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Friday, 31 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その六

飯田市川本喜八郎人形美術館に行つたのは、先月末。
ここ以外とくにおとづれたところはないが、ぶらぶら街歩きなどはしてみた。意味もなく飯田線の踏切をわたつてみたり、とか。
牛乳とリンゴジュースがめちやくちやおいしかつたなあ。牛乳は、前日の夕方からその日の朝しぼつたものを低温殺菌した牛乳、といふことだつた。
りんごの季節に行つて、りんごを食べてみたい気もする。

さて。
展示室の一番奥には、人形アニメーション用の人形が飾られてゐる。
リカちやんよりさらに小さい印象があるのは、頭身のせゐかもしれない。ここにゐる人形の方が、実の人間の頭身に近い。すなはち頭がちいさいので、頭の大きいリカちやんよりずつと小さく見える。

来館したをり、上映会のあつた「道成寺」から女が飾られてゐた。
通常、道成寺ものでは僧・安珍に娘・清姫が惚れる、といふことになつてゐる。
川本喜八郎の「道成寺」では、僧に惚れるのは若き寡婦だ。
その方が、情念だとか執着だとか、さういふものを表現できる、と思つたのかもしれない。
映像からはわからないが、実物はかなりちいさい。
眉はそりおとされてゐて、眉根がすこし寄つてゐるやうな感じがする。
人形アニメーション用の人形は、自立しないと撮影できないので、躰のバランスもむづかしいし、動かすために服の裾や髪の毛などにはワイヤが仕込んであるのだといふ。
よくよく見ると、たしかに髪の毛から髪の毛とおなじくらゐ細いワイヤがとびだしてゐるのが見える。事前に仕込んであるといふ話をきかなければ見逃してゐただらう。それくらゐ細いワイヤだ。
女は、三つ鱗の衣装をつけてゐる。蛇体のこころなのだらう。
「道成寺」では、僧を追ふ女は、日高川に飛び込んで、蛇体になる。頭部は竜のやうだが、手といふか足といふかがないので、やはり蛇だらう。
僧の潜む鐘に巻きついて燃やしてしまふが、このとき、血の涙を流す。おそろしいはずなのに、泣く姿はなんともあはれだつた。

映像では、最後、鐘を持ち上げると、中には白骨となつた僧があらはれる。すでに粉々になつてゐたのだらう、風に吹かれて、骨は散り散りになつてしまふ。
ここは、ピンセットですこしづつくづしながら撮影したのださうな。

女のとなりには「いばら姫またはねむり姫」の姫がかざられてゐる。
椅子に腰掛けて刺繍をしてゐる。
さう、刺繍をしてゐる。
実際には、ちやんと布地に針を刺して、刺繍をするさまを映像にしたのだらう。
こまかい。
刺繍の模様とか刺しかけのやうすとかをぢつくり見てしまふ。

一番奥にゐたのが「鬼」といふ作品から兄と弟。
今昔物語から着想を得た作品、とのこと。
兄の顔は文楽のカシラにそのままありさうな感じ。文七、かなあ。弟の方は、まちつとアレンジされた感じの顔をしてゐる。
病気の母を置いて猟に出た兄弟は、森の中でなにか獣に襲はれる。退治てみると、家で臥せつてゐるはずの母に似てゐた、といふ話。
兄も弟も、身長自体はリカちやんより高い。顔がちいさいからそんな気はしないけれど。
どちらも手の造形がすばらしい。手の形がすてきなのだ。指の関節まで再現されてゐる。この指がまがつて弓を持つたり矢を射たりするのだらう。

その隣が「冬の日」から芭蕉と名古屋の連句好きたち。
こちらの人形は、リカちやんとシルバニアファミリーの中間くらゐの大きさ。シルバニアファミリーに近い、かな。
どれもどれもユーモラスでとても可愛らしい。三国志の人形などは、番組への愛ゆゑに「ほしい」と思ふけれど、「冬の日」の人形はその愛らしさゆゑに「ほしい」と思つてしまふ。
もとが連句といふことで「冬の日」といふアニメーション自体も連句仕立てになつてゐるといふ。
見てみたいなー。

出口の一番そばに「火宅」。
地獄に落ちる莵名日処女は、しかし、うつくしく佇んでゐる。その表情も穏やかだ。
莵名日処女に激しく求愛する血沼丈夫と小竹田男は、その両脇で、思ひつめたやうな表情で立つてゐる。手にはそれぞれ紅梅と白梅とを持つてゐる。
ちよつと出づらくなつてしまふ。

展示室はこんな感じ。
展示室の外には、トロフィーや川本喜八郎の年譜、人形のできるまでのパネルと実際の型や衣装などが飾られてゐる。
人形としては、こども向け番組やCMなどに用ゐた人形が飾られてゐる。

こども向けとして、ヤンヤンムウくんや三匹のこぶた、「風の子ケーン」、「シンデレラ」、「おおきなかぶ」の人形が並んでゐる。
ヤンヤンムウくんは、通常の顔と泣き顔、笑つた顔の三点が並んでゐた。
横にヤンヤンムウくんを操演する若き日の川本喜八郎の写真がかざられてゐた。この川本喜八郎が実になんといふか、可愛いのである。あやつる人形が可愛いからか知らん、とか考へてしまつた。

写真だけだが、ゴロンタくんなど「おかあさんといっしょ」の着ぐるみ人形もあつた。
ゴロンタくんは川本喜八郎作だつたのか!
「おかあさんといっしょ」の着ぐるみキャラクターの中で、オールタイムベストはじゃじゃ丸くんなんだが、次はゴロンタくんなんだよなあ。

展示室の外の人形などは、それほど入れ替はらないと聞いたので、あとは次に行つたときに書くつもり。
学芸員の人が教へてくだすつた話なんかも、なにかの折りに。

その他の展示については以下のとほり。
飯田に着くまでと、エントランスの謎
紳々竜々と「特異なキャラクター」、「江東の群像」
「玄徳の周辺」
「曹操の王国」
「許昌の都と漢中・蜀・南蛮」
女人平家 義経をめぐる人々

Thursday, 30 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その五

飯田市川本喜八郎人形美術館は、今日から展示替へをおこなつてゐるのらしい。今日明日と展示替へのため臨時休館して、土曜日から新展示で開館する。

といふわけで、先月末に見てきた展示はもう見られないのだが、「こんな展示もあつたよ」といふことでちよつと書いておく。

「平家物語」のケースは「女人平家」と題して、女の人ばかり並んでゐる。
この美術館にゐる「平家物語」の人形は、人形劇に出てゐた人形ではないといふ。
川本喜八郎が新たに作りなほしたものだ、と、案内に書いてあつた。
いつたいどれくらゐ作りなほしてゐたのかのう。
渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーにゐる「平家物語」の人形は人形劇に出てゐたものかと思ふが。

おもしろいもので、静御前とか巴御前とかいつた、いかにも「美人」といふ人形よりも、政子とか葵とか、ちよつとくせのある人形の方が生き生きして見える。
蓬子など、よくよく見ると顔にあばたがあつて、おもしろい。

ケースの向かつて一番左端奥が静御前。白拍子姿である。
おとなしい顔立ちゆゑか、印象が薄い。表情も、なんとなくぼんやりとした感じに見受けられる。

その隣の政子は、実に生きてゐる感じがするんだがなあ。
単に顔立ちがきりりとしてゐる、といふだけなのかもしれないが。
白拍子姿で舞の途中といつた趣の静より、単に立つて、横を見てゐる政子に動きを感じるし、気がつくと政子の方を見てしまふ。

静と政子の前に蓬子。
押しかけ女房のやうにして麻鳥の妻になつた蓬子は、この中ではひとりだけ顔が白くない。自然な感じの皮膚の色で、髪も無造作に束ねただけ、衣装もこの中では粗末な感じである。
革をやはらかくしたところに型で押したのか、顔にあばたがあるが、龐統のやうにはつきりとわかるやうにあるわけではない。

このケースの中央は二位の尼。
これがまたすばらしい出来である。
渋谷には現在時子がゐるが、なるほど、あの時子がそのまま年を経たらかうなるか、とも思ふ。
とにかく目が離せない。
聡明さうで、一門を統べる大きさもあつて、見やうによつては、滅亡を前にした諦観も感じられる。
去年の大河ドラマとは大違ひだ。
何度もその前に立つては、「波の下にも都の候ぞ」とか心の中でつぶやいてしまふ。
いいなあ。
展示替へしたら、当然ゐなくなつてしまふわけだけれど、また会へる日もあるだらうか。

二位の尼の手前に建礼門院。
衣装の立派さに目を奪はれる。このケースの中で唯一十二単を着てゐる人形だ。
衣装は立派で、しかし、表情の方はどこかぼんやりしてゐるやうに感じられる。
動いてゐたらまたちがふのかな。

巴御前と葵とは、義仲の寵愛を受けた女の人だ。どちらも甲冑姿。
美術館の場所柄、メインのあつかひなのかもしれない。
巴御前といふと、いさましい美女、といふ印象があるが、ここにゐる巴はやはらかな表情を浮かべてゐる。
葵はそれにくらべるとちよつときつい感じの顔立ちだ。
義仲に近づかうとした女の人を退けた葵だが、なるほど、そんなことをしさうな気の強さが感じられる。

このケースの一番右端は千手。白拍子姿である。
源氏方の手のものとして、重衡のもとに送り込まれた千手だが、結局重衡を好いてしまふ、そんな人だ。
千手もおとなしやかな感じ。自分の意志で重衡についていつた、といふよりは、流されちやつたのかも、といふ印象を受けた。

このケースの中央は二位の尼。凛然として、ご本尊のやうにも見える。その他の人形たちが、本尊を守る脇侍や四天王かなにかのやうに感じられるほどだ。
両端に白拍子姿の人形がゐる、といふのも、よけいにそんな感じに見せることになつてゐたのかもしれない。

む、今回で終はるつもりだつたが、人形アニメーションの人形たちのことが抜けてしまつてゐる。
それは次回の講釈で、かな。

その他の展示については以下のとほり。
飯田に着くまでと、エントランスの謎
紳々竜々と「特異なキャラクター」、「江東の群像」
「玄徳の周辺」
「曹操の王国」
「許昌の都と漢中・蜀・南蛮」

Wednesday, 29 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その四

飯田市川本喜八郎人形美術館は、今日は休館日。
明日明後日と展示替へして、土曜日から新展示といふことになる。

ん?
といふことは、今日は人形たちはどうしてゐるのだらうか。
展示室のなかで、明日を待つてゐるのだらうか。
それとももう今日から作業ははじまるのかな。

といふわけで、見る側としてはもう終はつてしまつた展示だが、記憶のよすがに残しておく。

「玄徳の周辺」の向かつて右隣のケースは、「許昌の都と漢中・蜀・南蛮」と題した、えうするに種々雑多な人々を集めたケースである。

左端手前が張魯。
立派な衣装である。冠部分になにか字をかたどつた模様があるのだが、なんといふ文字なのかはわからない。冠や衣装のパイピングをぢつくり見てしまつた。

そのななめ奥が華陀。
「さうさう、こんな感じだつたよねー」と懐かしく見る。
慈医、といつた趣。ふつくらかつにこにこしてゐるやうに見えるからそんな印象があるのだらう。ほつぺなんかつやつやしてこどものやうな感じもするしね。
衣装は墨絵のやうな印象の渋い柄の服。

華陀の前が張松。
こちらも衣装は地味。一見粗末なやうだが、よくよく見るといいもののやうに見える。
歯並びが悪くてちよつと足りないのではないか、といふあたりの造形に目を奪はれる。よくできてゐる。

このケースの中央は献帝。
ビーズぢやらぢやらの冠の帝の出で立ち。
この日、延々と帝の座を追はれる場面が流れてゐたので、余計に趣き深い。
顔立ちだけ見ると、それなりに立派な帝になる道もあつたのかも、と思はせるものがあるところがまた泣けるよ。
泣けつつも、「さういへば「イブの息子たち」の孔明つてこんな出で立ちだつたよなあ」とか思ひ出してはちよつと笑へたりもした。
すまん。

その隣が伏皇后。
見るからに薄倖さうな面持ち。
衣装は豪華なのに、顔が小振りでしかもかなしさうなせゐか、全体的にちいさい印象。
このケースの中では本来一番華があつてしかるべき存在なのに、と思ふと、いとあはれだ。

その手前が穆順。
向かつて左から見るとこれが宦官にしておくには惜しいやうないい男なのだが、正面や右から見るとひどく恨めしげな表情に見える。恨みがまし過ぎるともいへる。
手に冠を持ち、髪の毛は結つてはあるものの背中に流れてゐるから、いい男に見えるのかもしれない。
さう思はないでもない。

その横には普浄。
張遼とおなじやうに、人形劇には出てこなかつた人形である。
普浄は、関羽と同郷の僧侶。関羽が決死の千里行のときに、「川向かふに住んでゐたものだ」と云つて近寄つてきて、関守の悪事を教へた坊さん。
これがねえ、またいい顔をしてゐるんだねえ。
出番のなかつた人形までこんなにいいとはねえ。

その横には山賊の婆さん。
人形劇オリジナルの登場人物である。
関羽が千里行のすゑ、玄徳・張飛と再会を果たしたあとのエピソードに出てくる。
なぜか張飛が武松よろしく虎退治をする話だ。
ここの張飛がめちやくちやかはいいんだよなー。
また「兄貴」な関羽がこれまためちやくちやイカすのだつた。
閑話休題。
峠で料理屋を営んでゐる山賊の婆さんがすなはちこの人形。
いやしげな顔立ちで、派手な衣装も品のなさをよくあらはしてゐる。
顔の皺の表現をまぢまぢと見てしまつた。

