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Tuesday, 30 April 2013

手編みの帽子は風に飛ばない

Holiday Hat after Washing

最近、休みの日は歩くやうにしてゐる。

休みの日で、遠出をしない日は、近所の公園のまはりをぐるぐる6kmくらゐ歩いてゐる。
と、ここで書くのがはじめてで、これまではずつと自分の心のなかでさういふことに決めてゐた。
はじめたのが今年の建国記念の日の一日前からだから、まだ二ヶ月ていどだ。

歩きはじめたころはまだ寒かつたので、毛糸の帽子をかぶつてゐた。
自分で編んだものの中で、洗濯機にかけても大丈夫な毛糸で編んだものを選んでゐた。
ここ最近は、Rowan Denimで編んだホリデーハットをかぶつてゐる。

といふことで、ホリデーハットの編み方のURLを確認してみたら、なくなつてゐる。
検索しても出てこないなあ。
なくなつてしまつたのだらうか。

ホリデーハットは、基本的には、Rowan Denimを6/0号のかぎ針編みでこま編みして作る帽子である。
伸縮性はほぼない。
編んだときより頭が小さくなつたらしく(脳みそが減つたのだらう)、ちよつと余裕がある。

この帽子には思ひ出がある。
近所の毛糸屋の店主に褒められたことがあるのだ。
この毛糸屋は、ダイヤモンド毛糸を扱つてゐる店で、当時ホリデーハットと似たやうな帽子が飾られてゐた。
そのときたまたまお店にゐあはせた人が、「あれとおなじやうなものか知らん」と云つたが、店主の老婦人は、やつがれの帽子の方が上等だ、と云つた。
糸のことを云ふたのだと思ふ。

このとき、店主はおもしろいことを云つてゐた。

手編みの帽子は、風に飛ばない。

ほんたうだらうか。
毛糸で編んだ帽子なら、ゴム編み部分をしつかり編めばさういふこともあるかもしれない。
しかし、ホリデーハット。
こま編みだけで、たいして伸縮性もない、そんな帽子でも風に飛ばない、そんなことがあるだらうか。

結論から云ふと、風に飛びにくい、とは思ふ。
これは経験から、さう云へる。
実際、この話を聞いたときも、「あー、さう云はれてみればさうかも」と思つた。

今日もかなり風は強かつたが、一度も帽子に手をやることはなかつた。
風が吹いてきても、うまいこと帽子が頭にぴつたりとはりつくやうにくつついてゐた。
飛ばされるかも、なんて心配はまつたくしなかつた。

もちろん、あまりの強風に帽子を抑へることもある。
絶対飛ばないとは思はない。
でも、飛びにくい。
それは確かなことだと思ふ。

おそらく、うまいこと風が編み目をくぐりぬけるからなんぢやないかなあ。
だつたら麦わら帽子でもおなじことだらう、といふ気もするので、絶対さうとは云へない。素材にもよる気がするし。

ところで、写真のホリデーハットは編み終はつて最初に洗つた直後の状態だ。
今はもつと色が落ちてきて、Rowan Denimらしさを楽しんでゐるところである。

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Monday, 29 April 2013

近頃面目次第もござりませぬ

間違つてない?

飯田に来てゐる。

目的地は、飯田市川本喜八郎人形美術館。
さんざん渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行つてるだらう。
我ながらさうも思ふ。
しかし、くどいやうだが、渋谷の人形三国志の面々は、人形劇に出てゐた面々ではない。
金曜日に展示替へ後はじめて開館したが、今回の面子も人形劇に出てゐた面子とはちがふ。いつたい川本喜八郎はどれくらゐ新たに作りなほしてゐたのかと思ふが、それはまた、別の話。

ヒカリエのギャラリーには、飯田の美術館のポスターが貼られてゐる。
案内のちいさなパンフレットもある。
新たに作りなほされた面々もとてもいい。
なんたつてしよつ中通つてるくらゐだしな。

でも、飯田に行けば、あのときの、あの面々に会へる。

といふわけで、急遽思ひたつて、やつてきた、といふわけだ。

飯田に行くには、飯田線。
さう思つてゐたのは、「究極超人あーる」のせゐではあるのだが。
飯田線で行かうとすると、飯田線に乗るまでに時間と費用とがかかる。
今回は飯田線はあきらめることにして、新宿から高速バスに乗ることにした。

連休中といふこともあつてか、まづ出発が六分ほど遅れる。
その後も順調に渋滞してゐて、八王子まで一時間はかかつたらう。
後は、睡魔に身をゆだねてしまつたのでよくわからないが、休憩所の双葉サービスエリアには五十分遅れで到着。飯田には一時間くらゐ遅れて着いた。
帰りが思ひやられる。

道々、飯田駅前のバス停にたどりつくまでに、道路標識に「川本喜八郎人形美術館」なんて書いてあつたりして、事前に確認してきた地図と実際の道とを確認した。標識には結構大きい字で書かれてゐたぞ。

昨日は美術館周辺でちよつとしたお祭りのやうなものが開催されてゐて、出店もたくさん出てゐたし、とてもにぎはつてゐた。
いはゆる「ゆるキャラ」の着ぐるみも三体くらゐ来てゐた。

といふわけで、人混みをすりぬけながら、美術館にたどりついた。

入口は、メタルな印象のある自動扉になつてゐる。
これがちよつと怖い。
まるで、入るのを禁じてゐるかのやうだ。
しかも、入ると、その向こうにも同じやうな扉が待つてゐて、一瞬、閉ぢこめられるのではないかといふ恐怖感にかられることになる。

その関門をくぐりぬけると、ぱつと明るい空間が待つてゐて、そこに大きな孔明像が佇立してゐる。

……ポメラのATOK、あひかはらず「孔明」を変換できないなー。

といふ話はさておき、そこで入場券を入手して、ひとつ上の階が展示場になつてゐる。

階段をあがると、そこも明るい空間なのだが、展示場はやはりちよつとメタルな印象の自動扉の向かうにある。

まづ、紳々竜々が出迎へてくれる。
……といふ、展示のこまかい内容についてはまた後日にゆづることにして。
といふのは、ポメラDM100のATOKが愚か過ぎて人名を打つのに苦労するからだが。

展示室には人形劇三国志と平家物語の人形、それと人形アニメーションの人形が展示されてゐる。

展示室の外には、ヤンヤンムークンをはじめとするこども向け番組に出てゐた人形やミツワのコマーシャルに出てゐた人形が飾られてゐる。
また、人形劇の人形ができるまでを示したパネルや実際の人形のやうすがかざられてゐる。
人形のパーツなどを作る人の写真もあつて、その人物の向かうに関羽とか趙雲とかがゐて、ちよつとどきどきしちやふぞ。

二階に通じる階段のわきに、ちよつとしたアルコーヴのやうなところがあつて、そこにはテレビとDVDデッキがおかれてゐる。
この日は、人形劇三国志のDVD第16巻がエンドレスで流れてゐた。
展示室から外に出るたびに、今にも黄忠が死にさうだつたり、張飛に死亡フラグがたつてたり、仲達や陸遜が陰謀をたくらんでゐたり、といふ、ちよつと暗くも楽しい気分になることしきりだつた。

今回「来てよかつたー」としみじみ思つたのは、川本喜八郎の年表のパネルを見たときだつた。
#展示室内でももちろん思つたが、それはまた、別の話。

生年からずつと川本喜八郎の業績などが書かれた下に、関連する写真がところどころ表示されてゐる。

その中に、川本喜八郎 meets ジム・ヘンソンの写真があつたと思ひねえ。
孔明 meets Kermit the Frog、だぜ。
うわー、なんといふことだらう。
孔明 meets Kermit the Frog。
そんなことがあつたなんてねえ。

うーん、展示替へしたらまた来る、かな。
予定ではそろそろ展示替へがあるさうである。
交通渋滞さへなければ、日帰りできさうなんだけどなあ。

ま、それもすこし先の話、かな。

ところで、写真だが。
エントランスの大きな孔明の背後に、前出師の表が飾られてゐる、その最後の部分だ。

「今當遠離臨表涕零不知所言」
といふのが、最後のことばだが、「涕零」の「零」の字はものによつては「泣」になつてゐるのは、依然も王羲之展に行つたときにも書いた。

今回わざわざこの写真を撮つたのは、最後の一文字にある。

「雲」

いや、それは妙だらう。
それとも、さういふ字もありうるのだらうか。

確かに、最後の一文字が「云」になつてゐることはある。
しかし「雲」。

もしかして、中国語には「雲」にも「言葉」といふ意味があるのだらうか。

調査課題が増えてしもたのう。

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Friday, 26 April 2013

脳、働いてますか?

キーボードからPCに入力するより、ペンなどで紙に書いた方が脳が働く。

童の心で―歌舞伎と脳科学」に、さう書かれてゐた。

PCに入力したとき、ボールペンで書いたとき、筆ペンで書いたとき、それぞれ脳の活動量を示すfMRIの写真が出てゐて、PCのときはほとんど活動量のないのに比べて、ボールペン、筆ペンのときは如実に色が変はつてゐるのがわかる。特に筆ペンのときの働き具合がすごい。

だが。
これつて、被験者の人が普段からPCで入力してゐて、ほとんどペンを使ふことがないからつてことはないのか、といふ気もしてくる。
確か、将棋でも序盤の定跡の部分はほとんど脳が活動してゐない、とかなんとか、そんな研究結果があつたやうな気がする。
#最近は序盤からガンガン働いてゐることも多いのかもしれないが。

単に、慣れたことをしてゐるから脳があまり働いてゐないだけつてことはないのかなあ。
ボールペンと筆ペンとの結果の違ひを見て、そんな風に思つた。

「童の心で」の主題はそこにはないし、そこまで被験者など実験のやうすを知るすべもない。
せいぜい、「やー、今日もノートにたくさん書き込んぢやつたなー。脳を働かせちやつたなー」とか、自己満足にひたるくらゐだ。

NHK教育TVの「0655」を見てゐるときに、「わが輩は犬」とか「おれ ねこ」のイントロと、自分の鼻歌の音程がぴつたりあつてゐるのに驚いたことがある。
残念ながら、やつがれには絶対音感がない。
したがつて、なんの伴奏もなしに歌ひ出すときは、毎回音の高さが変はる。
しかるに「わが輩は犬」と「おれ ねこ」。
なんでだらう、と考へてゐたところ、歌のはじまる前のアナウンサの聲の高さからイントロの開始の音の高さを判断してゐることに、ある日気がついた。

これも「童の心で」に書かれてゐたが、人間以外の動物には絶対音感はある、しかし、相対音感のあるものが少ないのださうである。インコのある種とか、何例か見つかつてはゐるのらしいが、たとへばチンパンジーに教へやうとしても、高さの違ふ音を三つ教へるのに、ずいぶん期間がかかるといふのだ。

云はれてみて、なにかのヴァラエティ番組で、芸能人が飼犬の前に変装してあらはれる、といふ趣向を見たときのことを思ひ出した。
聲音を使ふと、犬はそれが飼主だとはわからないらしいやうすを示し、いつもの聲を出すと、「どこかに飼主がゐるらしい」といふやうすを示す。
それつて、犬には相対音感がないつてことなのかも。

