My Photo
September 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« February 2013 | Main | April 2013 »

Friday, 29 March 2013

カンダミサコのdumi その後

カンダミサコ dumi

カンダミサコdumiを愛用してゐる。
先月の頭に届いて、あれからほぼ二ヶ月、かなりのヘヴィーローテーションで使つてゐる。
手元にとどいた直後のことはこちらに書いた。
頻繁に使ふ理由は、もちろん使ひやすいからだ。
どう使ひやすいのか、といふと、まづ、見た目よりもものが入る。ものが入るわりにかさばらない。休みの日なんかはこれひとつで十分。
なにを入れてゐるかについては、上記リンク先に写真を載せてゐる。

先週は一週間休ませたが、三日以上持たなかつたのはこれがはじめてかもしれない。

最初の一週間は毎日持つて出かけてゐた。一週間もたつと、革がふんはりとやはらかくなつて、ちよつと握つたときの感触がたまらなくなつた。
この感触はいまも変はらない。

艶の方はまだまだ、かなあ。
もともと持つてゐたシュランケンカーフのかばんの艶が結構出てきてゐるので、ついくらべてしまふからかもしれないが、dumiはまだまだこれから艶が出てくるものと思はれる。

dumiは、写真からわかるかと思ふが、薄い長方形の袋を半分に折つて、折り目(のちよつと脇)にファスナーをつけた形になつてゐる。
二つに折れてゐるので、中がふたつにわかれることになる。
ファスナーはうしろ寄りについてゐるので、すぐ取り出したいものはうしろ、それほど出番の多くないものは手前に入れる。
ファスナーの位置から、手前に入れたものは、ファスナーを目一杯開いても飛び出したりはしない。それでゐて取り出しにくいといふ感じはしない。

休みの日は、手帳(現在はMoleskineのポケットサイズ)と文庫か新書を入れる。
前回のエントリ時にdumiに入れて持ち歩くものの写真を載せた。ここに映つてゐる本は、WILDSWANSの文庫カヴァをつけた橋本治の「大江戸歌舞伎はこんなもの」。269ページといふことで、そんなに分厚いわけではないが、さりとて薄いとも云へぬと思ふ。これが入る。Moleskineをあきらめれば、文庫のもう一冊くらゐは入るだらう。

出勤時は別にネコリュックやトートバッグをあはせるので、本やMoleskineはそちらに入れるのだが、dumiに一緒に入れると、板代はりになつて、これがまたいいのだつた。

先日のエントリにも書いたが、dumiは実物を見ないで注文した。dumi miniは見たんだけどね。最初はdumi miniにしやうと思つてゐて、でもカンダミサコのサイトを見て、大きめのdumiのあることを知つて、さんざん悩んでdumiにした。
それで正解だつたと思つてゐる。

dumi miniは浅い分、もつと中のものを整理しやすいだらうし、取り出しやすからうとは思ふのだが、多分、荷物の多いやつがれの場合は必ずほかになにかしら手提げなどが必要になる気がするからだ。
とはいつても、dumi miniも、ねえ、よかつたんだよねえ。

いづれにしても、今後もdumiはメインのかばんとして使ふていくことだらう。

Thursday, 28 March 2013

iPhoneでKindleを使つてみる

iPhone用のKindleで、都合二冊の本を読んだ。

一冊は、_Quiet: The power of introverts in a world that can't stop talking_、もう一冊は、_The Icarus Deception: How High Will You Fly?_である。

前者については、以前書いた
後者については、いづれ書くと思ふ。

ここでは、とりあへず、二冊読んでみて、iPhone用のKindleがどうだつたか、といふ話をしたい。
まあ、すでにこんな話は出尽くしてゐるんだらうけどね。

事前に、iPhone5になつて、画面がすこし大きくなつて、電子書籍もだいぶ読みやすくなつた、といふ話を聞いてゐた。
だから、iPad Miniは必要ないだらう、といふ話だつた。

iPad Miniが必要ないかどうかはともかく、なるほど、iPhone5の画面は、電子書籍を読むのに困らない広さだとは思ふ。広いにこしたことはないが、iPhone5くらゐだと、画面に表示されてゐる内容がほぼすべて一瞥できるのがいい。
あー、でも、日本語だとまたちがふのかもしれないなあ。
実は、まだ日本語の本はKindleで読んだことがない。
先日、一冊落としてきたので、そのうち読むことにしやう。

付箋はページの角を折るといふ形で貼れるし、気になる箇所に線を引くこともできる。わからない単語は選択すれば勝手に辞書を引いてきてくれるし、メモだつてつけることができる。
なにより、iPhoneだけ持つてゐれば、読むものに困ることがない。

と、いいことづくめな感じなのだが、しかし、まあ、もちろん困つたこともないわけぢやない。

たとへば、読んでゐてあとどれくらゐ残つてゐるのかわかりづらい、といふのが、案外困る。
物語ならそれでもいいのかもしれないが、上記二册とも、いはゆる「ハウツー本」といふか、「人生如何に生くべきか」といふやうな本である。なんとなく、残りどれくらゐ読めばいいのかといふのが気にかかる。

あと、まだこの二冊しか電子書籍を購入してゐないので、残り具合によつてはほかに本を持ち歩かないと読むものがなくなつてしまふ、といふこともある。
読む電子書籍がなくなつたら、ほかのを買へばいいんぢやない、といふ話もあるが、いまのところiPhone版Kindleから本を買ふことはできない。Safariなりなんなりを立ち上げて、Amazonのサイトから買ふ必要がある。
まあ、Kindleから本を買へるやうになつたらそれはそれで危険なので、それでもいいかな、といふ気はする。

