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Friday, 28 June 2013

所詮人のやることだから

アジャイルソフトウェア開発を学ばうとする人のうち七割は、自社のアジャイルソフトウェア開発導入を阻止しやうと考へてゐる。

先日、職場でさう云つてゐる人がゐた。
情報元はアジャイルソフトウェア開発(以下「アジャイル」)を推進しやうといふ人なので、そんなに大げさな話ではないだらう。
その人が被害妄想でさう云ふてゐる、といふ可能性もないではない。
でもなんとなく、「あー、さういふこともあるだらうなあ」といふ気がした。

アジャイル、と書いて、「アジャイルなんなのか、はつきりしろ!」といふアジャイル原理主義者も多いんだよな。ここでは、漠然としたイメージで「アジャイル」といふことばを使ひたい。

リンク先をごらんいただければわかるが、アジャイルはそんなに新しいものといふわけではない。
検索をかけると、webでは少なくとも五六年前から取沙汰されてゐるやうである。
でも、古い方法でソフトウェア開発をつづけてきた人々にとつては、新たなもの、だ。
この場合の「新たなもの」は、「海のものとも山のものともつかないもの」と同義である。

世の中は、新たな方法の話題でもちきりで、どうやら流行してゐるらしい。
上層部の、わけのわかつてゐない人々が、いつ「うちの社も、アジャイルやらなきや」とか云ひ出すかわからない。

そのときに反論するために、まづは敵を知らう。
さうした孫子の兵法な心なのだらう。
さう推察する。

やつがれは「アジャイルつてなによ」ていどの知識しか持ち合はせてゐない。
webで検索かけて読んでみたところ、なるほど、確かにすぐれたものなのだらう、とは思ふ。
でもさー、所詮、人のやることぢやん。
さう思つちやふんだよなあ。

たとへば、ソフトウェア開発には、古くからウォーターフォール・モデルといふ開発モデルがある。
検索結果からみると、アジャイルと対比して語られることが多い。
そんな対比記事を読んでゐると、「結局、ウォーターフォール・モデルでうまくいかなかつた人は、アジャイルにしたからつてうまくいくわけないんぢやないの?」としか思へないのだ。

ソフトウェア開発には、大きくわけて、できたソフトウェアを使ふお客さんと、そのお客さんのためにソフトウェアの開発を発注するお客さんと、ソフトウェアを開発する人々がゐる。
アイスクリームを食べるお客さんと、アイスクリームを提供するお店と、アイスクリームやコーンを作る会社がある、といつたところだらうか。

食べるお客さんはこんなものを食べてみたいなあ、と思ふ。
お店はそんなお客さんのきもちを汲んで、「こんな味のアイスクリーム、できないかなあ」と、会社に開発を依頼する。
会社はそれを受けて、牛乳や砂糖、その他香料の配合を考へて新たな製品を作る。

このときに、お店はお客さんの要求をよく理解してゐないといけないし、会社にその結果をきちんと伝へないといけない。
会社は、お店のいふことをきちんと理解して、それを実現する技術が必要になる。

ウォーターフォール・モデルだと、まづはお店が「こんなやうな味のアイスクリームがほしい」と、会社に伝へる。
会社はその要望から必要な材料とその量を割り出して、アイスクリームを作る。作つたら、お店に納品、といふ流れになる。

この方法だと、納品時にならないと、どんな味のアイスクリームができたのか、お店にはわからない。

アジャイルの場合は、まづはお店が「こんなやうな味のアイスクリームがほしい」と会社に伝へるところまでは多分おなじだ。
たとへば「ココナッツ味ベースのチョコレートアイスクリームがほしい」みたやうな要望だつたとしやう。「トッピングにはクラッシュナッツをすすめたい」といふ要望もあるとする。
会社は、「いきなりココナッツ味ベースでチョコレートのアイスクリームを作るのはむづかしいから、まづはココナッツ味ベースがどれくらゐのココナッツ味がきめませう」とお店と話し合ふ。
で、一定の期間でココナッツ味ベースのアイスクリームを作つて、店に味を試してもらふ。
それでよしとなつたら、それはそこまで。
お店が「もーちよつとなんとかしてほしーなー」と思つたら、それを会社に伝へる。
会社は、その意見を取り込んで、アイスクリームの味を改良する。
作つて試してもらふ、を、一週間とか二週間といつた期間で何度か回す。
#会社の中ではもつといろんなことをするんだらうが。
#と、書いておかないと、原理主義者が、な。

といふ具合にいくんぢやないかな。

かうすると、いきなり「この味のアイスクリーム」といふことにはならない。
要所要所でお店は味見ができる。
あるていど製品ができあがつてくれば、お客さんに試してもらふこともできるだらう。

このとき、会社に必要なのは、アイスクリームを作る技術だけではない。
お店の依頼を読み取り、理解することも技術と同様に必要になる。もしかすると、技術よりもお店の糸を読み取る力の方が重要かもしれない。
つまり、コミュニケーション能力が必要になつてくる。

それは、ウォーターフォール・モデルだらうがアジャイルだらうが、かはらない。
アイスクリームの例では、アジャイルの方がよささうに見える。
でも、ウォーターフォール・モデルだつて、根つこのところはおなじなのだ。

おそらく、アジャイルを推進しやうといふ人はそこんとこを理解してゐる。
でも、「流行してゐるやうだから」とか「乗り遅れないやうにしなきや」とか考へてゐる人は、そこんとこ、理解してないんぢやないかなあ。

ま、最初に出した噂が正しいとするならば、Web上でアジャイルに関する記事へのアクセスが多いとしても、必ずしも人気があるからといふわけではなささうだけどね。

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Thursday, 27 June 2013

韻文だからぢやないんだよね

韻文が苦手なのに、なぜ漢詩は読むのか。

なんでだらうなあ。
ずつと考へてゐる。

答へが出てから書かうと思つてゐた。
しかし、どうやら出さうにない。

出会ひは、中学の国語の授業だつた。
杜甫の絶句だ。

ルイ・アームストログに、「この素晴らしき世界」といふ歌がある。

木々は緑で バラは赤くて まるでぼくらのために咲いてゐるやう そしてつぶやく「この世はなんてすばらしいのか」
といふやうな歌詞だ。

杜甫の絶句はかうである。

川は碧で鳥はますます白く見え 山は青くて花は赤い

そつくりだ。
まるでおなじやうな風景を見て、「この素晴らしき世界」は、「みんな、「ごきげんいかが」と云ひながら、ほんとは「大好きだよ」と云つてゐるんだよ」てな感じである。
一方杜甫は、

今春看又過 何日是帰年
と、落とす。

おなじやうな色鮮やかな自然を目にしながら、この違ひ。

「この素晴らしき世界」は、ヴェトナム戦争に嫌気のさしてゐた世相を反映して作られた歌だ、といふ話がある。
杜甫もまた安史の乱などで世情の不安定な時期にこの詩を作つたものと思はれる。

それでこの違ひだ。

流行歌と詩とではちがふ?
そんなことはないだらう。
流行歌だつて暗い世相をあらはした歌はいくらもあるし、詩だつて世の中の明るい面をさがして詠んだものもあらう。

でもまあ、中学生の当時はさうは思はなかつたんだらうな。
おなじこと見てるのに、このちがひははなに!
さう思つたわけだ。

これが、おなじ杜甫でも「春望」とか「登高」とかだつたらまたちがつたんぢやないかな。
あるいは李白の詩だつたら、かうはならなかつただらう。

「この素晴らしき世界」といふ歌があつて、そこに杜甫の絶句を知つた。
えうはさういふことなのだと思ふ。

と、理屈をつければつけるほど、「なんかそれも違ふのでは」といふ気がしてくる。

たとへば、上でも書いたけれど、漢詩には「落とす」といふ感覚のある詩がある。
いはゆる、オチがある詩だ。
オチといつたつて笑へるものばかりではない。
うつくしい風景を歌つておいて、「いつになつたら帰れるのか」と落とす。
これもオチだ。

音楽にしても映画にしても、オチのある作品に弱い。
マーラーの交響曲第六番のあれはオチだと思つてゐるし、「サロメ・ラストダンス」などのケン・ラッセルの映画はオチが強烈で気に入つてゐる。

絶句や律詩といつた形式の漢詩には、「起承転結」がある、と習ふ。
実際にさうなのか、と疑問をいだくこともあるが、「転」とか「結」とかで、「かうくるか!」といふものもある。

その後、友と別れる詩にぐつとくることが多く、また、酒にまつわる詩が多いのも気に入つた。
漢詩を読むやうになつたのはここ一年ばかりのことだ。
ゆゑに有名なものしか知らない。
中で李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」が気に入つてゐる。
黄鶴楼で孟浩然と別れ、あたりに咲き乱れた花々から孟浩然の乗つた舟、そして長江へと視点がうつつてゆくさまがいい。
また、詩全体の字面がいい。

漢詩は、ぱつと見たときの字の並び方で好き嫌ひがわかれるところがある。
杜甫はすきまがなさすぎるし、かといつて白居易はちよつと白すぎる、みたやうな。
さういふ、見てくれで判断できるのも楽しい。

漢詩を好むのは、漢詩が韻文かどうかといふこととは関係ない、といふことかな。

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Wednesday, 26 June 2013

詩情に乏しき歌ぞ詠みける

散文的、といふことばには、いい意味がない。

本来は、「韻文的」に対することばであつたらう。
韻文のやう、に対する、散文のやう、と意味のはずだ。

「韻文的」とは、云はないがね。
韻文には「これ!」といふきまつた形がある。
ゆゑに、「的」とかいふ曖昧なことばをくつつけると妙な感じがするのだらう。
散文には、きまつた形がない。
ゆゑに、「的」とかいふ「それつぽい」といふやうなことばをくつつけてもはまるのだ。

