I, bot
人間を人間足らしめてゐるものはなんだらうか。
ここのところ、「機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる」と、「ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法」、それと_The Icarus Deception: How High Will You Fly?_を読んでゐた。
この三冊に共通してゐることは、「他人とのつながり」について述べてゐるところだ。
「機械より人間らしくなれるか?」は、チューリングテストでbotと人間とが「人間らしさ」を競ふことについて書いてある。審査員とチャットをして、「人間らしい」と思はせたら勝ちだ。
たとへば、botの場合は、それまで一緒に話してきた内容を会話に生かすのが苦手だ、といふ。せいぜい自分がひとつ前に云つたことと、相手が云つたこと、それを前提にことばを選ぶことしかできない、といふのだ。
ところが、どうやら普段人間も、そんな感じで話してゐる、と書かれてゐる。ひとつ前のやりとりをもとに、自分の発言を(無意識のうちに)決めてゐる、といふのだ。
ほんたうに「人間らしく」、意味ある会話をするには、それではダメなのらしい。
「ニートの歩き方」も、_The Icarus Deception_も、インターネットで他人とつながることを推奨してゐる。
「ニートの歩き方」は、ニートになつてもインターネットで他人とつながることができるし、もつと云ふと、ニートになつたらさうやつて他人とつながるべきだ、といつてゐる。
_The Icarus Deception_では、まづ「Artistたれ」と説いてをり、それには「Connectせよ」と云ふ。ここでいふ「art」とは、「藝術」のことだけではない。ぼんやり生きてゐるだけではできないこと、すなはち、自身を自身足らしめる、「人間らしく」生きるのに必要なことを指してゐる。
たとへば、_The Icarus Deception_では、指導力もartだといふ。
なぜなら、大抵の場合指導力といふのは発揮されないものだからである。人間が深く考へ、世の中のことを考へ、他人のことを考へ、自分のことを考へなければ、真に「指導力」と呼ぶに足る力を発揮することはできないからである。
「機械より人間らしくなれるか?」には、ある女の人の話が出てくる。
学生時代バリスタとして働いてゐたこの人は、日ごとに変はる微妙な気象条件によつて豆を選び、コーヒーを入れ、その間に数多のお客さんと会話も交はして、いそがしく過ごしてゐたといふ。
卒業して就職して、自分の判断などほとんど必要のない「会社の歯車」のやうな仕事をするやうになつて、またバリスタに戻りたい、と、その人は思つてゐる、といふ。
つまり、みづからの「人間らしさ」を証明するには、他者との交流が不可欠だ、といふことだ。
さう考へると、やつがれは限りなくbotに近い日々を送つてゐる。
仕事で「art」を発揮することもない。
他人とのかかはりあひはできるかぎり避けてゐる。
Twitterでは闇の向かうに投げるやうなつぶやきが大半だ。
blogもまたしかり。
他者との会話のなりたたないやうな発言をすることを、「機械より人間らしくなれるか?」では、「ホールドが足りない」といつてゐる。
「ホールド」とはフリークライミング用の崖などに用意されてゐる、クライマのつかまるゴム製の出つぱりのことだ。
相手の返事を引き出すのは、ホールドだ。表現は悪いかもしれないが、相手が喰らひついてくるやうなホールドをみづからの発言に混ぜておくのが、会話をつづける秘訣である。
最初はその日の天気などあたりさはりのない話をしつつ、相手の応対しやすいやうなホールドをすこしづつ仕込んでいく。
さうしないと会話はつづかない。
これもまた、我が身を省みてみると、他人との会話が苦手なのは、自分の発言にホールドが足りないせゐなのだらう。
あるいはよく云はれるやうに、会話とはキャッチボールのやうなものなのかもしれない。
相手にボールを投げかけなければ、キャッチボールはつづかない。
投げたとしても、見当違ひな方向に投げてしまへばそれまでになつてしまふ。
できれば、そんなめんどくさいことはしないで生きていきたいのに。
だつてめんどくさいぢやん。
多分、さういふ、「会話にホールドを仕込む」とか「キャッチボールのやうに会話をする」といふことは、本邦では「気遣ひ」と関はつてくるから、それで苦手なんだらうな。
botには、「話相手への気遣ひ」はない。
あるいは、この先できるやうになるのかもしれない、または気遣つてゐるやうにみせることができるやうになるのかもしれない。
でもそれには、相手とのこれまでの会話を分析する必要がある。いま交はしてゐた会話はもちろん、それ以前に話したことがあれば、それもしかり。
それはなかなかむづかしいんぢやないかな。
「機械より人間らしくなれるか?」と、「ニートの歩き方」、_The Icarus Deception_は、いづれも、「人間らしさとはなにか」について書かれた本である。
意識して選んだ本ではない。
どれもたまたま手元にあつた本、読みたいと思つた本だ。
「ニートの歩き方」、_The Icarus Deception_、「機械より人間らしくなれるか?」の順に読んだ。
読み進むごとに、「自分は人間らしく生きてゐない」といふ念がつよくなつていつた。
自分は、botのやうなものだ。
それでもいいぢやん、と、思つたりもしたのだが、あるとき、ひとつだけ、「これはbotにはできまい」といふことを見つけた。
それは、次回の講釈で。
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