それに、さうか、あとどれくらゐ残つてゐるかわからない、といふのは、物語を読むうへでは長所かもしれないな。今度はさういふものを読んでみるか。

といつて、手持に紙の本もたくさんあるので、いつになるかわからないが。

それにしても、メモを残したり線を引いたりできて、しかも、それを検索できるといふのは、案外楽しい。
本に線を引いてみやうと思つたのは、これのおかげかもしれないなあ。

Wednesday, 27 March 2013

本をよごす

蛍光ペンと付箋が好きではない。
いや、付箋については「なかつた」、と、過去形で云ふべきか。

学校に通つてゐるころはどうしてゐたかといふと、とにかく、蛍光ペンは使はなかつた。

こどものころはじめて手にした英和辞書には、蛍光ペンを引いたりしてゐた。
辞書とはさうして使ふものだと思つてゐたからだ。
蛍光カラーの派手な色と、それが褪せたあとの色と、どちらも好きになれない。
しかも、引いたからといつて、覚えるわけでも覚えたわけでもなかつた。

話によると、蛍光ペンを使ふ生徒よりも使はない生徒の方が試験の成績がよい傾向がある、といふ実験結果があるのらしい。
教科書に線を引くと、一見覚えたやうな感じにはなるが、さういふ気分になつただけで満足してしまひ、実際はきちんと覚えないのだといふ。

なるほどなあ。
さう云はれてみればさうかもしれない。

蛍光ペン以外で教科書に線を引くこともほとんどなかつた。
引くときには、色鉛筆を使つてゐた。

いまでも蛍光ペンは使はないし、本に線をひいたりもしない。
付箋だけは貼るやうになつたけど、それもさう頻繁ではない。だいたい付箋を持ち歩くのを忘れたりするしね。

そんなやつがれだが、この日曜日、突然手持ちの本に線を引いたり書き込んだりするやうになつた。
なつた、といふか、意図的に、はじめてみた。

あとで読みなほしたときにおもしろいかなあ、と、思つたのだ。

使用するペンは、パイロットのHI-TECのなんか新しいペン。色は紫と茶色。

やりなれないことなので、どこまでつづくかわからない。
まあ、様子見だ。

ちなみに酔つてゐることも多いので、あとで読みなほすのがいまから楽しみである。

Tuesday, 26 March 2013

タッチングレースに出会つたころ

Bookmark in Progress

タティングレースをはじめたきつかけは、たまたま手芸屋で本を見かけたからだつた。

といふ話は、以前どこかで書いたと思ふ。

当時、人形用の服を縫つたり(このやつがれが、だ)編んだりしてゐて、裾の飾りとかに使へないか。

そんな風に思つた。

当時手芸屋の本棚にならんでゐたのは、藤重すみの「かわいいタッチングレース」。さう、まだ「タッチングレース」といふ表記だつた。
クロバーのシャトルは、新しいものにおきかはつてゐた。

はじめるにあたつて苦労したことも何度も書いてゐる。
結び目をうつす、といふのがわからなくてね。
確か、「EUREKA!」にいたるまで、一週間はかかつたと記憶してゐる。まあ、その間中悩んでゐたわけではないが。

それを克服したのち、シャトル二つ遣ひの作品の作り方がわからなかつた話もした。
「かわいいタッチングレース」に載つてゐたのは、スプリットリングの作り方だけだつたからだ。

あのときのわからなさ加減を思ひ出すにつけ、今タティングレースをつづけてゐることが奇跡のやうに思はれてならない。
よく挫折しなかつたなー。
まはりにタティングレースを知つてる人もゐなかつたしね。

現在、ちよつと挫折しかけてるんだが。
なんか、そんなことを突然思ひ出したよ。

Monday, 25 March 2013

透かし編みのくつ下

やつとできあがつた。

透かし編みのくつ下

三國万里子の「編みものこもの」に掲載されてゐる透かし編みのくつ下である。

編みはじめたのが今月の二日で、編み終はつたのが二十日。
二週間以上もかかつたのかー。

うーん、やはりどこか調子が悪いのかもしれない。
普通だつたら、一週間くらゐで編めさうだからだ。

使用した糸は、指定とほりクイーンアニー
針は、指定より一号下の三号棒針。指定とほり四本で編んだ。

しかし、このくつ下は五本の方がいいはずだ。さうすれば一模様一針になるから編みやすくなると思はれる。

針のサイズを一号下げたのは、きつく編むためだが、これがなかなか編み進まない理由だつたかもしれない話は以前書いた。きつく編んでも楽しくない。編み地はあるていどやはらかい方が好きだ。
でもまあ、おかげでくつ下としてはしつかりした出来になつたと思ふし、書いてあるのに近いサイズにできあがつたんぢやないかな。

作り目はTwisted German Cast-on。履き口から編むときは、一目ゴム編みと二目ゴム編みのときはゴム編みの作り目ではじめるが、それ以外のときはTwisted German Cast-onを使ふことが多い。なんとなく、伸縮性がある気がするからだ。

かかとだけは指定と変へて、Eye of Partridge stitchを使つてみた、といふ話も以前書いたな。こんな感じである。

Eye of Partridge Heel

この編み方、好きなんだよね。ななめに模様がうきあがる感じがいい。
この写真だとわからないか。でもまあ、編んでて楽しかつたからよしとしたい。

このくつ下の出番は、今度の冬だらうなあ。いまとなつてはもう履かないだらう。
中細毛糸で編んだくつ下ならまだ履くかなあ。
いまも、この冬編んだMonkeyを履いてゐるし。