自分は「散文的」な人間だ、と思つてゐる。
辞書の第二義にある「詩情にとぼしく、無趣味でおもしろくないさま」といふ意味もふくめて、さう思ふ。

読む方も書く方も「散文的」だ。
昔からさうだ。
韻文は苦手である。
ほとんど読んだことはない。
一度は「詩集を読む」ことにあこがれて、読んでみたこともあるけれど、ピンとこなかつた。小学生のときの話である。

小学生だから韻文のよさがわからなかつたのか。
年齢は関係あるまい。
やつがれには韻文は向かない。
あるいは、読んだのが翻訳された詩だつたのがよくなかつたのかもしれない。
翻訳すると、韻文の韻文らしさが失はれるからだ。
がんばつてる翻訳もあるけどね。

書く方もからきしだ。
ほんたうは、和歌とか書いてみたい。
枡野浩一の提唱するやうな短歌ではなくて、山本夏彦が「正岡子規のせゐで書く習慣を奪はれてしまつた」といふ、そんな短歌を作つてみたい。
山本夏彦によると、昔の人は折りに触れ、三十一文字でその日の感想などを書いてゐた、といふ。日記の最後に一行、短歌を書き入れる。そんな感じで、老いも若きも、男も女も、学校に通つてゐやうがなからうが、つまり、教養があらうがなからうが、さうしてゐた、といふのだ。
さういふ短歌だから、べつにおもしろいものではない。
どちらかといふと、韻文だといふのに、極めて散文的な内容のものばかりではあつたらう。
 桜散り掃き清めたる庭を見し君の姿も一昨年の夢
とかなんとか、「そんなのわざわざ三十一文字」にすることないだらう、といふやうな、そんな歌が多い。さうさう、伊藤園のお茶のペットボトルにはりつけられてゐる俳句とも呼べぬ俳句のやうな、そんな歌が多かつたらうと思ふ。

でも、それでいいと思ふんだよね。
つばめが飛んでゐる。
ああ、今年もやつてきたんだなあ。
そんな気持ちを歌にしてみる。
 つばくらめ飛び交ふさまをひとり見て去年は隣にゐた人思ふ
とか、そんなんでいいぢやん。
たれに見せるわけでもない。
オリジナリティ? どうでもいいぢやん。
個性よりも、本歌取りとかなんとか、さういふ方が重要だと思ふがなあ。
#上の歌が本歌取りをしてゐる、といふわけではない。念のため。

どんなにつまらなくても、五七五七七にことばをつめこんでみる。
さうやつて、和歌は連綿と受け継がれてきたのだらう。
さう思ふがなあ。

短歌で生きていきたい、とか、歌人になりたい、といふ人は別だ。
でも、さういふ気がないのなら、見やう見まねの、下手くそで、つまらない、そんな歌を詠んでもいいぢやあないか。
むしろ、どんどん詠めばいいのに。
さう思ふ。

さう思ふなら、やつてみろ。
心の聲はさう云ふが。
うーん、それはどーだろーかー。
と、散文的な人は戸惑ふ。

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Tuesday, 25 June 2013

白いレース糸のドイリーなんて

ドイリーは使ひ道がない。

何度か書いてゐるが、つねづねさう思つてゐる。

部屋の感じも、ドイリーが似合ふとはとてもいへないやうな状態だ。
ドイリーは、もともとは皿と皿のあひだに敷いて、傷がつくのをふせぐ役割をしてゐたものだといふ。
しかし、そんな、傷ついて困るやうな食器など持つてゐない。

えうは、ドイリーに必要性を覚えることがない。

それでも、時折くるほしいほどに作りたくなるんだよなあ。
かぎ針編みやタティングレースのドイリーを。

ここのところ、ずつと濃い色のレース糸でタティングしてゐる。
おりがみの牡丹色を暗くしたやうな、きれいな色の糸だ。
その前はピンクと茶色の段染め糸を使つてゐた。

タティングレースをしてゐる人のblogをいくつも見る。
やはり、いろんな色でタティングを楽しんでゐる人が多い。
さういふ目で見るからかもしれないが、なかにははつきりと「白や生成りの糸で作るのはつまらない」と云ひきる人もゐる。

白や生成りの糸はつまらない。
なぜなら、「レース糸つてさういふものでせう」といふ先入観があるからだ。
思へば、手元にあるかぎ針のレース編みの本は、白い糸で編んだ作品しか載せてゐないことが多い。
あつても生成り、まれに黒、といつた具合で、一冊まるごと白い糸で編んだものばかりといふ本もある。

いつごろから白以外の色で編んだ作品を載せた本が増えはじめたのだらうか。
初心者向けの本がたくさん出版されるやうになつてからかな、といふ気もする。
ウェアものやこものの本が増えたからかも、といふ気もする。

白や生成りの糸はつまらない。
さう思ひつつも、これまた時折くるほしいほど白や生成りの糸で編みたくなつてくる。

なぜといつて、白いレース糸で作つた作品はいかにも「レース」といふ気分を満足させてくれるからだ。
これはドイリーも同様。
ドイリーを完成させると、「レース心」が満たされるんだよね。
「おおー、レースものを作つたぜ」といふ満ち足りた気分を得ることができる。

とくに、ここのところのやうにレース作品にはちよつと派手な色を使つてゐたり、「なぜこんな色合ひの糸を使ふかなあ」と我ながら首を傾げるやうな糸を使つてゐたりするとなほさらだ。
また、ここのところタティングレースではなにも仕上げてゐないしね。

昨日も書いた「達成感」と「レース心」との両方を満たすもの。
それが、白い糸で作るドイリーなのだ。

といふか、そのはずである。
なぜなら作りはじめてもゐないので、断言できないんだな。

ここのところ出版されたタティングレースの本は、ものすごい大作ばかり載せてゐるか、ちいさく可愛いものばかり載せてゐるか、両極端である。
藤重すみの本が、その中間を埋めてゐるやうな感じはする。でも、ドイリーとして作りたい作品はなかつたんだなあ、少なくともこの週末の気分では。

モチーフつなぎではなく、一段一段作る感じで(スプリットリングで次の段にうつるのはあり)、白い糸でドイリーを作りたい。

しかし、考へてみたら、白い糸も手元にはなささうなのであつた。

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Monday, 24 June 2013

達成感を求めて

あみものはほとんど進んでゐない。

ほぼ毎日なにかしら編んではゐる。
たいていは、「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐるH玉編み模様のスカーフをせつせと編んでゐる。さういや先週はSケーブル模様のジレは全然編んでないなあ。

先週もちらつと書いたけれど、かぎ針編みの方がぱつと手にとつてさつと編みやすいからだらう。
また、ジレ(とは本の表記。やつがれは「ヴェスト」だと思つてゐる)の方はハマナカのフラックスKなので、同じくハマナカのポーム<無垢綿>のレース糸を使つてゐるスカーフよりは、編んだときに進みやすい、といふのもある。
それにスカーフの方を先に編みはじめてゐるしね。
それでどこかで「先に仕上げなければ」と思つてゐる部分があるのらしい。

この週末は、スカーフはせめて三玉めに入らうと思つてゐた。
このスカーフは、本ではポームのレース糸を四玉使ふ。
といふことはまだ半分も編めてゐないといふことだ。
先月の半ばから編みはじめて、まだ半分も編めてゐないなんて。
さう考へると、あせりが生まれる。
まだほかに編みたいものもあるのに。
すくなくとも、手はつけてゐるもののヴェスト用の糸は買つてしまつた。
ほかにも編みたいものはあるし、タティングレースだつてしたい。

そんなわけで、昨日も先週分の「あまちゃん」や「間違われちゃった男」、「押忍!! ふんどし部!」などの録画を見ながらせつせと編んでゐたのだが。
進まないのである。
だいぶスムースに編めるやうになつてきた、といふことは以前書いた。
編みはじめは大変だつた。
こんなに編めなくて、ほんたうに仕上がるのだらうか、と不安になるほどだつた。
編んでゐるうちに手が慣れてきて、しかし、「ほんたうに仕上がるのだらうか」といふ不安だけはそのまま残つた。

おなじ本から、リネンのストールを編んだときもさうだつた。
ハマナカのフラックスSは、夏糸とは思へぬ編みやすさだつたけれど、なぜか全然進まなかつた。
おもてにもうらにも模様があるからだらう。
当時はさう考へてゐた。

それはそのとほりだと思ふ。
でも、夏糸・夏もので一番たいせつなことを忘れてゐる。

夏糸で編むと、時間がかかる。

これだ。

こんなこと、敢て書くまでもなく、あみものをする人なら折りにふれ体感してゐることだらう。
すまぬ。

フラックスKはフラックスSに比べて棒針で編んでゐるときは撚りがほどけてきて編みづらいし、ポームのレース糸はなにを云つても細い。
進まなくて当然。
さう考へるべきだ。

しかし、なあ。
わかつてはゐても、この、「進まぬ」といふ焦りはどうにもしやうがない。
頭では理解してゐても、納得はできない。

週末のあみものには、心のどこかで「達成感」を求めてゐる。
できれば編み切つてしまひたい。
それができなくても、きりのいいところまで編んでしまひたい。

どうしやうもなく強い「達成感」への渇望が、焦りを生んでゐる。

達成感など、求めなければいい。
達成感がほしかつたら、とりあへずくつ下でも編めばいい。
あるいはタティングレースの栞でも作ればいい。

しかし、現在編んでゐるものがなかなか進まない状況で、ほかのものに手をつけると、「このなかなか進まないものは仕上がらないのでは」といふ別の不安にかられることになる。

