かけ聲問題
歌舞伎にかけ聲は必要だらうか。
我ながら、愚問だな。
かけ聲のない芝居はものたりない。
まれにそんなこともあつて、「今日は大向かうさんは来てないのかー」とちよつとがつかりしたりする。
「ぢやあここはひとつやつがれが」といふ気にはならないが。
とはいへ、やたらめつたらなかけ聲や、すつとんきやうな聲、間をはづした聲などは、御免かうむる。
芝居に集中できなくなるからだ。
現在あれこれ取沙汰されてゐるのは、さほど観劇歴の長いわけでもないのに、聲をかけはじめる人が多いからなのではあるまいか。
先日観劇マナーについて書いた。
このときに、かつての歌舞伎座の一階席で聲をかけてゐる、といふ人について記した。
おとな、それも、停年前後にはじめて芝居を見にくるやうになり、見やう見まねで聲をかけるやうになつたこの人には、おそらく芝居見物の経験がチト足りない。
また、一階席にゐるから、「かけ聲といふのはかういふものなんですよ」と教へてくれる人もまはりにはゐない。
芝居の本など読んではみても、「大向かうは三階席後方や幕見席からかけるもの」といふ一文に出会ふほどは読んでゐないか、出会つても読み飛ばしてしまつてゐるのだらう。
今後は、一階席や二階席から聲をかけるのもあり、といふ風になつていくのかもしれない。
もしかすると、桟敷席からかける人も出てくるかも。
イヤだな、そんな未来は。
聲はだれがかけてもいい。
さういふことにはなつてゐて、当然不文律もある。
女の人はかけてはいけない、などだ。
「いけない」といふことはないのかもしれないが、女聲のかけ聲を毛嫌ひする人は多い。
大向かうの会などでも、女の人は受け入れないのださうである。
聲はだれがかけてもいい。
さう云はれてゐて、しかし、そんなことを信じてゐる人はゐない。許してゐる人もゐない。
ゐるとしたら、それは調子つぱづれな聲をかけてゐる当の本人だけだらう。
いや、その本人だつて、自分は正しいことすばらしいことをしてゐる、と思つてゐるのかもしれない。
「だれがかけてもかまはないが、下手な人はやめてくれ」、と、自分のことを棚に上げて思つてゐる可能性は高い。
しかし、聲をかける側からすると、「最初のうちは下手でもしかたないだらう」といふことになる。
なにごとも、最初からうまくできるわけがない。
まれにはうまくできることがあつたり、うまくできる人がゐたりはする
大向かうといふことになると、それまで芝居を見続けてきて、「ここぞ」といふタイミングのわかつてゐる人などは、それほど問題なく聲をかけられることもあるだらう。
それでもやつぱり自分の思つてゐる間と、実際の間とはことなるだらうし、何度も聲をかけるうちに体得していくこともあるのぢやないか。
たとへば若い役者を育てるやうに、かけだしの大向かうを育てる、観客にはそんなことも求められてゐるのかもしれない。
ここでもうひとつ、「かけ聲とは、そんな、勉強するやうにしてかけるものなのだらうか」といふ疑問もある。
目のまへで、えも言はれぬみごとな芝居がくりひろげられてゐる。
ことにこの主役の役者、なんてまあいい節回し、いい男なんだらう。
感に堪へず、思はずその屋号を口にしてしまふ。
かけ聲の最初は、案外そんなことであつたらう。
ことに拍手の習慣のなかつた本邦では、聲をかける以外に感動を表現する方法がなかつたのではあるまいか。
などと考へながら、人間、ほんとにいいと思ふと拍手することも忘れちやふんだよなあ。
と、今月歌舞伎座第一部にかかる「俊寛」の幕切れの、あまりのすばらしさに拍手するタイミングを失つてしまつたやつがれは思ふのであつた。
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