編みたい気がないわけぢやないんだが、いま、ほんたうになにも編む気にならない。
実は、このくつ下を仕上げたあと、即「素敵にハンドメイド」三月号に載つてゐた三角ショールを編みはじめたのだが、全然気分が乗らないのだつた。絹糸だからいけないのかなあ。むう。

Vortex Shawlの伏せ止めも細々とつづけてゐる。
昨日やつと半分を超えた。
早く仕上げたいんだがなあ。

Friday, 22 March 2013

趣味のNHK語学講座

来年度、すなはち来月からのNHKラジオ語学講座は、今年とおなじく「ラジオ英会話」と「実践ビジネス英語」と「まいにちドイツ語」を聞く予定にしてゐる。
「入門ビジネス英語」はテキストは買はないつもりだが、多分聞くだらう。

をかしいなあ。
毎年この時期は「今年はどれを聞かう」つて楽しみにしてるんだけどなあ。
今年はずいぶん守りの姿勢に入つてゐる。

今年度はTV語学講座もいくつか見たが、来年度は、少なくとも四月開講分は見る予定はない。
今年度の四月開講分はねえ、イタリア語が北村一輝で、ドイツ語が勝村政信といふ、まるでやつがれのためのやうな配役(?)だつたからねえ。
しかも、イタリア語講座については、十月開講分は去年度の高橋克実の再放送といふことで、これも見た。

見はして、別段イタリア語を覚えたわけぢやあないのだが。
でも、なんとなくすこし親しくなつたやうな気はするし、これは引き続き今度はラジオ講座を聞いてみるかなあ、と思はないでもないのだが。

多分、いま、あんまり気持ちにゆとりがないんだな。

ところで、TV語学講座にいまのやうにタレントが出るやうになつたののはじまりは、イタリア語講座の吉岡美穂だつたんぢやあるまいか。
ジローラモとダーリオにはさまれて、なんだかいい感じだつた。
当時は、これはこれでありかな、と思つてゐた。

だが、その後の展開が、ねえ……
来年度にいたつては、なんだかまつたく見る気にならないぞ。

まあ、なかにはいい感じの番組もないわけぢやない。
それこそ去年度の高橋克実とか、今年度の北村一輝、勝村政信なんかは結構よかつたやうに思ふ。勝村政信の赤頭巾ちやんはどうなることかと思つたが、さすがは役者、おもしろくしあがつてゐた。

もつと前だと、スペイン語の笑い飯とか、ドイツ語のペナルティーなんてのは冒険だつたのではないかと思ふ。ペナルティーはお笑ひ枠といふよりは、サッカー枠での登場だつたのかもしれないけど、それはそれでまたよし、と思つてゐた。

といふわけで、それなりに趣のある出演者もなかつたわけぢやあないのだが。
なんかね、もう、いいよつて感じなんだよなあ。

もつと違ふところに力を入れやうよ。

とか云ひつつ、十月に今年度四月開講分の再放送がはじまつたら、またイタリア語とドイツ語は見てしまふんだらう。

あ、あと、チャロは新シリーズがはじまるのださうで、それはちよつと楽しみだ。
おそらく、たまたまTVをつけたらやつてゐた、といふ感じでないと見ないとは思ふがね。

Thursday, 21 March 2013

一方、文房具は

昨日、本屋についてあれこれ書いたが。
文房具屋については、さういふ文句を抱いたことがない。

まあ、まつたくない、といつたらウソになるかもしれないが、本屋にくらべたらないと云つても過言ではない。

文房具については、事前に新製品発売の情報を得てゐないことが多いから、といふことが原因、かな。

しかし、それでなくても、たとへば一昨日寄つた本屋の中には有隣堂もあつて、文房具もとりあつかつてゐたりするのだが、この店にはMoleskineもあればトラベラーズノートもある。Rhodiaのメモ帳もあるし、Ciakもちよこつとだけある。万年筆も、わづかではあるもののあるし、インキやカートリッジもレジで頼めば出してきてくれる。

もちろん、Moleskineに関していへばSpecial Editionなどは見たことがないし、トラベラーズノートも全リフィルがあるとは云へないのだが、でも、まあ、すくなくともやつがれの困らないていどのラインナップをそろへてゐると思ふ。

そんなだから、ノートもそこそこそろつてゐるし、筆記用具もしかり。
こと文房具に関するかぎりは、特殊なものでないかぎり、ここでなんとかなる。

ほかにも、最寄り駅の隣の駅の駅ビルには、やつがれ好みの商品を数多くそろへてゐる文房具屋があつて、なんか、もう、それで十分かな、といふ感じなのだ。

さういへば、去年調布に行つたときにも、駅前の文房具屋の品揃へがよくてうらやましく思つたつけか。

実は文房具屋つて、充実してるのかも?
そんな風に思はないでもない。

また、文房具つてあんまり文房具屋に注文するといふことがないやうにも思ふ。
それとも、注文する人はしてるのかな。やつがれは残念ながらしたことはない。
それに、一度買ふとながいこと使ふものが多いのかも。