その後ろが孟獲。
ひとりでスペースを占拠してゐる。
背中に負つた羽が大きく左右に弧を描いてゐるからね。仕方がない。
伏皇后がかすんで見えるのも、むべなるからといつた派手な出で立ちだ。
向かふつ気の強さうな表情が、なんとなく可愛らしい。生意気盛りの少年のやうといつてもいい顔立ちだ。
実際、人形劇の七擒七縦も、おとなに諭されるこども、といつた趣があつたものな。

このケースの中央は献帝。
ずつしり重厚な衣装で、中央にふさはしい帝だが、如何せん、孟獲がひとりでバランスを欠いてしまつてゐる。
まあ、しかし、「玄徳の周辺」にしても「曹操の王国」にしてもさうだけど、シンメトリならいいつてもんでもないよな。

この展示についてはあと一回くらゐで終はる予定。
そろそろ飯田行きの予定を立てないと、だな。

その他の展示については以下のとほり。
飯田に着くまでと、エントランスの謎
紳々竜々と「特異なキャラクター」、「江東の群像」
「玄徳の周辺」
「曹操の王国」

Tuesday, 28 May 2013

困難に直面したとき

この週末、旅先で困つたことになつた。
_Tatting with Visual Patterns_からMasqueradeを作つてつないでゐるのだが、突然、使つてゐる糸の途中に、結び目があらはれたのである。

結び目

むむー。
レース糸で結び目つて、致命的ぢやあるまいか。
致命的といふか、終はつてゐる。
せめてもつと手前で気がつけば、と思つたが、旅の空の下の開放感ゆゑ、とでも云ひたいところだが、単にぼーつとしてゐたんだらうな。
結び目に気がつかなかつた。

糸はLisbeth #40。色合ひはPink Cocoaといふ。
糸を切るのはかんたんだ。
そんなやうなことを云つてゐる先生がゐたな、小学校に。
正確には隣の家に住んでゐた子に聞いた話だ。
その子の担任の先生が、云つたのださうだ。

結び目をほどく方法を考へなさい。糸を切るのはかんたんだ。
なぜそんな話になつたのか、まつたく覚えてゐないが、たまに思ひ出す。

このことばの重要なところは、「考へなさい」といふところだ。
「とにかくほどけ」と云つてゐるわけではない。
糸がぐしやぐしやになると、やつがれはとりあへずほどかうと手をつけてしまふ。
そして、「こんなことに時間をかけるほど、人生は長くない」と悟るに至り、そこで切つてしまふことが多い。
ほんたうは、ほどきはじめる前に、まづ糸の状態を観察して、どうすればいいか考へるべきなのだ。
わかつちやゐるが、できた試しがない。

話を聞くかぎり、あみものする人はほどくつて云ふよね。ギリギリまで糸をムダにするやうなことはしない。
さういふ印象がある。
ゆゑにあみものを「環境にやさしい」とか云ふのだらう。
あみものは決して「環境にやさし」くなんかない。
あみものをする人に、さういふ心根の人が多い。
さういふことなんだと思ふ。

ところでやつがれは、あまり「環境にやさしい」ことなど考へたりしない。
つまるところ、環境問題といふのはトレードオフだ。
あちらをたてればこちらがたたない。
さういふ風にできてゐる。
たとへばPETボトルのリサイクル問題。
使用済みのPETボトルを回収してリサイクルすれば、新たに石油を使つてPETボトルを作る必要はない。
だが、再加工する際に、多大な燃料、すなはち石油を必要とする。
再加工がいいのか。新たに作つた方がいいのか。
悩むところである。
PETボトルをリサイクルできる資源として出すのは、さういふきまりになつてゐるからに過ぎない。

あみものは、でもまあ、かなりのところ個人の中で完結するから、人間ががんばれば、その分「環境にはやさしい」んだらう。
さう思ふゆゑに、時間のムダと知りつつも、せつせと糸をほどくのだらう。

今回は、しかし、糸をほどくことはしなかつた。
なんとかシャトルつなぎ部分に結び目を持つてきて、といふか、うまいこと結び目がシャトルつなぎのあたりにやつてきて、そのままごまかしてしまつた。
芯糸だつたので、シャトルつなぎにこぎつけるまで、結び目にスティッチがかからないやうに気を遣つた。
でもまあ、うまく結び目を隠せたんぢやないかな。

こんなことがあつても、とりあへずタティングをつづけてゐるといふことは、すこし気持ちが持ちなほしてきてゐるのかもしれないな。

Monday, 27 May 2013

波打つスカーフ

あひかはらず、「風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、H玉編み模様のスカーフを編んでゐる。
糸は指定糸であるハマナカのオーガニックコットンポーム<無垢綿>のレース、針も指定針のNo.0だ。
いつもだつたら針はひとつ大きいサイズにするところである。
かぎ針編みだと手がきつくなりがちだからだ。
今回は、はじめて使ふ糸といふこともあつて、指定通りにしてみた。

このスカーフ、玉編みで七宝のやうな模様を編むのだが、最初のうちは四苦八苦しながら編んでゐた。
下の段のこま編みを割つて編みつける、といふのは、まあいいとして、段の途中でくさり編みを編みつつ、その足下に長編みを編みつける、といふのが、苦手だ。くさり編みのどのあたりに針を入れたものやら、わからなかつたからだ。
くさり編みに編みつけるピコとかも、いつも悩むんだよね。きれいにできた試しがない。それで自然とくさり編みに編みつけるピコのある作品とかを編まなくなつてゐたりする。

それでも、延々と編んでゐると、あるとき、「ここだ!」といふのが自然とわかつてくることがある。
このスカーフも、「この先ずつとこんな「進まないなー」といふ思ひを抱へながら編みつづけねばならぬのだらうか」と思ひながら編んでゐたところ、あるときbreakthruがやつてきた。
なんたが突然とても編みやすくなつたのだ。
記録を見ると、先週の火曜日のことらしい。
くさり編みの足下に長編みを編みつける位置も、なんとなくわかつてきた。
正しいかどうかはわからないけどな。

すいすいと編めるやうになつてきたのはいいことなのだが。
手が慣れてくると、当然のやうに、手のきつさも変はつてくる。
編みはじめと現在と、手のきつさがちがふので、なんとなーく編み地が波打つてるやうな気がするんだよなあ。

いや、気のせゐではない。
あきらかに波打つてゐる。

しかも、編み地の幅が段々広くなつてきてゐる。

むー。

今からほどいて編みなほすか。
と、何度も考へては、そのまま編みすすめてゐる。

かぎ針編みは棒針編みに比べて編みはじめと手の慣れたあととの手のきつさの差が大きい気がする。
あるいはやつがれだけなのか。
たとへば、モチーフつなぎなんかだと、最初に作つたモチーフと、何個目かのモチーフでは明白に出来が違ふ。
かういふときに、最初のモチーフを捨てるべきか否か、いつも悩むんだよなあ。

棒針編みの場合も、編みはじめと慣れてきて以降とはゲージが変はつてくるんだらうけど、モチーフつなぎのやうにその差がはつきりしないから、わかりづらいのかもしれない。

波打ちは、スカーフなんで、それもありかな。
さうも思ふ。

また、本人はすいすいと編んでゐるつもりなのだが、やはり編むのに時間がかかるんだよなあ。
いまもまだ一玉目で編んでゐる。
全部で四玉使ふことになつてゐるので、完成はかなり先のことだらう。
前回も書いたけど、この夏はこれだけで終はつてしまふのかもしれない。

Friday, 24 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その三

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示替へが近いといふので、引き続き現時点での展示について少々。

「玄徳の周辺」の向かひには、「曹操の王国」のケースがある。
一番右端にゐるのが許褚。
人形劇の許褚といふと、ごま塩髭が印象的だつたりする。
この髭、全部糸を短く切つて、はりつけてあるのである。
いやー、手で描いてゐるのかと思つてゐたよ。
これまでも何度か人形展には行つてるはずなんだが、なにを見てゐたのかなあ。
許褚に限らず、一見手で描いたやうなもみあげや髭の人形についても、よくよく見ると糸をきつちりはりつけてあるものが多い。
細かい。
許褚はえらそーにふんぞり返つてゐるので、これで口さへ開いてゐれば「阿」だな、といつたところ。

その隣、手前が曹仁。
人形劇にもしばしば出てくるのだが、なぜか印象が薄い。
それもそのはずで、周囲の人形が個性的過ぎるのだ。
曹仁は、曹操軍にあつては「ふつー」の出で立ちなのである。顔立ちも「ふつー」。
逆にいへば、強烈な個性の人々の中にあつて、唯一ちよつと和ませてくれるところのある人形、なのかもしれない。

その後ろが仲達。
白地に刷毛で模様を描いたやうな衣装は、劣化しづらいのかもしれない。ぱりつとしてゐてやうすがいい。
向かつて左側の眉だけはねあげて、横を睨んださまは如何にも陰険そうで、ついつい目を奪はれる。
いい。
とてもいい。
学芸員の人の話によると、仲達と孔明とは向かひあはせに立つてゐるのらしいが、ちよつと左右にずれてゐる。それに、孔明はななめ上を見てゐるし、仲達は横目だし、互ひに互ひを見えてないんぢやないかなあ。
ところで、向かつて右から見るととてもいい仲達だが、左から見ると様相が一変する。
まるで、「ちよつとー、奥さん奥さーん、聞きましたぁ?」と云つてゐるかのやうなポーズに見えるからだ。

仲達の斜め前が程昱。
こちらも一癖も二癖もあるかのやうな(あるのだが)表情で立つてゐる。
程昱は初期からずつと出てゐて、後半も出張つてるからなあ。なんだかとつても懐かしい感じがする。
曹操の参謀といふと、早死にするか殺されるかといつた印象が強い。印象強いエピソードがあるからだけど。
そんな中、長寿を全うする世故に長けた感じもあつて、これまたよい。

その後ろが夏侯惇。
これがね、まあ、なんともやうすがよくて、ねぇ。
呉のところでは、呂蒙を見て、「え、呂蒙つてこんなにやうすがよかつたか知らん」と思つたものだつたが。
ここでは夏侯惇だね。
なんだらう、あのやうすのよさは。
失つたばかりなのたらう、黒い布で片目を覆ひ、槍を抱へて空いた手は前に立てるやうにしてゐて、残つた目は向かつて左を見てゐるのだけれども、険悪なやうすは微塵もない。
どの角度から見ても、惚れ惚れする。とくに、向かつて右側から見たときが、ドキリとするほどいい。
なんだかちよつと話しかけたさうなやうすにも感じられる。
人形劇の夏侯惇は、出番が遅く、目を失ふのも馬超との戦ひのときだつたりする。
うーん、見なほしてみないとなあ。

といふ感じで、周囲に強烈な印象の人が多いので、曹仁の印象がうすくなるのも、ま、仕方ないかな。

夏侯惇の斜め前が夏侯淵。
夏侯惇のすばらしさの前にチトかすむが、ヒカリエにゐた夏侯淵よりいい男である。
なんなんだらうね。ちよつとしたちがひなんだが、そのちよつとしたところが大きいんだらう。

その背後が曹操。
このケースの中央にゐる。
衣装が傷んでいるとは聞いてゐたが、まさかこれほどとはねえ。
色が褪せてゐるだけでなく、繊維がぼろぼろになりかけてゐる。あんなになつてしまふんだなあ。
衣装自体は立派なものなだけに、なんだか痛ましい。
曹操は、ヒカリエにゐた方がいい男だつた。ヒカリエにゐた方が品があつた。
でも、飯田の曹操も、向かつて左から見たときの眼光の鋭さがいい。こちらを睨んでゐるやうに見えるんだけど、それがなんだかいいんだなあ。

その横が賈詡。
賈詡も人形劇ではかなり出番が遅い。
いつの間にかゐて、最後までゐた、といふ感じがある。
参謀不足だつたのかな。
出番の遅いせゐか、老人態である。

その手前が張遼。
人形劇には出てこなかつた張遼だが、眉まで動くやうにできてゐる。おそらく目を閉じるカシラだらう。
ちよつと困つたやうな表情を浮かべてゐるのはなぜだらうか。関羽とのあひだでいろいろ立ち回らねばならなかつたからだらうか。
川本喜八郎は、張遼を作りなほしたいと云ふてゐた、といふ話を聞いたが、作りなほしたのかな。そのうちヒカリエで会へたりするのだらうか。

その隣が曹植。
人形劇には一回くらゐしか出てこなかつたんぢやないかなあ。
白塗りの、これまたちよつと困つたやうな顔つきをしてゐる。
父にも兄にも似てゐない。これは人形劇三国志全体を通してさうで、親兄弟がまるで似てゐない。唯一の例外は呂布と呂王だが、これは特殊な例だからなあ。

その後ろが曹丕。
まるまるとした顔につりあがつた目。どこか若さを感じるのは、まるくてつやのある頬のせゐだらうか。まるいせゐか、父親ほど険悪な感じはしない。
まるいつていいことだな。

一番左端が荀彧。
人形劇では、このまま出てこないのかなあ、と思はれた荀彧だが、最後の最後に一度だけ登場する。
そのせゐか、これまた老人態である。それも、今にも死にさうな感じの老人。
恨めしさうな面持ちで立つてゐる。
荀彧も荀攸も、人形劇では曹操の悪行を印象づけるために登場したやうなものだからなあ。もつと若いころから、それこそ、バリバリ活躍してゐたころから見たかつたね。