しかし。
これも、単に、人間以外の動物と相対音感との関係を研究してゐる学者がすくないだけなんぢやあるまいか、といふ気もする。
探してみたら、相対音感のある動物もたくさんゐるのかも。
爬虫類にはある、とか、両生類にはある、とか。
とはいへ、研究者や論文の数とか調べやうもないし(最近はさうでもないのかもしれないが)、まあ、どうでもいいかな、とも思つてゐる。
そして「0655」を見て、「相対音感のあるやつがれつて人間なんだなー」とこれまた自己満足にひたる程度だ。

どうでもいいことを考へるとき、「まだ大丈夫かな」と思ふ。
そんなことを考へつつ、ペンを手に取り、「今日も脳を働かせるぜ」とか、自分の意志ではどうにもならないことを肚裡で呟く。

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Thursday, 25 April 2013

愛を証明する

Twilight in Stockholm

愛とは記憶である。

心のどこかで、ずつとさう思つてここまできた。

好きなことなら覚えてゐる。
好きなことなら忘れない。

さういふものだらう、と思つてゐた。
あるいは、「さうあらねば」と思つてゐたのかもしれない。

しかし、寄る年波には勝てない。
日々ぽろぽろと忘れていく。
「忘れてゐる」といふことにも気づかないくらゐ、あつといふ間に忘れてしまふ。

もともと、やつがれは、なにかに対して強い愛情を抱くたちではない。
つねづね、世の人の「好き!」といふ心の強さ、激しさにびつくりするほど、愛情が薄い。
それでゐて執着心は強いといふ、こまつたたちである。

好きなものとは、あるていど距離をおかねばならない。
どうやらさう思つてきた節もある。

あまりに近づきすぎたり、そのことについてばかり考へてゐたりすると、周囲が見えなくなる。
それは「愛」とは違ふのではないか。

といふのは云ひわけで、實のところは我を失ふのが怖いのである。
客観的な視点を失ひたくないのだ。
以前、「ミーハーは好かん」といふやうなことを書いたが、あまりにもなにかに対してdevotedな状態になるのを恐れたのである。

なにを恐れることがあるのか。
愛するものについて我を忘れることなんて、誰でもやることなのに。

といふのも云ひわけで、ほんたうは、単に飽きつぽいだけなのかもしれない、と思ふこともある。
史記の項羽本紀の出だしを読むと、他人事とは思へない。

項籍少時,學書不成,去學劍,又不成。

項羽は、文武どちらも中途で投げ出すやうなこどもだつた。
叔父に怒られて、こんなことを云ふ。
書足以記名姓而已。劍一人敵,不足學,學萬人敵

字なんて名前が書ければいい。剣ではひとりしか相手にできない。学ぶほどのこともない。もつと、大人数を相手にすることを学びたい。
さういつて、兵法を教へてもらへることになつて嬉々として学ぶのだが、
略知其意,又不肯竟學

深く知る前に、これもまたやめてしまふのである。

項羽にも申し訳ないが、なんだかわが姿を見るやうで涙を禁じ得ない。
項羽も、ちやんと学を修め、剣の道に精進してゐれば、もしかしたらあんなことにはならなかつたかもしれないのに。

もちろん、項羽のことを云つてゐるのではない。

まあ、世の中には、ほかの人が一生懸命学問に精進する中、「独觀其大略」なんてな人もゐるので、必ずしも深く学ぶだけがいいとはいへない。
とはいへ、この「独觀其大略」といふのは単に他人に対するポーズで、實のところは他人よりも深く学んでゐたのかもしれない、といふ話もないわけではないのだが。

話がそれてしまつた。

といふわけで、これまでは「覚えてゐること」が自分にとつての愛の証だつたわけだが。
なかなかさうも云ふてゐられなくなつてきた。

ではどうすれば「自分はこれが好きである」といふことを証明することができるのだらう。
そもそも、そんなこと、証明する必要があるのか。

それは次回の講釈で。

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Wednesday, 24 April 2013

戦争と「あまちゃん」

まさかこの自分が朝の連続TV小説を見ることになるとは。
しかも録画してまで。

といふわけで、週末にまとめて「あまちゃん」を見てゐる。

もうすでに云はれてゐることかもしれないが、敢て書く。
「あまちゃん」のなにが画期的かといふと、「戦争の匂ひがしないこと」だ。
ここでいふ「戦争」とは「第二次世界大戦」のことである。

古くは「風見鶏」、「マー姉ちゃん」「なっちゃんの写真館」など、記憶に残るドラマはすべて戦争絡みだ。
最近だつて、「ゲゲゲの女房」「カーネーション」「梅ちゃん先生」がさう。
「純と愛」がダメだつたのは、戦争の匂ひが皆無だつたからではないかと思ふほどである。

しかし、「あまちゃん」だ。
舞台は、いまのところ現在が2008年で、時折1984年の回想場面がさしはさまれることがある。
主人公はもうすぐ17歳になる高校二年生。
ナレーションも担当するその主人公の祖母は、2008年時点で63歳。
名前が「夏」で、孫の「秋」がまだ16歳といふことは、すでに誕生日は迎へてゐるだらう。
といふことは、1945年生まれ、すなはち終戦の年に生まれたといふことだ。
戦後のあれこれをあまり記憶してゐないか、してゐたとしても、あの北三陸では、さして食べるものに困ることもなかつたらう。
北三陸生まれ、と思ふのは、そのセリフのはしばしに「北三陸の女は」といふやうなことばが見え隠れするからである。よその土地から嫁に来たわけではないだらう。

なんだよ、戦争なくても、成り立つんぢやん。

無論、すでに88作めを放映中の朝の連続TV小説に、戦争の匂ひのまつたくしないものも数あるわけだが。
しかし、どこかで「視聴率の高い朝の連続TV小説は、作中に戦争を描く」といふ図式ができあがつてゐたやうな気がする。
最近になつてもさういふ作品が多いことを考へると、あながちまちがつた考察とも思へない。

ちやうど、大河ドラマで云ふと、「舞台は戦国時代で、信長・秀吉・家康の出てこないドラマは視聴率が取れない」といふのと似てゐる。

そして、戦中戦後の混乱の中、ヒロインが奮闘する。
いや、戦争はなくてもヒロインは奮闘するわけだが。
「あまちゃん」だつてさうだし。
でも、その奮闘の仕方が、なんといふか、「視聴者はこのていどでないと理解できないだらう」といふ作り手側の見下したやうな視線が見え隠れする、それがどうにもイヤだつた。

「あまちゃん」にはそれがない。
といふか、ここ数年の朝の連続TV小説には、それがない。

作り手側も変はつてゐるのだらうが、おそらく受け手側も変はつてゐるのだらう。

そこいくと大河ドラマにはあひかはらず作り手側の見下したやうな視線を感じる。
「八重の桜」でさへさうである。
主人公はあくまでも「いいもん」といふあたりに、とくにそれを感じる。
今回のドラマ制作の過程を知れば仕方ないこととは思ひつつ、そんなに会津ばかりが「いいもん」でもないだらう、と不満でならない。
「え、会津だつて、禁門の変のあとにみやこの人から石礫を投げつけられたりしてるぢやん」といふ向きあるかもしれない。
でも、それは、「あんなにがんばつたのに理解されない」といふ、「いいもん」の描き方のひとつに過ぎない。

「平清盛」はそこんとこすごくがんばつてゐて、「平家は悪いこともした」「清盛は愚かなこともした」とちやんと描いてゐて、「おおお、画期的!」と思つてゐたのだが、どうやら視聴者はついてきてくれなかつたやうだ。
あるいは、単に視聴率の対象となつてゐる人々が見なかつただけなのではあるまいか。
そんな気もしないではない。

いづれにしても、「あまちゃん」はこの先も見続ける予定。
六月の歌舞伎座は「助六由縁江戸桜」で、助六から「股ぁくぐれ」と云はれた通人里暁が「じぇじぇじぇ」といふんぢやないかと今から楽しみである。

え、「八重の桜」?
三条実美が復帰したら見るつもりである。
それまでしばしお休み。

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Tuesday, 23 April 2013

サンクコスト

Curds & Whey in Pink Cocoa

極細毛糸のタティングレースプロジェクトをやめることにした。
サンクコストだと判断したからだ。

なにを云ふのか。趣味のことなんて、所詮はすべて「サンクコスト」だらう?
そのとほりである。
趣味に投資した費用・時間は回収できない。
趣味とはさうしたものだと思ふ。

作つてるあひだ楽しかつた。
できたものがとても使ひやすくて重宝してゐる。

さういふこともあるだらう。
さうやつて満足できるといふのは重要なことではある。
しかし、それでも、それを作るのにかけた費用や時間は返つてはこない。
趣味だからだ。

フリーマーケットに出品するとかネットショップで売るとかすればいいのかもしれないが、やつがれ風情の作るものに、かけた費用や時間に見合ふ額はつけられない。

今回の判断は、上記リンク先にある「つまらない映画を見続けるべきか」の例に近い。
作品(と呼ぶにはちよつと抵抗があるが)は、まだ1/7もできてはゐない。
消費した毛糸も一玉の半分くらゐだらう、と、これは感覚的にさう思ふ。
しかし、かけた時間が長い。

こんなに時間をかけたんだから、このままつづけるべきだらう。

心情的にはさうなる。
公共事業などの巨大プロジェクトもさうなりがちだ。
これまで何十億円何百億円と税金を投入したのだから、この先さらに費用がかかつても最後までやるべき。
ここまで時間をかけたんだから、この先その倍の時間がかかつても完遂すべき。
さうやつて、費用も時間もどんどんかさんでゆく。

公共事業の場合はその影響が多大だが。
自分の趣味のことなどたいした話ではない。
えうするに、自分がどう思ふか。
その一点につきる。

そのプロジェクトがつまらないわけではない。
だが、完成するまでにかかる時間とそのあひだにできるだらうことを天秤にかけたときに、やめてほかのことをやつた方が有意義だらう。
さういふ結論に達した。

といふわけで、といふわけでもないのだが、Mary Koniorの_Tatting with Visual Patterns_からCurds and Wheyなんぞを作つてゐる。
Curds and Wheyは、マザーグースの「マフェットちやん(Little Miss Muffet)」に出てくる。
マフェットちやんが丘に座つてcurds and wheyを食べてゐると、巨大なクモがやつてきてマフェットちやんの隣に座る。マフェットちやんはびつくり仰天、怖さのあまり逃げ出してしまふ。
そんなやうな内容だ。
curds and wheyは乳製品で、ゆゑに多分色は白だらう。
本の中でも白い糸を使つてゐる。

Black Magicもさうだが、指定された色で作つたことはあまりないなあ。
以前、生成りの糸に青いビーズを通して、「molded curds and whey」なんて名前で作つたことがあるくらゐかも。

これは栞にする予定。
ちよつと飽きるまでは栞を作りつづけやうかなあと思つてゐる。

とか書いてゐるそばから、全然別のものを作つてるかもしれないがな。
まあ、趣味とはさうしたものだらう。
多分。

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Monday, 22 April 2013

寒さに耐へつつ春夏糸で編む

なかなか進まない。

Scarf in Progress

風工房のシンプル夏ニット、こもの」からLサンドカラーのリネンストールを編んでゐる。
編みはじめたのが先々週の土曜日で、先週の土曜日、すなはち一昨日の段階で、一玉編みきつてゐない状態だつた。
一玉25gである。70mくらゐだといふ。

昨日、「あまちゃん」とか「間違われちゃった男」とかを見ながら、やつと二玉めまで編みきつた。
指定では七玉使ふところ、手持には五玉しかない。
二玉めまで編んでみて、やつぱり長さが足りないかなあ、とチト心配だが、バイアスだからなんとかなるかなあ、といふ気もする。
まあ、ある糸で完成させるしかない。