と、理由はさまざまに思ひ浮かぶけれども、どうも個人的には、文房具については本についてよりも達観してゐる部分があるやうな気がしてならない。

特殊なものは、地元の文房具屋に行く前に丸善や伊東屋に行く、とか。
MoleskineならMoleskine Atelierに行く、とか。

なんかもう、さういふもの、と思つてゐるところがある気がする。

本についても、さう思へるといいんだがなあ。

Wednesday, 20 March 2013

本がない

昨日の帰り道、今日家で読むものでも買はうと本屋に寄つた。
草森紳一の「随筆 本が崩れる」の巻末に、「好評既刊」として紹介されてゐた本のうち、何冊か読んでみたいと思ふものがあつたので、それを探した。

職場付近で二軒、自宅最寄り駅付近で二軒の計四軒まはつて、一冊も見つけることができなかつた。

「随筆 本が崩れる」は2005年に刊行された本で、ゆゑに「好評既刊」の本もそれとおなじかもつと古い本といふことになる。
新書といふと、最近出版されたものしかおいてゐない本屋もあるが、今回まはつた店はいづれも0番台の本から置いてゐる、それなりに新書に重きをおいてゐる本屋だつた。

ない。
やつがれの探してゐる本の番号だけ、ぽつかりと、ない。

わかつてゐる。
Amazonにならあるのだ。

さう思つて、念のため検索してみたらこはいかに。
どうやらAmazonにもないのらしい。

文春新書目録には出てゐたので、絶版といふわけではないのだらうが、さう変はらない状況なのだらう。いづれ、「品切れ」とかなんとか、そんなことを云はれるのにちがひない。

Amazonにあつたなら、地元の本屋に注文するといふ手も使へるのだが。
だが、もうここ何年も、その手は使つたことがない。
なぜといつて、注文してから本が手に入るまでに、へたすると二週間、どうすくなく見積もつても一週間はかかるからだ。
そのあひだに、たまたま立ち寄つた本屋で見つけたらどうする?
注文した本が届くまで待つ?
はたしてそんなことができるだらうか。

できまいな、おそらく。

ここのところ、本はできるだけ自宅最寄り駅付近にある本屋で買ふやうにしてゐる。
本屋がつぶれてしまふと困るからだ。
かつて自宅付近には二軒の本屋があつた。一軒は文房具屋もかねてゐる町の本屋といつた趣の本屋だつた。
いまはどちらもない。
もつと範囲を広げて、こどものころ病院通ひの帰り道にたまに母に本を買ふてもらつてゐた本屋もない。ここは数年前まではあつたのだが、店主だつた老人が亡くなつたとおぼしき後、薬局になつてしまつた。
自宅最寄り駅でさへ、昔から知つてゐる本屋は一軒もない。高校生のころに立ち寄つた古本屋もなくなつてしまつた。いまある二軒は、最近できた本屋だ。

でも、本屋にはほしい本がない
新刊本を読まないからだ。
さうかうするうちに本屋がつぶれる。つぶれなくても、店内における「本」の比率が低くなる。

やつがれは、それほど本が好きといふわけではない。
それでこれなのだから、世の本好きはどうしてゐるのだらうと時折気になる。

それとも世の本好きは、すでに過去の本はほとんど読み尽くしてしまつてゐて、新刊しか買はないので、困ることはないのだらうか。

電子書籍にすこし期待をしたけれど、どうやら古くて埋もれてしまつたやうな本は対象にならないやうだ。

かくして、ますます本を捨てられなくなつてしまふのだつた。

Tuesday, 19 March 2013

逃避行動

結局、こんなものを作りはじめてしまつた。

Bookmark in Progress

糸はLisbeth #20。別の糸を買つたときに、おまけとしてついてきた糸のうちのひとつだ。
これがなかなかいい色なんである。
なので作つてゐても楽しい。

だがなにを血迷つたのか、シャトル二つ使ひにしてしまつたのが、チト失敗だつたかもしれん。

栞は使はぬたちなのだが、これは使つてみるかなあ。

Monday, 18 March 2013

あみものの進まない訳

あみものこもの」に掲載されてゐる透かし編みのくつ下の、もう片方もやつと終はりが見えてきた気がする。
この週末に、なんとか踵のまちの減らし目を終へ、あとはつま先の減らし目に向けてまつしぐら、といふところまで来た。

長いなあ。

この前レッグウォーマを編んだときも、なぜだか異様に時間がかかつた。
この時は最初の片方に時間がかかつた。
法事をひかへてゐて、それが気鬱の種だつたのらしい。
その法事が終はつたら、もう片方のレッグウォーマは、あつといふ間に編めた。

今回もまた、なにか気鬱の種があるのか。
ないと云つたらウソになる。
そして、法事のやうに時がたてば過ぎ去つてくれるやうなものでもなささうだ。

だが、今回くつ下が進まない理由のひとつは、どうやら「TVを見なくなつたから」なのではないか。
そんな気がしてならない。

TVを見ると、手持ち無沙汰になる。
TV番組を集中して見るといふことがない。ただTVだけを見てゐると、時間をムダにしてゐる気がしてならない。
ゆゑに、なにか編んだり結んだりする。
それで、あみものやタティングレースのはかがゆく。

去年の八月このかた、ほとんどTVを見ない暮らしをしてゐるのだが、それでもあみものが進んでゐたのは、「人形劇三国志」のDVDを見たりしてゐたからだ。
つい最近がんがん編んだのは、「SHERLOCK」を見てゐたときだつた。
それが先月の前半のことである。

かうして考へてみると、どうやらやつがれはあみものが好きなわけではないのらしい。
もし好きなのなら、TVなんか見なくてもどんどん編むだらうからだ。
あみものだけ、TVを見るだけ、といふことができない。
ひとつのものごとに集中するといふことができない。
単にさういふこと、といふこともできる。