このケースでは、曹操が中央ではあるものの、その手前の夏侯淵の隣があいてゐるやうに見えてしまふのがチトバランスをくづしてゐる。
人形劇的には郭嘉あたりがゐればバランスが取れるんだと思ふけど、郭嘉は前半で死んでしまふからねえ。惜しい。
それにしても、女つ気皆無なのになんだか華やかな感じがするのは、人材マニアたる曹操の面目躍如といふべきだらう。

その他の展示については以下のとほり。
飯田に着くまでと、エントランスの謎
紳々竜々と「特異なキャラクター」、「江東の群像」
「玄徳の周辺」

Thursday, 23 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その二

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示替へは今月末といふことで、ひとまづ現在の展示について書いておく。
行つたのは、先月末なのか。
時蠅は矢が好き(Time flies like an arrow.)ぢやのう。

呉の隣は「玄徳の周辺」。
左端後方は、馬謖。例によつて融通のきかなそーなやうすで立つてゐる。印象は薄いなー。

その手前が馬超。こちらは槍などを抱へてゐて、目はギロリとしてゐる。力みなぎる感じ。
錦馬超ゆゑかはたまたその出自ゆゑか、他の人形とはちよつと衣装の感じがちがふのは人形劇のときとおなじ。あたりまへか。
この、馬謖・馬超といふならびは、なんとなく関係が薄い、といふか、まあおなじ主君を仰いだ人々、といへばそのとほりなんだけれども、「それで?」といふ感じがしないでもない。

馬超の隣は魏延。
魏延はちよつとおもしろいぞ。
剣舞の最中といつた趣で、剣を頭の上にかかげ、左手で剣先を持つてゐる。右足は膝をまげてつま先立ちになつてゐて、思はず「♪大丈夫に生まれー」とか歌ひたくなつてしまふこと請け合ひだ。
その割に目つきなんかは例によつて凶悪なので、「魏延が剣舞やつても場はなごまないけどなー」とか思つてしまふ。
魏延も、人形劇に登場したばかりのころは、それなりに「若武者」風の聲ではあつたんだがなあ。最終回付近ではすつかり悪人聲になつてゐるけれど。
人形から考へると、悪人聲がぴつたりだ。

その後ろが孔明。
玄徳亡きあとの白い衣装。左上を眺めてゐる。星を見てゐるこころなのかもしれない。
いはゆる「死に態の孔明」のためか、迫力には欠ける。あと、ちよつと高いところに飾られてゐて、さらに顎をあげてゐるので、「ここから見るといい」といふポイントを探しにくかつたな。

その隣が張飛。当然蛇棒をかまへてゐる。
人形劇の張飛はやつぱり可愛い。ヒカリエにゐる張飛とくらべるとつくづくさう思ふ。ヒカリエの張飛は、前回の展示のときも今回のもちよつと大人びてゐるものな、人形劇のときに比べて。

このケースの中央は、玄徳と少年時代の劉禅。
玄徳は、孫権・曹操と比べると一番褪色とかがすくないやうだ。ゆゑに立派に見える。
劉禅はかうして見るとやはり阿呆面ぢやのう。

その前左手に美芳と玲々。ちよつとだけ華やぐぞ。
玲々は可愛いな。よくよく見ると、髪の毛は紳々竜々や管輅のやうな縫ひ糸だ。
美芳と玲々の左後方には張飛がひかへてゐる。家族、といふくくりなのかもしれない。

玄徳と劉禅の前に趙雲。
中央は玄徳と劉禅となのだらうが、物理的な中央は趙雲だ。
左隣に張飛、右隣に関羽、といふことで、初期からゐる武将を三人そろへました、といふ図なのだと思ふが、「センター、趙雲かー」と思ふてしまつた。
あらためて見ると、ヒカリエにゐた趙雲はいい男だつたな、と思ふ。わづかな差だけれど、ヒカリエの趙雲の方が二枚目だつたな。

その右手前が法正。
大守だけあつて、ここでも破格の扱ひだ。飾られてゐる位置がいいやね。
大河ドラマなんかでいふと、大御所の演じる重厚な役といつた感じ。衣装も重厚な感じだしね。

その法正を見てゐたら、なんだか見られてゐる気がした。
ふつと視線をあげると、そこにゐたのが関羽。
これが実に絶妙のアングル。
なにも云はないのに(当然だ)、この存在感、だよ。こちらを見てゐるかのやうな、そんな視線を感じたからね。
もちろん青龍刀をかまへてゐる。
やはり人形劇の関羽はやうすがいいのう。

関羽の隣に龐統。
猫じやらしを銜へてゐるのはヒカリエにゐた龐統と一緒。
ヒカリエにゐた龐統と比べると、やはりこちらの方が可愛いし、普通だなあ。ヒカリエにゐた龐統は、正面から見ると、ほんと、「風狂」といふ感じ、といふか、なんか近寄つたらいけない感じの人に見えたからなあ。

その手前が関平。関平さんは三十になるやならずで、といふか、そんな感じの成長したあとの姿。
衣装の色のせゐか、なんとなく褪色の目立つ感じがチトあはれである。

その隣が姜維。
正面から見るとチト寄り目なのが気にかかるが、横顔の端正なことといつたら。
あら、姜維さんつたら、こんなにいい男だつたか知らんと見とれることしばし。
姜維の横顔、かー。人形劇で見た記憶があんまりないなあ。そもそも出番がすくないか。
ちよつと気をつけて見てみたい。

その後ろが黄忠。
展示室の外で流れてゐた人形劇三国志のDVDには黄忠の最期が入つてゐて、展示室から出るたびに、「ああ、なんだか黄忠、死にさう」といふこともしばしば。
黄忠は「年寄りはもうダメ」みたやうなことを云はれたと思つて先走つて死んでしまふ、みたやうな展開なのだが、展示室にゐる黄忠はもつと思慮深い感じ。
真つ黒な甲冑がまたいいんだな。手には弓。

実質的な中央は玄徳と劉禅のはずなんだが、ぱつと見たところ趙雲に見える(といふか、実際にさうなんだけど)、といふわけで、このケースのバランスはちよつと微妙な感じかな。
まあ、関羽と張飛、孔明と龐統が呼応してゐる、といふのはきれいなんだけどね。

その他の展示については以下のとほり。
飯田に着くまでと、エントランスの謎
紳々竜々と「特異なキャラクター」、「江東の群像」

Wednesday, 22 May 2013

隣の席の客を叱れ

去年、何年かぶりに宝塚を見に行つた
演目は宙組の銀河英雄伝説。
超満員の東京宝塚劇場で、なににおどろいたつて、上演中の観客席のしづけさに、だ。
しづかなのである。
携帯電話を切るのはあたりまへ。
私語はもちろん、ビニルの買物袋のかさといふ音すらしない。
それも、上演時間中ずつと、だ。
もしかしたら自分の周囲だけだつたのかもしれない。
それにしたつてすごいことだ。
歌舞伎だつたら絶対あり得ない。

なるほど、宝塚を見に行く人は観客のマナーにうるさいはずだよな。
つねにかうなら、ほかの劇場はたいていダメだらう。
もしかしたら、劇団四季や、ジャニーズ事務所主催の舞台なんかもかうなのかな、といふ気がする。

宝塚の客層の特異なところはなんだらうか。
しよつ中見に行く人が多いこと、かな。
なぜと云つて、銀英伝を見に行つたときに、そこかしこで「今回は普段見に来ないお客さんが多いからねえ」といふ話をしてゐるのを耳にはさんだからだ。
なにを隠さうこのやつがれもまたその「普段見に来ない客」だつたからね。
彼女たちには見ただけでわかるのだ。
ある客が自分たちの仲間か否かが。

ちなみに、こちらにもまた、「あ、この人は宝塚を見に来た人だな。それもよく見てゐる人だな」とわかることがある。
出で立ちからなんとなくそれと知れるのである。
歌舞伎では、ついぞないことだ。
わかるとしたら、歌舞伎座付近で和装の人はさうかな、といふ程度である。

歌舞伎の客層もまた、普段見る人ばかりなんぢやないか、といふ人もゐるかもしれない。
歌舞伎はちよつとちがふんだな。
団体客、といふ、いはゆる一見さんがたくさんゐる。

また、宝塚は客同士の連携も強いのだらう。
好きな組がおなじ、とか、好きな人が一緒、とかで、もりあがつたりするんぢやないのかなあ。
連帯感が生まれれば、観劇中に他をはばかる気持ちも生まれる。
さういふことのやうな気がする。

と、ここまですべては、「見た感じ、そんな気がする」といふ話である。

なぜこんなことを書くか、といふと、近年とみに歌舞伎を見に行く客のマナーを云々する話を聞くからだ。
実際、自分が見に行つたときも、「これはちよつとどうよ」といふことがある。
たとへば、この正月初日に隣の席になつた人は、上演時間中ずつと自身のiPhoneを見てゐた。
いつたいなにをしにきたんだらう。
iPhoneの明かりが気になるやうな演目がなかつたからよかつたやうなものの、「だつたら見に来なければいいのに」と思つてしまふ。

あるいは去年の秋、国立劇場に行つたときのこと。
斜め前の席の人が、芝居の最中にいきなり菓子袋をやぶつておかきだかお煎餅だかを食べ出した時の驚愕。
菓子袋をやぶる音はもちろん、お菓子をかぢる音の邪魔なことといつたら。

はたまた三年前の「盛綱陣屋」のときのこと。
首実検の、一番いいところで携帯電話の着信音が鳴つたときの、あのなんとも云へない悔しさ。
いいところだつたんだぜ。
松嶋屋の盛綱だぜ。
ほんたうにあの悔しさは、なんと云ひあらはしたらいいのやら、いまになつても見当もつかない。
いまだに思ひ出しては「きーっ」と思ふほどだ。

歌舞伎の観客のマナーがよくない、といふ話は、それはもうずつと以前からあるのださうである。
芝居見物のはじまつたころからあるのにちがひない。
やつがれがよく目にするやうになつたのは、先代の歌舞伎座のさよなら公演のころだつたらうか。
調子つぱづれな聲で調子つぱづれなところでかけ聲をかける人がゐる、と、話題になつたのがちやうどそのころだつた。
あとはむやみやたらと拍手をする、とかね。
聞いた話だからさだかではないけれど、その拍手をする人に注意をすると、「私がみなさんに見所を教へてあげてゐるんです」といふ態度だつたのだといふ。

やつがれが実際に見聞きしたのは、こんな話だ。
先代の歌舞伎座の一階二等席で芝居を見てゐたときのことだ。
一階席後方からかけ聲をかけてゐる人がゐる。
一階席でかけ聲をかけるなんて、なんといふ不見識な、と思つてゐたら、幕間に件の聲をかけてゐたとおぼしき人が、やつがれのそばに座つてゐる人に話しかけてきた。
なんでも、退職したかなんかで一年前くらゐから観劇するやうになつたのだ、といふ。
「最近では大向かうもかけるやうになりまして」
と、半ばはづかしさうに、半ば自慢げに話してゐるではないか。

どうやら、仲間数名で見に来てゐるやうだつたけれど、たぶん、教へてくれる人がゐないんだな。
一階席や二階席からは聲をかけるものではない、といふことを。
きつと落語も聞かないのだらう。
聞けば、いいところのお嬢さんが天井桟敷から芝居見物するちんぴらめいた若者に「贔屓の音羽屋に代はりに聲をかけておくれ」と頼まれる話を知つてゐるはずである。

これも予想でしかないけれど、おそらく、宝塚劇場で芝居中に騒がしいことをしでかしたら、周囲から注意を受けるのだらう。
もしかしたら、劇場の裏に呼び出されてヤキを入れられたりするのかもしれない。
さう思はせるところがあるくらゐ、宝塚を見に来てゐる客は統制がとれてゐる。
ひとりひとりはバラバラに見に来てゐるだらうに、だ。

歌舞伎はさうぢやない。
注意する人もゐるだらうけど、やつがれは注意したことはない。
うるさいなあと思つたり、迷惑だなあと思つたりしたことはあるけれど、たとへば隣の席の人の携帯電話が着信して震へてうるさいといふことがあつても、注意をしたことはない。

劇場側が注意をすることはある。
だが、劇場側にとつては、相手も客である。
さう強くは出られないだらう。
まあ、あまり目にあまるやうだと出入り禁止になつたりする、といふ噂も耳にするが、よほどのことがないとムリなんぢやないかなあ。

互ひに注意しあふやうになつたら、すこしはよくなるんぢやないかといふ気もするが、しかし、迷惑行為をするやうな人は、そもそもちよつとどうかしてるんだから、注意しても無駄、とも思ふ。

いづれにしても、自分から注意したりしないんだから、黙つてろ、といふことなのかな。
愚痴は云ふけどさ。

Tuesday, 21 May 2013

タティングレース展@日本橋高島屋

土曜日に、「タティングレース(CreAtorクリエイター06)」出版記念のタティングレース展に行つてきた。

念のため、日本橋高島屋のインフォメーションデスクで詳しい開催場所などを訊いてから行つた。
訊いて行つて正解だつた。
さうしなかつたら、とほり過ぎてゐたものと思ふ。
一見、百貨店に出店してゐる手藝店のやうなかまへだつたからだ。

歌舞伎座で第二部を見たあとだつたこともあり、たどり着いたのは六時半ごろだつた。
その時点で、せまいスペースには十人前後ゐたと思ふ。
うち四人は展示側。
作品は、ガラスのケースにおさめられてゐたり、そのまま展示されてゐたりした。
展示といふよりは物販がメインのやうに感じられた。