先週も書いたのだが、ハマナカのフラックスSは、編みやすい糸だと思ふ。
毛糸、すなはち羊毛の糸のやうな伸縮性のあるわけぢやないが、ふしぎとするすると編める。
春夏糸つてこんなだつたらうか。
最近編んでみやうと思つた糸が、100%絹の糸で妙にきしきしして編みづらかつたから、なんだか編みやすく感じるだけだらうか。
そんな気がしないでもない。

これも前回も書いたのだが、このストールは、表にも裏にも模様がある。
大抵裏の段を編むときはメリヤス編みだけ、とか、裏メリヤス編みだけだつたりして、そのあひだちよつとだけ気が抜ける。
このストールにはそれがない。

まあ、模様といつたつてそんなにむづかしいものぢやない。
かんたんな模様と云ひきつていいと思ふ。
でもやつぱり裏側を編むときは、なんとなく表を気にしながら編んでしまふんだよなあ。
編み地の模様の出方がわからないからね。

それにしてもだれきつた編み地である。
伸縮性のない糸で透かし模様だから仕方ない、と云ひ訳しつつも、気にならずにはゐられない。
ストールだからだれててもいいかな、とも思ふのだが、どうだらうねえ。
かういふ糸の場合は、かけ目はしないで、次の段で編むときに目と目のあひだにわたつてゐる糸を拾つて編むやうにするとだれない、といふ話も聞く。
実際それをやつてみたこともあるのだが、挫折してしまつた。
頭の中で編み図を展開できないのである。
どんだけバカかと思ふが、たとへば交差模様なんかもある場合、表で交差して、裏では透かし模様のかけ目を拾ふ、といふ、これができなかつたんだよね。

おなじ本からハマナカのフラックスCで別のストールを編むつもりだが、そのときにまた挑戦してみるかなあ。

ちなみにフラックスCは手持の糸ではない。
編みたくてつい増やしてしまつた糸である。
この連休中にでも着手することができるだらうか。
できるといいなあ。

でも、なんとなくかぎ針編みをしたい気分でもあるんだよね。

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Friday, 19 April 2013

西の方渋谷を出れば故人無からん

28Apr2010 先代の歌舞伎座 一番よく座つたあたりから

人はなぜ忘れてしまふのだらう。

A retentive memory may be a good thing, but the ability to forget is the true token of greateness.

さうはいふものの、やはり忘れてしまふことは哀しい。

そもそも、記憶つて、なんでこんなに哀しいんだらう。
過ぎ去つたむかしを思ひ出すのは、ひどくせつない。
それでゐて、思ひ出すものがなくなることにも耐へられない。

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーは、去年2012年の6月4日に開館した。
それ以来、展示されてきた面々が入れ替はる。

このことについては先日も書いたばかりだ。
くどい。
わかつてはゐる。

いや、やはりわかつてゐないのだらうか。

昨日は展示替へのはじまる前日といふことで、いつもよりもすこし早めにギャラリーに赴いた。
いつもは、下手すると閉館時間10分前といふことが多く、「またね」などと思ひながらあはただしくその場を去ることが多い。

そのせゐだらうか、あれだけ繁くかよつたといふのに、たれひとりとして、しつかりと記憶にとどまつてゐるものがない。

今日は、ひとりひとりしつかり記憶に刻みこまう。
さう思つて行つたのに、脳裡にうかぶのは、いづれもぼんやりとした姿だ。
「そこにゐたな」といふことくらゐしかわからない。

それでも、「家貞と泰子は、ここから見ると一番すてきなんだよねー」だとか、「忠盛・清盛親子は、結局最後までいいところを見つけられずに終はつたなー」とチトくやしかつたりしたり、そんな感じで別れを惜しんだ。
「JJ」と呼び「轟天」とも呼んだ遠藤盛遠を見てはやはり微笑んでしまつたり。
ここのところお気に入りだつた鳥羽院の前でしばし佇んでしまつたり。

でも平家物語は、やつぱり崇徳院だな。
正面から見たときのあの恨めしげな表情。
それが、ちよつと斜から見たときに、なんともさみしげな面持ちに変はるやうすに、何度心奪はれたことか。

平家物語の面々には最悪、放送時の映像でまた会ふこともできる。
だが、しかし、三国志の面々。

この先、人形劇の映像を見ていくうちに、ヒカリエにゐた面々のことは忘れてしまふのだらう。
人形劇のときとは著しく趣のちがふ李儒や王允、董卓や陳宮はもうすこし記憶にとどまるかもしれない。
でも、人形劇のときとの差異がすくない面々、ほとんど違はない面々の記憶はどんどん薄れていくのにちがひない。

さう、自分は忘れてしまふ。
険しい表情の郭嘉も、流し目の曹操も、視線の定まらぬ夏侯淵も。
色男な李儒も、この姿で動くところを見たかつた王允も、だらしないところの微塵もない董卓も、伏し目がちな貂蝉も、アールデコな衣装のお洒落な陳宮も、暴走族のヘッドのやうな嫩さの残る呂布と志を千里に持つ赤兎も。
野性味の増した関羽も、大人びたやうすの張飛も、人形劇のときと変はらぬやうすの玄徳も、いさましさ一番の趙雲も。
風狂な龐統も、幽玄な孔明も、その孔明を睨みつけてゐる孫権も、おだやかな表情の周瑜も、おろおろした魯粛も。

みんなみんな忘れてしまふ。

李白の詩に「烟花三月下揚州」とある。
あるいは王維の詩にある「客舎青青柳色新」。

春は別れの季節なのかもしれない。
いままさに、巷には色とりどりの花が煙るやうに咲き乱れてゐる。
だといふのに、心浮かない。

来週には新たな面々に会へる。
いまはさう思つて、気を取りなほすしかない。

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Thursday, 18 April 2013

プチ早起き

Gamla Stan

結局、早起き生活にもどつてゐる。
なんていふか、「プチ」早起き、といつたところだらうか。

四時とか五時とか、何時間も早く起きるわけではない。
六時十分前とか、せいぜい五時半とか、そんな感じの早起きだ。

んー、五時半は、まあ、早いかな。以前もそれくらゐの時間に起きてゐたやうに思ふ。

なんで早起き生活にもどつたのか。
理由はかんたん。
夜起きてゐられなかつたからだ。

ある夜、まだやることが残つてゐるのに、眠くて仕方がない。
まだ十時半くらゐだつた。
いまから寝れば、五時に起きても六時間以上眠れる。
さう判断して、寝て起きたのがはじまりだ。
先週のことだつたと思ふ。

以前早起きしてゐたときは、起きてからあれこれやつてゐた。
まあ、やることといつて、あみものと、録音したラジオ講座を聞くことと、かうしてblogのエントリを書くことくらゐだけれども。

帰宅時間から逆算すると、どんなに早く床に就くにしても、十一時が限界だ。
六時間寝やうとすると、五時より前には起きられない。
五時に起きても、やりたいことをすべて片づけるのはむづかしい。

そんなわけで、前に早起きしてゐたときには、なんとなくすつきりしない気分ではあつた。
どれも物足りない。
ラジオ講座だけは全部消化するけれど、編む時間にしても書く時間にしても、まちつとほしい。

ほかに、「早起き生活をしてゐると、夜の部やソワレに行けなくなる」といふ弊害があつた。
早起きをやめた理由としては、これが一番大きい。
夜の部に行くのをあきらめやうかと思つたこともあつたが、それはなんだか本末転倒な気がした。
演奏会にこそあまり行かなくなつてしまつたが、芝居へはあひかはらず行く。
見るべきものがなくなつたとも思はないし、まだしばらくは行くだらう。
その芝居見物を犠牲にしてまで、早起きすべきか。

否。

さう断じて、夜型の生活にもどつた。

夜型、といつても、単に朝起きてやつてゐたことを帰宅後にやるやうになつた、といふだけの話ではある。
それでしばらくはまはつてゐて、自分でもこれでいいかな、と思つてゐた。
睡魔には勝てなかつた。
さういふわけだ。

「プチ」早起き、と書いた理由は、上記のとほり世の早起き人よりも起きる時間が遅いからである。
その分、夜もやりたいことをやつてゐる。

夕食後湯に入るまでの時間と、湯上がり後すこしのんびりする時間に、ちよつとしたことはやる。
たとへば食休みには最低でも三十分は必要なので、そのあひだにラジオ講座を聞く。
湯上がりのぼんやりとした時間に、ぼんやりとあみものをしたりタティングレースをしたりする。
そして、翌朝、残つたことをやる。

えうは、やることを分散した、といふことだ。
 
何度か早起きについてはこのblogにも書いてゐるが。
これまで一度も「朝活」といふことばを使ったことはない。
自分のやつてゐることは、別段「朝活」ではない。
さう思つてゐるからだ。

また、「朝活」といふことばに、そこはかとない「いやしさ」を感じる。
なぜ単に「早起き」ぢやいけないのか。
そこんとこがよくわからないので使つてゐない。
今後も使はないだらう。

そんなわけで、これも朝、いまだ夢現のかすみのかかつたやうな頭を抱へつつ、書いてゐる。

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Wednesday, 17 April 2013

武田晴信と不識庵

柴田錬三郎は、「諸葛亮孔明」といふ字面が好きだつたのにちがひない。
あるいはその音だらうか。

なぜといつて、「英雄三国志」にしよつ中登場するからだ。
「諸葛亮孔明」といふ文字列が。

「孔明」ですむ話なのである。
だつたらかんたんなのに。
そもそも、こんなにかんたん、もしくは画数の少ない名前も三国志演義の中ではめづらしい。
龐統や夏侯淵が字で呼ばれたらこれに勝てるが、龐統を「士元」と呼ぶのは物語の中では水鏡先生門下のなかまくらゐだらうし、夏侯淵が「妙才」と呼ばれることはまづない。
「呂布」とか「丁原」とかがおなじていどの画数で、あとは、ちよつと探さないとわからないなあ。

田中芳樹が「創竜伝」の中で、「姓名字とつづけて書くのはあやまり」といふやうなことを書いてゐる。
さういふものだといふのなら、柴錬がそれを知らなかつたはずがない。
実際、登場人物の会話の中では、それなりにその場にふさはしい呼び方を選んでゐるやうにも見受けられる。
それを敢て書いてゐる。
当時の原稿は手書きである。
二文字十二画で用をなすのだ。
そこを五文字四十八画使つてゐる。

原稿用紙のますを埋めるため、といふやうな理由も考へられる。
でもなあ、だつたらその他の登場人物の名前もかうして記してしかるべきではあるまいか。

ところで、やつがれはもうせん「武田晴信」といふ字面が好きで仕方がない。
信玄が好き、といふわけではない。
あと、横書きにしたときは、それほど好きなわけでもない。

縦書きにして、できれば筆なんかで書いたときの「武田晴信」といふ文字のならび、これがもう好きでたまらないのだ。

とめはともかく、はねとはらひとのバランス。
一字一字の隙間のつまり具合とあき具合。
完璧ぢやあないか。

つねづねさう思つてゐるのだが、多分、これつてあんまり共感してもらへないんぢやないかな、とも思つてゐた。
かういふやうな話をしてゐる人を見かけないからである。

世に「キラキラネーム」といふものがある。
こどもの名前に、他人の読めないやうな漢字をあてるなんて、と、なんだか見当違ひな批判をあびたりする、昨今巷に流行るもの、だ。
他人に読めないやうな漢字をあてた名前なら、やつがれの同時代の人にもいくらもある。中には、親が萬葉集から選んできた字だ、といふ人もゐた。
萬葉仮名の名前も、いまとなつては、他人には読めないやうな漢字だらう。わづかに萬葉集を知る教養のある人にしか読めない名前かと思はれる。
だが、これをして「他人のよめないやうな漢字をあてるなんて」と非難する人は、すくなくとも当時はゐなかつた。
いまもゐないだらう。