むー。
うまくいかんのう。

達成感は求めなければいいのだ。
求めるのなら、もつと早く編みあがるものを編めばいい。

わかつちやゐるんだがね。

ユニオンウールでセールをやつてゐたりして、とても気になつてゐる。
毎年この時期はパピーの海島綿がとても気になる。
これといつて編みたいものがあるわけではない。
ただ、あの糸がなんだか好きなのだ。
もう久しく買つたことはないけれど。

でも、いまのこの、「なにもかも進まない」状況ではなあ。
今年も見送るしかないか。

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Friday, 21 June 2013

「おばさん」でなにが悪い

「菅原伝授手習鑑」といふ浄瑠璃に「寺子屋」といふ有名な段がある。
そのまへに、「寺入り」と呼ばれる場面が一緒に上演されることがある。
ここで、松王丸の妻・千代が、ひとりの寺子にむかつてみづからのことを「をば」といふ。

「心中天網島」といふ浄瑠璃の「河庄」では、丁稚三五郎がうつくしい遊女小春を「をばさん」と呼ぶ。

「源平布引滝」の「実盛物語」では、斎藤別当実盛が、太郎吉にむかつてみづからのことを「をぢ」といふ。

かうしてみると、「をぢさん」「をばさん」といふことばは、けつしてnegativeな意味をもつものではなかつたやうに思はれる。
「をぢさん」「をばさん」が忌み嫌はれるやうになつたのはいつからなのだらう。

二十代最後のころだつたらうか、同窓会めいた催しに、子連れで参加した友人がゐた。
その友人の子が、別の友人を「をばさん」と呼んだとき、呼ばれた友人は返事をしてから「おねえさん、ね」とちいさな聲で訂正してゐた。

甥や姪から「おねえちやん」と呼ばれてゐる人がゐる。
なんでも、義弟の姉といふ人が、「おばさん」と呼ばれるのをいやがつてゐて、あちらが「おねえちやん」ならこちらも「おねえちやん」だらう、といふことなのだ、といふ話だつた。

をかしい。
呼ばれ方なのだから、どうあつてもかまはない。
伯父さんや叔母さんを「おにいさん」「おねえさん」と呼ばうが、それは各自の勝手だらう。

だが、「をぢさん」「をばさん」といふことばを封じられて、「ぢやあなんてaddressすればいいんだよ!」と、困ることはないだらうか。
「をぢさん」「をばさん」と呼びかけると失礼になるといふのなら、なにか代はりを用意しろよ。
さう思ふことが多い。

日本語では代名詞をあまり使はなくてもなんとかなつたりする。
つまり、相手に呼びかけなくても会話が成立したりする。
したがつて、相手を「をぢさん」「をばさん」などと呼ばなくても、あるいはみづからのことを「をぢ」だの「をば」だのと云はなくても、問題のない場面は多い。
でも、いざといふ段になつて、いま目の前にゐる人を「をぢさん」と呼ぶ訳にもいかないし、「あなた」は妙だし、なんと呼んでいいのかわからない、といふ経験をしたことのある人は多いはずだ。
それとも「をぢさん」といふことばはすでに人々の中で忌み語になつてゐて、そんな風に悩むことはないのだらうか。

「あなた」だつてかなり無礼な感じがするがなあ。

三代目の実川延若が東京に出て来たとき、若い役者から「をぢさん」と呼ばれて最初だれのことを言つてゐるのかわからなかつた、といふ。
上方の役者の世界では、どんなに相手が年長でえらくても、「にいさん」と呼ぶことになつてゐたからだ。
東京では、いまはどうだかわからないけれど、年齢や名前によつて、「にいさん」「をぢさん」と呼び分けてゐるやうに思ふ。

冒頭にあげたお浄瑠璃はすべて上方発のお浄瑠璃である。
といふことは、「をぢさん」「をばさん」は、必ずしもneutralな意味をもつものではなかつた、といふことか。
それとも、すくなくとも近松門左衛門の時代までは問題なかつたけれど、その後negativeな意味をもつやうになつてきたのだらうか。
上にも書いたが、「河庄」で丁稚三五郎が小春のことを「をばさん」と呼ぶ、そのたびに違和感を覚える。
小春が「をばさん」? ちがふだらう。

みづからを「をぢ」「をば」と呼ぶやうにすれば、この違和感も消へるだらうか。

などといふやうなことを、SoftBankのキャンペーンページを見ながら、ぼんやりと考へてゐる。

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Thursday, 20 June 2013

そんなことして、なんになる

先日、漢詩紀行100選のDVDのことを書いた。
その後、第十巻も買つてしまつた。
全十巻セットでなら見かけるのだが、とは、前回も書いた。
バラ売りにはなかなか出会ふことはなささうだ。
今後、ほかの巻を購入することもないだらう。

去年の秋、「漢文法基礎」といふ本を読んだ。
大学受験用とのことだが、いまどきの受験に漢文の出題率なんてたかが知れてゐる。センター試験には出題されるだらうが、それ以外はどうだらうか。個々の大学の試験にはほとんど出てこないのではあるまいか。
そんなもののために、こんな分厚い本、読むか?
amazonで見るかぎり、読んでる人は多さうだけどな。
でもちよつと疑問だ。
本自体はとてもおもしろかつたんだけれどもね。
漢文にかぎらず、ことばつてかういふものなのか、とか、言語を習得するつてさういふことなのね、とか、さういふ部分に興味を惹かれた。

最近、見るもの読むもの聞くもの全部上記二点と似たりよつたりなので、いま「漢文法基礎」を読みなほしたら、もつと頭に入るのではないだらうか。
さう思つた。

さう思つて、手に取つてゐないのは、実は腐海のなかから探し出せてゐない、といふ物理的な情けない理由があるのだが。

読みたいのだつたら探し出せばいい。
ついこの前もちらつと視界をかすめたのだから、ちよつと積み上げられた本の山をくづせば、出てくるはずである。

なぜさうしないのか。
めんどくさい、といふのが一番大きな理由ではある。

それに、「そんなことして、なんになる」とも思つてしまふ。

そんなことして、なんになる。
いまどき「漢文法」でもないだらう。
今後、役に立つことはない。
だいたい、漢文が読めたからつて、中国語ができるやうになるわけでもわかるやうになるわけでもない。
「源氏物語」を読めるやうになつたからといつて、現代の日本人と会話ができるか。
さう考へれば、自明の理だ。
そもそも、いまの中国語を理解するには、すくなくとも大陸の人と意思を疎通するには、簡体字といふ障壁があるしね。
それ以上に、当時の書き方といまの喋りことばとの乖離は大きいと聞く。
時代がはなれてゐなくても、書きことばと話しことばとが異なるのは、至極当然のことではある。

役に立たないのだから、やつても仕方がない。

さう思つたら、やつてみるべきだ。

どうやら世の中といふのは、さういふものらしい。

「そんなことしても役に立たないよ」とか、「あとでやるよ」とか、「ほかにやることがたくさんあるんだよ」などと、自分の中で云ひ訳をはじめたら、それは実行するに値することである。

めんどくさがりのやつがれにとつては、これほどめんどくさいこともない。
でも、これつて、部屋の掃除などにもあてはまるのだ。
部屋の掃除は役に立たないことはないが、「あとでやる」とか「いまほかにしなきやいけないことがある」とかで、どんどん先送りになりがちだつたりする。
「いまほかにしなきやいけないことがある」は、もしかするとほんたうのことなのかもしれない。
だが、実際は、部屋の掃除こそいままさにしなければならないこと、すべきこと、いまやればほかの「しなければならないこと」がはかどることだつたりするわけだ。

と、ここまでわかつてゐるんだがなあ。
ブックタワーをくづすのがめんどくさい。
うーん、題名を呼んだら出て来てくれるといいのに。

そして、「どうせ役に立たないんだからさ」と、葡萄をあきらめるキツネのやうなことを思つたりするのだつた。

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Wednesday, 19 June 2013

いやよいやよも好きのうち

SmythsonのWebショップは現在Sale中である。
いけない、とは思ひつつ、パナマをまた注文してしまつた。
これ以上増やしてどうする。

ところで最近使つてゐるのは、GMUNDのノートである。
使ひはじめるときにちよこつと書いた。
このときに、罫線がチト変はつてゐて、世に「フランス風」といふらしい、といふやうなことも書いた。

こんな罫線である。

GMUND

フランス製のノートも使つたことはあるが、この罫線ははじめてだ。
こまかすぎてうるさいよ、とも思ふが、二行を一行に使ふと、これが案外ちやうどいい。
やつたことはないけれど、アウトラインを書くときにもいいんぢやないかな。縦の線をうまく使ふと、中点を入れるのにも役立つんぢやないかと思ふ。

GMUNDのノートの紙は、厚い。すでに先達の書いてくれてゐるとほりである。
ざらつとした感触で、インキフローのしぶい細字や極細の萬年筆とは合はない。そんなペンを結構使つてゐたのだが、このノートにしてからは意識して使ふやうにしないと筆入の中に入れたままになつてしまふ。

前回も書いたとほり、ペン先と紙との摩擦音が苦手なので、このノートはあはないかなあ、と思つてゐたが、どうしてどうして、案外楽しく使つてゐる。
案外楽しく使つてゐて、ぢやあ次も使ふか、といふと、ちよつと考へてしまふ。
そんな感じだ。

それで、Smythsonのパナマを増やしてしまつた、といふのもあるわけだが。

しかし、なんといふか、使へば使ふほど、「なんか、このノート、いいかも」といふ感じなのだ。
いろいろ苦手な点も目につくにも関はらず、である。

苦手な点はいくらもある。
まづ紙がざらりとしてゐる、といふのがひとつ。
文庫本サイズでありながら、結構かさばるといふのがひとつ。
パイロットデシモの極細を使へなくなつてしまつたので、出先でぱつと取り出してぱつと書く、をしづらくなつてしまつたといふのがひとつ。

