「いつになつたら帰れるのか」と落とす。
これもオチだ。
音楽にしても映画にしても、オチのある作品に弱い。
マーラーの交響曲第六番のあれはオチだと思つてゐるし、「サロメ・ラストダンス」などのケン・ラッセルの映画はオチが強烈で気に入つてゐる。
絶句や律詩といつた形式の漢詩には、「起承転結」がある、と習ふ。
実際にさうなのか、と疑問をいだくこともあるが、「転」とか「結」とかで、「かうくるか!」といふものもある。
その後、友と別れる詩にぐつとくることが多く、また、酒にまつわる詩が多いのも気に入つた。
漢詩を読むやうになつたのはここ一年ばかりのことだ。
ゆゑに有名なものしか知らない。
中で李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」が気に入つてゐる。
黄鶴楼で孟浩然と別れ、あたりに咲き乱れた花々から孟浩然の乗つた舟、そして長江へと視点がうつつてゆくさまがいい。
また、詩全体の字面がいい。
漢詩は、ぱつと見たときの字の並び方で好き嫌ひがわかれるところがある。
杜甫はすきまがなさすぎるし、かといつて白居易はちよつと白すぎる、みたやうな。
さういふ、見てくれで判断できるのも楽しい。
漢詩を好むのは、漢詩が韻文かどうかといふこととは関係ない、といふことかな。
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