個人の好き嫌ひの話をするなら、いはゆる「キラキラネーム」は、その字面がうつくしくない。
ごちやごちやし過ぎてゐるものが多いし、文字と文字の並びも不自然だ。

それに、名前といふのは、もともとは意味を持つものだつた。
たとへば、諸葛亮でいふなら、「亮」といふのは光とか明るい状態とかをさす字だといふ。そこに「孔明」といふ字がつく。「はなはだ明るい」といふやうな意味だと聞いた。
似たやうな字(公明)の徐晃も名前の「晃」の字は光をイメージさせる字だ。

欧米の名前でも、アレクサンダーは「守護するもの」だし、エドワードは「繁栄の守護者」、ハーランは「戦場から来たもの」といふ意味があると聞く。

「キラキラネーム」には、さうした意味がない。
音しかないのである。
あとは、意味をなさない漢字がならんでゐるだけだ。
そこに、人は違和感を覚えるのではあるまいか。

などと書きながら、やつがれもまた、「武田晴信」といふ名前の意味を考へたことはない。
単に字の並びが好き。
それだけの話である。
我が子に「キラキラネーム」をつける親と、さう変はらない。

ちなみに、もひとつ好きなのは「不識庵」だつたりする。
もちろん、上杉謙信が好きなわけではない。

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Tuesday, 16 April 2013

近頃使つたタティングシャトル

タティングレースの道具といへば、タティングシャトルである。
最近使つたシャトルはこんな感じ。

Tatting Shuttles

The Pop-A-Bobbin Tatting Shuttleがふたつ、Aerlit Shuttleがふたつ。

ボビンシャトルが好きな理由については以前も書いたが、

  1. 糸を巻きつけやすい
  2. 糸を巻きとりやすい
  3. 糸を傷めない
  4. 音がしない

といふのが主な理由。

糸を巻きつけやすく巻きとりやすい、といふのは、わかりやすいと思ふ。
糸を傷めないといふのは、たとへばクロバーのシャトルなんかの場合に、上の板と下の板の合はせがかたいと、糸傷むよね、といふ話だ。
糸を巻くときに、シャトルがカチカチいふと思ふ。あのカチカチ具合がかたいと、糸が傷む。
まあこれも至極当然の話だ。
クロバーのシャトルで合はせのかたいものに出会つたことはないので、とくに心配することはないと思ふが、Lacisのシャトルなどはかなりかたいものもある。

糸を巻いたり巻きとつたりがかんたん、といふのは案外重要なことだ。
たとへば、クロバーのタティングシャトルLは、たいへんいいシャトルかとは思ふが、大きいだけに糸を巻いたりほどいたりするのがかなり骨である。
いい気になつて巻きつけすぎると、あとでちがふ糸を巻きたいときにちよつと躊躇することになる。上から別の糸を巻けばいいのかもしれないが、さうするとあまり巻けないんだよね。

結局、普段使ひには、鼈甲模様のシャトルとかフローラとかに戻つていくのかな、といふ気もする。
やつがれもまた、最初はクロバーの鼈甲模様のシャトルを使つてゐた。
もちろんいまでも使つてゐる。
ん、いまはどちらかといふとフローラの方が多いかな。

上記理由の「音がしない」については、Aerlitのシャトルについてはあてはまらない。
といふか、使ひはじめのうちはさう思つてゐたが、使ふうちにだんだん気にならなくなることに気がついた。
その分、シャトルとボビンの合はせもゆるくなつてきてゐるだらうと考へると、どこまでもつのかと不安になるが、Aeroのシャトルに修正方法があつた気がするので、探してみるか。その手が使へるかどうかは謎だが。

タティングをするときの、シャトルのカチカチいふ音がいい、といふ話も確かにある。
かくいふやつがれも、糸を出したりしまつたりするときのあのカチカチいふ音は好きだ。
ただ、電車の中でタティングしてゐたときに、ほかの客に「その音をなんとかしろ」とすごまれたことがあるので、まあ、なんていふか、トラウマのやうなものかな。

The Pop-A-Bobbin Tatting Shuttleも、Aerlitのシャトルも先にかぎ針がついてゐる。
The Pop-A-Bobbin Tatting Shuttleの方は、実はこのかぎ針部分がちよつと長過ぎる。針の形状は、改善されてとてもよくなつたのだが、如何せん、長さだけはなんともならない。
Aerlitの方は、そこんとこ絶妙な感じだと思ふ。

だいたい、Aerlitのシャトルを使ふのは、手が小さくても使ひやいすからだ。
タティングしててかぎ針部分がひつかかるといふこともないしね。
AeroとかPonyとかのおなじやうな形のシャトルと比べても、取り回しが格段に楽である。
理由はいろいろあるとは思ふが、長さと厚みの加減が絶妙なんだらう。

むかし、まだイギリスで作られてゐたころのAeroのシャトルは、まことに使ひやすかつた、と、評判がいい。
現行のAeroのシャトルはお世辞にも使ひやすいとは思へないし、以前を知る人もまた文句を云ふてゐる。

Aerlitのシャトルを使つてゐると、「むかしのAeroのシャトルつてこんな感じだつたのか知らん」と思つたりもする。

そんなわけで、つい、Aerlitのシャトルを手にしてしまふのだつた。

しかし、Aerlitをはじめとするボビンシャトルを他人に勧めることはしない。
人は、慣れたものからはなれるのをいやがる。
クロバーのシャトルに慣れてしまつた人には、Aerlitのシャトルは使ひづらい。
当然だ。
慣れてないんだから。

多分、最初にクロバーのシャトルでタティングをはじめたころは、それなりに苦労して時間をかけて修得しただらう。そのはずだ。
そして、いまはすつかりタティングレースにも慣れてしまつてゐるだらう。
そこでAerlitのシャトルを手にして、おそらくタティングをはじめたころにかけた時間の半分の時間もかけずに、「使ひづらい」と投げ出すのにちがひない。

道具は、あるていど時間をかけて使つてみなければ、わからない。 最低、三ヶ月は使つてみてほしい。

万年筆の専門店フルハルターで萬年筆をあつらへたときに、店主に云はれたことばだ。
これもかつて何度か書いてゐる。

さう云はれたときに、やつがれには思ひあたることがあつた。
GR-8 Tatting Shuttleを使ひはじめたときの記憶である。

Tatting Shuttles

The Pop-A-Bobbin だとかAerlitだとかさんざん書いたけれど、結局一番よく使つてゐるのは、GR-8 Shuttleだ。
このシャトルに慣れるのに、タティングレースを覚えたときとおなじくらゐ大変な思ひをした、といふ話も、もうくどいほど書いてゐる。

だが、さうしてあるていど時間をかけてつきあつたからだらう、「俺の相棒・次元大介」と呼べるシャトルは、やつぱりこれだらうなあ、と思ふのだつた。

それとおなじやうな理由で、クロバーのシャトルも好きなのである。

ところで、「Aerlit」つて「アーリット」つて読むのだらうか。
「Aero」が「エアロ」なんだから、「Aerlit」は「エアリット」なんではないかと思つてゐたのだが。

ま、いつか。

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Monday, 15 April 2013

春夏ものはじめました

ここしばらく、あみものの本や毛糸の類を買つてゐなかつた。
どちらも、家にうなるほどあるからである。
売るほど、と云つてもいいかもしれない。

手持のものでなんとかしろよ。
さういふ状況なのだ。

最後に買つた本は、「編みやすくて心地いいニットのふだん着」で、雑誌は「毛糸だま 2013年 春号 No.157」。
最後に買つた毛糸は、パピーのプリンセスアニーで、去年の十一月の最終土曜日だつたらしい。これは、毛糸だま 2012年 冬特大号 No.156に掲載されてゐるヴェストを編んでほぼ使つて、残りは指なしミトンになつた。

確認してみると、この秋冬に編んだものは、このレースのヴェストと「編みやすくて心地いいニットのふだん着」の最初に掲載されてゐるヴェストと以外は、すべて手持の糸、手持の本やパターンで編んだものだ。現在進行形で編んでゐるものもある。

以前、ちよこつと「物欲のかげり」などといふことを書いたけれど、なんかもう、これ以上増やしてもなー、といふ感じなのだ。

とはいへ、着分を編めるほどの毛糸となると、手持にあつても編みたいものに合はなかつたりして、「ヴェストとか編みたくなつたらどうしやう」と思つてもゐた。
「どうしやう」といふのは、「これ以上毛糸を増やすのか」である。

まあしかし、下手の考へ休むに似たり、といふか、考へても甲斐のないことだつたのかもしれない。

この週末、風工房のシンプル夏ニット、こものを買つてしまつた。

店頭で見かけて、「いいなあ」と思ひ、地元駅のそばにある本屋にも置いてあつたのでつい買つてしまつた。

ジレと半袖のプルオーヴァ、あとショール・ストールつて感じのラインナップ。
ジレは編まないだらうなあ。
ひとつだけ、ジレといふよりはヴェストといふ趣の作品があつてそれは編みたいやうな気がするけれど。

使用糸のほとんどはハマナカのフラックスシリーズである。Cが多いかな。
ティティクロシェ以外は一玉25gの糸ばかりだ。
そして、それでジレとか半袖のセーターとか編む。
当然、必要な糸の量は250gとかそれ以上とかである。

それ、無謀だらう?
どれだけ糸端できるんだよ。
それに、ハマナカのフラックスシリーズには結び目の多いものもあると聞く。

ないない。
そんな糸で着るものを編むとか、大きなショールを編むとか、あり得ない。

しかし、なぜか手元にはフラックスSが五玉ほどあつたので、「Lサンドカラーのリネンストール」を編みはじめてしまつたのが土曜日である。

Shawl in Progress

これで模様を二回くり返したところ。
本には175g必要と書いてあつたが、手元には125gしかない。
それでなんとかするつもり。

この糸は、おそらく二年くらゐ前に買つた。
なににするつもりだつたんだらう。すでに記憶にない。
なんとなく、手提げでも編むつもりだつたんぢやないか、といふ気はする。

長いこと手元にあつた糸を使へる、といふのはことのほか嬉しいもので、つい編んでしまふのだが、これ、かんたんではあるけれど裏も表も模様編みなんだよね。
裏を編むときは、やはり時折表を確認しながら編んでしまふ。

だいたい、このハマナカのフラックスSといふのが、ひどく編みやすい。
麻とか綿とかの糸つて伸縮性がないから、編みづらいんだけど、さういふ感じがあんまししないんだよねえ。
毛糸とそんなにかはらない感じすらする。

そんなわけで、おなじ本からほかのものも編まうと、うつかり糸を増やしてしまつた。
いかんなあ。
でもまあ、春夏用の糸はそんなに持つてないから(レース糸を除けば)、ま、いいか。

ところで、ほかに買ひさうな本といふと、「パイナップル編みのニット (レディブティックシリーズno.3527)」がある。
パイナップル編みのウェアものの本はほかにも出てゐるが、本屋で見て気に入つたのはこれ。
でもこれもハマナカの一玉25gの糸を多用してゐるんだよねえ。
なにかほかに似たやうな糸を探すやうかなあ。

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Friday, 12 April 2013

筆を左手に持つ?