苦手な点はいろぃろあるのに、最近このノートを取り出してちよこちよこ書き込む機会が増えてゐる。
ひとつには、気分の問題なんだらうなといふ気がしてゐる。
書きたい気分のときなのだ。
ときどき、さういふことがある。
意味もなくなにか書きたい。
さういふ時期にあたつてゐるのだらう。

もうひとつは、Moleskineを使つてゐたときには活躍の場のかぎられてゐたペンを遠慮なく使へることがあげられる。
前回もちらつと書いたが、マイスターシュテック146の中字とか、ドルチェヴィータの細字とか、これまで二軍に甘んじてゐたペンをメインに据ゑて使ふてゐる。またこの二本がGMUNDとあふんだなあ、自分の好み的に。

また、ノート自体の佇まひもいい。
かさばる、と書いたけれど、裏返せばしつかりした作り、といふことだ。
ハードカヴァで、かばんにはふりこんであちこち持ち歩いて、しよつ中閉ぢたり開いたりしても、まつたくへたるやうすがない。きつちりかつちりしつかりしてゐる。
表紙の模様が木目調型押しの落ち着いたもの、といふのもいい。見てゐて楽しい。
使ひこめば使ひこむほど(といふほど使つてはゐないが)、いい点好きな点に目がいくやうになる。

これを使ひきつたら、新しいGMUNDのノートを買ふ、かなあ。

ときどきそんなことを考へてしまふほどだ。

現在使用してゐる紙はサンド系だが、もと白つぽい紙もあるといふし、無地のノートも使つてみたい気もする。
GMUNDのノートなら、メルシーポイントを使ふことも可能だし、そのうち増やしてるかもしれない。
そんな気がする。

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Tuesday, 18 June 2013

証拠を集めろ

出遅れてしまつた。
近所の本屋にすてきにハンドメイドのテキストがない。

かつてこんなことがあつたらうか。
すてきにハンドメイドのテキストは、たいてい、その月のうちは手藝系雑誌の棚にならんでゐるものだ。翌月のテキストが出ても、だ。
さういふものではなかつたらうか。
それとも、それは語学講座のテキストの場合かなあ。

語学講座のテキストは、その月のうちでなくなることがある。
たとへば、四月用のテキストに顕著だ。
一昨年の三月のことだ。TV語学講座のスペイン語のテキストだけ、見当たらないといふことがあつた。
ふしぎに思つてゐたら、有楽町の三省堂書店でほかの言語のテキストの山にかくれて、ほんのわづか、ほんたうに谷間の底の底にのこつてゐるのを見かけることがあつた。
表紙が今井翼だつた。

あと、これもまたふしぎなことに、ドイツ語だけない、といふことがある。
中国語やハングル語、フランス語ならなんとなくわからないことはないのだけれど、なぜドイツ語。
いろいろ悩んで、そのあたりの大学に通ふ学生にドイツ語を履修する人が多い、といふことだらうか、と考へるにいたつた。正しいかどうかはさだかではない。

語学講座テキストにくらべると、すてきにハンドメイドのテキストはそんなに熱心に追つたことはないからなあ。
もしかしたら、いまごろは見つからないものなのかも?
さう思はないでもない。

きようの料理はあるんだがなあ。
きようの料理ビギナーズもならんでゐる。
なぜすてきにハンドメイドはないのだらう。

内容を見ると、「はじめてさんのハンドメイドレッスン」と銘打つて、キャシー中島のキルト、手縫ひのブラウス、ハンカチと枕カヴァへバラの刺繍、ニットといひながらかぎ針編みのがま口、そして、タティングレースの栞、が並んでゐる。

うーん、売り切れさうな要素は、やつがれ的にはないんだがなあ。

かうなつてくると、贔屓目ではあるが、やはりタティングレースは人気があるのだらうか、と、思はざるを得ない。

キャシー中島のキルトはおしやれ工房の昔から安定した人気がある。
もしかしたら刺繍が人気があるのかなあ、といふ気もしないではない。ここしばらくよく刺繍の本を見かけるやうになつたし、なぜかAmazonから刺繍の本をすすめられたりすることもある。

それで売り切れてしまつたのだらうか。
あるいは「はじめてさん」といふのが殺し文句だつたのかなあ。

なんてなことを、本屋一軒に行つただけで考へてしまふ。
大げさなことである。
せめて、もう一軒くらゐ見てから云へよつてな話だ。
いや、もう一軒くらゐぢやあ足りない。
すくなくとも異なる駅、できれば異なる路線の駅周辺の書店数軒で確認すべきだらう。

なかなかいろんな路線の電車に乗つてみるなんてなこともできないので、ちよつとTwitterで検索をかけてみると、「すてきにハンドメイド再入荷しました」なんてな本屋のつぶやきがひつかかつてきたりする。

さうか、再入荷するほど、人気があるのか。
しかも、バラの刺繍は青木和子なのか。
刺繍に関してはまつたくの門外漢のやつがれだが、青木和子は知つてゐる。図案が気に入つて、刺さないくせに買つた本もあるくらゐだ。
どうやらいろんな要素があるやうだ。

と、ここまで考へて、それでもまだ足りないことがある。
たとへば、すてきにハンドメイドのテキストの再入荷だ。
今月号だけでなくて、比較的毎号さういふことがあるのかもしれない。
Twitter検索だとそこまでは追ひきれない。
また、つぶやいてゐる書店といふのもかぎられてゐる。
さう考へると、たまたま現在のタイムラインの流れの中でひつかかつてきた情報のうち、やつがれの目にとまつたものがさうだ、といふだけのこと、と考へるのが吉とみえる。

めんどくさい?
証拠集め、証拠かためつてのは、えてしてこんなもんだ。
自分の周囲にちらばつてゐる情報だけ見てゐては、判断をあやまることになる。

それでも、よく通ふ本屋でいつもとちがふ状況が待ち受けてゐる、といふのは、結構大きいことだとは思ふがね。

そんなわけで、今日は別の本屋を見に行かうかと思つてゐる。
はたしてやつがれは今月号のすてきにハンドメイドのテキストに巡り会ふことができるのだらうか。

それは次回の講釈で。

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Monday, 17 June 2013

マダム・ドファルジュにならないために

あひかはらず「風工房のシンプル夏ニット、こもの」からH玉編み模様のスカーフとSケーブル模様のジレを編んでゐる。

どちらかといふと、玉編み模様のスカーフを編んでゐるときの方が多いかな。
かぎ針編みの方がぱつと手にとつてさつと編みやすい。
そんな気がする。
玉編み模様のスカーフはまだ二玉目のままだけどな。
ケーブル模様のジレ(やつがれはヴェストと思ひながら編んでゐるが)の方は三玉目に入つた。
この違ひは、単に糸の違ひだらう。
ジレの方はハマナカのフラックスKを5号針で編んでゐるが、スカーフの方はおなじくハマナカのポーム無垢綿のレースをNo.0針で編んでゐる。
それゆゑかと思ふ。

ところで、やつがれは編むときにほかのことをせずにはゐられない。
なにかひとつだけやることができない、とでも云ふべきか。

たとへば、以前「SHERLOCK」を見るためにショールを編みはじめたといふエントリを書いた。
SHERLOCK」は一話90分。NHKで放映するから途中にCMは入らない。
その間、なにもせずに画面を見つめてゐるのか。

それはできない。

さう思つた。

このとき編みはじめたショールは、まだできあがつてゐない。
伏せ止めに入つたところで、とまつてゐる。
ショール、ことに円形ショールは、中心から編みはじめるときはいいが、伏せ止めをするのが実に難儀である。PI Shawlで学んだはずだつたんだがなあ。
もう暑くなつてきてしまつたから、終はらせるにしても、涼しくなつてからだらう。
そのときに、「SHERLOCK」でも放映してゐれば御の字なんだがなあ。

「SHERLOCK」については、衛星放送を見られる環境にないので、まだシーズン1しか録画できてゐない。シーズン2は借りて見た。地上波ではシーズン2はまだ、といふことを考へると、シーズン3が放映されたとしても、見ることができるのはずつと先のことだらう。

といふことは、なにか別の物を見ながら編むんだらうな。

こんな感じで、たいていはなにかを見ながら編んでゐる。
そんなわけで、編み上がつたものを見ては、「ああ、これはあれを見てゐたときに編んだなあ」と思ひ出すことが多い。
ときどき、「空飛ぶモンティ・パイソン」にはまりまくつてそればつかり見てゐるときがある。そんなときは、「ああ、これはモンティ・パイソンを見ながら編んだものだなあ」といふことがある。
かういふのは日時はあまり関係ない。
ゆゑに、どれを先に編んだのか時系列が曖昧になつたりする。

現在編んでゐる玉編みのスカーフとケーブル模様のヴェストとは、「あまちゃん」や「間違われちゃった男」の録画を見ながら編んでゐることが多い。

できあがつたあかつきには、「ああ、これを編んでたときは「あまちゃん」を見てゐたなあ」だとか、「「間違われちゃった男」なんて番組、あつたよなあ」と思ひ出すのであらう。

だからといつて、「あみものは記憶を編み込むもの」などと云ふつもりはない。
そんなことしたら、マダム・ドファルジュみたやうぢやん。
二都物語」は好きな話だが、ただ一点、マダム・ドファルジュのあみものだけはいただけない。
ちかごろは知らず、この小説を読んであみものをする人にたいして「執念深く恨みの深い人」といふ印象をいだく人がゐるからだ。
だいたい米国の高校では一年生(四年制高校の二年生。sophomore)のときに「二都物語」を必修で読ませたりするところもあるくらゐだ。
全員が全員、全部読むとはかぎらないが、しかし、マダム・ドファルジュの印象は大きいだらう。