なにが圧巻つて、高嶋タティングの玄関マットはすごかつたなあ。
本にも極太毛糸を使用してゐる、とは書いてあつたが、まさかこんなにひとつのモチーフが大きいとは思はなかつた。
繊細さ・はかなさを標榜してゐるだらうその他の作品の中で、ひときは異彩をはなつてゐた。

以前、「毛糸だま」でダマスク織だつたか、織物をはじめた人のコラムが掲載されてゐたことがある。
その人は、どんなものを作りたいかと訊かれて、「まづは玄関マットでも」と答へ、先生やほかの生徒に「作つたものを足蹴にするなんて」と唖然とされた、と書いてゐた。
ひとつの作品を織るのに、大変な労力を要する織り方だつたのだ。

タティングレースもまた、「足蹴にするなんて」と思つてしまふくらゐには手間のかかる手藝かと思ふ。
あの場に作品を展示するやうな先生は、もしかしたらものすごく手も速くて、あつといふ間に作れてしまふのかもしれないが、すくなくともやつがれはダメだ。

しかし、ああいふ玄関マットを見てしまふと、「な、なんか作つてみたいなー」といふ気になつてしまふ。
冷静な判断力を失つてしまふのだ。

高嶋タティングについては、かねがね書いてゐる「タティングレースとかぎ針編みの融合」のやうな作品もいくつか飾られてゐた。
さうだよね。かうなうては叶はぬ叶はぬ。
また、テキストや高嶋針も売られてゐた。

売られてゐたといへば、ほかには萬華鏡のキットや、寺地優香のビーズタティングキットもあった。キットには心惹かれたなあ。作る時間が取れまいといふので泣く泣くあきらめたけど。
ほかには、ドイリーや栞、ショールなどの完成品も売られてゐた。
うーん、かういふところに来る人は、キットは買つても完成品は買はないんぢやないかなあ。
もちろん、自作の参考に、といふのでドイリーなどを入手したい人もゐるのだらうけど、手藝をたしなむ人つて、基本的には「作りたがり」なのだ。自分でやつてみたい。自分で作りたい。さういふmentalityの持ち主が多い。
まあ、さういふ人は、会場のそばにある越前屋などへ行け、といふことなのだらう。

いろんな人の作品が並んでゐる、といふことは、作つた人も何人もゐる、といふことだらう。
デザイナ本人が作つたわけではないかもしれないが、おなじ人が全部作つたといふこともあるまい。
さう考へて展示品を見てみた。
他人の作つたものを見る機会がなかなかないので、ぢつくり見た。
いづれもかなりしつかりとした作りになつてゐた。
さうかー、もつときつちり糸を引くべきなのかなあ。
やつがれは、もともと結び目は少しゆるく、糸をきつく癖があつた。
さうすると、結び目がぐしやりとつぶれてしまふ。
それで、普段は結び目のゆるさにあはせて糸もあまりきつく引かないやうに気をつけてゐる。
うーん、結び目自体をもつときつちり作つた方がいいのかな。

また、当番をはづれたのだらうデザイナとおぼしき方が、片隅でタティングをしてゐる場面にも遭遇した。
正直云ふと、これまで生きてきて、自分以外の人間がタティングしてゐるのを見たことは三回ほどしかない。
思はず作品を見るふりをしながらちらちら様子をうかがつてしまつた。
あとりえシシカスでたまにとりあつかつてゐる透明のシャトルを使つてゐた。
シャトルさばきが優雅でよかつたな。やつがれもあんな風にできるやうになる日が来るんだらうか。
……来ない気がするのだが。

いいな、と思つたのは、島崎須美恵の作品だと思はれる、ショールのやうな作品。
本には、ビーズのネックレスの背後にさりげなくおかれてゐるだけで、作り方も出てゐない。
実際、モチーフひとつひとつはそんなにむづかしいものではなささうだ。いかにも「タティングレース」といつた趣のモチーフがつながつてゐる。そんな作品である。
70番くらゐの糸で作つたんぢやないかなあ。
ちよつとすてきだった。

今日発売の「素敵にハンドメイド」にもタティングレースの作品が掲載されるとのこと。
本屋に見に行かなければ。

Monday, 20 May 2013

夏ものに手間取る

Linen Scarf

先週、「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐるリネンのストールを編み終へた。

編み終へるのに、一ヶ月以上もかかつてしまつた。
なんてことだ。

見てもわかると思ふが、むづかしい模様といふわけではない。
ちよつと編めば、すぐ覚えられる。
ハマナカのフラックスSが編みやすい糸であることは、編みはじめたころに書いてゐる。羊毛の糸とおなじくらゐ、とは云はないが、それでもかなりすいすいと編める。針は匠を使つた。糸と針との相性がよかつたのかもしれない。

だのに、一ヶ月。
うーん。

すでに何度か書いたやうに、理由がないわけではない。
かんたんなものではあるが、この模様は毎段減らし目とかけ目が出てくる。
裏を見て編むときはメリヤス編みや裏メリヤス編みだけ、といふわけではない。
そのせゐで時間がかかつたのではあるまいか。

裏を編むときに、メリヤス編みだけ、とか、裏メリヤス編みだけ、といふのは、結構重要なことのやうに思ふ。
その段を編むときは、気が抜けるからだ。
気が抜ける、といつて悪ければ、緊張しなくてもいい、と云ひかへてもいい。

かんたんなくり返し模様であつても、模様を編んでゐるときは、それなりに緊張してゐるものらしい。
mindless knitting などと思つてゐたが、まつたくなにも考へずに編んでゐるわけではないのだらう。

その証拠に、平日はほとんど編めてゐなかつた。
これも、一ヶ月もかかつてしまつた理由のひとつである。
なぜか、平日はほとんどこのストールを編むことはなかつた。
ほかにやることがあつたから、とか、最近帰ってきてもすぐ寝てしまふから、とか、いろいろ理由はある。
でも、一番大きい理由は、「気軽に手を出せないから」だつたんではないか。
いまになつてさう思ふ。

表にも裏にも模様編みが入つてゐるから、きりのいいところまで編まないと次に編みはじめるときに、どこから編んでいいのかわからない。
また、裏を見て編むときは模様が見えない。時折表を確認しながら編むことになる。
ちよつとした空き時間に気軽に編む、といふ感じではないのだ。

まあ、そんなところなのだらう。

このストールは、この本を買つて帰つて、即編みはじめた。
手持の糸に、指定糸があつたからだ、といふ話は書いた。二玉足りないけれど、と。
もし指定どほりの数の糸が手元にあつたら、まだ編んでゐたことだらう。
だから、足りなくてよかつたのかもしれない、とは以前書いた。

だが、足りないから、なんとも中途半端な出来になつてしまつた、といふこともまた確かである。
本にはストールとあるが、この長さではストールとは呼べまい。
せいぜいスカーフである。
本には人が使用してゐる写真が掲載されてゐないので、実際のところはどうだかわからないが、おそらく肩を覆ふやうなものになるのだらうと思ふ。
二玉足りないと、そこまでの長さはないなあ。
ショールピンなどで前をとめればなんとかいけないことはないやうな気もするけれど。
スカーフとして、首周りに巻くくらゐだらう。
そして、首周りに巻くには、幅が広すぎる。
そんな感じがする。

編み終へてすぐに、おなじ本から今度はかぎ針編みのスカーフを編みはじめた。
オーガニックコットンポーム無垢綿のレース糸を使つた、七宝編みのやうな編み地のスカーフである。
これがまた時間がかかつて、ねえ。
編み上がるまで、一ヶ月以上かかるのではないか。
そんな気がしてゐる。
この夏はこれだけで終はるかもしれない。

まだ夏も来てゐないのに、そんな気がしてしかたがない。

Friday, 17 May 2013

冬物をかたづけなければ

そろそろ冬物を片づけなければ。
いつのまにかそんな時期になつてゐる。

をかしい。
つい最近まで家の中でふるへてゐたのに。
この冬はとくに冷えた。
なんかもう、自宅にゐてがまん大会のやうになつてゐた。
もちろん、暖房機器はあるし、使つてもゐた。
とは云ひながら、なぜか電気代が高いし、ちよつと使用をひかへてしまつた、といふこともある。

いづれにしても、寒かつた。
あの寒さを、なんとかして夏の暑さに還元できないものだらうか。
そんな、愚にもつかぬことを真剣に考へてしまふほど寒かつた。

冬物のかたづけといつて、買つたコートやジャケットは、クリーニングに出せばいいのだが。
問題は、自分で編んだものである。

自分で編むものつて、増殖するんだよね。
この秋冬は、なんと着るものを二着も編んでしまつた。
編みやすくて心地いいニットのふだん着」からヴェストを一着。
毛糸だま 2012年 冬特大号」からマーガレットをヴェストにかへて一着。

まさかこの自分が着るものを編むやうになるなんてなあ。

どちらも、この冬よく着た。
おもに自宅で、だけど。
だつて、冷えるんだもん。

そのまへの秋冬には「着こなし上手のニットのふだん着」からカーディガンを編んだ。
これもよく着た。
おもに自宅で。

いづれも編んでゐて楽しかつたし、着てあたたかいし、編んで正解だつたな、とは思ふ。
しかし、どうやつてかたづけたらいいのだらう。

まあ、とりあへず洗ふよ。
洗ふときは、アクロンでみづから洗ふ。
みづからといつても、洗濯機のクリーニングモードとかで洗ふわけだが。
そこまではいい。
問題は、干すときなのだ。

これまでは、編むものといつて、大きいものはショールていどだつた。
ショールは、とりあへず長くのばして干せばいい。
厚いといつてもたかが知れてるしね。
メビウスの輪になつてゐるものは、時々かさなつてゐる部分を動かす必要があつたりはするが、でもまあ、たかがしれてゐる。

問題は着るものだ。

どうしても、重なる部分が出てくるんだよな。
しかも、三着もある。
むむー。

釣具売り場にでも行つて、網を買つてくればいいのかなあ。
以前、ヴォーグだかで、そんなやうなセーターを干す用具が出てゐた。
その時に「釣り具屋さんに行けば、ああいふの売られてるよ」とも教へてもらつた。
そのころから「いいな」と思つてゐるのだが、買つたことはない。
着るものを編まなかつたからだ。

なんで着るものなんか編むんだよ、やつがれ。

これまでは、五月の連休中、天気のよく乾燥した日を選んでマフラーやショールの類を「えいやっ」と洗つてゐた。
去年は北欧に行つてしまつたので、結局七月くらゐに洗つてしまつた。
今年も着るものに関してはさうなるかなあ。
もうこれ以上、着るものを編んではいけないだらうか。
とほほ。

教訓。
着るものを編むときは、かたづけるときのことも考へないといけない。

とか云ひながら、「風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、「ジレ」とは書いてあるものの、「ヴェスト」だらう、と思つてゐるものを編みたいと思つてゐるのだつた。

懲りないなあ。

Thursday, 16 May 2013

日暮聊為梁甫吟

先日、飯田市川本喜八郎人形美術館へ行つた話を書いた。

この美術館は、入館者でなくてもくつろげるスペースをまうけてゐるのだといふ。
行つたときにはわからなかつたが、エントランス階の奥に、ソファがならべられたスペースがあつて、どうやらそれがさうらしい。
壁には、飯田市で催される人形劇関連のポスターがいろいろ貼られてゐて、隅のちいさな本棚には、徳間文庫の「三国志演義」をはじめ、横山光輝の「三国志」や吉川英治の「三国志」などが全巻そろつてゐて、どうやら読んでもいいのらしかつた。

そのスペースには、DVDプレイヤをつないだTVもおかれてゐて、川本喜八郎へのインタヴューをエンドレスで流してゐた。確認はしなかつたが、飯田市か、この美術館で作成したもののやうに見受けられる。
「周瑜のカシラの元は検非違使」といふのも、このインタヴューの中で川本喜八郎自身が答へてゐた。
その流れで、人形は鼻の下付近のモデリングが人間とちがふ、それでひとつのカシラで喜怒哀楽を表現できるのだ、と云つてゐた。
なるほど、さう云はれて見てみると、人形のその部分は人間にくらべるとのつぺりした感じがする。
能面なんかもさうなのかなあ。機会があつたら確認してみやう。

人形劇三国志については、最初の五話くらゐは、人形遣ひの人々は活劇のつもりでゐて、心理劇になるとは思はずに操演してゐたといふ。
それが段々と変はつてきて、脚本の小川英が、「これなら心理劇ができる」と断じ、次第にさういふ方向に変化していつたのだとか。
なるほど、最初の五話くらゐには、なんとなーくのれない感じがするのは、さういふ理由もあつたのだなあ。
人形劇三国志は、督郵殴打事件のあと、いきなり世直し天狗といふか、白馬童子といふか、さういふ展開になつてしまつて、えらくおどろいたものだけれど、あのままだつたらきつと見てゐなかつたと思ふ。

そのうち人形遣ひの人々も、自分で演じる人形になりきるやうになつて、といふ話は、別冊太陽に出てゐた。
最終回、死んだ孔明に、監督は目を閉じるやう指示を出したが、孔明を遣つてゐた南波郁恵は、「孔明は絶対目を閉じたりなんかしない」と主張し、結局、目はあけたまま「死せる諸葛生ける仲達を走らす」といふことに相成る、といふ話も別冊太陽で読んだ。