ぢやあTVを見るやうにすればいいではないか、と思ふのだが、TVを見てしまつたときの電気代がおそろしい。
もともと、電気代が上がつて、このままではいかんといふのでいろいろ考へた結果、TVを見ないことにする以外の方法を思ひつかなかつた。それで見なくなつたのだ。
いまではこれといつて見たい番組がないので、とくに困つてはゐない。

この週末は、録画機が勝手に録画してくれてゐたサヴァリッシュの追悼番組でも見ながら編むつもりだつたんだがなあ……。なかなかうまくいかぬ。

人形劇三国志の新たなDVDも買ふたことであるし、水曜日くらゐはあみもの三昧な一日を送らうか。
なんとなく、ムリな気がしてゐるが、せめて今編んでゐるくつ下くらゐは仕上げたいものだ。

Friday, 15 March 2013

行かない構へ

先日、「萬年筆に対する物欲がめつきりなくなつてゐる」と書いた。

考へてみたらあたりまへのことかもしれない
なぜなら、ムダに手持の萬年筆の数が多いからだ。
物欲の消へるのに、これだけの数が必要だつたのか、と、しばし暗澹たる心持ちになるほどである。
でも、まあ、必要だつたんだらうなあ。

日本橋三越の世界の万年筆祭が開催されてゐる。
去年はひやかしに行つたが、今年はおそらく行かないやうな気がしてゐる。
去年も、すでになんとなく物欲のかげりはあつた。
手元不如意なこともあつたけれど、見るだけ見て帰つてきてしまつたからだ。

アベノミクスとやらの影響か、やれ名古屋ではバーキンが売れてるの、名だたる企業が今年度の賞与は上げるのと、ニュースはにぎやかに囀つてゐる。
どこの世界の話だらうと思ふ。
やつがれには関係のない話だなあ。
それに、万が一賞与があがつたとして、そのあがつた分を使つてしまつたりするだらうか。
それはないんぢやあるまいか。
給与のさがつたときのことを慮つて、消費税のあがつたあとのことを考へて、とつておくのが人情ぢやあるまいか。
さう思へてならない。
だいたい、給与をあげるといふ企業はなかなかなささうだしな。

それでも、とりあへず手元にはお気に入りの萬年筆があつて、それでいいんぢやないかな。

問題は、どこかで突然物欲が爆発するんぢやないかと思はれてならないことだ。

Thursday, 14 March 2013

道徳?

「儒教」に対して苦手意識を持ちはじめたのはいつだつたらうか。
すくなくとも、中学生のときにはすでにあつた。
たぶん、人生のかなり早い時期のことだつたと思ふ。

なぜ近所のをぢさんをばさんと親しく話せないのか。
なぜ自分はしやちほこばつてしまふのだらう。
だつて、目上の人には礼儀正しく接しなさいつて。
目上の人には、敬意を表さなければならないつて。

友人のお母さんだからといつて、馴れ馴れしくしてはいけない。
友人と喋るやうに話してはいけない。

それは、もう、かなり幼いころにはさう思つてゐた。
おそらく、「先生」といふ存在と日々会ふやうになつてからのことではあるまいか。

ところで、よくよく世の中を見渡してみると、そんな風にしてゐる人ばかりでもないことに気がつく。
目上の人、たとへば先生や先輩と親しげに話してゐる人がゐる。
自分にはとてもできないやうな態度、ことばで、目上の人と接してゐる人がゐる。
そして、それでとがめられることがない。

をかしい。

そのうち、世の中には「儒教」とかいふものがあつて、「長幼の序」とか、いろいろうるさいことを云ふものであるらしい、といふことを知る。
そして、別段儒教文化圏でもない世界も、世の中にはあることを知る。
なんで自分はそんなもののない世界に生まれなかつたのか。
儒教のない世界に生まれてゐたら、かうして悩むこともなかつたものを。

そんなわけで、ずつと「論語」は避けてきた。
授業ですこしやつたとは思ふが、あまり記憶にない。
「荘子」の内篇はまれに読み返すこともあるし、「孫子」は最近読み返したし、「韓非子」とかちよつと好きだけど、「論語」とか「孟子」とか、読んだことがなかつた。

それが、去年、なにを思つたか、「論語」を手に取ることがあつた。
食はず嫌ひはいけないかな、と思つた、といふのもある。

あと、以前から、「中庸」といふ考へに関しては、ちよつといいかも、と思つてゐた、といふこともあつた。

読んで、なんだかわかりづらいところも多かつたし、やつぱり納得できないところもあつたけれど、「結局、これつて、かうして生きれば人生楽に生きられますよ」といふことなんだな、と思ふに至つた。

「楽に」といつたら言ひ過ぎだらうか。
ここに書いてあることにしたがつて生きれば、家族や他人との軋轢を減らすことができますよ、人間関係でイヤな思ひをすることが減りますよ、と、さういふことなんだと思つたのだ。

「聖書」なんかにもさういふところがある。
十戒とかね。
唯一神のくだりなんかはちがふかもしれないが、殺人なんかしたら大変なことになつちやふし、隣のダンナさん奥さんと不義密通に及べば、そのときはいいかもしれないけれど、ご近所つきあひに支障が生じるし、なにより自分の伴侶と気まづくなる。こどもがゐれば、もつと気まづいだらう。嘘はよほどの記憶力がないとつきとほせないし、盗んだり隣の家のもちものをうらやんだりしても、なーんにもいいことない。
いづれも、そのときはいいかもしれない。
でも、結果はどうだらう。