草森紳一の「李賀 垂翅の客」を買つた。
web検索をするうちにたまたまこの本の出版を知り、心待ちにして、発売日と云はれてゐた日にいさんで丸の内の丸善に行き、それまでさんざん萬年筆などを買ふてためにためたポイントをお買物券と交換して、入手した。

化粧箱つきの本を買ふなんて、思つてもみなかつたなあ。
最後に買つたのつて、もしかしたら「虚構船団」かもしれない。「虚構船団」は、絶対文庫化されないといふ話を聞いて買つたのだつた。ちなみに上記リンク先にあるのは文庫版である。

「李賀」の中身は2段組みで、組版のおかげだらうか、とても読みやすい感じがする。
といふわけで、ぺらぺらめくつて読んでしまつたりするのだが、なんだかもつたいなくてなかなか読み進めない、といふのが現状である。

ところで、「李賀」にさきだつて、おなじ著者の「随筆 本が崩れる」を読んでゐた。
この本によると草森紳一はたいへんに筆圧が高かつたのださうである。
力を入れると「火のつくように思考が動き出す」のを感じたのださうだ。
筆圧については、こちらにちよこつと書いてみたが。
ここにはもうひとつ気になることが書かれてゐる。

筆圧の高いためか、草森紳一は手や腕の痛みに悩まされてゐたといふ。
それで、筆で原稿を書くやうになつたのださうだ。
なるほど、筆なら筆圧は必要ない。むしろムダに力が入つてゐた方が書きにくからう。

草森紳一は、平田篤胤についていろいろ調べてゐたらしく、どうやらこの篤胤も、「書痙」、すなはち腱鞘炎だつた、といふ。
篤胤の使つてゐた机には、左肘をかばふやうな仕掛けがほどこされてゐたのだ、とか。

そこで、草森紳一は、「篤胤は左利きだつたのではないか」といふ。
腱鞘炎になるとしたら、筆を握る利き手の方だらう、と。

うーん、さういふことつてあるのかなぁ。

童の心で―歌舞伎と脳科学」の中で、團十郎はもともとは左利きだつたといつてゐる。團十郎がこどもの時代はきびしく右利きに矯正されたもので、絵を描いたりなんだりする以外は右手を使つてゐたのださうだ。

その中で、ひとつおもしろいことを云つてゐる。
子役のときに「寺子屋」の菅秀才をやつてゐるうちに、筆は右手で持つやうになつた、といふのだ。
菅秀才は、菅原道真の嫡子で、「寺子屋」の中では藤原時平の目をあざむくために、寺子屋の師匠夫婦の息子になつて暮らしてゐる。
「寺子屋」の冒頭部分に、菅秀才をはじめとする寺子たちが字を習ふ場面が出てくる。
そこで毎日筆を手にとるうちに、筆を使ふときは右手になるやうになつた、といふのだ。

あくまでも想像だが、篤胤も寺子屋に行つたらう。
寺子屋でなくて、もつとちやんとした学問所のやうなところに通つたかもしれない。
さうしたら、筆は右に持つやう指導されたのぢやあるまいか。
お手本は必ず左に置くだらうし、さすれば硯は右だらう。

それに、筆を左手に持つて書くのつて、書きづらくないかなあ。
左手で書いた方が、右から左に書くので、左手で書いた方が手は汚れないかもしれないし、書いた字の乾くまへに墨をこすつてしまふなんてなこともないのかもしれないが。
でも、とめとかはねとか、左手で書いたら、なんだかちがふ感じになつてしまふのではあるまいか。

でも、さうか、左手で書いた方が手が汚れないのか。
だとしたら、自己流で字を習ふてゐたら、もともと左利きだつた場合は左手で筆を持つやうになるのかもしれない。
硯は左に手本は右に置く。
最初からさうやつて書いてゐたら、左手で筆を持つやうになつてゐた可能性はあるのかも。

やつがれがこどものころも、左利きのこどもへの右利きへの矯正はかなり厳しかつた。
クラス一の秀才で普段は教師から全幅の信頼をおかれてゐたやうな子でも、左手で鉛筆をにぎつてゐると、教師から肘をはたかれたりしてゐた。

かういふ矯正をするやうになつたのつて、いつからなのかなあ。
寺子屋ではさういふ指導をしてゐたのだらうか。
明治時代に入つてからか。
案外、戦後からなのかもしれないなあ。

草森紳一は、自分は右利きで、左腕も痛くなつてゐるから、利き手と反対の手が痛くなることもあるだらう、とも書いてゐる。
さういふこともあるのか。
そこんとこ、筆圧の低いやつがれにはちよつと窺ひしれないところがある。

なんだか、悔しい。

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Thursday, 11 April 2013

人間の証明 -- あるいは、I, bot ふたたび --

「宇宙戦艦ヤマト」の劇場公開作品に、「ヤマトよ永遠に」がある。
詳細はこちらをご覧いただくとして、この映画を見たときに一番気になつたのは、「真田さんはどうやつてサーシャを育てたのか」であつた。

「宇宙戦艦ヤマト」シリーズにおける真田志郎(以下「真田さん」)は、一見なにごとにも動じない沈着冷静な技師長、その實「科学を憎んでゐる」とかいふ熱い思ひを持つてゐ人物として描かれてゐる。

真田さんは独身である。
結婚歴も(多分)ない。
その真田さんが、同期の親友であり主人公の兄である古代守とイスカンダル星人スターシャとのあひだに生まれた娘であるサーシャを育てる。
「ええっ?」だらう?

イスカンダル星人の特性をそなへたサーシャは、一年で地球人でいふ十六歳相当まで成長する。
「すぐ大きくなるんだから楽ぢやん」
「たつた一年のことでせう」
さういふ人もゐるかもしれない。

いやいやいやいや。
相手は女の子だぜ。
成長するごとに生意気になつていくのは目に見えてゐる。
さつきは云はなかつたやうなことを、今この瞬間には云ふ。
そんなことも多々あつたらう。

もしかすると真田さんはばあやさんを雇つたりもしたかもしれない。
それはそれで、そこにばあやさんとのコミュニケーションが発生するわけだ。
なんだかドラマチックぢやあないか。

「ヤマトよ永遠に」では、さうした部分はまつたく描かれてゐない。
作品からわかるのは、真田さんがサーシャを育てた、といふことだけである。

それだけのことから、それだけのことが、主人公の戀愛沙汰や宇宙の危機よりもずつと気になる。

それは、おそらくやつがれが「人間」だからだ。

機械は、(「まだ」と書いておくが)、そこまで受け取ることができない。
「ヤマトよ永遠に」で検索すれば、「真田さんが一年間サーシャを育てた」といふことはわかる。
でも、そこまでだ。

真田さんがどんな苦労をしたか、とか、父母とはなれてサーシャがどれほど悲しい思ひをしたか、とか、互ひにどれくらゐ慕ひあつてゐたか、とか。
さういふことに思ひを馳せることはない。
すくなくとも、「ヤマトよ永遠に」といふ作品から、そこまで引き出すのは不可能だらう。

……と、書いてゐるこのエントリを検索でひつかけて、「真田さんもきつと苦労したんだらうなあ」とか云はせることは可能かもしれないがな。

万事こんな具合で、やつがれは幼いころから物語の主人公に興味をいだくことができない。
主人公のことは、物語にほぼ描かれてゐるからだ。
物語の受け取り手もまた、主人公以外のものに興味を惹かれることはあまりないのらしい。

といふのは、たとへば「SLAMDUNK」を大好きといふ人に「ヤス」の話をしても、全然喰ひついてこなかつたり、ときに「ヤスつてだれですか?」と問はれたりすることがあつたり、だとか。
#シオやカクと云つたわけでもないのに。
#ましてや村雨くんとか云つたわけでもないのに。
「アメトーーク」のガンダム芸人もので、みな口をそろへて「こどものころはアムロとシャアしか見てなかつたけど」といつたり、だとか。

「SLAMDUNK」なんて主人公以外の人間のセリフが一番の名セリフに選ばれる作品だといふのに。
それでこのていたらく。

そんな話を聞くと、世の人はいつたいなにを見てゐるのだらう、と思つてしまふ。

「機動戦士ガンダム」で気になるのつて、戦ひもしないのに大佐なマ・クベだと思ふがなあ。
シャアでもないのにひとりだけ制服もちがへば、モビルスーツも特注のやうだ。
なんでそんなに偉いのか、といふのが、はじめて見たときから不思議でならなかつた。
しかも、キシリア・マ・クベのラインつて、なんだかものすごくしつくりしてゐる。
以前どこかでも書いたが、後に、戦争において兵站であるとか資源の確保であるとか、さういふものがとても重要なのだと知るにいたつて、「ああ!」と思ふやうになるのだが。

一方で、そんな脇道ばかり気にする自分は、物語をちやんと把握できてゐない、鑑賞できてゐないのではないか。
つねにさう思つてゐた。

でも、きつとそれは、やつがれの「人間」たる証なのだ。
人間だから、さうした瑣末なことが気になる。
機械がこの境地(つて大げさな)に至るには、まだまだ時間が必要だ。
もしかしたらできるやうになる日はやつてこないかもしれない。
そんな境地を求める研究者がゐないかもしれないからだ。

機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる」を読んで、「自分はまるでbotのやうだ」と思つたが、思ひがけないところで「人間の証明」を発見した。

実生活ではまつたく役に立たないがなー。

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Wednesday, 10 April 2013

I, bot

人間を人間足らしめてゐるものはなんだらうか。

ここのところ、「機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる」と、「ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法」、それと_The Icarus Deception: How High Will You Fly?_を読んでゐた。

この三冊に共通してゐることは、「他人とのつながり」について述べてゐるところだ。

「機械より人間らしくなれるか?」は、チューリングテストでbotと人間とが「人間らしさ」を競ふことについて書いてある。審査員とチャットをして、「人間らしい」と思はせたら勝ちだ。
たとへば、botの場合は、それまで一緒に話してきた内容を会話に生かすのが苦手だ、といふ。せいぜい自分がひとつ前に云つたことと、相手が云つたこと、それを前提にことばを選ぶことしかできない、といふのだ。
ところが、どうやら普段人間も、そんな感じで話してゐる、と書かれてゐる。ひとつ前のやりとりをもとに、自分の発言を(無意識のうちに)決めてゐる、といふのだ。
ほんたうに「人間らしく」、意味ある会話をするには、それではダメなのらしい。

「ニートの歩き方」も、_The Icarus Deception_も、インターネットで他人とつながることを推奨してゐる。
「ニートの歩き方」は、ニートになつてもインターネットで他人とつながることができるし、もつと云ふと、ニートになつたらさうやつて他人とつながるべきだ、といつてゐる。

_The Icarus Deception_では、まづ「Artistたれ」と説いてをり、それには「Connectせよ」と云ふ。ここでいふ「art」とは、「藝術」のことだけではない。ぼんやり生きてゐるだけではできないこと、すなはち、自身を自身足らしめる、「人間らしく」生きるのに必要なことを指してゐる。

たとへば、_The Icarus Deception_では、指導力もartだといふ。
なぜなら、大抵の場合指導力といふのは発揮されないものだからである。人間が深く考へ、世の中のことを考へ、他人のことを考へ、自分のことを考へなければ、真に「指導力」と呼ぶに足る力を発揮することはできないからである。

