戦争と「あまちゃん」
まさかこの自分が朝の連続TV小説を見ることになるとは。
しかも録画してまで。
といふわけで、週末にまとめて「あまちゃん」を見てゐる。
もうすでに云はれてゐることかもしれないが、敢て書く。
「あまちゃん」のなにが画期的かといふと、「戦争の匂ひがしないこと」だ。
ここでいふ「戦争」とは「第二次世界大戦」のことである。
古くは「風見鶏」、「マー姉ちゃん」「なっちゃんの写真館」など、記憶に残るドラマはすべて戦争絡みだ。
最近だつて、「ゲゲゲの女房」「カーネーション」「梅ちゃん先生」がさう。
「純と愛」がダメだつたのは、戦争の匂ひが皆無だつたからではないかと思ふほどである。
しかし、「あまちゃん」だ。
舞台は、いまのところ現在が2008年で、時折1984年の回想場面がさしはさまれることがある。
主人公はもうすぐ17歳になる高校二年生。
ナレーションも担当するその主人公の祖母は、2008年時点で63歳。
名前が「夏」で、孫の「秋」がまだ16歳といふことは、すでに誕生日は迎へてゐるだらう。
といふことは、1945年生まれ、すなはち終戦の年に生まれたといふことだ。
戦後のあれこれをあまり記憶してゐないか、してゐたとしても、あの北三陸では、さして食べるものに困ることもなかつたらう。
北三陸生まれ、と思ふのは、そのセリフのはしばしに「北三陸の女は」といふやうなことばが見え隠れするからである。よその土地から嫁に来たわけではないだらう。
なんだよ、戦争なくても、成り立つんぢやん。
無論、すでに88作めを放映中の朝の連続TV小説に、戦争の匂ひのまつたくしないものも数あるわけだが。
しかし、どこかで「視聴率の高い朝の連続TV小説は、作中に戦争を描く」といふ図式ができあがつてゐたやうな気がする。
最近になつてもさういふ作品が多いことを考へると、あながちまちがつた考察とも思へない。
ちやうど、大河ドラマで云ふと、「舞台は戦国時代で、信長・秀吉・家康の出てこないドラマは視聴率が取れない」といふのと似てゐる。
そして、戦中戦後の混乱の中、ヒロインが奮闘する。
いや、戦争はなくてもヒロインは奮闘するわけだが。
「あまちゃん」だつてさうだし。
でも、その奮闘の仕方が、なんといふか、「視聴者はこのていどでないと理解できないだらう」といふ作り手側の見下したやうな視線が見え隠れする、それがどうにもイヤだつた。
「あまちゃん」にはそれがない。
といふか、ここ数年の朝の連続TV小説には、それがない。
作り手側も変はつてゐるのだらうが、おそらく受け手側も変はつてゐるのだらう。
そこいくと大河ドラマにはあひかはらず作り手側の見下したやうな視線を感じる。
「八重の桜」でさへさうである。
主人公はあくまでも「いいもん」といふあたりに、とくにそれを感じる。
今回のドラマ制作の過程を知れば仕方ないこととは思ひつつ、そんなに会津ばかりが「いいもん」でもないだらう、と不満でならない。
「え、会津だつて、禁門の変のあとにみやこの人から石礫を投げつけられたりしてるぢやん」といふ向きあるかもしれない。
でも、それは、「あんなにがんばつたのに理解されない」といふ、「いいもん」の描き方のひとつに過ぎない。
「平清盛」はそこんとこすごくがんばつてゐて、「平家は悪いこともした」「清盛は愚かなこともした」とちやんと描いてゐて、「おおお、画期的!」と思つてゐたのだが、どうやら視聴者はついてきてくれなかつたやうだ。
あるいは、単に視聴率の対象となつてゐる人々が見なかつただけなのではあるまいか。
そんな気もしないではない。
いづれにしても、「あまちゃん」はこの先も見続ける予定。
六月の歌舞伎座は「助六由縁江戸桜」で、助六から「股ぁくぐれ」と云はれた通人里暁が「じぇじぇじぇ」といふんぢやないかと今から楽しみである。
え、「八重の桜」?
三条実美が復帰したら見るつもりである。
それまでしばしお休み。
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