しかし、だとしたら、逆、だらうか。
復讐心だとか恨み節だとかを編み込むだけぢやなく、そのときそのときの記憶、見てゐた番組、読んでゐた本、聞いてゐた音楽、そんなやうなことを思ひ出すよすがになるものを編む。
さういへばいいのかもしれない。
あの夏はなかなか暑くならなくて、いつまでも羊毛の毛糸で編んでゐたよなあ、とか。
あの冬はじめて毛布を編んでみやうと思つて編んだんだつけ、とか。
日時の特定はできない、そんな記憶を思ひ出すきつかけになるものを編む。
それは悪くないやうな気がする。

でもやつぱり、「あみものは記憶を編み込むもの」などと云ふつもりはない。
恥づかしいぢやんよ、そんなの。

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Friday, 14 June 2013

占ひあたらない

かつて動物占ひがはやつたことがある。
あたる、といふ話だつた。
調べてみたら、結果はこんな感じ。

即断即決。
動作キビキビ。
超プラス志向でうしろ向きな発言を嫌ふ。

それはいつたい誰のことだらう。

あたる、といふのは、きつとあたつてゐた人々の聲ばかりを集めて発信してゐるからだらう。
あたらないよ、といふ否定的な感想は、おもしろくもないし、あまりひろまらないのにちがひない。

後に見てみたら、「人前でかつこつける」とか「早とちり」とか、あたつてゐると思はれる部分もあるにはあつた。
しかし、大枠ではちがふんだよなあ。

動物占ひはあたらない。
さう思つた。

つい最近、iPhoneのタロットのアプリケーションをインストールしてみた。
世の中ではタロットカードがひそかにはやつてゐるのらしい。
占ひがどうかうといふよりは、タロットカードを使つて物語を作つたりするらしいのだ。
それはおもしろさうだなあ。
さう思つて入れてみた。

すると、パーソナルカードといふものがあるといふ。
生年月日によつて大アルカナ22枚のなかから1枚、パーソナルカードといふのが選ばれる。
やつがれの場合は、努力と忍耐のカードなのらしい。
努力。忍耐。
どちらも好かないことばではあるが、まあ、「超プラス志向」とかよりは、近いかなあ。

さう思つてゐたところ、パーソナルカードのほかに、ソウルカードといふのもあるらしいといふことがわかつた。
ソウルカードは、「戦車」。
積極的でいはゆるイケイケ。

それはいつたい誰のことだらう。

さらには、「自分は消極的でひつこみ思案なのに、と思ふ人もゐるかもしれませんが、それは本来の姿ではないのです」といふやうなことまで書かれてゐる。
セイフティネットを張つてゐるのだ。

だが待てよ。
「やる気lessで消極的」で、「戦ひたくない」といふのは思ひこみで、実はものすごく戦闘的なのだらうか。
「積極的」はともかく、「戦闘的」には身に覚えのないわけぢやない。
日々「戦ひたくない」と思つてゐるのに、気がつくと戦つてゐる。
電車に乗るのに横入りは許さじとがんばつてしまふ、とか。
電車から降りるときに入り口付近でがんばつてゐる人にさからつてしまふ、とか。
前から歩いてくる人がよけないとこちらもよけない、とか。

それはただの「イヤな人」か。

しかし、自分のなかではそれは「戦ひ」で、ゆゑに日々「もう戦ひたくないんだよ」と思ひながらくらしてゐる。
そのはずなのに、気がつくと戦つてゐるのは、自分が「戦闘的」だからなのではあるまいか。

もしかして、「自分は積極的でプラス志向」とか思つて暮らすやうにしたら、世の中がかはつて見えるのかも?

それは当然だらう。
これまでとちがふんだから、世の中もかはつてくるにきまつてゐる。
占ひを信じる人はちがふんだらうな。
「本来の自分はかうだつたのか」と目の覚めた思ひで日々の生活をかへてみたら、世の中もかはつた。「占ひつてすごい!」といふことになるのだらう。

たまにはだまされたと思つて「占ひつてすごい!」と信じてみることにしやうか。
この「信じる」といふのがまたやつがれにとつては一大ハードルなのだがな。

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Thursday, 13 June 2013

パイロットのエリート95Sを使つてみて

パイロットのエリート95Sの細字を買つた。
黒インキのカートリッジをさしてみて、やはり意識しないと使はないやうになつてゐることに気がつく。
そんなわけで、青や紫のインキで書いたわきに、エリート95Sでツッコミを書き込んだりしてゐる。これまでツッコミはちよつと弱い色で入れてゐたので、これもちよつと違和感がある。そのうち慣れるだらう。

ところで、細字を買つたはずなのだが、妙に線が太い。
中字といつてもいいくらゐな太さである。
試し書きのときに中字と細字と極細とで字を書いてみた。このときは細字が太いとは感じなかつたんだがなあ。中字でも書いてみたから? でも極細でも書いたのに。
個体差だらうか。

パイロットの細字の萬年筆といふと、普段はカスタム823プランジャーと、カスタム74の透明軸とを愛用してゐる。どちらも、「細字」の印象にたがふことのない太さの線で書ける。
パイロットの細字はチト太め、といふわけでもなささうだ。さういふ話も聞かないしな。

エリート95Sであれこれ書いてゐて、あるときはたと思ひ出した。
この書き味、あれに似てゐる。

あれ、とは、パイロットのミュー90だ。
これも、かつてのミュー701の復刻版だ。

ミュー90は、ペン先と軸とが一体になつてゐる。

Pilot μ90

ペン先の形状が、エリート95Sと似てゐないだらうか。
このミュー90、細字を購入したのだが、なんとなく線が太いのだ。
インキフローがいいともいふ。
さうか。この感じか。

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Wednesday, 12 June 2013

何以解憂 唯有播磨

先月、「石川忠久の漢詩紀行100選 第八巻」を購入した。

以前、夜勤といふか夜間待機といふかをしたことがある。
客先のこととて、近くに宿をとつてくれた。
明け方、一仕事終へて宿にもどり、ふとTVをつけると、詩の朗読の番組が放映されてゐた。
落ち着いた聲の主は中村吉右衛門。
番組は「漢詩紀行」だつた。
夜勤で疲れてゐるところだつたせゐか、そのときの詩がなんだか染みた。
思はずその文句を書きとめたけれど、そのメモはどこかへいつてしまつていまはない。

そんなことはすつかり忘れてしまつて幾星霜。
ある日、突然思ひたつてwebで検索してみたら、「漢詩紀行」の巻の八は「酒に対してまさに歌うべし~三国志のうた」と題してゐて、朗読は播磨屋さんだといふ。
買ふでせう。
それ、まるでやつがれのためにあるやうな巻ぢやん。

早速求めたのだが、そのときにはバラ売りはしてゐない、といふ話だつた。
全十巻セットでないと売れない。
さう云はれた。

悩んだ。
多分、全十巻でも、自分にとつてはいいはずだ。
「漢詩紀行」の朗読は、江守徹の回と吉右衛門の回とがある。
江守徹担当の回は見たことがないけれど、悪かないはずだ。
詩も有名なものが多いしね。

しかし、そのときは購入には踏み切れなかつた。

五月の連休中、またなんの気なしに「漢詩紀行」を検索してみたらこは如何に。
あるぢやあないか、バラ売りが。
しかも、第八巻もちやんとある。
買ふね。これは買ふしかないでせう。

といふわけで、早速注文した。
手元にきたのは連休明けだつた。
それ以降、ほぼ毎晩のやうに聞いてゐる。

詩の選択は、正直云ふと、どうなのよ、といふ感じがしないではない。
十回あるうちの二回目は蘇軾の「赤壁賦」と杜牧の「赤壁」である。
すこしでも多くの詩を紹介したい、といふことは理解できる。
「赤壁賦」が長いといふこともわかつてゐる。
でもなあ、「赤壁賦」だけで一回でもよかつたんぢやないかなあ。
ほかの回でも古詩はさうなんだけれども、「赤壁賦」も「前」の抜粋だけだ。
所詮全体を紹介するわけにはいかないのだから、短くしてほかの詩も紹介しやうつてことなのかな。

また、曹操・曹丕・曹植の詩が選ばれてゐるのだが、同時代のほかの人の詩を入れればよかつたのに、と思はないでもない。
でも、さうすると魏にかたよりすぎるのかなあ。
この巻は、できるだけ三国を平等に紹介しやうとしてゐるやうに見受けられる。

詩の選択でいいところ、といふと、杜甫の「登楼」と「梁甫吟」とが一緒に紹介されてゐるところ、かな。
「梁甫吟」は三国志の詩ではない。
「登楼」の最後、「日暮聊為梁甫吟」にひつかけて、選んできたのだらう。

播磨屋の朗読は、いい。
贔屓目かもしれないが、すばらしい。
淡々としてゐて、しかも趣深い。
それほど読み方や聲にちがひがあるやうには思はれないのだが、詩によつては勇壮に、あるいは無常に、はたまた沈鬱に聞こえる。
毎晩聞いて、じーんとしてゐる。

かうなると、ほかの巻もほしくなつてくるのが人情なのだつた。

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Tuesday, 11 June 2013

Easy? Simple?