もうひとつ、インタヴューでは心理劇の流れから、赤壁前夜の周瑜と孔明との会談の話になつた。川本喜八郎はこのとき使ふために、横目になる孔明のカシラを用意してゐたのだといふ。
かうしたそのとき用の特殊なカシラといふのはいくつかあつて、たとへばこのあと赤壁で大敗する曹操のカシラも憤怒に燃えたそのときだけのカシラを使つてゐるし、関羽の死の際にも関羽にはそのとき用のカシラが用意されてゐて、川本喜八郎みづからそのカシラを使つて見せてくれた、といふ話は以前も何度か書いた。

それにしても、横目の孔明。

これも何度か書いてゐるが、人形のカシラは、目を動かせるやうに作つた場合、目の玉を左右または上下に動かせるか、目を閉じたり開いたりできるか、そのどちらかである。目の玉も動かせるし、まぶたも動かせる人形といふのは、いまだかつて見たことがない。
孔明のカシラは、目を閉じることのできるカシラだ。すなはち、目の玉は動かない。
それで、周瑜との心理戦のときにそなへて、目の玉の動かせるカシラ(あるいは単に流し目のカシラを用意しただけかもしれない。そこのところの詳細はわからない)を用意した、といふ。

見たかつたねえ、目の玉の動く孔明。
しかし、このカシラは実際に使はれることはなかつた。
孔明を遣ふ人形遣ひが、「孔明は横目になんかならない」と主張したのださうだ。
それでお蔵入りになつてしまつたのだといふ。
もつたいない。

ヒカリエにゐた孔明は、照明の加減で横を見てゐるやうに見えるときがあつた。
でも実際に人形遣ひがつかつたら、また趣もちがつたことだらう。
見たかつたなあ。
おそらく、さうして日の目を見なかつたカシラや工夫がほかにもいくつかあつたのだらう。
また、人形遣ひの人の意見がさうして通つてゐたのだなあ、と、これもまた感慨深い。

人形と人間の役者のちがひはなにか、といふ問ひには、こんなことを答へてゐた。
人間の役者は与へられた役ならばなんでもこなせる、またさうあらねばならない。人形は、孔明なら孔明、清盛なら清盛として生まれ、役目が終はつたらそのまま消へてゆく。そこがなんともいとほしい。

役目が終はつたら、消へていく、か。
そんな風に考へたことはなかつたな。
さう考へると、なんだかますます切ない。

また、「孔明を演じる役者が、たとへばバイクのCMに出て、とばしてゐるやうな様を見たら違和感があるでせう。人形にはそれがない」といふやうなことも云つてゐた。
うーん、これにはちよつと異論があるなあ。だつて、役者は与へられた役ならなんでもこなすものなんでせう。
でもまあ、世の中さういふ風になつてゐるよな、とも思ふ。
古い話だけれど、大川橋蔵なら銭形平次のイメージをこはさないやうに普段から生活してゐたらう。さういふ話なのだと思ふ。
あと、この場合「孔明を演じる役者」つて具体的なイメージがあるのか、といふ点にもちよつと興味を惹かれる。京劇の役者だつたら、ありかなあ。中村雀右衛門なんか、黒い革のスーツに身を包み、それこそバイクに乗つてバリバリ走つてゐたらしいもんな。舞台のうへではあんなにしつとりつややかだつたのに。

今後作りたいものとして、シルクロードをあげてゐた。
若い頃から作りたくて、脚本も書いてあるのだといふ。
今の技術があればできるかも、でもあと五十年は生きないとね、と、笑つてゐた。
かなり晩年のときのインタヴューだと思ふが、顔の皮膚などはつやつやとしてはりもあつて、とても年相応には見えなかつたし、「老人」と呼ぶのははばかられるやうな若さだつた。
それでも、諦念めいた笑ひが、ちよつとたまらなかつたな。

最後に、諸葛孔明のやうな人がゐたら、きつと日本はよくなる、といふやうなことを云つてゐた。
元々は、三国志演義に出てくる人々は、大抵似たやうな人がどこかにゐますよね、といふ話だつた。この流れからいくと、どうやら「でも、孔明のやうな人は、今はゐないね」といふ話なのだと思ふ。
これを聞いて、「ええー、さうかなあ」と思つてしまつた自分の孔明像は、川本喜八郎の孔明像とはちがふんだらう。
「総理大臣でなくてもいいんです。ああいふ人がゐたら、日本はきつとよくなる」とも云つてゐた。
断言してゐた、と云つてもいい。

川本喜八郎の孔明像は、吉川英治の「偉大なる平凡人」に近いのかもしれない。吉川三国志は最後に読んでからもうずいぶんたつので、どんな人物かと問はれるとかなりあやふやだが。
まあ、柴錬三国志の孔明でないことだけは確かだらう。

最近読んだ十八史略から見ると、孔明は多分過労死だし、人に仕事がまかせられない感じだし、それはまはりに人材がゐないからで、それといふのも大元はきつと玄徳が人材を使ひこなせない人だつたからなんではないか……とか、いろいろ考へてしまつたりしたのだが。

とりあへず、新潮文庫で出なほしてゐることだし、吉川英治の「三国志」でも読みなほしてみるかなあ。

Wednesday, 15 May 2013

ドイツのノート

もうせんドイツに行きたいと思つてゐる。
とくに観光地に行きたいとかいふわけではない。
ノイシュヴァンシュタイン城? ロマンティッシュ街道?
興味のないわけぢやあないが、なにがなんでも行きたいか、と問はれると、「びみょー」だ。

ぢやあなにをしに行きたいのか。
街歩き、かな。
普通に人の暮らしてゐるところで、人のしてゐることをぼんやりと見て、ビールとか飲んでみたい。
さう、ビール、ね。
ビールを飲みに行きたい。

ドイツといふと、やつがれにとつては文房具だ。
萬年筆を入れたペンケースには、なにかしら必ずドイツ製の萬年筆が入つてゐる。
最近は、国産の萬年筆の出番が多いが、WILDSWANSの二本差しのPeekaBooに入れてゐるのは金ペン堂で求めたマイスターシュテック146だし、職場でアイディア出しに使ふのはスーベレーン800の太字だつたりカリグラフィーだつたりだし、TAKUYAに注文したペン差しには伯爵モデルのペルナンブコがささつてゐるし、といつた寸法だ。

鉛筆も、線を引くのに使ふのはたまのことといふこともあるがポリクロモスから選んだ好きな色の色鉛筆だし、同じくパーフェクトペンシルも常備してゐる。
まあ、鉛筆もMONO 100とかHi-UNIとかを使ふことが多いのだが、色鉛筆はポリクロモスが好きなんだよなあ。
鉛筆はたまにしか使はなくなつたし、これくらゐの贅沢はしてもいいかな、と思つてゐる。

ところで、最近までMoleskineのStar Warsエディションを使つてゐた。無地のポケットサイズだ。
普段使ひの手帳は通常三ヶ月くらゐで使ひきるが、今回は半年かかつた。
書かない日が多かつたから、といふのもあるやうな気はするが、長くかかつた主な理由は、無地ゆゑに、ちまちまとした字で書き連ねてしまつたから。
いまぱつと目についたページを見て計算してみたが、一ページに900字くらゐは書き込んでゐるやうだ。
Moleskineにも萬年筆を使ふんだけれども、例によつて大抵のインキは裏抜けする。裏抜けしなくてもインキフローはしぶい方がいい。
といふわけで、細字や極細のペン先ばかり使つた結果、本来のちまちました字がますますちまちましてしまひ、延々半年使ひつづけることになつてしまつた。

Molesineを使つてゐると、さうやつてペンを選ぶことに不自由を感じる。
「次はペンを選ばない紙にしやう」
さう思ふやうになる。

そんなわけで、使ひはじめるとすぐに次の手帳の物色がはじまる。
今回、思ひきつて、GMUNDのノートを使つてみることにした。

GMUND。
ドイツの会社だ。

手にしたのは文庫サイズのノート。
K.ITOYAでメルシーポイントを使つて入手した。
Moleskineのポケットサイズを使つてゐると、ちよつと大きいかな、とも思ふ。
サバンナブビンガといふノートを選んだ。ブビンガは木の名前だ。表紙が木目調になつてゐるので、そのためかと思ふ。

罫線入りを選んだら、なんだか楽しいことになつてゐた。
フランス風の罫線なのらしい。
実線の横罫と点線の縦罫とで、こまかく区切られてゐる。
最初は使ひづらさうと思つたが、実際に書き込んでみると、これが悪くない。
横罫は二行使ひ、縦罫で書き出しをあはせてゐる。

紙はかなり厚い感じ。
書き味は、ざらりとした感じ。
ペン先と紙との摩擦音が苦手なので、この紙はダメかなーと思つたが、ペンとの相性次第かな。
これまでMoleskineで使つてゐたやうなインキフローのしぶいペンは受け付けてくれない。中屋の細軟はいけるかな、といつた感じで、キャップレスデシモの極細などは歯が立たないといつた感じ。
そのかはり、これまで控へにまはつてゐたペンは軒並み使へる。
上に書いたマイスターシュテック146とか、スーヴェレーンの太字やカリグラフィーはもちろん、ドルチェヴィータの細字なんかぴつたりだし、大橋堂のペンもいい感じで使へてゐる。さうさう、Cocoonの細字もいい。

まだ使ひはじめたばかりなので、とりあへず感想としてはこんなところだ。
今後、外で使つてみたりするとまたちがつた印象を受けることとと思ふ。
つづきはまたそのときにでも。

Tuesday, 14 May 2013

新刊ラッシュ その3

小さくてかわいいタティングレースのアクセサリー 」は、発売日に入手した。

「さすがに発売日にはおいてないよな」と思ひながら行つた地元の本屋の手藝本の棚に平積みになつてゐたからだ。
ありがたい話である。
タティングレースの人気のあらはれだらうか。
大手手藝本出版社の本だからといふこともあるかなとも思ふが。

さて、新刊を紹介するときには、まづなにかひとつその本の中から作つてみてからにしてゐるのだが。
今回は、まだなにも作つてゐない。
「そのうち作りたい」と思ふものはいくつかあるし、表紙の傘なんか、ワイヤがあつたら即作つてゐるだらうと思ふ。
どうやら、気分の落ち込む時期にきてゐるやうだ。
この時期をぬけたら、「そのうち」と思つてゐるものを作るだらう。

題名のとほり、タティングレースのちいさなモチーフをペンダントトップとして使つたり、ピアスにしたり、ピンの先やくるみボタンにつけたりした作品が掲載されてゐる。

モチーフを三枚ほど重ねてアイリッシュクロシェにありさうな立体的な花を作つたり、クリュニータティングのやうなテクニックを使つてゐたり、ちいさいけれども手のこんだものもある。
ビーズはモチーフをつなぐときに入れたり、あとから縫ひつけたりするものが多い。ボタンもあとから縫ひつけてゐる。個人的な好みを云ふと、ボタンを使ふならボタン穴にピコをとほしてつないだものがよかつたなあと思ふが、「だつたら自分でさうすればいいぢやん」つてな話だな。すまん。

とはいへ、「暮らしの中のタティングレース」や「タティングレース(CreAtorクリエイター06)」に比べると、短時間でできる作品が多いといへるだらう。

好きな本を選んだらいい。

うわ、こんなことを書ける日がくるなんてなあ。
好きな本を選べる自由。
好きな本を選べる贅沢。

それも、タティングレースで、だ。

どうしちやつたんだ?
世の中の人は、そんなにみんなタティングレースを楽しんだりしてゐるのか?
ゐるのだらう。
単にやつがれのまはりにさういふ人がゐない、といふだけで。

ところで、「小さくてかわいいタティングレースのアクセサリー」のやうな本を見てタティングレースをするといふ話を聞いて思ふことは、おなじ(やうな)ものをいくつもいくつも、それこそ個人では使ひきれないくらゐ作つてしまふ人が増えるんぢやあるまいか、といふことである。
大きなお世話? はい、まさのそのとほり。

たのしいからね、作るのは。
あとさきも考へず、つぎからつぎへと作つてしまつて、あるときはたと気がつく。
この、自分ではどうしやうもないくらゐ増殖してしまつたものをどうしやう。

かつて、あみぐるみやビーズ細工がやはりおなじやうな道をたどつてゐる。
みんな、作るのがあまりにもたのしくて、しかもできあがつたものがあまりにもかはいくて、ついつい作り過ぎてしまつた。
そのあと、作つたものはどうしてゐたんだらう。
オリジナリティに欠けるものを、フリーマーケットに出したりなんだりで人に売つたりしてゐたのだらうか。
それとも、えいやとばかりに捨ててしまつたか。
あるいは部屋の片隅でほこりをかぶつたりしてゐるのかもしれない。

あみぐるみもビーズ細工も、以前ほど夢中になる人をみかけない。
どちらも次のブームを待つてゐるのだらう。

ちなみにやつがれの場合、くつ下はひきだしの奥底に眠つてゐる。もうこれ以上編んでも仕方がないんだがなあ、とわかつてはゐても、編むのはたのしいのでやめられないのだ。

そんなわけで、以前ほどのハイペースではないものの、いまでもほそぼそとくつ下を編んでゐたりする。
いまも編みかけがあつたりするし。

この本でタティングレースを楽しむ人も、そんな感じでほそくながく、つづけられるといいなあと思ふ。

Monday, 13 May 2013

もつと読みたいあみものの本

あひかはらず「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に載つてゐるリネンのストールを編んでゐる。
連休中には編み終はるはずだつたんだがなあ。
平日ほとんど編んでゐないのが敗因だとは思ふのだが。
休みの日、それも家にゐる日に、「あまちゃん」とか「間違われちゃった男」とか見ながら編むだけだからなあ。それでも三時間近く編んでゐるはずなんだが。
をかしい。
最後の一玉に入つてもうかなり編んだので、あとすこしで編み終はるものと思つてはゐる。
指定より二玉もすくないのを心配してゐたが、いまとなつてはそれでよかつたのかもしれない。