「機械より人間らしくなれるか?」には、ある女の人の話が出てくる。
学生時代バリスタとして働いてゐたこの人は、日ごとに変はる微妙な気象条件によつて豆を選び、コーヒーを入れ、その間に数多のお客さんと会話も交はして、いそがしく過ごしてゐたといふ。
卒業して就職して、自分の判断などほとんど必要のない「会社の歯車」のやうな仕事をするやうになつて、またバリスタに戻りたい、と、その人は思つてゐる、といふ。

つまり、みづからの「人間らしさ」を証明するには、他者との交流が不可欠だ、といふことだ。

さう考へると、やつがれは限りなくbotに近い日々を送つてゐる。
仕事で「art」を発揮することもない。
他人とのかかはりあひはできるかぎり避けてゐる。
Twitterでは闇の向かうに投げるやうなつぶやきが大半だ。
blogもまたしかり。

他者との会話のなりたたないやうな発言をすることを、「機械より人間らしくなれるか?」では、「ホールドが足りない」といつてゐる。
「ホールド」とはフリークライミング用の崖などに用意されてゐる、クライマのつかまるゴム製の出つぱりのことだ。
相手の返事を引き出すのは、ホールドだ。表現は悪いかもしれないが、相手が喰らひついてくるやうなホールドをみづからの発言に混ぜておくのが、会話をつづける秘訣である。
最初はその日の天気などあたりさはりのない話をしつつ、相手の応対しやすいやうなホールドをすこしづつ仕込んでいく。
さうしないと会話はつづかない。

これもまた、我が身を省みてみると、他人との会話が苦手なのは、自分の発言にホールドが足りないせゐなのだらう。
あるいはよく云はれるやうに、会話とはキャッチボールのやうなものなのかもしれない。
相手にボールを投げかけなければ、キャッチボールはつづかない。
投げたとしても、見当違ひな方向に投げてしまへばそれまでになつてしまふ。

できれば、そんなめんどくさいことはしないで生きていきたいのに。
だつてめんどくさいぢやん。

多分、さういふ、「会話にホールドを仕込む」とか「キャッチボールのやうに会話をする」といふことは、本邦では「気遣ひ」と関はつてくるから、それで苦手なんだらうな。

botには、「話相手への気遣ひ」はない。
あるいは、この先できるやうになるのかもしれない、または気遣つてゐるやうにみせることができるやうになるのかもしれない。

でもそれには、相手とのこれまでの会話を分析する必要がある。いま交はしてゐた会話はもちろん、それ以前に話したことがあれば、それもしかり。
それはなかなかむづかしいんぢやないかな。

「機械より人間らしくなれるか?」と、「ニートの歩き方」、_The Icarus Deception_は、いづれも、「人間らしさとはなにか」について書かれた本である。
意識して選んだ本ではない。
どれもたまたま手元にあつた本、読みたいと思つた本だ。
「ニートの歩き方」、_The Icarus Deception_、「機械より人間らしくなれるか?」の順に読んだ。
読み進むごとに、「自分は人間らしく生きてゐない」といふ念がつよくなつていつた。

自分は、botのやうなものだ。

それでもいいぢやん、と、思つたりもしたのだが、あるとき、ひとつだけ、「これはbotにはできまい」といふことを見つけた。
それは、次回の講釈で。

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Tuesday, 09 April 2013

Tatted Bookmarks

栞ばかり作つてゐる。

Jane's Bookmark & Black Magic

作つてるだけ、ましかな。
そんな気もする。

昨日のエントリで、くつ下を「あまちゃん」を見ながら編んだと書いたが。
今回、BlackMagic in Scottish Thistleは、これまで録画したままになつてゐた「アンパンマン」や「おじゃる丸」を見ながら作つた。
「おじゃる丸」は自分で録画予約したが、「アンパンマン」は録画機が勝手に録画してゐるものである。見始めたらこれが案外おもしろくて、録画されるままに見るうちに、おそらく録画機も「これは見るらしい」と判断したのだらう。ずつと録画しつづけてゐる。
「おじゃる丸」は録画を消化しきれないので、録画しなくなつてしまつたが、たまに録画機が気をきかして録画しておいてくれることもある。

左側の栞は、リハビリのためにちよいと太めの糸で作つてみたものだ。Lisbeth #20を使つてゐる。
リハビリなのに、シャトル二つ遣ひにしてしまつて失敗した、とは、以前書いた。
一応、表裏がはつきりするやうに、下段は表目と裏目の順番を入れ替へてみた。最後を表目で終はると糸の向きがをかしくなるので、最後半目余分に裏目を入れてゐる。
そこまで気にするか、といふ話もあるのだが、まあ、その時の気分だから仕方がない。
この栞はすでにいくつか作つてゐる。スプリットリングの練習にはいいんぢやあるまいか。

右の栞はMary Koniorの_Tatting with Visual Patterns_に掲載されてゐるBlack MagicをLisbeth #40のScottish Thistleといふ色合ひで作つてみたもの。
アザミはスコットランドの国花である。
昔、奇襲をはかつたヴァイキングたちがアザミを踏んでその棘の痛さに聲をあげてしまひ、作戦に失敗した、といふ伝説があるのらしい。足音を消すために裸足だつたといふが、まあ、伝説は伝説である。
この糸自体は緑色も紫色もおだやかな色合ひで、いい感じだ。なんとなくすつきりした印象もあるしね。
この栞こそ、何回作つたかわからない。
そして、一度たりともきちんと作れたことがない。
うーぬー。
どうも、両端の部分がうまくできない。
またリヴェンジしなければ。

それと、Black Magicの方は、栞にはチトてろんとし過ぎてゐるかもしれない。
栞なんだから、もつとしつかり作つた方がいいやうな気がする。
Jane's Bookmarkの方は、ちよつと意識してしつかりめに作つてみたつもり。糸が太いからとくに意識しなくてもそれなりにしつかりしたのかもしれない、といふ話もある。

ここのところ毛糸でばかりタティングをしてゐるが。
しばらく綿のレース糸に戻るかなあ。
これから暑くなるしな。

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Monday, 08 April 2013

Sleep Deprivation

先週、平日のあひだはほとんど編めてゐない。
編めてゐないといふよりは、「編んでゐない」といふべきか。

帰宅して食事の支度をして食べてかたづけて風呂を沸かして食休みの最中に録音したラジオ語学講座を聞いて入浴して粗熱(つてをい)を取るあひだblogのエントリなど書いて……

さうすると、もう寝る時間なのだ。

ここのところ、具体的に云ふと、一年ちよい前くらゐから、とにかく睡眠時間の確保を最優先、といふことでやつてきた。
もともと、やつがれは寝ないとダメなのだつた。
学校にかよつてゐたころは、定期試験のときなどもしつかり寝てゐた。
試験勉強はほぼ一夜漬けといふか、前の日にするていどだつたけれども、それでも寝てゐた。
徹夜しろよ、といふ話もあるかもしれないが、それだとダメなのである。
一度やつてみて、凝りた。

もつと云ふと、小学生のころ、よく「頭が痛い」と云ふて保健室で寝てゐたことがある。
小学生のころは自主的に夜九時には寝てゐた。
眠くなるからだ。
必殺シリーズなど、九時以降にはじまる時代劇が見られないのがくやしかつたが、どうにもならない。
それでもまあ、五六年生くらゐになるころには必殺シリーズくらゐは見られるやうになつてゐたけれども、そのせゐか、日中激しい頭痛に悩まされることがあつた。
保健室で睡眠を取ると、なんだかすつきりして頭痛もどこかへ消へてゐた。

その重要な睡眠時間を削りはじめたのは、就職してからだ。
とくに、金融系の客先で、朝八時四十五分に来い、と云はれてからの削りやうは著しかつた。
朝は始発のバスに乗つて、帰りは終電に駆けこむ毎日。
もう終電に間に合はないかも、と、タキシーを飛ばして行くと、中央線が遅れてゐて待ち合はせをしてゐる、といふことが毎回あつて、このときばかりは中央線の遅れに感謝したものだつた。

終電で帰ると、タキシーに並ぶので、家に着くのは一時半。ときに二時ちかくになる。
それから食べたり入浴したりすると、あつといふ間に三時。
二時間くらゐ寝て、また始発のバスに乗る。

その後、朝は十時出勤でいいといふ客先に行くことになつたりしたが、夜遅いのは変はらず、おそらく本来は朝型であるはずなのに、次第に夜型になつていつた。
うつかりすると二時三時。
そんな日々がつづいた。

これではいけない。
おそまきながら、さう思ふやうになつた。
それまでは、「眠る時間を削らなければ、なにもできない」と思つてゐた。
実は、今でも思つてはゐる。

でも、睡眠時間を最優先にしなければ、余計になにもできない。
眠すぎて。
この結論に至るまでに、日々の行動記録を取つたりした。
仕事やそれにまつはる出勤退勤時の移動時間、食事と入浴とにかかる時間、さうしたものをのぞくと、ほんとにわづかな時間しか残らない。

実際睡眠時間最優先の生活をしてみて、わかつたことがある。
これまでやつがれは、睡眠時間を削つて編んだり結んだり紡いだりしてゐた、といふことだ。
先日、「TVを見ながら編んだり結んだり紡いだりしてゐたが、TVを見なくなつたので自然と編んだり結んだり紡いだりする時間も減つた」と書いた。
これもたしかにそのとほりなのだが、それ以上に、睡眠時間を削ることで為してゐたことが多かつたのらしい。

うーぬー。

そんなわけで、先週編みはじめたくつ下もそんなに進んでゐない。

Diamonds in his Shoes in Progress

進んだ分は、「あまちゃん」の録画を見ながら編んだ分。
朝の連続テレビ小説を見るやうになるなんて、思はなかつたなあ。
ここ二三年くらゐ、変はりつつあるよね、朝の連続テレビ小説。
以前は、視聴者をバカにしてゐるとしか思へないやうな話の展開だつたものだが。
あれ、絶対バカにしてるよね。「これくらゐしないと視聴者には理解できないだらう」つて態度が完璧に透けて見えてたもの。
それが、ここのところ、変はつたものを作らう、おもしろいものを作らうとしてゐるやうに感じられる。

さうなると、あれだな、視聴者をバカにしてゐるのは、大河ドラマだな。
「これくらゐ単純にしないと視聴者にはわからないのにちがひない」といふ姿勢が如実にあらはれてゐる。
「どーせ戦国時代もので、それも信長・秀吉・家康の出てくるやうな話でないと見ないんだろ?」みたやうな感じとかさ。
今の「八重の桜」も例外ではない。
「平清盛」はなー、そこんとこ、がんばつてたと思ふんだけどなあ。
それでコケてるつてことは、視聴者はやはりバカといふことなのか。
だから制作者サイドになめられるんだぜ。
ま、いいけどさ。そんなものはもう見ないから。
と云ひつつ、三条実美が復帰したら多分見るけど。

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Friday, 05 April 2013

春の別れ

いつかこの日が来る。
遅かれ早かれ来る。
いや、近い将来、来る。
わかつてゐてもショックのやはらぐことはなかつた。

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに展示されてゐる人形が入れ替はるのだといふ。
先週行つたときに知つた。
現在の展示は4/18まで。4/19から4/25のあひだ休館して展示替へをし、4/26から再度開館する。

