プチ早起き
結局、早起き生活にもどつてゐる。
なんていふか、「プチ」早起き、といつたところだらうか。
四時とか五時とか、何時間も早く起きるわけではない。
六時十分前とか、せいぜい五時半とか、そんな感じの早起きだ。
んー、五時半は、まあ、早いかな。以前もそれくらゐの時間に起きてゐたやうに思ふ。
なんで早起き生活にもどつたのか。
理由はかんたん。
夜起きてゐられなかつたからだ。
ある夜、まだやることが残つてゐるのに、眠くて仕方がない。
まだ十時半くらゐだつた。
いまから寝れば、五時に起きても六時間以上眠れる。
さう判断して、寝て起きたのがはじまりだ。
先週のことだつたと思ふ。
以前早起きしてゐたときは、起きてからあれこれやつてゐた。
まあ、やることといつて、あみものと、録音したラジオ講座を聞くことと、かうしてblogのエントリを書くことくらゐだけれども。
帰宅時間から逆算すると、どんなに早く床に就くにしても、十一時が限界だ。
六時間寝やうとすると、五時より前には起きられない。
五時に起きても、やりたいことをすべて片づけるのはむづかしい。
そんなわけで、前に早起きしてゐたときには、なんとなくすつきりしない気分ではあつた。
どれも物足りない。
ラジオ講座だけは全部消化するけれど、編む時間にしても書く時間にしても、まちつとほしい。
ほかに、「早起き生活をしてゐると、夜の部やソワレに行けなくなる」といふ弊害があつた。
早起きをやめた理由としては、これが一番大きい。
夜の部に行くのをあきらめやうかと思つたこともあつたが、それはなんだか本末転倒な気がした。
演奏会にこそあまり行かなくなつてしまつたが、芝居へはあひかはらず行く。
見るべきものがなくなつたとも思はないし、まだしばらくは行くだらう。
その芝居見物を犠牲にしてまで、早起きすべきか。
否。
さう断じて、夜型の生活にもどつた。
夜型、といつても、単に朝起きてやつてゐたことを帰宅後にやるやうになつた、といふだけの話ではある。
それでしばらくはまはつてゐて、自分でもこれでいいかな、と思つてゐた。
睡魔には勝てなかつた。
さういふわけだ。
「プチ」早起き、と書いた理由は、上記のとほり世の早起き人よりも起きる時間が遅いからである。
その分、夜もやりたいことをやつてゐる。
夕食後湯に入るまでの時間と、湯上がり後すこしのんびりする時間に、ちよつとしたことはやる。
たとへば食休みには最低でも三十分は必要なので、そのあひだにラジオ講座を聞く。
湯上がりのぼんやりとした時間に、ぼんやりとあみものをしたりタティングレースをしたりする。
そして、翌朝、残つたことをやる。
えうは、やることを分散した、といふことだ。
何度か早起きについてはこのblogにも書いてゐるが。
これまで一度も「朝活」といふことばを使ったことはない。
自分のやつてゐることは、別段「朝活」ではない。
さう思つてゐるからだ。
また、「朝活」といふことばに、そこはかとない「いやしさ」を感じる。
なぜ単に「早起き」ぢやいけないのか。
そこんとこがよくわからないので使つてゐない。
今後も使はないだらう。
そんなわけで、これも朝、いまだ夢現のかすみのかかつたやうな頭を抱へつつ、書いてゐる。
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