それはさておき。

本邦のあみものの本で「ものたりないなー」と思ふのは、文字のすくないところだ。
米国のそれと比べると、雲泥の差である。
日本では編み方が図示で、米国では文章だから、それは当然だよ。
さういふ意見もあるだらう。
でも、それだけではない。

米国のあみものの本には、ひとつひとつの作品に、いろいろと解説なり説明なり「かういふ思ひで作りました」といふやうな文章がついてゐたりする。
日本のあみものの本には、それがない。
皆無ではないが、いはゆるファッション雑誌に出てくるやうなコピーめいた短い文だけで、きちんと読めるやうになつてゐるものはすくない。

あみものの本なんだから、「この作品はこれこれかういふところから名前をとりました」だとかいふ云ひわけめいた説明ではなく、作品で勝負しやうぜ。

さう思ふことも確かだ。

だけど、そこにデザイン上の工夫とか、「かうするとちよつとうまく編めるかも」とかいふやうな情報が入つてゐたら、それはとても読みたいんだよなあ。

やつがれは、芝居は見るが役者には詳しくない。
ここでいふ「詳しくない」といふのは、芸能ニュースの類についてを云ふ。
役者は舞台に立つてゐるときだけ見ればいい。
舞台を降りたら、ただの人。
どんな食べものが好きだとか、趣味はなんだとか、不義密通のうはさがある(!)だとか、そんなことは、どうでもいい。
さう思ふやうにしてゐる。

ただひとつ、舞台の外で気にかかるのは、藝談だ。
これは、聞きたいし、読みたい。
舞台の上でのあれこれにかかはることだからだ。

あみものの本では、これがデザイン上の工夫とか、編む上でやくにたつ情報にあたる。
編む上でやくにたたない情報は不要だが、さうでなければもつと読みたい。
つねづねさう思つてゐる。

だいたい、好きなものに関する本を読むのが好きだ。
世の中に、もつとあみものに関するエッセイなりなんなり、さうしたものがあふれてゐればいいのに。
実際に本屋に行つてみると、さうした本はほとんどない。
もしかしたら出版はされてゐるのかもしれない。
「随筆」とかのコーナーにあつて、「あみもの」の棚にはないだけなのかも。

でもなあ、もし世の中にあふれてゐるのなら、Amazonがすすめてきてくれるんぢやないかなあ。

ところで、和書のあみものにも、作品にまつはるあれこれが書かれたものもないわけぢやない。
ないわけぢやないんだが、さういふものにかぎつて、なんだかこー、「いや、別にさういふことが知りたいわけぢやないし」といふやうなことが書かれてゐたりするのが不思議である。
「読みたいんだらう。だつたら文句云ふなよ」と云はれるのを承知で書く。
なんていふのかな、さういふのの特徴つて、書かれてゐることとか文体とかが、妙に「をとめチック」といふか、「夢見がち」といふか、如何にも「世間で手藝好きといつたらかういふ感じ」といふステロタイプそのままな感じがするんだよなあ。

やつがれが求めてゐるのは、「Elizabeth Zimmermann's Knitter's Almanac」とか「Yarn Harlot: The Secret Life of a Knitter」とかなんだと思ふ。
まあ、EZにしてもYarn Harlotにしても、読んでゐて「Too much!」といふ気分になるのは否めないんだけどね。

気になりつつもまだ「おしゃれな世界のニットレシピ」をきちんと見てはゐないのだが。
上に書いたやうなことも書かれてゐるのかな。
だつたらなにがなんでも見つけなければ。

Friday, 10 May 2013

残りの人生を賭けるべきか

ここのところ、「十八史略」を読んでゐる。

だいぶ前から晩酌の折りにちよこちよこ読んでゐたのだが、連休中に手元にあつたのがこれだつたので、なんとなく読んでゐる。

この本は、抜粋なんだけれども、返り点や一二点のついた原文はついてゐるし、読み下し文もあるといふので入手した。
読んでゐて、これが滅法おもしろい。
おもしろいのは、よく知つてゐる話ばかりだからか。
抜粋なので、おもしろいところだけ抜き出してゐるからか。

そんな風に考へてゐたのだが、ここにきてちよつと変はつた。
もしかして、「史記」から取つてきた内容がおもしろいのではあるまいか。

といふのは、光武帝以降、なんとなくおもしろさが減つた。
妙な日本語だな。
「それでそれで?」つてな、ワクワクする気持ちがなくなつてきた。
そんな気がするからである。

「史記」かー。

やはり読むしかないのか。
この後の人生を費やしても。

以前も書いたけれど、世に出回つてゐる「史記」からの抜粋は、おもしろい。
これ以上脚色とかなんとか、いらないよね、と思ふくらゐ、おもしろい。
あれだけ長いと、全部が全部さうだとはいへないし、なにより読んだことがないからそんなことはいへないのだが、そこんとこ、確かめてみたい、といふ気持ちもある。

と、思つて探してみたのだが。
まづweb検索かけると一番にひつかかつてくるのが横山光輝のまんが。
その次が「史記」を紹介するやうな本。新書とかね。
「史記」が出てきたとしても、列伝だけとか、全部ありさうでも「現代語訳」だつたりとか、「うーん、なんかちがふ」と思つてしまふ。

無謀とわかつてゐても、やつぱり白文と読み下し文はほしい。
だつて漢文読み下しが好きなんだもん。
柴錬チルドレンだから。

しかし、「全部」「読み下し文」で「史記」を読むとか。
それもこれから。
やはり無謀なのではあるまいか。

とか、悩んでゐる暇があつたら、「読め」なのかな。
とはいへ、残りの人生と読みたい本とを考へあはせると、二の足を踏んでしまふのだつた。
あれか、読んでみてつまらなかつたらそこでやめればいいのか。
と、気軽に考へられるほどかんたんに手に入る本でもない、といふのも問題なのだつた。

「史記」の問題つて、紀伝体つてことなんだよな。
「この人のところにはかう書いてあるのに、あの人のところでかう。どつちだよ!」といふ、「きーっ!」感がどうしてもつきまとふ。
研究者なら、そこでいろいろ調べたりするのかもしれないが、なにせタイムリミットが、な。

ところで、「資治通鑑」も探してゐたりする。
無謀?
さうだよねえ。

Thursday, 09 May 2013

To Sleep or Not to Sleep

いまさらだが、睡眠つて大切なんだなあ、としみじみしてゐるところである。

この連休中、よく寝た。
飯田に行く日の朝だけは四時間弱で、出勤した二日は四時間台だつたが、それ以外は最低六時間は寝てゐた。八時間寝た日も二日ほどある。

連休中はどうといふことはなかつたのだが、連休明け、めうに躰がかるい。
物理的に体重がかるくなつたわけではない。
それでも、七日が一番いい感じで、八日もまあまだ大丈夫といつたところだつた。
今日はもう、なんだかちよつとつらい。

単に、気分の上向く時期なのかもしれない、とも思ふが、それだつてもしかしたら睡眠が足りてゐるせゐかもしれないといふ気もする。

いはゆる「寝だめ」といふのはできないのだといふ。
「寝だめ」と思つてゐるのは、実は睡眠不足をおぎなつてゐるに過ぎないのらしい。
すなはち、休日に余分に寝るといふことは、睡眠負債を返済してゐるといふことである。

連休が終はつてからといふもの、一日の睡眠時間は五時間台。それも前半といつたところ。
これだとどうも足りないらしいんだよなあ、やつがれには。
自然に目の覚めるのは、眠りに落ちてから七時間後以降といふことが多い。
ちよつと多めな感じがするのは、普段の睡眠不足のせゐといふこともあるかもしれないが、でもまあ、それくらゐは寝たいといふことだらう。
毎日五時間台の睡眠時間だと、だんだん躰がつらくなつてくるし。

ところで、寝てゐるあひだ、脳の再構成のやうなことがおこなはれてゐる、とはよく聞く話である。
寝てゐるあひだに、昼間見聞きしたもの、体験したことを脳が整理する、とでもいはうか。
暗記ものなどでも、寝てゐるあひだに記憶に定着するつて云ふしね。
なにかを暗記したいと思つたら、寝る直前に覚えるやうにすると、睡眠中にそれをうまいこと記憶してくれる、といふのだ。

これはやつがれにも経験があつて、たとへば学校にかよつてゐたころなどは、定期試験のときは寝ないとダメなのだつた。
これについては以前も書いたやうな気がするが、とにかく、徹夜で勉強といふのができない。
そんなことをしたら、かへつて試験の結果が悪くなる。
ちやんと寝て、試験にのぞんだ方が結果はいい。

中学と高校と、どちらも入学した直後の定期試験のときは、夜中に喘息の発作を起こして、あまり寝られなかつたりして、でもまあこのときは緊張してゐたせゐか、なんとかなつた、やうな気もする。
都合の悪いことは忘れてゐるだけかもしれない。

睡眠中に脳がさうして働くのだとしたら、睡眠時間が少なくても大丈夫な人、あるいはいはゆる「ショート・スリーパー」と呼ばれるやうな人々は、脳の働くスピードが速いのだらう。それとも効率がいいのだらうか。
たくさん寝ないとダメな自分から見ると、それがひどくうらやましい。
多分、自分の脳はポンコツで、寝てゐるあひだもわづかづつしかものごとを処理できないのにちがひない。
そんな気がして仕方がない。

長く寝ないとダメなんて、人生ムダにしてるやうぢやん。
かといつて、睡眠時間を削ると、如実にやる気は失せるし躰は重たいし普段から働かない頭がますます働かなくなる。

日々、寝るか寝ないかといふ葛藤の中生きてゐる。
まあ、しかし、寝た方がいいんだらうな。
それがこの連休を終へての結論である。
いまのところ。

Wednesday, 08 May 2013

諷刺は死にました

こどものころ読んだアート・バックウォルドは實におもしろかつた。
このときはじめて「コラムニスト」といふ職業を知つたやうに思ふ。
あるいは、コラムニストといふ職業があることを知つて、中にアート・バックウォルドといふ人がゐる、と聞き、手にしたのだつたかもしれない。

だれがコロンブスを発見したか―バックウォルド傑作選1」をはじめとして、図書館にある本を次々と借りた。

ジョンソンだとかニクソンだとか、その周囲の人々だとか、さういふ知識はすべてバックウォルドの本から得た。
さう云つても過言ではない。

当時読んだ本はすでに絶版だし、原書でも「Beating Around the Bush」など、新刊として手に入るのは晩年の作品だけのやうだ。

バックウォルドの文章は、非常に平易である。
原文もまことに読みやすい。
むづかしい云ひまはしなどはあまり出てこない。
登場する人物も、米国大統領など有名人ばかりである。
まあ、日本人としては「そんな、アメリカの大統領の側近なんて知らないよ」といふやうな人物も出てきたりはするけれど、そこはそれ、大抵は翻訳者の注がついてゐるものだ。

容易でゐて、諷刺がきいてゐる。
皮肉な書きつぷり。
さう云つてもいい。

たとへば、旧ソ連のKGBのエージェントが米国に亡命してきて云ふ。
「亡命したら、妻を殺す、と脅されました」、と。
「でもあなたは亡命してきたぢやあありませんか」、と云ふと、エージェントはにやりと笑つて、
「あなたは今完全犯罪を成し遂げた人間を目の前にしてゐるのですよ」、と云ふ。

いいなあ。
かういふ風に書けるやうになりたいなあ。

己が菲才を顧みず、さう思つたこともあつた。
といふか、いまでもさう思ふことがある。

バックウォルドの諷刺がきくのは、文章がむづかしくないからだらう。
万人に理解できる。

とはいつても、人と人とのあひだに誤解はつきものだ。
人間は誤解しあひながら生きてゐる、と書いてゐたのは池波正太郎だつたか。

皮肉を利かせるには、あるいは、皮肉を理解してもらふには、できるかぎり平易に書かねばならない。
さうしないと、誤解をまねきがちな皮肉が通じない、悪くすると、全然逆の意味にとられてしまふ。

わかつてゐる。
わかつてはゐるんだが、それがなかなかむづかしいんだよなあ。
だつてやつぱり人は気取つて文を書くぢやない。

最近あまり諷刺を目にしなくなつた。
諷刺を諷刺ととらへられる人が減つたからだらう。
それは、たまに映画を見に行つた帰り道、「いまの、結局どういふ意味だつたの?」と、連れに問ふ人が多いことでもわかる。
映画には諷刺はない。
多分、ちよつとわかりづらいだけだ。
古くは「ユージュアル・サスペクツ」とか、最近では「裏切りのサーカス」とか。さういへば、これは見てゐないけれど、「プラチナデータ」もわからんと云ふてゐる人がゐたな。

はつきり書かないとわからない。
容易に描かないと理解できない。

それはやつがれもまたさうである。

いまは、バックウォルドを真似するだけの才にめぐまれなかつたことを感謝するばかりである。

Tuesday, 07 May 2013

新刊ラッシュ その2

A New Book on Tatting

昨日は、「暮らしの中のタティングレース」について書いた。

今日は、「タティングレース(CreAtorクリエイター06)」について少々。

まづ、本屋で見かけない書籍である。
発売日には行けなかつたものの、その後連休中に行く先々で書店に寄つてみたが、「暮らしの中のタティングレース」は手藝の棚のあるところに平積みになつてゐるものの、ついぞこの本は見かけなかつた。
都心の大きな書店に行けばあるのかも、と思はないでもないが、みなどこで買つてゐるのかなあ。
謎である。