さうしたことをすべてしてはならないつてことにして、しないことにすれば、人生だいぶ楽になる。
そのはずだ。

たぶん、宗教といふのは、さうした面をもつものなのだ。

そして、まあ、宗教といふにはどうかとも思ふが、孔子の教へといふのも、さうしたものなのだらう。

最近、学校で道徳を教へやうといふ動きがあるのらしい。
やつがれが小学生のころには道徳の授業といふのもあつたが、なにをしてゐたのか覚えてゐない。
確か、NHK教育TVの道徳教育用番組を見たり、まれに先生が道徳教育用なのだらう本を朗読してくれたり、その後に感想会のやうなものがあつたり、といつたおぼろげな記憶があるばかりである。
そこからなにか学んだか。
うーん、どうだらう。

道徳なんてのは学校で教へるものではなく、家庭でなんとかするものだらう、とも思ふ。
もし、どうしても学校で教へよといふのなら、「論語」の素読でもしたらどうか。
意味は教へない。
ただ聲に出して読むだけ。
どうしても、といふのなら、それでいい気がするがなあ。

問題は、これから学校で道徳教育をするとして、その教育を受けるこどもの親たちは、道徳に欠けたりするかもしれない、といふことである。

あ、だから家庭で教へられないのか。

Wednesday, 13 March 2013

新たな歌舞伎座の二階桟敷や如何に

「歌舞伎座」「二階桟敷」とかで検索していらつしやる方が多いのらしい。

気になるよね。やつがれも気にはなつてゐる。

新しい歌舞伎座の二階桟敷がどうなるのか、現時点ではやつがれにはまつたくわからない。

昔の歌舞伎座の二階桟敷は好きだつた。
といつて、二回しか座つたことはないし、しかもどちらも東の一番舞台寄り、席番で云ふと「東-1-1」にしか座つたことはない。

二階桟敷のなにがいいのか。
一階桟敷とくらべると、圧倒的に落ち着く、といふことがあげられる。

一階桟敷は、目の前をほかの客がとほつたりなんだりして、案外落ち着かないものである。とくに、その場で食事をとつたりする前提だといふのに、目前を他人が行つたり来たりするのは、落ち着かない。気にしなければいいのかもしれないが、気になり出すと止まらない。

また、一階桟敷だと、自分もまたほかの客に見られてゐるといふ気分になつたりする。自意識過剰といはばいへ、桟敷席といふのは基本的に見て見られる席である。

だが、二階桟敷にはそれはない。
それでゐて桟敷だから足下は広いし、ゆつたり座つて見られるところがいい。
目の前はちよつとしたテーブルになつてゐるから、チラシなんかも置いておきやすいしね。

桟敷席からは舞台は斜めに見えるので、当然見づらい。
でも一番舞台に近い席だつたら、死角はあるものの、すぐそばで役者を見られる。上手側に座れば、花道への出も入りもばつちり見られるしね。

はじめて以前の歌舞伎座の二階桟敷に座つたのは、宗十郎の夕しでで「いもり酒」のかかつたときだつた。夕しでが、下手から上手に歩いてくると、まるでこちらに向かつて歩いてくるかのやうに見えた。

二度目のときは、さよなら公演で、玉三郎の女暫。花道の巴御前が、若干ななめではあるものの、正面に見えた。

新たな歌舞伎座の二階桟敷がどうなるのかはわからないが。
まあ、以前とそんなに違はないんぢやないかなあと思つてはゐる。
四月から六月のあひだに二階桟敷に座る予定はないが、そのうち演目と配役を見て座つてみたいなあ。

ところで、かつては二階桟敷といへばお見合ひに使はれた席ださうだ。
いまはどうなんだらうねえ。

Tuesday, 12 March 2013

かなりや

Tatted Motif

むりやり仕上げた。
さうしないと、仕上げ方を忘れると思つたからだ。

仕上げ方、といふよりは、終はらせ方、かもしれない。

もうずいぶんと長いこと、タティングレースでなにかを仕上げてゐない。
ほんのちいさなモチーフでさへ。

それでもすくなくとも平日は毎日シャトルを手に取つてゐるのだが。

このままでは、なにも完成できなくなつてしまふのではないか。

このモチーフは、本来は十字架型の栞になるものだつた。
シャトルに巻いた糸の量がひかへめすぎたのをいいことに、四つの腕の長さをそろへてみた。
こんなモチーフもあつていいと思ふが、まあ、なんにせよ、作るのに時間がかかりすぎてゐて、途中で手が変はるは、集中力が切れてピコやリングのサイズは変はつてるは、なんだかすごい状況である。

うーん、今度はまちつと太い糸で試してみるかなあ。

なにしろもとが不器用なものだから、どうにもならないんだよねえ。

ところで、これはAerlitのシャトルを使つてはじめて作つたタティングレースものでもある。
Aerlit、使ひやすいね。最初はボビンの動きがかたいかと思つてゐたが、次第に思ひとほりに動くやうになつてきた。
といふことは、ゆるむのも早いのかもしれない。
まあ、そんなことを心配するよりも、どんどん使ふべきなんだらう。

とりあへず、糸だけは売るほどあるので、次に作るものでも考へるとしやう。

Monday, 11 March 2013

遅々として進まず

先週、「あみものこもの」から透かし編みのくつ下を編むことにした話を書いた。
Vortex Shawlの伏せ止めをはふりだして、だ。
これも書いたとほり、クイーンアニーを三号針で編んでゐる。

