愛を証明する
愛とは記憶である。
心のどこかで、ずつとさう思つてここまできた。
好きなことなら覚えてゐる。
好きなことなら忘れない。
さういふものだらう、と思つてゐた。
あるいは、「さうあらねば」と思つてゐたのかもしれない。
しかし、寄る年波には勝てない。
日々ぽろぽろと忘れていく。
「忘れてゐる」といふことにも気づかないくらゐ、あつといふ間に忘れてしまふ。
もともと、やつがれは、なにかに対して強い愛情を抱くたちではない。
つねづね、世の人の「好き!」といふ心の強さ、激しさにびつくりするほど、愛情が薄い。
それでゐて執着心は強いといふ、こまつたたちである。
好きなものとは、あるていど距離をおかねばならない。
どうやらさう思つてきた節もある。
あまりに近づきすぎたり、そのことについてばかり考へてゐたりすると、周囲が見えなくなる。
それは「愛」とは違ふのではないか。
といふのは云ひわけで、實のところは我を失ふのが怖いのである。
客観的な視点を失ひたくないのだ。
以前、「ミーハーは好かん」といふやうなことを書いたが、あまりにもなにかに対してdevotedな状態になるのを恐れたのである。
なにを恐れることがあるのか。
愛するものについて我を忘れることなんて、誰でもやることなのに。
といふのも云ひわけで、ほんたうは、単に飽きつぽいだけなのかもしれない、と思ふこともある。
史記の項羽本紀の出だしを読むと、他人事とは思へない。
項籍少時,學書不成,去學劍,又不成。
項羽は、文武どちらも中途で投げ出すやうなこどもだつた。
叔父に怒られて、こんなことを云ふ。
書足以記名姓而已。劍一人敵,不足學,學萬人敵
字なんて名前が書ければいい。剣ではひとりしか相手にできない。学ぶほどのこともない。もつと、大人数を相手にすることを学びたい。
さういつて、兵法を教へてもらへることになつて嬉々として学ぶのだが、
略知其意,又不肯竟學
深く知る前に、これもまたやめてしまふのである。
項羽にも申し訳ないが、なんだかわが姿を見るやうで涙を禁じ得ない。
項羽も、ちやんと学を修め、剣の道に精進してゐれば、もしかしたらあんなことにはならなかつたかもしれないのに。
もちろん、項羽のことを云つてゐるのではない。
まあ、世の中には、ほかの人が一生懸命学問に精進する中、「独觀其大略」なんてな人もゐるので、必ずしも深く学ぶだけがいいとはいへない。
とはいへ、この「独觀其大略」といふのは単に他人に対するポーズで、實のところは他人よりも深く学んでゐたのかもしれない、といふ話もないわけではないのだが。
話がそれてしまつた。
といふわけで、これまでは「覚えてゐること」が自分にとつての愛の証だつたわけだが。
なかなかさうも云ふてゐられなくなつてきた。
ではどうすれば「自分はこれが好きである」といふことを証明することができるのだらう。
そもそも、そんなこと、証明する必要があるのか。
それは次回の講釈で。
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