結局Amazonで注文した。
ここのところ、ずつと本は書店、とくに近所の書店で買ふやうにしてるんだがなあ。
注文すればよいのかもしれないといつも思ふ。「李賀 垂翅の客」を買ふたときもさう思つたが、本の流通のこととか考へると、ためらつてしまふのだつた。

ところで、この本の出版社は本を出すだけでなく、美術展などを開催したりもするのらしい。
この本も、出版を記念して日本橋高島屋でタティングレース展を行ふと、本の帯にある。期間は五月十五日から二十一日。
丸の内丸善では辻村寿三郎と11人の創作人形展といふのをもよほすといふ。これは五月二十二日から二十八日。
どちらにも行つてみたいなあ。

さて、肝心の本の内容だが、10人のタティングレース作家の作品を集めたものになつてゐる。
10人の内訳は以下のとほり。

  • 聖光院有彩
  • 藤戸禎子
  • 高嶋寿子
  • 後藤智子
  • 森久律子
  • 島崎須美恵
  • 高嶋妙子
  • 加藤慶子
  • 杉田久代
  • 寺地優香

もちろん、それぞれの持ち味を活かした作品が掲載されてゐる。
一目圧巻、タティングレースとひとことで云つてもいろいろあるんだなあ、と、眺めてゐるだけでも楽しい本だ。
ただ、そのせゐか、ときどき「too much」な気分になることも確かである。
云ひかへると、「オレがオレが」つてな感じ、といつたところか。
他の作家との競演ともなれば、さうなるのも当然かとは思ふ。

以前、「毛糸だま」に掲載されたときにも書いたのだが、ここに出てくる高嶋タティングの作品も、別段高嶋タティング針を使はねばできないものではない。
ニードルタティング用の針で十分かと思ふ。
なぜなら、作品の中にかぎ針編みの要素が皆無だからだ。
以前も書いたが、高嶋タティングといへば、タティングレースとかぎ針編みとの技法を組み合はせたもの、と思つてゐたが、その認識はあらためねばならないのらしい。
しかし、かぎ針編みの技法を使はないのなら、針先のかぎはなんのため、と疑問ではある。

ショールや玄関マット(!)など、大きな作品が目につく。
また、ビーズをあしらつた作品も多い。
それと、色糸、それも段染めの糸を使用した作品も多いやうに思ふ。
中でも、段染め糸で作つたモチーフを萬華鏡の中身にしてゐる作品がおもしろい。それは自分でも作つてみたいなあ。萬華鏡を作るのが面倒か知らん。

上の写真にうつつてゐるのは、本の中から作つてみやうと思つたモチーフである。
本ではつないでショールになつてゐる。絹穴糸と指定されてゐたので、ぱつと目についた糸を取り出してみたのだが、途中で糸が足りなくなつてしまつた。
このモチーフの作り方だが、中の茎の部分の目数の指定がない。あちこち探したが見当たらなかつた。
この本はあるていどタティングレースに親しんだもの向けとのことだが、まさか自分で目数を割り出さねばならない作品があるとは思はなかつた。
上記出版社のwebサイトには、まだ正誤表などはないやうだ。
そのうちどこかに出ることと思ひたい。

Monday, 06 May 2013

新刊ラッシュ

A New Book on Tatting

連休に入つてすぐ、「暮らしの中のタティングレース」を買つた。

この本は、絶版の「かわいいタッチングレース」と「やさしくタティングレース」とに掲載された作品を集めてきたものだといふ。
後者を買ふた記憶がないので、買つてみた。

藤重すみといふと、具象をタティングレースにした作品が思ひ浮かぶ。
「かわいいタッチングレース」に掲載されてゐた作品もさういふものが多かつた。
英米でdoodlesと呼ばれてゐる虫などや、花や小鳥などを、それとわかるやうにタティングレースの作品にしたものだ。
「暮らしの中のタティングレース」には、さうした作品は少ないやうに思はれる。
「かわいいタッチングレース」では色のついた糸を使つて作つてゐたものを、全部白い糸で作り替へてゐるからよけいに少ないやうに感じるのかも。

タティングレースやあみもので、具象をそのまま表現するやうな作品を、作りたいとは思はない。
おそらく、刺繍にそんなに興味がないのもそこに原因があるのではないかといふ気がする。クロスステッチなど、本来は絵を描くところを糸と布と針とで表現してみました、といふやうな作品が多いからだ。
これまで唯一惹かれ、一時ははまつた刺繍がスウェーデン刺繍なのも、できあがる作品が幾何学模様だつたりするからなんぢやないかなあ。
基本的なパッチワークがいいなあと思ふのも、おなじ理由だらう。パッチワークは縫ひものが好きではないので自分ではやらうとは思はないといふだけで。
さういふ個人的な嗜好からいくと、今回の本はいいな、と思ふ。

目立つのはドイリー。モチーフサイズの小さいものもあはせると、9作品ある。
また、ポーチなどに飾りとしてあしらはれた作品にも、そのままドイリーに使へるやうなものがある。

あとは、ビーズをあしらつたものとビーズなしのものと替襟がひとつづつ、ブレスレットなどのアクセサリ、エジングなどが主な掲載作品といつたところか。

「かわいいタッチングレース」に掲載されてゐた時点ではミニドイリーだつた作品を作つてみた。今回の本では、ノートにあしらはれてゐる。
本ではオリムパスの糸を使つてゐるが、生憎と手持に白い糸がなかつたので、DMC Cordonnet Specialの白を使つた。
普段はボビンのシャトルを使用してゐるやつがれだが、「かわいいタッチングレース」を買つたころは、クロバーの鼈甲模様のシャトルを使つてゐた。それと五個組の色違ひのシャトルしか、当時は手に入らなかつたから、といふのもある。
なによりも、クロバーのシャトルは、やはりなんだかんだいつて使ひやすい。

一カ所間違へてしまつた部分をそのままにしてゐるし、なーんか雑な出来なのだが、ここのところのやる気のなさを考へたらこんなものかのう。

タティングレースの新刊は、「タティングレース(CreAtorクリエイター06)」もあるし、明日には「小さくてかわいいタティングレースのアクセサリー 」も出版予定だといふ。

世の中、そんなにタティングレースをたしなむ人が増えてゐるのかな。
もしさうなら、喜ばしいことである。

Friday, 03 May 2013

ちよつとだけタティングしてみる

Tatting in Progress

飯田へは作りかけのタティングレースの栞を持つて行つた。
高速バスの中で作らうと思つてゐたのだが、行きは日野バス停付近ですでに渋滞。渋滞に入るとあつといふ間に眠れてしまふほど睡眠不足だつたこともあつて、次に気がついたのは双葉サーヴィスエリア。
そこからは順調だつたんだけど、普段見慣れぬ風景に気を取られてあまりタティングは進まなかつた。

帰りはチトせまい席だつたので、隣の人に申し訳ないといふことで自粛。しかも、途中から大渋滞に遭遇してしまつた。「いま下を向いたりしたら、絶対酔ふ」と思つたのでやめた、といふこともある。

それでも、行きのバスの中では、ちよこつと結んでみたりした。
天気がよくて、あたりの山々も富士山もよく見える中、タティングしつつ景色を見るといふのはなかなかよいものである。

以前はどこででも編んだり結んだりしてゐたんだがなあ。
とにかく家でそんなことをやつてゐる時間がほとんど取れないといふこともあつて、通勤途中の乗り物の中で発車前なんかにひたすら編んだり結んだりしてゐた。
定期券の切替が学期のはじまる時期とかさなつたりすると、大変な長蛇の列に並ばなければならなかつたりするのだが、そのときも編んでたなあ。六年前の北欧旅行のときに買つた毛糸で引き返し編みを使つたぐるぐる巻きの細いマフラーを編みながら順番を待つたこともあつた。

いまでも、家であれこれする時間がないのは変はらない。
最近、とみに睡眠が足りてゐないので、よけいに時間がない。

そのはずなんだがなあ。

最近は、始発の駅から乗ることがなくなつてしまつたので、発車前に編む、といふことができなくなつてしまつた。
同様の理由で座れることがほぼなくなつてしまひ、結んだりもできなくなつてしまつた。

できなくなつた理由はちやんとある。

あるにはあるのだが、でも、ほんたうにやりたいのだつたら、どうにかして時間をやりくりしてやるだらう。
さうも思ふ。

今の猿翁が猿之助だつたころ、TVのコマーシャルで、「ほんたうに惚れた相手なら、どんなに忙しくても会ふ時間をつくるものです」といふやうなことを云つてゐた。
当時の猿之助は、そりやあ忙しかつたはずだ。
猿之助劇団としてのおほきな公演は年三回、でもスーパー歌舞伎などは上演すればするほど赤字になると云ふ話だつた。
その埋め草に、舞台のないときはほかの仕事で稼いでゐたといふ。
それでなくたつて日々練習もするだらうし、弟子や劇団関係者の面倒も見なければならないだらう。
実際、猿之助の周囲の人が旦那の忙しさについて語つてゐたこともあつたやうに思ふ。

いま思へば、そんなに忙しいのに「どんなに忙しくても時間をつくるもの」なんて云ふてるから倒れたんぢやないか、とも思へるのだが。

でもなあ。
やつぱり好きなことだつたらなんとかして時間を捻出するんぢやあるまいか。
さう思はれてならない。

つてことは、もうやつがれはあみものもタティングレースもそんなに好きではないのだらうか。

そんなことを考へながら、今日はぼんやりタティングレースのドイリーなど作つてゐた。

Thursday, 02 May 2013

ふろしき大好き

観世水

飯田へは、ブロガーズトートを持つて出かけた。

ここ二週間ばかり、出勤もブロガーズトートだし、昨日も映画に行くのに「こんなデカいかばんでなくても」と思ひながら、ブロガーズトートを持つて行つた。

ブロガーズトートのいいところは、荷物の多いときは多いなりに、少ないときは少ないなりに、いい感じで持てる、といふところだ。
また、以前も書いたけれど、貴重品をしまふファスナー付のポケットは充実してゐるし、iPhoneや定期券入れなど即取り出したいものをしまふところもちやんとある。それ以外のものは、とりあへずはふりこんでおけばいい。
さういふ使ひ方が気に入つた、といふのも大きい。

飯田に行つたときは、一泊旅行だし、これひとつでなんとかなるだらうといふので持つて行つた。
実際は、細々したものがそれなりに重たくて、飯田市川本喜八郎人形美術館ではロッカーに預けることにしてしまつたが。
でもまあ、持つたまま街歩きなんかもしたし、いいんぢやないかな、ブロガーズトート。

ところで、泊まりがけで旅に行くときは、必ず持つていくものがある。
ひとつは、垢すり代はりの手ぬぐひ。
使つてゐるのは、染の安坊のいろまめ白地茜色
普段はふつーに化繊の垢すりを使つてゐるが、旅先では手ぬぐひを使つてゐる。
とくに理由はないけど、旅先では必要以上に歩きまはることが多く、疲れ切つてゐるときに手ぬぐひのやはらかい肌触りがいい感じだつたりするから、かなあ。
あと、なぜか宿といふのは乾燥してゐるものなので、寝るときに洗つた手ぬぐひを干しておく、なんて使ひ方もできるといふのもいい。

もうひとつ、持つていくのが、ふろしきである。
京都 掛札の木綿のふろしきを愛用してゐる。旅先には、写真の観世水を持つていくことが多いかな。掛札の木綿ふろしきはほかにも三枚ほど持つてゐる。
たまに新宿伊勢丹に出店することがあるのでそのときに買つたり、一度は移転前の店舗に行つたこともある。

ふろしきにはサイズがいろいろあつて、掛札の木綿ふろしきは、三幅といふおよそ一辺の長さが105cmのものである。
弁当包みのサイズから、五幅(180cm)くらゐのものまで、いろいろ持つてはゐるが、この三幅といふサイズが一番使ひやすいやうに思ふ。
とくに手提げ風に持つには、三幅は絶妙のサイズだ。

また、掛札のふろしきは結んだときの感触がいい。
きゆつと、しつかり結べる感じがする。

ふろしきのいいところは、無形といふことだ。
すなはち、「虚」である。
それが、使ひ方によつて有形になる。
「實」になるわけだ。

以前、京都にあるスピンハウス ポンタに行つて、羊毛を買ひこんだときも、掛札のふろしきを持つて行つた。
羊毛は、軽いがかさばる。
結果、包んだふろしきはすいかのやうな形になつてしまつたものの、でもちやんとふろしきの中におさまつた。
普通のかばんや手提げにはできない藝当である。