本来は、もつと早い時期に入れ替へを行ふ予定であつたといふ。
客から、「できるだけ長いこと見たい」といふ要望があつたとのことで、入れ替へがこの時期になつたのださうだ。

わかつてゐる。
照明で、人形は傷む。
できれば、長いこと展示しない方がいいのだ。
川本喜八郎人形美術館も、定期的に展示替へしてゐるのらしいし。

でもなあ……
足しげく通つて馴染んだ相手がゐなくなると思ふと、どうしやうもない喪失感に襲はれてしまふ。

ギャラリーには、展示がどう変はるのか説明はなかつたが、上記リンク先には書かれてゐる。
平家物語は、保元の乱や平治の乱を中心にした27体を展示する。
三国志は、桃園の誓ひと黄巾の乱を中心にした14体。

現在は、平家物語がギャラリー入り口の金王丸も入れて14体、三国志が18体だから……あれ、だいぶ増えるな。どうするんだらう。ケースを増やすんだらうか。

この情報を知らなかつた先週は、「平家物語は僧形の清盛とか、平家の公達、頼朝や義経とかいろいろ考へられるけど、と思つてゐた。
#実際はこの予想は裏切られたやうだが。
#それとも牛若丸とか、出てくるかなあ。

しかし、三国志。
もう何度も書いてゐてくどくで恐縮だが、ギャラリーにゐる三国志の面々は人形劇に出てゐた面々ではない。
川本喜八郎がその晩年あらたに作りなほしてゐたものである。
ほかに、作りなほしてゐた人形がゐるのだらうか。
どこかで、「張遼を作りなほしたいと云つてゐた」といふ話を聞いたことがあるのだが、ほんたうかなあ。
人形劇三国志では、張遼は活躍しなかつたからなあ。

また、おそらく平家物語の人形はもともとは川本喜八郎人形美術館に飾られてゐたりもしたのだらう。
でも、三国志はどうなんだらう。
この、作りなほした人形たちも、飯田にゐたのだらうか。
渋谷を去つたのち、飯田で会へる日もあるのだらうか。

それに、玄徳とか、人形劇序盤の髭のない若者の姿のものも、作りなほしてゐたりするのか知らん。
総入れ替へしたら、玄徳・関羽・張飛も、曹操も、孔明もゐなくなつてしまふのか知らん。

さういへば、放映当時のNHKセンター入り口の展示はそんな感じではあつたけれど。
NHKでは人形劇を放映してゐるあひだ、NHKセンターの入り口に人形を展示してゐたものだつた。三銃士のときもしてゐたと思ふ。だいたい五体くらゐ飾られてゐて、定期的に入れ替へられてゐた。だから、脇役ばかりのときなどもあつたりした。撮影もあらうから、主要な登場人物を飾るわけにもいかない場合もあつたらう。

そんな感じになるのかな、と思つたが、どうやら玄徳・関羽・張飛は残るやうだな。
さうだよなあ。玄徳のゐない人形劇三国志なんて、考へられない。
正直云つて、玄徳の死んだところで番組を終へるべきだつたと思つてゐるくらゐである。

すると、三国志も今度は人形劇に出てゐた面々をつれてくるのだらうか。
曹操なんかは衣装が照明に焼けてかなり色褪せてゐるといふ話だけれど、玄徳・関羽・張飛ならそんなこともないのかもしれない、衣装の色的に。

いづれにしても、楽しみ半分さみしさ半分、といつたところか。

全然関係ないけど、友との別れをうたつた漢詩ばかりが思はれる。
広い中国のことだから、今度はいつ会へるかわからない。
これが今生の別れかもしれない。
そんな詩をいくつもいくつも思ひ出してしまふ。

ただ水の流れの行く果てと空とのあはひを見つめるのみ。

そんな心持ちなのだつた。

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Thursday, 04 April 2013

PILOT COCOON入手

4月2日、歌舞伎座の帰りにPILOT COCOONを買つてしまつた。

PILOT COCOON

「買つてしまつた」、と書いたが、これまで丸善ポイントカードでためにためてきたポイントのほんの一部を商品券と交換して、入手した。
したがつて、あまり「買つた」といふ意識もないうへ、「無駄遣ひした」といふ感覚は皆無である。

でも、お金出して買つてゐても、「無駄遣ひした」とは思はなかつたらうな。

なにを云つても、書きやすい。
中字と細字と迷つて、結局細字を買つたのだが、普通の細字よりもインキフローがいい。書き味なめらか、とは、かういふのを云ふのだらうなあ。
つるつるつと書ける。
さういやパイロットには「なめら課」があつたよな。粟根まこと以外の課員を知らないけど。
と、なんだかものすごく古いTVコマーシャルを思ひ出すほどなめらかなのである。

インキは、Pen and messageの山野草を入れてみた。
考へてみたら、この機会に色彩雫の紫式部を買つてもよかつたなあ、と思ひつつ、山野草とかぶりさうなので、これでよかつたのかもしれない。

パイロットは、廉価で書きやすい萬年筆を追求したのらしいが。
このペンを使つたら、もう高級萬年筆は買はなくてもいいかも、と思ふくらゐ、いい。

軸の太さもちやうどよい気がする。
軸つてあんまし細すぎると手が疲れるんだよね。
COCOONの軸は、太いとは云はないが細すぎるといふこともない。
色はチタンを選んだせゐか、持つたときに思つたよりかるく感じるのもいい。

まだ使ひはじめたばかりなのだが、とりあへず意味もなくいたづら書きを書き散らしてゐる。
楽しい。
なんて楽しいんだらう。意味のないことをあれこれ書き散らすのつて。

うーん、これは中字もほしいかもしれないぞ。

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Wednesday, 03 April 2013

会社人失格

歌舞伎座

五代目歌舞伎座杮落しの初日に行つてきた。
まづは第一部だけ。第二部、第三部は後半に見に行く予定。

初日に、それも第一部に行つてよかつた。
「熊谷陣屋」を思ひ出すだけで、しばらく生きていけさうだ。

歌舞伎座内部のやうすは、すでにTVなどで報道されてゐたので、さほど目新しさを覚えることもなかつた。
先代とできるだけおなじやうに作つた、といふ話だつたしね。
今回は三階席の三等Bといふ一番安い席を取つたのだが、先代とちがつて花道七三あたりまで見えたし、椅子が座りやすくなつてゐて、見てゐて疲れることがなかつたし、とてもよかつた。傾斜はきつくなつてゐるが、南座のやうに階段の上り下りが急でたいへん、といふこともなかつた。

ただ、三階の東西の袖の席の背後に扉のないのがなんとなく物足りない感じがした。

一幕目、「壽祝歌舞伎華彩」は、まづ上手から染五郎が出てくるところからはじまる。つづいて魁春。平安朝の衣装をつけたふたりがひととほり踊ると、権十郎と高麗蔵につづいて若い役者たちが出てきて群舞といつた趣になり、いよいよ、藤十郎がセリあがつてくる。
この藤十郎がね、後光が射してゐるかのやうな神々しさ。
しかも、藤十郎登場直後の歌詞が「ありがたや」ときてゐる。
「まさにそのとほりだよ!」と思つたなあ。
感謝の意味の「ありがたや」と、もうひとつ、文字通りのあることがむづかしいといふ意味の「ありがたや」との、両方を感じた。
この幕のあひだは、なんだか夢を見てゐるかのやうな気分だつた。
ほんとに歌舞伎座は新規開場したのか知らん。
その歌舞伎座の杮落し初日に、自分は来ることができたのか知らん。
目の前の綺羅星の如き衣装を身に着けた人々は、現実に存在するのか知らん。
そんな、ふはふはした気分のまま、一幕目は幕。

二幕目は「お祭り」。
「十八世中村勘三郎に捧ぐ」と副題にあるとほり、亡くなつた中村屋をしのぶ一幕。
三津五郎をはじめ、これまた多くの役者がずらりと並ぶ。
この幕には、サプライズがあると小耳にはさんでゐた。
小山三が出るのではないか、といふ話もあつて、実際出てゐたので、これであつたか、と思つた次の瞬間だつた。
勘九郎に手を引かれて揚幕から花道に登場したのは、勘九郎の長男・七緒八だつた。
なるほど、これは確かにサプライズだ。
二歳児だといふのに、幕の開いてゐるあひだ、おとなしくしてゐたのが印象的。見てゐると、父親や叔父があれこれ話しかけてはゐたやうだけれど。また、勘九郎が踊つてゐるときには、ちよつとはなれたところから三津五郎が時折こどもの方を見てはにこにことしてゐたのも印象的だつた。
かういふ演目だと、三津五郎と勘九郎のやうすのよさが群を抜いてゐる。
三津五郎はやうすのよいうへに、おかめのお面をかぶつたときのふんはりふんはりとやはらかいやうすなんかがたまらない。
幕がおりると、目頭を抑へてゐる人々が散見されて、「うんうん、さうなるよね」と共感を覚えた。

最後は「熊谷陣屋」。
杮落しに「こどもの死ぬ芝居ばかり」とこぼしてゐる人がゐる、といふが。
とりあへずこの幕に関しては、そんなことはちいさいことだ。
わかるよ、以前、初春歌舞伎にこの演目がかかつて、見終はつたあと、なんとなーく後味が悪かつたことがあつた。
「なにも正月からこんなこどもの死ぬ話にしなくても……」とそのとき思つた。
「熊谷陣屋」は好きな演目にもかかはらず、である。

でもなあ、今回の「熊谷陣屋」に関しては、「ああ、やつぱりこのお芝居、好きだなあ」と思つた。

玉三郎の相模に泣かされる日が来るだなんて、夢にも思はなかつた。
年は取つてみるものだなあ。
はじめて見た「熊谷陣屋」も、相模は玉三郎だつた。熊谷は團十郎。
このときは、まだ芝居を見始めたばかりだつたので、「ええっ、熊谷は敦盛を討つたんぢやないの?」とか、全然ちがふところでびつくりしてゐたものだつた。
玉三郎では藤の方も見て、このときは首実検で控へてゐるときにまるで魂が抜けてただその場にゐるかのやうなやうすがチト不満だつた。
それが、ねえ……
玉三郎の相模は、前半かなり強気にかまへてゐる分、実は我が子が身替はりになつてゐた、とわかつて以降があはれな感じがするんだよなあ。

仁左衛門の義経の御曹司ぶりにも見とれることしきり。
源平の世界ものの義経は、大抵無理難題をおしつけてくるので、とにかくその無理無体を納得させるだけの凛とした品が必要なんだが、文句なしでせう。

そしてそして、やはり、吉右衛門の熊谷。
さよなら公演の「熊谷陣屋」が自分の中ではキング・オブ・熊谷陣屋だつたのだが。
今回の熊谷のおほきなこと。
大変失礼なことをしてゐたとは思ふのだが、「大播磨」といふかけ声が、やつがれは好きではなかつた。
それまでは、「早く「大播磨」といふかけ声がかかるやうになるといいのに」と思つてゐたといふのに、だ。
実際にかかるやうになると、「まだそんなお年ぢやないんだもん」とか、意味のない反感を抱いてしまつた。
それを、今回、はじめてすなほに聞くことができた。
多分、歌舞伎座といふ器と、吉右衛門といふ役者とその役者の演じる熊谷次郎とが、ぴたりと合致したのだと思ふ。