「かんたん」とはどういふことだらうか。

まつたく心得がなくてもなんとかなる、といふことか。
ちよつとした空き時間にできる、といふことか。
あるいは労することなくできる、といふことか。

この春はタティングレースの本が四冊も出版された。
#これを「この春はタティングレースの本が四冊も出版した」と書いて平気な人もゐる。
#イヤな世の中である。

タティングレース、はやつてるんだな。
全然実感ないけど、はやつてゐるんだらう。
あるいははやらせやうとしてゐるのか。

タティングレースは、ある意味では「かんたん」な手藝である。
まづ、道具が少ない。
タティングシャトルと糸と鋏があればなんとかなる。
あとは針とかボンドとかあるといいけど、なくてもまあなんとかなる。

また、場所も選ばない。
藤戸禎子の話に、子育てをしてゐるころはエプロンのポケットにシャトルを入れて、こどもが公演で遊んでゐるのを見守りつつ手元でシャトルを動かしてゐた、といふエピソードがある。
先日、「タティングレース(CreAtorクリエイター06) 」出版記念のタティングレース展に行つたときも、店番の空き時間にタティングにいそしんでゐる人がゐた。
タティングレースが「かんたん」だからできるわざだ。

カンタン!タティングレース」は、例によつて、タティングシャトルに糸を巻くところからはじまつて、タティングレースの基礎を詳細に説明した本である。
「カンタン」なので、ひとつひとつのモチーフもそんなに手のこんだものではない。
それでゐて可愛い。
表紙の作品など、「ちよつと作つてみたいな」と思はせるやうな可愛さだ。

これだけタティングレースの本が出版されるといふことは、タティングレースをたしなむ人もそれなりに増えてゐるのだらう。
さうした人々に、「シャトルに糸を巻く方法」は必要だらうか。
スティッチの結び方も、こんなに詳しくなくてもいいんぢやあるまいか。
図の見方だけ載せて、あとはあまり使はないやうな技術だけ紹介すればいいのでは?

類書があまりにも多いせゐか、どうもさう思はずにはゐられない。

確かに、あみものの本には作り目の仕方が掲載されてゐるものだし、かぎ針編みの本には場合によつてはこま編みの編み方とか長編みの編み方なんかが載つてゐる場合もある。
だが、載つてゐるとしても巻末におまけていどについてゐるものだ。
減らし目や増やし目、場合によつては引き返し編みやとじかたはぎかたはちよつと詳細に出てゐたりして、これにはいつも助けられたりするけれども、それだつて主要な内容といふわけではない。

どの本にも糸の巻き方や結び目の作り方が本の冒頭にカラー写真で紹介される、といふことが、タティングレースの現在の姿をあらはしてゐる。
あるいは、「タティングレースの本はかう作らねばならない」といふ思ひ込みが出版社側にあるのかもしれない。
そんな気がする。

この本に掲載されてゐるモチーフやブレードは、その題名のとほり「かんたん」かもしれない。
しかし、たとへば表紙の上から三つめのブレードなど、モチーフひとつひとつについて糸始末をするのだらうか。
さう考へるの気が遠くなる。
糸始末を減らす方法は、この本などでもつとタティングレースに慣れ親しんでから、といふことなのかな。
それはさうかも。

未だ気分上向かず、といふことで、この本からもまだなにも作つてはゐない。
でも、見てゐるだけで楽しいので、とりあへずいいか、といふ気はしてゐる。

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Monday, 10 June 2013

仕上がるだらうか

複数の作品を並行して手がける。
あみものをしてゐると、一度くらゐはさういふことになつたりするのではあるまいか。
セーターを編んでゐるのに、つい、マフラーにも手を出してしまふ、とか。
くつ下を編んでゐるけれど、つい、もうひとつ別のくつ下を編みはじめてしまふ、とか。

Ravelryなんぞを見てみると、絶対そんなことはしない、といふ人もゐる。
一度に手がける作品は絶対ひとつ。
しかも、そのとき編むのに必要な毛糸しか買はないので、基本的に毛糸の在庫はない。
あこがれるなあ。

複数の作品に並行してとりかかることに、問題はない。
うまく時間を割りふることができれば、いいんぢやないかな。
そもそも、必ずしも仕上げなくてもいいわけだし。

と、例によつて云ひ訳からはじまる今日のエントリである。
すなはち、別の作品に手をつけてしまつた、といふことだ。

ケーブル模様のジレ

風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、Sケーブル模様のジレである。
使つてゐるのは、もともとは、Dショール風ジレを編むために買つた糸だ。
糸は指定のハマナカのフラックスK。色はDショール風のジレの指定色。

ジレを編みたかつたわけではない。
ショール風ジレは、ショールとして使ふつもりだつた。
気が変はつた。

ケーブル模様のジレは、手持の別の糸で編むつもりだつた。
気が変はつた。

といふわけで、この土曜日にゲージをとり、日曜日には編みはじめた。
使用針も指定とほりで、ゴム編み部分は3号、本体は5号である。

気の変はつたわけは、おそらくH玉編み模様のスカーフが、あまりにも進まないせゐだ。
日々ちよこちよこ編んではゐる。
編んでゐるのだが、ほとんど進まない。
進まないのはかまはないけれど、しかし、やつがれはこの夏はこれしか編まないつもりなのだらうか。
いやー、それはどうだらう。

そんなわけで、唐突にケーブル模様のジレを編みはじめたのだつた。
着るものをひとつは編みたいと思つてゐたしね。
着るもののかたづけのことなど、かういふときには考へてもみない。
脳裡をちらとかすめることはあつても、

フラックスKは編みづらい。
編んでゐて糸が割れてくるのだ。
フラックスSはそんなことなかつたのになあ。
ゴム編みが終はつてだいぶ慣れてきたけれど、編みやすさといふことで云つたら、断然フラックスSの方が上だ。

そんな文句ばかり云つて、なかなかすすまないのは、つまりは自分のあみものの腕が落ちたからではないのか。
考へたくはないが、そんな気がして仕方がない。
多分、さうなのだ。
多分、ではなくて、確実にさうだ。
編むスピードが、落ちてしまつたのだ。

あーあ。

落ち込むと、よけいに手が進まなくなる。
悪循環だ。

スカーフもジレ(と書きながら、自分ではヴェストのつもりなのだが)も、両方ともちやんと仕上がるのだらうか。
とくにスカーフは、ずいぶん時間をかけてゐる。
これ、仕上がらなかつたらがつくりきちやふなあ。

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Friday, 07 June 2013

杞憂

先日、パイロットの萬年筆エリートSが復刻されたと書いた。
入手するつもりである、とも書いた。
このときに、インキの色についていろいろ悩んでゐた。

黒いインキを入れたいが、これまでの経験からいつて、黒を入れると使はなくなるんだよね。

そんな悩みだ。

「萬年筆のインキは一度入れたら別の色に変へてはならない」といふお約束が、ほぼ本能レヴェルで刷り込まれてゐる。
悩まずにはゐられなかつた。

そんなわけで、もう買ふことはきめてゐて、軸の色もディープレッドといふことにして、あとは何色のインキを入れるか、それを考へるだけだつた。

杞憂だつた。

萬年筆を買ふとき、たいていは店員さんにかう訊かれる。
「カートリッジをおつけしますけど、何色がいいですか」
パイロットだと、黒と青とブルーブラックから選ぶことになる。
今回、それがなかつた。
店員さんは、例によつてパイロットの黒い箱に萬年筆を入れて、「ペンケースをおつけしますけど、どの色がいいですか」といふやうなことを訊いてきて、しかし、「カートリッジを何色にしますか」とは訊かれなかつた。

をかしい。
こちらから、「黒のカートリッジも一箱いつしよにいただきたいんですけど」とかなんととか、云ふべきだらうか。

さう思つたときだつた。
店員さんは、パイロットの黒い箱のほかに、なにかこぶりな箱を取り出して、中身の確認をはじめた。

それが、これである。
パイロットエリート95Sについてきたお手入れセット

中身はかう。
パイロットエリート95Sについてきたお手入れセット

そして、店員さんが説明してくれて云ふには、
「カートリッジは三色あります。入れ替へて楽しんでみてください」
とのこと。

なんと。
パイロットは、あるいはK.ITOYA 1904は、最初からインキの色について悩む客のことを考へてくれてゐたのだ。
まるで、やつがれが買ふことを前提にしてゐたかのやうではないか。

中身を見てもらへばわかるが、お手入れの仕方の説明書が入つてゐる。
何年かまへ、ベルリッツの広告に「いたれりっひ つくりせりっひ」といふコピーがあつた。ドイツ語も教へますよ、といふやうな宣伝だつたと思ふ。
この、「いたれりっひ つくりせりっひ」といふことばが脳裡をよぎつた。

もちろん。
お手入れセットで完全にインキを洗ひ流せるか、といふと、そこに不安がないわけぢやない。
インキの色を変へるときは、このお手入れセットの説明書にあるやうにスポイトなどを使つて洗浄することが多いやつがれだが、それでもさう思ふ。
ほんたうは超音波洗浄をしたはうがいいのだらうが、こちらはこちらで振動をあたへることに不安がある。

さういふ不安はあるけれども、でも、きつと最初に入れたカートリッジが切れたあかつきには、やつがれはこのお手入れセットを使ふね。
そして、インキの色を変へるね。
だつて、いろんなインキの色がある、といふのは、萬年筆の楽しみのひとつだからね。

パイロットエリート95Sとお手入れセット

といふわけで、まづは黒いカートリッジをさしてみた。
やつがれの好みからいふと、書き味はちよつとかたいが、それをおぎなつてあまりある書き味のよさが「いいぢやん、ちよつとくらゐかたくても」と思はせてしまふ。

パイロットエリート95S

いいなあ。
思はずひさしぶりにあれこれ書き散らしてしまつた。

オリジナルのエリートSは18Kのペン先だつた。
今回は14K。
人によつては、「やつぱり18K以上でないとね」といふ人もゐる。
でも、そんなこと、全然気にならない。

今日はさつそくつれ出して、あちこちで使つてみるつもりだ。

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Thursday, 06 June 2013

かけ聲問題

歌舞伎にかけ聲は必要だらうか。

我ながら、愚問だな。
かけ聲のない芝居はものたりない。
まれにそんなこともあつて、「今日は大向かうさんは来てないのかー」とちよつとがつかりしたりする。
「ぢやあここはひとつやつがれが」といふ気にはならないが。