先日、やつと片方仕上げた。
現在もう片方を編んでゐるところである。

模様編みはなかなか楽しいし、くつ下を編むのも楽しいのだが、なぜだかあまり進まない。
つらつらとその理由を考へて、どうやら、きつく編むのが楽しくないのだらうといふことに思ひ至つた。

いや、そんなこと、つらつら考へなくても思ひ至つてたけどね。

以前も何度か書いてゐるが、きつきつに編むのが好きではない。手袋とかくつ下とか、きつちり編んだ方がいいものもあることはわかつてゐる。

でも、この一点に関しては、Elizabeth Zimmermann(以下、EZ)の云ふことに賛同する。
きつきつに編んで、なにが楽しい。

EZはなにしろゆるく編むので一号くらゐ針のサイズがちがつたつてたいしたことないつてな人だから、極端かとは思ふ。だつて、米国の針で一号ちがつたら、場合によつては0.5mm、さらには1mm違ふこともありうる。それでたいした変はりはないつて、どんな編み方なんだよ、とさすがに思ふ。
でも、きつきつに編んでると楽しくないのは確かだ。
そんなことで目がそろつたつてうれしくない。

さういふ人間は三國万里子作品を編むべきではないのだらうな。
それはもうせん気がついてゐたことだけれども、あらためてしみじみと感じてゐる。

でもまあ、きつきつに編んでゐるおかげで、くつ下としてはいいものになるんだらう。
ほぼ編み方とほりに編んでゐるが、一カ所だけ変更した部分がある。
それは踵。
普通にすべり目の踵になつてゐるが、ここを eye of partridge stitch にしてみた。
なんとなくやつてみたかつたのだ。
どちらかといふと、全部引き返し編みの踵の方が好きなので、普段編むことがないんだよね、eye of partridge stitch の踵。
これはこれで楽しい。

さて、なんだか異様にあたたかくなつたりして、Vortex Shawlはどうなるのか、といふ心配もあるのだが。
とりあへずはこのくつ下の完成を目指したい。

Friday, 08 March 2013

ノート Dainel の使ひ道

ミドリのノートDainel (デネル)の使ひ道が突然決まつた。

Dainelは去年の暮れにたまたま手にしたノートである。
表紙はフランス生まれのレザーペーパー、中身は「MD(ミドリダイアリー)用紙」を用ゐてゐる。
サイズはA5とA6とあつて、やつがれはA6を買つた。
ほぼ日手帳のカヴァに一緒にはさんで使ふつもりだつた。

ところで、去年の四月に、突然漢詩マイブームがやつてきた。
人生で三度目くらゐの漢詩ブームである。
今回は案外長くて、細々と現在もつづいてゐる。

はじまりは武部利男の「白楽天詩集」だつた。
高校生のときにはじめて読んで、以来、をりにふれ手にとる本である。

白居易は、書いた詩を字も知らないやうな老婆に読んで聞かせ、わからないと云はれたところをなほしてゐたといふ。
武部利男の訳もまた、耳で聞いたときにわからぬことがすくないんぢやないかと思ふ。
基本的にやまとことばしか使はれてゐないからだ。
地名・人名がカタカナである以外は全部ひらがな。
しかも、ちやんとリズムがある。
この本に出会ふまでは、「白楽天なんて、平安時代のお貴族さま趣味の詩だろー?」くらゐに思つてゐた。あさはかだつたな。この本を読んで諷喩詩をいくつも読んで、「白居易、いいぢやん」とか、いまさらながらに思つた昔がなつかしい。

そこからはじまつて、わづかづつではあるが、「漢詩を読む」を読んだり、「書を学ぶ人のための唐詩入門」なんぞを読んだりしてきた。

さうすると、やつぱり気に入つた詩なんてのが出てきたりするんだよね。
好きな詩が出てくると、覚えたくなるのが人情といふもので。
覚えるにはどうするかといふと、音読したり書き写したりするのが一般的だらう。

といふわけで、気がつくとDainelは漢詩書き写し用ノートになつてゐた。
まづおほきさがいい。A6で、持ち歩きやすい。
製本状態もいい。ページを開いたときに180度開くので、書き込みやすい。
また、用紙がMD用紙といふことで、萬年筆で書いてもにぢみや裏抜けをほとんど心配しなくていい。
さらには、表紙のレザーペーパーの感触もいいし、中の用紙のクリーム色なのも気に入つてゐる。

これに、例によつて大橋堂のペンとかパイロットのフォルカンとかで漢字ばかりを書き写す。
いい。
これはいいねえ。

返り点などの必要な詩には、鉛筆でつけるやうにしてゐる。
とてもいい感じだ。

問題は、このノートになにか書き込むには、好きな漢詩に出会ひつづけねばならないこと、か。

まあ、まだ書きとめてゐない詩もたくさんあるので、あまり心配することもないのかもしれない。

来月には草森紳一の李賀の本が出るといふ話もあるし、ね。

Thursday, 07 March 2013

「柴錬三国志」は三国志か

人形劇三国志」は好きだが、三国志(演義)が好きかどうかはアヤシい。

最近とみにさう思ふ。

人形劇三国志が好きだから、「三国志演義」も読むし、そこから派生した物語なんかも読んだりするけれど、でもそれはそれ、かなあ、といふ気もする。

あ、柴錬三国志は別ね。
柴錬三国志は、三国志といふよりは柴錬だからだ。
柴田錬三郎の小説、といふ面がおほきいと思つてゐる。
自称・柴錬チルドレンとしては、落とすことのできない作品なのである。