とにかく、「熊谷陣屋」は初日だといふのに、大変に充実した出来だつた。
初日からこれで、このあとどうなつてしまふのだらう。
上に書いた熊谷、相模、義経がすばらしかつたのはもちろんだが、藤の方、弥陀六もまことによかつたし、軍次、平次、四天王に至るまで、まつたく隙なし、といつた趣だつた。
これが歌舞伎の本気なのか。
しみじみさう思つた。

ところで、今回は三等B席を取つた。
三階席上部のほぼ真ん中に座つてゐた。
橋之助、吉右衛門、仁左衛門の聲が少々聞き取りづらく感じた。
橋之助はせりふがひとつくらゐだつたので、それで終はつてしまつたが、吉右衛門、仁左衛門は後半すこし聞き取りやすくなつてゐた。
「熊谷陣屋」については、葵太夫の語りもはつきり聞き取れたし寿治郎の三味線もよかつたし、玉三郎、菊之助も問題なかつた。ツケの音もよく響いてゐたやうに思ふ。
葵太夫の語りのあとに熊谷のセリフがあつたりすると、如実に聞こえづらい感じがしたんだよなあ。
どうも、聲質によつて聞き取りやすかつたりさうでなかつたりするやうだ。
「熊谷陣屋」幕開きの高札を見る四人のセリフなどはちやんと聞き取れたので、あるいは舞台上での位置にもよるのかもしれない。

第二部、第三部を見に行くころに、なにか変化があるかどうか。
今回座つた席の付近には座らないけれど、ちよつと期待してゐる。

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Tuesday, 02 April 2013

タティングレースの春

タティングレースの春。
そんな趣の今日このごろである。

タティングレースの春、といふのは、今月末、タティングレースの新刊が二冊発売されるからである。
一冊は藤重すみの「暮らしの中のタティングレース」、もう一冊は複数のデザイナの作品を載せた「タティングレース(CreAtorクリエイター06) 」だ。

藤重すみの本は、絶版になつた本に掲載されてゐた作品を集めたものらしい。
「かわいいタッチングレース」については、技法の説明は今ひとつだつたけれど、いかにもタティングレースらしいドイリーとか載つてゐたので、見たことのない人は是非この機会に、と思ふ。

もう一冊の方は、なぜかAmazonではすでにいくつもコメントがついてゐるが、コメント日付から見て、別の本へのコメントのやうである。
いろんなデザイナの作品を見られる、といふのはおもしろいんぢやないかな。

まあ、二冊ともまだ見てないのでなんとも云へないけど、少なくともここ二三年に出版されたタティングレースの本よりは楽しみである。

さう、ここ二三年にこの世に出たタティングレースの本つて、見ても「作りたい」つて気がおきないものが多かつたんだよなあ。
紹介のために、無理矢理中からひとつモチーフとか作つたくらゐだらうか。
こんな風に紹介してゐた

前回、「ちよつとタティングレースに挫折気味」とか書いたけれど、おそらくのんびりタティングレースと向き合つてゐる時間がないのだ。
以前は通勤途中のバスの中とかで結んでゐたりしたけれど、最近めつきりそんなこともできなくなつてしまつた。
なんだか、あさましい気がしてしまふんだよね。それは、よくバスの中で結んでゐたころもさう感じることもあつたけれど、あるとき強くさう感じて、「なんでこんなところで自分はタティングレースなんぞをしてゐるのだ」と、がつつくやうに結んでゐる我と我が身に嫌気がさしてしまつたのだつた。

でも、結びはじめると楽しいんだよね、なんだかんだいつて。
がつつかないで、「栞に一ヶ月? それくらゐかかるよね」くらゐのまつたりとしたモードでしばらくは行きたいと思ふ。

Bookmark in Progress

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Monday, 01 April 2013

2013年3月の読書メーター

2013年3月の読書メーター
読んだ本の数:11冊
読んだページ数:3526ページ
ナイス数:4ナイス

仲蔵狂乱 (講談社文庫)仲蔵狂乱 (講談社文庫)感想
単行本の出たころ冒頭を読んでイヤな予感がしてそのままおいた。十年を経て、予感の正しかつたことを知る。田沼意次いい人話にはちよつと食傷気味だなあ。たまには悪くて悪い田沼意次を見たくなるよね。
読了日:3月1日 著者:松井 今朝子
漢詩を読む 3-白居易から蘇東坡へ漢詩を読む 3-白居易から蘇東坡へ感想
左遷されない人はゐないのか、と思ふくらゐ、みな左遷されてゐる(司馬光はされなかつたらしいけど、それでも職を辞したことがある)。多少の不遇は気にすることないつてことなのかな。でも今の世の中、一度流されたらなかなか戻つては来られないし、そもそも、ここに出てくるやうな人はみな優秀な人ばかりだし……などと、憂ひたりもする。この本では、さうした詩人の境遇がわからないと詩の鑑賞はむづかしいと云ふてゐる。でもそれはどうかな。さうとばかりは云へないと思ふのだが如何に。
読了日:3月5日 著者:宇野 直人,江原 正士
蘇東坡100選 (NHKライブラリー―漢詩をよむ (128))蘇東坡100選 (NHKライブラリー―漢詩をよむ (128))感想
晩唐より後の詩とか詩人に興味はないはずだつたんだが、食はず嫌ひはいけない、といふことか。しかし、左遷多過ぎて泣けるわ。詩の解釈としては、それでも明るい、といふのが多いけど、ほんたうにさうなのかなあ、とか、つい深読みをしたくなる。
読了日:3月8日 著者:石川 忠久
春秋左氏伝  ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫)春秋左氏伝 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫)感想
かつて挫折した左伝も、これならなんとかなるかと思つたが、やはり手強かつた。あるいは「左伝は苦手」といふ意識のなせることであつたか。洩冶はほんとにアホなのか。上司がアホやから野球できんのか。あ、それはまた違ふか。これから本物に挑戦する、かのう。帯の「三国志の関羽の愛読書」といふ惹句にはウケた。これで買ふ人つてゐるんだらうか。
読了日:3月9日 著者:安本 博
仮名手本忠臣蔵 (岩波文庫)仮名手本忠臣蔵 (岩波文庫)感想
評判記がおもしろい。これによると、栄屋が定九郎のこしらへを変へたのは、初役のときではないとある。ほほう。
読了日:3月14日 著者:竹田 出雲,守随 憲治
随筆 本が崩れる (文春新書)随筆 本が崩れる (文春新書)感想
「本が崩れ」てもいいのは、仕事だから。趣味ていど、それも、「別にそんなに本好きなわけぢやないし」つてな人間がやつてはいけない。さう理解したので、明日から本の山の整理をしたい。さう、明日から……
読了日:3月16日 著者:草森 紳一
ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法感想
「寝たいときは寝たいだけ寝ればいい」。なぜさうできないのか、と考へて、やはり世間のルールにしたがつてゐるからなのかなあ、といふところに行き着く。そもそも、なんでもないのに常に眠たいといふのが、なにかのサインなのかもしれない。読んでそんな気分になつた。裏表紙に「ニートチェックシート」なるものがついてゐるが、ちよつと中途半端な結果になつた。 ニートになるにも友人は多くないといけないのらしい。といふことは、世間のルールにしたがつて生きていかないとダメなのかもしれないなあ。
読了日:3月20日 著者:pha
「悪意の情報」を見破る方法 (ポピュラーサイエンス)「悪意の情報」を見破る方法 (ポピュラーサイエンス)感想
云つてることはわかるんだけど、でもいざといふときにはやつぱりダマされちやつたり、自分の都合のいいやうに考へたりしちやふんだらうなあ。だつて人間だもの。
読了日:3月22日 著者:シェリー・シーサラー
The Icarus Deception: How High Will You Fly?The Icarus Deception: How High Will You Fly?感想
「Artistたれ」「Connectせよ」といふことだと思ふんだが、つい最近読んだ「ニートの歩き方」に非常に近い部分がある気がした。もちろん、この本の著者は「ニートたれ」とは云つてはゐないんだが。
読了日:3月27日 著者:Seth Godin
漢魏六朝の詩〈上〉漢魏六朝の詩〈上〉感想
最近読んだ漢詩の本が蘇軾だつたので、なんだかいろいろすごく新鮮だつた。たまにはかういふ、ある時代から千年近く前の時代の詩なんかを読んでみるのつていいかも。それにしてもやつぱり曹操は詩人なのであつた。
読了日:3月28日 著者:石川 忠久
英雄三国志 1 義軍立つ (集英社文庫)英雄三国志 1 義軍立つ (集英社文庫)感想
「英雄ここにあり」と「英雄生きるべきか死すべきか」は最初に読んだ演義翻案もの。柴錬三国志の第一巻として、柴錬らしさ満載。たとへば、董卓の専横の一環として描かれる宦官の量産や、池の鯉をいぢめる貂蝉のくだりは、如何にも柴錬。さう、「三国志演義」といふよりは、「柴錬の小説」なんだよなあ。
読了日:3月31日 著者:柴田 錬三郎

読書メーター

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履くソックス三千足

Diamonds in his Shoes in Progress

Vortex Shawlの伏せ止めも進まないのに、くつ下を編みはじめてしまつた。
Diamonds in His Shoesである。

突然くつ下を編みたくなつた。
暑いほどにあたたかい日のつづいたあと、ふたたび冬のやうに寒い日々がやつてきたからかもしれない。
あたたかかつたときも、家では自分で編んだくつ下を履いてゐた。
多分、六月くらゐまでは履くんぢやないかなあ、例年のことを考へると。

米国などだと、摂氏四十度を超えても羊毛七割以上の毛糸で編んだくつ下を履いてゐる、といふのだが。
それつてきつと、湿度が低いせゐだよね。

本邦だとむづかしいと思ふなあ。
空調のきき過ぎた室内とかだと必需品かもしれないけど。

それにしてもくつ下を編むのは楽しい。
イメルダ・マルコスの靴のコレクションが取沙汰されたころ、「履く靴三千足」なんてなうまいことを云ふ人がゐたけれど、やつがれの場合は「履くくつ下三千足」だ。
もちろん、元の詩の一節とおなじく、「三千」は誇張といふか、単に数の多すぎることをあらはしてるだけだけどね。

編んだだけで一度も履いてゐないくつ下もある。
Sockblockerを買つてからは、試し履きしなくてもなんとかなる場合もあるからだ。
以前もどこかで書いたやうな気がするけれど、編むときは多少模様があつたりする方が楽しいし編み上がるのも早いが、履きやすいのは単にメリヤス編みとかゴム編みとかのくつ下だ。
履きやすいといふよりは、手に取りやすい、かもしれない。
メリヤス編みのくつ下なんて、そこらへんで買つてきた方が、化繊の糸を使つてる分よほど丈夫だし、洗濯も楽だし、経済的なんだがね。
でも、ふしぎなもので、手編みのくつ下といふのは足をしめつけることがない。
すくなくとも自分で編んだくつ下はそんなことない。
やはらかく足を包み込むやうな感じがする。
しかもあたたかいしね。
今も履き口だけゴム編みであとはメリヤス編みのくつ下を履いてゐる。

とか云ひながら、編みはじめたのは交差模様のくつ下なんだがねー。
毛糸はOpalのHundertwassers。この糸だつたら単にメリヤス編みで十分な気がしたんだが、このDiamonds in his Shoesといふくつ下も以前から編みたかつたもの。
さういふ、「いつか編みたいくつ下」も三千足くらゐあるんだよなあ。
やはりせつせと編まないと、だな。

Vortex Shawlの伏せ止めもしないと、だけど。

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