とはいへ、やたらめつたらなかけ聲や、すつとんきやうな聲、間をはづした聲などは、御免かうむる。
芝居に集中できなくなるからだ。

現在あれこれ取沙汰されてゐるのは、さほど観劇歴の長いわけでもないのに、聲をかけはじめる人が多いからなのではあるまいか。

先日観劇マナーについて書いた。
このときに、かつての歌舞伎座の一階席で聲をかけてゐる、といふ人について記した。
おとな、それも、停年前後にはじめて芝居を見にくるやうになり、見やう見まねで聲をかけるやうになつたこの人には、おそらく芝居見物の経験がチト足りない。
また、一階席にゐるから、「かけ聲といふのはかういふものなんですよ」と教へてくれる人もまはりにはゐない。
芝居の本など読んではみても、「大向かうは三階席後方や幕見席からかけるもの」といふ一文に出会ふほどは読んでゐないか、出会つても読み飛ばしてしまつてゐるのだらう。

今後は、一階席や二階席から聲をかけるのもあり、といふ風になつていくのかもしれない。
もしかすると、桟敷席からかける人も出てくるかも。
イヤだな、そんな未来は。

聲はだれがかけてもいい。
さういふことにはなつてゐて、当然不文律もある。
女の人はかけてはいけない、などだ。
「いけない」といふことはないのかもしれないが、女聲のかけ聲を毛嫌ひする人は多い。
大向かうの会などでも、女の人は受け入れないのださうである。

聲はだれがかけてもいい。
さう云はれてゐて、しかし、そんなことを信じてゐる人はゐない。許してゐる人もゐない。
ゐるとしたら、それは調子つぱづれな聲をかけてゐる当の本人だけだらう。
いや、その本人だつて、自分は正しいことすばらしいことをしてゐる、と思つてゐるのかもしれない。
「だれがかけてもかまはないが、下手な人はやめてくれ」、と、自分のことを棚に上げて思つてゐる可能性は高い。

しかし、聲をかける側からすると、「最初のうちは下手でもしかたないだらう」といふことになる。
なにごとも、最初からうまくできるわけがない。
まれにはうまくできることがあつたり、うまくできる人がゐたりはする
大向かうといふことになると、それまで芝居を見続けてきて、「ここぞ」といふタイミングのわかつてゐる人などは、それほど問題なく聲をかけられることもあるだらう。
それでもやつぱり自分の思つてゐる間と、実際の間とはことなるだらうし、何度も聲をかけるうちに体得していくこともあるのぢやないか。
たとへば若い役者を育てるやうに、かけだしの大向かうを育てる、観客にはそんなことも求められてゐるのかもしれない。

ここでもうひとつ、「かけ聲とは、そんな、勉強するやうにしてかけるものなのだらうか」といふ疑問もある。
目のまへで、えも言はれぬみごとな芝居がくりひろげられてゐる。
ことにこの主役の役者、なんてまあいい節回し、いい男なんだらう。
感に堪へず、思はずその屋号を口にしてしまふ。

かけ聲の最初は、案外そんなことであつたらう。
ことに拍手の習慣のなかつた本邦では、聲をかける以外に感動を表現する方法がなかつたのではあるまいか。

などと考へながら、人間、ほんとにいいと思ふと拍手することも忘れちやふんだよなあ。
と、今月歌舞伎座第一部にかかる「俊寛」の幕切れの、あまりのすばらしさに拍手するタイミングを失つてしまつたやつがれは思ふのであつた。

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Wednesday, 05 June 2013

敬して遠ざける黒インク

黒いインキの入つてゐる萬年筆は、使はなくなる。

余人は知らず、やつがれはさうである。

以前もちよこつと書いたが、最近やつと好みのタイプのペンといふのがはつきりしてきた。好みとあはないペンは、きれいにしてしまふか処分するかしやうと思つてゐる。
それでも何本も「現役」といふか「一軍」なペンがある。

その中で黒いインキが入つてゐるペンが何本あるか。
「一軍」の中には一本もない。
「二軍」に二本。
そんな感じである。

萬年筆のインキといふと、やつがれのイメージでは「ブルーブラック」だ。
最近でこそゲルインクのボールペンに「ブルーブラック」があつたりするけれど、昔は「ブルーブラック」といへば萬年筆だつた。

そんなわけで、萬年筆を使ひはじめたころは、ブルーブラックのインキばかり入れてゐた。
パイロットのブルーブラック、モンブランのブルーブラック、プラチナのブルーブラック、ペリカンのブルーブラック……
なかでも、ウォーターマンのブルーブラックが好きだつた。
クルトゥールライトを買つたときに、ブルーブラックのカートリッジがついてきた。使つてみたら、ほかの会社のブルーブラックにくらべて明るい色合ひで、気に入つたのだつた。

最近よく使ふのは、青である。「ブルー」とも云ふ。
一番使つてゐるのはモンブランのロイヤル・ブルーだらうか。
先日購入したキャップレスデシモの極細にもパイロットのブルーを入れてゐる。
ドルチェ・ヴィータにはデルタのブルー。これがなんとも明るいブルーでいい。
セーラーのスカイハイとかパイロット色彩雫の露草なんかもここに入れていいだらう。

ロイヤル・ブルーでもいいんだ、と思つたのは、瀬川晶司五段が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出したときだつた。
このとき、TVのニュースに映し出された嘆願書は、萬年筆のロイヤル・ブルーのインキで書かれてゐた。
やつがれの目にはさう見えた。

あとはターコイズブルーもよく使ふ。
本や芝居の感想は緑色のインキで書く。
グレーのインキも結構好きだ。
なかでもナガサワ文具センターの御影グレーと、Pen and messages.冬枯れを愛用してゐる。

しかるに、黒インキ。

スーベレーン300に入れてはゐるし、職場にはプラチナのデスクペンに黒インキのカートリッジをさしてはゐるのだが。

気がつくと使はなくなつてゐる。

なぜなのか。

考へるまでもなく、理由はわかつてゐる。
黒インキで書いた文は、断定的な感じがする。
そのせゐだ。

このblogを書いてゐるあひだも、「なんだか」とか「なんとなく」とか「そんな気がする」だとか「さう思ふ」だとか、断定を避ける表現があちらこちらに登場する。
これでもかなり削つてゐるつもりなのだが、と書くこの「つもり」がまた断定することを拒否してゐる。

性格だからなあ。
しかたがない。
黒は好きな色なんだけどね。

パイロットからエリート万年筆が復刻販売されると聞いて、一本手に入れてみるつもりだ。
そのペンには黒いインキを入れてみやうかなあ。
黒を使はない理由にはもうひとつあつて、職場で書類になにか書き込むときに、黒だと書類のインキの色にまぎれてしまふ、といふのがある。
でも、書類に書き込むときに使ふペンは、ほかにもたくさんあるからなあ。

もうすこし、悩んでみるか。

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Tuesday, 04 June 2013

衝動に身をまかせる

土曜日のことである。
突如、猛烈にタティングレースで七宝模様を作りたくなつた。
で、作つてみたのがこれである。

七宝模様

糸はLisbeth #40のBoysenberry Dk。今の時期にはちよつと濃すぎるだらうか。
シャトルはDavid Reed Smithに頼んだ2インチのbrass spikeつき。木はbirdseye mapleである。

「あまちゃん」の録画を見ながらひたすら結んだ。
日曜日も結びつづけて、なんとか一周完成した。
それで満足するかなあ、とも思つたが、勢ひで次の一列に手をつけてしまつた。

なぜいきなり七宝模様だつたのか。

いまかぎ針編みで七宝模様に近い模様を編んでゐるから、かなあ。
似て非なるものなので、もつと七宝模様に近い形を作つてみたかつたのではないか、と、思つてゐる。

ほかに理由が考へられるとしたら、日々七宝模様を目にしてゐるから、なのかもしれない。

いまを去ること三年前、「筒井康隆、筒井康隆を読むvol.2」といふイヴェントがあつて、ここで山藤章二のイラストのついた筒井康隆の手ぬぐひを入手した。
この手ぬぐひに、七宝模様が染め抜かれてゐるのである。
まだ使つたことはないのだが、最近ちよつと出してきて、日々目につくところにおいてある。
せつかく買つたんだから、使ふかなあ。
そんなことを考へてゐる。

もう一カ所、よく行くところで七宝模様を目にする。
渋谷ヒカリエだ。
川本喜八郎人形ギャラリーに行く際、エスカレータに乗ると、天井といふかエスカレータの下部といふかに、七宝模様が彫り込まれてゐるのだ。
金曜日も、見てきたばかりだつた。

いづれにしても、かういふ衝動は大切にしたい。
作りたいと思つたときが作りどきだ。
完成しやうがしまいが、心のおもむくままに作る。
また楽しからずや。

ところで、冷静になつて考へてみると、一番根源となる理由は、藤戸禎子の「華麗なクラシックレース タッチングレース」なのではないか。
そんな気がしてきた。

この本には、七宝模様の替襟が掲載されてゐる。
以前から一度作つてみたいと思つてゐるのだが、「替襟? 使ふか?」と思ふと、二の足を踏んでしまふ。

去年あたりから、かぎ針編みのレースの替襟の本はずいぶん出てゐて、「クロッシェレースの衿飾り」などは思はず買つてしまつて、この本からなにか編みたいなあと思つてゐたりするのだが。

しかし、替襟。
使ふか?