虚々實々とは、ふろしきのことを云ふのぢやないかなあ。
#違ふ違ふ。

主に、着替へを包んだりするのに使ふけれど、いざとなつたら予備の袋にもなるし、ふろしきは一枚あるととても役に立つのだつた。

あ、掛札のふろしきは、意匠もいいよね。
新作が発表されると目移りしてしまふ。

でもまあ、しばらくは手持の三枚ほどを使ひこんでいくつもり。

Wednesday, 01 May 2013

飯田市川本喜八郎人形美術館の展示室 その一

諸葛孔明像

先日、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。

飯田に着くまでと、エントランスの謎については既に書いた。

今回は、展示されてゐる面々について少々書きたい。
例によつてメモなんぞは取つてゐないので、記憶のままに書く。あしからず。

上記リンク先にも書いたとほり、展示室に入ると、まづ紳々竜々が出迎へてくれる。
このあとしばらく人形劇三国志の面々がつづく。
今回、改めて知つたのだが、紳々竜々は髪の毛がしつけ糸のやうな糸でできてるんだな。管輅とか夏侯惇とか、ほかにもさういふ人形がゐる。みんな、リカちやん人形のやうな糸で作つてるのかと思つてゐたけれども、いろいろ違ふんだなあ。
紳々竜々の衣装の裾には縫ひ目がある点もほかの人形とちがふ。あとは管輅の衣装がやはりおなじやうに縫ひ目があるだけで、川本喜八郎人形ギャラリーにしてもさうだけれども、大抵の人形の服の裾には縫ひ目はない。おそらく糊でとめてゐるのだと思ふ。
たまたまちよつと学芸員の方とお話する機会があつたので、訊ねてみたが、詳しいことはわからなかつた。
張りを出すためだらう、といふことだつた。
紳々竜々と管輅とだけは、衣装が綿の布でできてゐるやうに見受けられる。
綿だと裾を糊でとめたときに縮緬とかとおなじやうな効果が出ないのかもしれない。
そんな気がする。

つづいて左慈。
まるでジェダイ・マスターのやうな趣で立つてゐる。
もちろんダーク・フォースだ。
右手に杖を持ち、左手を前方にかかげてゐて、ほつれた髪がなびいてゐるやうに見え、ただ立つてゐるだけなのに、動きが感じられる。

その隣が管輅。
こちらは中世ヨーロッパの宗教家のやうな出で立ちで、右手を前方に掲げ、「悔い改めよ!」とでも云ひたげなやうすで立つてゐる。
まぶたが片方だけ二重だつたりして、いろいろ細かい。
目周りだけ見ると、梅幸に似てゐるんだなあ。

その隣が紫虚上人。
顔の皮膚が縮緬なのは知つてゐたが、手の指の先まで縮緬だつたとは。人形劇三国志の面々は大抵革張りで、現在展示されてゐる中では紫虚上人以外に縮緬張りの人形はゐない。
例によつて座つてゐるのだが、さういへば紫虚上人の立つてゐる姿つて見たことないかも。

ここに于吉仙人がゐたら完璧な感じがするが、于吉仙人は登場が早いのでゐないものと思はれる。

ここまでが、「特異なキャラクター」の部。
次からが「江東の群像」といふことで、呉の人々が並んでゐる。

周瑜は、やはり人形劇の方がいい男だつたなあ。
と、今はもうゐないけれども、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーにゐた周瑜を思ひ出してさう思ふ。
後列に立つてゐるのだけれども、ぱつと最初に目がいくもの。
ところで、この美術館では、川本喜八郎へのインタヴュー動画をエンドレスで流してゐるコーナーがあつて、それを見たところ、川本喜八郎は、「周瑜のカシラのもとは検非違使」と云つてゐて、かなり衝撃を受けてしまつた。
ええっ、検非違使? 周瑜が?
いやー、それはどうだらう。
といふのは、検非違使のカシラにいい男といふ印象がないからだ。
だが、考へてみれば、検非違使つてちよつと、といふか、かなりつり目だし、なるほど、周瑜、かも?
といふわけで、何度かしげしげと周瑜のカシラを眺めてしまつた。

川本喜八郎が、その人形のカシラを文楽のカシラを元に作つてゐる、といふ話は、「川本喜八郎 人形―この命あるもの 」に掲載されてゐる吉田文雀との対談で知つてはゐた。

さうかー、周瑜、検非違使かー。
考へてみたら、義経千本桜の知盛みたやうな感じか。
「生き変はり死に変はり恨みはらさでおくべーきかー」みたやうな。
なるほどなるほど。

その伝でいくと、初期の玄徳は源太で、関羽は文七で、張飛は顎周りは陀羅助なんだが……みたやうな感じ、かなあ。
趙雲は若男で、これは多分間違ひないと思ふ。
最大の謎(つて大げさな)は、孔明のカシラの元なのだが。
孔明ぢやないと思ふんだよね。
上記インタヴューでも、孔明のカシラの元が孔明かどうかははつきり言及されてゐなかつた。
孔明つていつたら由良之助とか「本朝廿四孝」の信玄とかだよねえ?
孔明?
いやいやいやいや。

あと、黄忠と黄蓋との元は鬼一な気がするけど、厳顔は舅な気がする。

つて、もう確認のしやうはないんだけどね。

周瑜の前には徐盛と甘寧。
このふたりがまたなんとなく似てゐる。
皮膚の色がちがふだけちやふか、といふくらゐ、よく似てゐる。
さ、さういふイメージなのかな。
徐盛のもみあげ部分が、筆で描いたやうに見えたが、どうやら毛がはりつけてあるのらしい。
程普もこんな感じかなー、と思つてゐたが、程普だけはやはりちよつとちがふ、といふのはこの後書く。

周瑜の隣が呂蒙。
この呂蒙が、実にいい男なのである。
人形劇三国志の呂蒙といへば、これはもう、ヒールなヒールな呂蒙さんで、あちこちからさんざん非難を浴びたといふことで有名なのだが。Wikipediaによれば、田中芳樹も批判したとある。
でもなー、去年の夏、渋谷ヒカリエの渋谷区防災センターで「関羽の死」を見たときは、その徹底したヒールぶりに惚れたけどなあ。
いつそ潔いほどの悪役ぶり。
その呂蒙が、ここではなんだか実にいいのだ。
あのヒールなやうすはなんだつたのか。
もしかして、人形劇であまりにもヒールに描きすぎた、その埋め合はせか。
顔は若干上向きで、ちよつと遠くを見てゐるやうな趣である。
片手を剣の柄にかけてゐて、なんだか未来をみつめてゐるかのやうなやうすなのだ。
いやー、呂蒙つて、こんなにいい男だつたかなあ。
見惚れること一度ならず。

その手前が貞姫で、これがまた可愛い。
あらー、貞姫、こんなに可愛かつたらうか。
例によつて長刀を構へてゐて、いさましいやうすでもあるのだが、とくに向かつて左側から眺めたときの可愛らしさは群を抜いてゐる。
これもまた見惚れること一度ならず、だ。
なんだらう、もしかして、テレビ映りがよくなかつたのか知らん。

その後ろに孫権。
如実に衣装の色褪せてゐるのを感じる。
そのせゐか顔色もなんだかすぐれない感じ。
ヒカリエにゐたものよりも、目の緑色がはつきりしてゐる。
孫権は、わりと、人形劇のときそのままな感じ、かな。

その前に黄蓋。
黄蓋は目がガラスつぽい。ガラスでなければアクリル、かな。当時はどうだらう。
ほかの人形だと、左慈が目に黒いガラスのやうなものがはめられてゐて本来黒目の部分に穴があいてゐる作りなくらゐで、ガラスの目玉つぽいのは黄蓋だけだ。
黄蓋と黄忠とは、なんとなく似たやうな印象があるのだけれど、今回見比べてみて、黄蓋の方が頑固一徹な感じで、黄忠の方がジェントルマンな感じ、といふちがひがよくわかつた。

孫権の後ろは陸遜。
勝傑ではない。
今回、美術館のDVD視聴コーナーでは人形劇三国志の巻十六をエンドレスで流してゐた。この巻は現在amazonから絶讃おすすめされ中なので、映像は見ないやうにしてゐたが、音はどうしても聞こえてくる。
ちやうど陸遜大活躍の場面なんかもあつて、画面を見る代はりに陸遜を見ることにした。あ、展示室内部には音は聞こえてこないけどね。
人形劇ではチトやな奴感の拭へない陸遜だが、黙つて立つてゐると……やはり悪役つぽいかなあ。

黄蓋の隣が諸葛瑾。
なぜか諸葛瑾だけ指先が黒く、「も、もしかして、かつてやつがれと握手したから?」と思つたのは内緒。
諸葛瑾もさうだけれども、呉はなんとなく黄色い印象の人が多い。孫権はオレンジかもしれないが、周瑜はあきらかに黄色いイメージだよね。

その隣に程普。
さつき徐盛や甘寧と似た感じ、それはあやまりで、程普はちやんと個性的な作りになつてゐる。
孫堅のころから出てるから、といふこともあるのかな。
徐盛と甘寧とがちよつとキツい感じのつり目なのに対し、程普はどちらかといふとどんぐり眼つぽい。

その後ろに魯粛。
これもついヒカリエにゐた方とくらべてしまふのだが、人形劇の魯粛の方がしつかりした感じな気がするな。ヒカリエにゐた魯粛は見るからに「おろおろ」とした感じで、まあそれが人形劇三国志の魯粛らしいといへばさうなんだけれどもね。

呉の面々は、孫権を中心に、左右後方に周瑜と魯粛、前方に徐盛と程普といふ布陣。
並びのバランスのよさは、呉が一番かもしれないなあ。

といふわけで、蜀とか魏とかのコーナーにつづく。

2013年4月の読書メーター

2013年4月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:3052ページ
ナイス数:9ナイス

機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる感想
自分は人間らしく生きてゐるだらうか。なんだか、限りなく機械に近いやうな暮らしを送つてゐるやうな気がしてならない。「I, bot」みたやうな。
読了日:4月5日 著者:ブライアン クリスチャン
童の心で―歌舞伎と脳科学童の心で―歌舞伎と脳科学感想
最初のうちはまつたく会話がかみあつてゐないやうに思はれることもあつてハラハラしたが、第2章あたりから俄然おもしろくなつてくる。時期的に、先代歌舞伎座も最初は音響よくなかつた、といふ話に興味を惹かれる。何ヶ月か休んで調整したとのこと。いまの歌舞伎座、松竹にそれをできる力があるかどうか。 團十郎が海老蔵とお墓について話してゐた、といふくだりが今となつてはどうにも、ね。
読了日:4月10日 著者:小泉英明,市川團十郎
英雄三国志(2) (集英社文庫)英雄三国志(2) (集英社文庫)感想
「偉大なる平凡人」である吉川英治の孔明に比べると、超ウルトラスーパー軍師な柴錬の孔明に、どこか眠狂四郎な雰囲気を感じつつ読める。奥さん殺しちやふところとか、柴錬だなあ。 いつのまにか張遼とかが曹操の配下になつてゐたりするのは、まあ、ご愛嬌、かな。
読了日:4月11日 著者:柴田 錬三郎
確率論と私確率論と私感想
数学部分を理解できればなあ、と己が不勉強と不才とを嘆かずにはゐられない。が、わからなくても十分おもしろい。「せられて」といふ敬語がなんだか床しい。お嬢さんのお名前が「計子」さんで、こどものころイヤだつた、といふ話に大いにうなづく。でも長じて変はつたんぢやあるまいか。そんなことないかな。
読了日:4月12日 著者:伊藤 清
新版 絵でよむ漢文新版 絵でよむ漢文感想
作品にそぐはない絵が多い。絵はほとんど印象に残らないと思ふ。「漢文」でなくて「漢詩」にかぎつた方がよかつたんぢやないかと思はないでもないが、まあ、そこは好きずきか。毒を求めてゐる向きには向かない。
読了日:4月15日 著者:加藤 徹
少年曹操少年曹操感想
曹操だつたら李賀を重用したらうか。したかな。したかも。そんなことを考へながら読むうち、この世ではないところへつれて行かれる感覚に襲はれること一度ならず。これが筆圧の高い文章の力なのだらうか。
読了日:4月17日 著者:草森 紳一
The Last DragonslayerThe Last Dragonslayer感想
最後の謎解きは全部セリフで説明だし、それでなくても設定なんかがサーズデー・ネクストにさも似たりだし、といふ欠点も目にはつくけど、笑へて切ない物語はジャスパー・フォードだなあ、と思ふ。ユーモアもまた自然淘汰を決定する、なんて、ちよつといいぢやあないか。あと、作者は企業、嫌ひだよね。それとも好きなのかな。
読了日:4月24日 著者:Jasper Fforde
「死にたい」気持ちをほぐしてくれるシネマセラピー上映中―精神科医がおススメ 自殺予防のための10本の映画「死にたい」気持ちをほぐしてくれるシネマセラピー上映中―精神科医がおススメ 自殺予防のための10本の映画感想
前半は自殺 と自殺に至りやすい精神疾患の話と、「自殺したい」と打ち明けられたときの対応方法などが書かれてゐる。後半が映画の話。「死にたい」と思ひつめたときに、深刻な映画を見るのがほんたうに役に立つのだらうか、といふ気はする。特に、登場人物が自殺を遂げるやうな映画つてどうなんだらう。映画に限らないけれども。
読了日:4月26日 著者:高橋祥友
英雄三国志 3 三国鼎立 (集英社文庫)英雄三国志 3 三国鼎立 (集英社文庫)感想
「英雄生きるべきか死すべきか」を先に読んだ自分にとつて、「英雄」とは孔明を指す、といふ「余章補筆」の柴錬のことばはかなり衝撃であつた。ここでいふ「英雄」とは、数多の武将をひとまとめにした言葉だと思つてゐたからだ。今読んでも、ちよつとショックだなあ。赤壁の戦ひが終ると、まさに櫛の歯の抜けるやうに英雄たちが死んで行く。その死に様のあつさりとした書き方がたまらん。
読了日:4月26日 著者:柴田 錬三郎

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