否。
答へは否、である。

「衝動は大切にしたい」と書きながらなんだが、ブレーキを踏むところは踏む、といふことも大切だ。
時間は有限だ。
衝動を活かすためには、ブレーキを踏むことも必要である。

ま、云ひわけだけどね。

そんなわけで、この週末に作つてゐた七宝模様は、「華麗なるクラシックレース タッチングレース」の替襟を参考にしてゐる。
五模様ごとにリングとブリッジの目を二目づつ増やしてゐるのである。
藤戸禎子の替襟では一模様ごとに増やしてゐたやうに思ふ。
さうすると、まあ当然ながら末広がりといふか、さういふ模様になる。
衝動的に作りながら、この末広がりの模様を活かせないかなあ、とか考へてゐる。

問題は、ブリッジが長くなつてくると、きれいに形をととのへるのがむづかしい、といふことだ。
それと、最初のうちは一つめのリングのピコをどのくらゐの長さにするか、といふことにも悩んだ。
そんなわけで、できあがつたものは、かなりへろへろしてゐるが、それでも最近自分が作つたものに比べたら、ましかな。
猛烈に作りたい、といふ衝動が、いつもより気を遣つたタティングのもとになつてゐる。
そんな気がする。

昨日買つた「カンタン!タティングレース」については、また日を改めて。

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Monday, 03 June 2013

「クールビズ」は夏の幻想

玉編み模様のスカーフ

それでも「風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、H玉編み模様のスカーフを編んでゐる。
糸は指定糸のハマナカのオーガニックコットンポーム<無垢綿>のレース、針も指定針のNo.0。

といふあたりは前回とほぼおなじ書き出しだ。
先週、やつと一玉編み終はつて、二玉目に入つた。
うーん、完成するとちよつと短いのかな。
できあがりサイズは138cmとなつてゐる。
最近のはやりつて、長くてうすいマフラー(あるいはスカーフ)をぐるりと巻いて端をたらす感じなんぢやないのかな。

といふのは、「仮面ライダーウィザード」を見てゐるとそんな感じだからである。

いまはもうそれほどでもないが、冬のあひだ、「仮面ライダーウィザード」は結構「まきもの天国」であつた。
主人公はこい牡丹色の長いマフラーを巻かずに首にかけただけ。
その手下(?)の子はチェックのマフラーを、こちらはぐるぐると巻きつけて端を出さないやうにしてゐる。
敵の男の人は三角ストールの二重使ひ。これはいまもさうかな。
そして、敵の女の人は、長くてうすいスカーフをぐるりと首に巻いて、端は前にたらしてゐる。これもいまもさう。

さう考へて見てみると、性別に関はらず、長くてうすいマフラーないしはスカーフを首にぐるりと巻いて、端は前にたらしてゐるのをよく見かける気がする。

「クールビズ」とやらが叫ばれて久しい。
しかし、どれくらゐ実施されてゐるのか、謎な気がする。
たしかに、事務所内の空調は28度で固定されてゐる、なんてな職場も増えてゐる、とは云ふ。
でも、真夏でもスーツ姿の人は多い。
営業まはりをするときに、「クールビズ」といふのは受け入れられないのだらう。
社内では「我が社はクールビズを実施してをります」などといふ貼り紙をしてゐて、「だからちよつとカジュアルな出で立ちでもゴメンね」と、云ひわけしてゐるけれど、一歩外に出たら、クールビスなんて許されるはずがない。
みな一様にさう思ひこんでゐるのにちがひない。

ほんとに「クールビス」とやらを推進しやうといふのなら、「客先訪問の折も「クールビス」」にしないとウソだ。
炎天下に客先まで出かけていく。そのときにネクタイをしめてゐたりしたら、たどりついた先で空調の温度が28度だなんて、あんまりつらすぎるぢやあないか。
さう思ふのだが、誰も「客先にも「クールビズ」で」とは云はない。
あるいはさう提言してゐる人もゐるのかもしれないが、その聲はまつたく届いてゐない。
きつと、みんな本気で「クールビズ」なんてやる気はないのだ。
ポーズだけだ。
そんな気がする。

そんなわけで、電車の中が異様に寒かつたりする。
去年がそんな感じだつた。
なので、弱冷房車に乗ることが多かつた。
弱冷房車は、さすがに乗りこんだ直後はちよつとむつとするが、それでも乗つてゐると冷えてくる。
弱冷房車でこれなのだから、普通の車両の冷え方はもつとすごい。
ほんとに、空調の温度を抑へたりしてゐるのだらうか。
そんな疑ひをいだいてしまふくらゐ、冷えてゐる。

おそらく、人は最初の「むつ」とした空気に耐へられいのだ。
とくに、通勤電車の、人いきれでどうにもならないやうな状態になつてゐるやうなところでは、耐へられないのにちがひない。
しかも、夏物とはいへスーツなど着てゐたらなほさらだ。

そんなわけで、夏でも「防寒対策」は必須である。

で、今編んでゐるこのスカーフが、夏の防寒対策の一助になるか、といふと……
うーん、どうなんだらう。
すくなくとも、首まはりだけは、なんとかしてくれるのかなあ。

ハマナカのポームは編み地がやはらかできもちがいいといふ話を聞いて編むことに決めた。
とりあへず、その編み地の心地よささへ味はへればいいだらうか。
そんな気もしないではない。
かぎ針編みだと手がきつくなりがちなので、いまのところ編み地もそんなに気持ちよくないやうな気がするのだが、まあ、そこはいまは考へないことにする。

ところで、このスカーフ、ちよつと七宝模様のやうな感じになつてゐる。
この模様が引き金になつて、この週末、とある衝動に身を任せることになつたのだが。

それは次回の講釈で。

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Saturday, 01 June 2013

2013年5月の読書メーター

2013年5月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2563ページ
ナイス数:8ナイス

犯罪統計入門 第2版: 犯罪を科学する方法 (龍谷大学矯正・保護研究センター叢書 第4巻)犯罪統計入門 第2版: 犯罪を科学する方法 (龍谷大学矯正・保護研究センター叢書 第4巻)感想
題名のとほりだけど、その他の統計資料を見るときにも役立つ情報が載つてゐると思ふ。資料の入手先・入手方法・加工の仕方なんかも書いてあるが、そんなこと自分でする日は来ない気はしてゐる。
読了日:5月2日 著者:浜井浩一
十八史略 (講談社学術文庫)十八史略 (講談社学術文庫)感想
「詳細は漢書誰某伝」とか「旧唐書某伝」とか、どーしろといふのか。読め、と? だいたい漢書なり旧唐書なりを、どうやつて入手すればいいんだよ。といふ不満もないではないが、あつといふ間に読めてしまつた。Page turner とでもいふのだらうか。巻を措く能はずといふべきか。「史記」から引いてきた部分までが一番おもしろい。
読了日:5月11日 著者:竹内 弘行
英雄三国志 4 出師の表 (集英社文庫)英雄三国志 4 出師の表 (集英社文庫)感想
さういへば狂四郎も胸を病んだりしてたけど、いつのまにかうやむやになつてたよなー、などと思ひ乍ら読む。孔明は、南蛮で妙薬をもらふだけましかな。出てくる人出てくる人みんな深刻(serious)で、読んでて息苦しくなつてくる。さういふ展開だから、といふこともあるけれど。陸遜活躍か、といふところで次の巻につづく。この引きがいい。
読了日:5月13日 著者:柴田 錬三郎
敵は海賊・海賊の敵 (ハヤカワ文庫JA)敵は海賊・海賊の敵 (ハヤカワ文庫JA)感想
シャルファフィン・シャル……今はなにもかも懐かしい。もしかしてもう続きはないのだらうか。
読了日:5月15日 著者:神林長平
地雷を踏む勇気 ~人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)地雷を踏む勇気 ~人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)感想
読み進むほどにどんどん気分が落ち込んで行く。震災についての話が多いから? さうではない気がするな。特に海の家でアルバイトしてゐたときの話はいけない。楽しい? 笑へる? 残念ながらさういふ気持ちにはならなかつた。でも最後まで読むのをやめられないのだつた。
読了日:5月19日 著者:小田嶋 隆
The Art of Column Writing: Insider Secrets from Art Buchwald, Dave Barry, Arianna Huffington, Pete Hamill and Other Great ColumnistsThe Art of Column Writing: Insider Secrets from Art Buchwald, Dave Barry, Arianna Huffington, Pete Hamill and Other Great Columnists感想
アート・バックウォルド の名前に惹かれて手に取つた。コラムの書き方については、blogの書き方の参考になる部分もある。コラムの種類やシンジケートについては、米国ではさうなんだらうなあといつたところ。サクサクと読める。ところどころに挿入されてゐる著名コラムニストのコラムからの抜粋もおもしろい。
読了日:5月21日 著者:Suzette Martinez Standring
わがタイプライターの物語わがタイプライターの物語感想
本邦だと萬年筆になるのかなあ。タイプライターもかなり騒がしいけどね。ルロイ・アンダーソンの「タイプライター」とか聞くと。でも確かに、電動とちがつて、手動のタイプライターは人がなにかしなければ、しづかなまま、か。サム・メッサーの絵はときどき怖い。
読了日:5月21日 著者:ポール・オースター
サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険感想
「自分はサイコパスかもしれない」と心配する人はサイコパスではない。ほんとだな! 表紙カヴァ見返しにサイコパス・チェックリストがついてゐる。「あ、あてはまる」とか不安になる人は大丈夫といふことなんだらう。著者の不安症つぷりに共感を抱きつつ読んだ。孫子の兵法を完璧に実践できるのは、サイコパスなのかもなあ。
読了日:5月28日 著者:ジョン・ロンソン
格闘技の科学 力学と解剖学で技を分析! (サイエンス・アイ新書)格闘技の科学 力学と解剖学で技を分析! (サイエンス・アイ新書)感想
格闘技のあんな技こんな技を科学的に説明してゐる。これ、まつたく格闘技をやつたことのない人が読んで、「試してみたい」と思つて実際に試しちやつたらどうするんだらう、と、しなくてもいい心配をしてしまふ。本の中にはあちこちに「達人がやれば」とか「修行すれば」といふやうなことばがちりばめられてゐるけれど、さういふ人がちやんと読むかどうか。「気」についても気になるなあ。
読了日:5月29日 著者:吉福 康郎

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