たとへば、柴錬三国志に出てくる孔明は、諸葛孔明といふよりは、柴錬の小説に出てくる登場人物の一類型といつた趣が強い。
これで、孔明を色仕掛けで籠絡しやうといふ薄幸の美女なんかが出てきたらもうまさに「柴錬の小説」である。
といふよりも、むしろ、どうしてさういふ展開にしなかつたのか、柴錬先生は、と思はずにはゐられない。

三国志(演義)にそんなエピソードをはさむ隙がなかつたのか。
はたまた、黄承彦の娘を嫁にもらふやうな人間に色仕掛けがきくとは思へなかつたのか。

前者はいくらでもなんとかしやうがある気がするので、後者なのかな。
柴錬は早々に黄氏を殺してしまふがね。

実に残念である。

スーパー歌舞伎では祝融が孔明を誘ふのになー。
貂蝉と結婚するのは「SF三国志」だつたか。

まあどちらも柴錬のイメージとはおほきく隔たつてゐるんだけどね。
柴錬三国志で「柴錬つぽーい」つて思ふのつて、董卓が専横のかぎりをつくして宦官を量産(つてをい)するくだりとかかなあ。
あ、あと、まだ連環の計の前の貂蝉が、池の鯉をいぢめてるところとかも、柴錬つぽい。

柴錬は、「われら梁山泊の好漢」で、「李逵が好き」といふやうなことを書いてゐる。
だつたら、三国志(演義)だつたら張飛ぢやないのぉ、といふ気もする。
柴錬三国志だと、張飛が活躍してゐるといふ印象があまりないんだよなぁ。

などと書いてゐるうちにまた読みたくなつてきてしまつた。
うーん、柴錬三国志ばかり読んでゐると三国志(演義)観がどんどんゆがんでゆく気がするのだが。
まあもとが人形劇だし、さらにその前がさだまさしの三国志英雄伝だから、もうこれ以上ゆがみやうもないか。

Wednesday, 06 March 2013

「芸づくし忠臣蔵」を読む

実は「仮名手本忠臣蔵」はそれほど好きではない。
好きではないのは、よく上演される五、六段目と七段目がそんなに好きではないからだ。
九段目が五六七段目とおなじくらゐよくかかれば、もしかしたら好きかもしれない。

ここのところ、思ふところあつて芝居関連の本を読むことがある。
関容子の「芸づくし忠臣蔵」もそんなわけで手にした一冊だ。

先日もちよこつと書いたけれど、芝居は勉強して見るものではないと思つてゐる。
楽しければそれでいい。
さう思つてゐる。
ゆゑに見る前に予習なんかしないし、ましてや復習なのだが、ここのところ立て続けに「知つてゐるからおもしろい」といふ体験をした。
具体的に云ふと、映画「テッド」と「書聖 王羲之」展だ。
「テッド」は80年代米国のサブカルチャーに関する知識があればあるほど楽しめる映画だ。
「書聖 王羲之」展は……えー、王羲之とは全然関係ないところで、いろいろ楽しかつた。「世説新語」の曹操と楊脩の話でまづ盛り上がつたりして、ね。
「書聖 王羲之」展の一番最初に、王羲之やその親族のエピソードが掲載されてゐるといふので、「世説新語(展覧会では新書)」の最古の写本といふのが飾られてゐて、これに曹操と楊脩の話があつた。それでもりあがつちやつたんだな、意味もなく。

といふわけで。
芝居もまた、知つて見るとさらに楽しめるのかもしれない。
さう思つて、ここのところ何冊か手に入るものを読んでみた。

「芸づくし忠臣蔵」は歌舞伎で上演されるときの「仮名手本忠臣蔵」を大序から十一段目まで、ていねいに藝談など集めてまとめたものである。
大変ためになる。
大変ためにはなるものの、でも、客のたしなみとして、実際に忠臣蔵を見るときは、ここに書かれてゐることはきれいさつぱり忘れて見るものだ。
さう思つた。

どこの客が「あ、今、定九郎は一生懸命支度をしてるのよ」などと思ひながら芝居を見るだらう。
あるいは、「あ、今、勘平は青黛をつけたりなんだりしてるのよ」などと。

イヤだらう、そんな客。

それはさておき。

この本のすばらしいのは、役者からの聞き書きの部分が、ほんたうにその役者が喋つてゐるかのやうに書かれてゐることである。

前の勘三郎、梅幸、前の仁左衛門、歌右衛門、羽左衛門……みんな喋つてゐるやうすが瞼に浮かぶやうだ。
とくに、勘九郎時代の勘三郎の喋り方、せつかちな早口で、熱く語るやうすが、脳裡に蘇つて、なあ……
つらいやうな、それでゐて、いまでもかうして喋つてくれるんぢやないかといふやうな、そんなとりとめもない思ひが、読んでゐるあひだゆらゆらとゆれてゐた。

さうさう、やつがれは六段目を見るときにやたらとおかやが気にかかるのだが、その理由がわかつた気がした。
この本に出てくる、先代の上村吉弥の話を読んで、さう思つた。
先代の美吉屋のおかやは、ちいさくて可愛いおばあさんだつた。
こんなおばあさんが、こんな山の中にたつたひとりで暮らしていかねばならないなんて。
さう思ふと、たまらなかつた。
はじめて見た六段目のおかやが先代の美吉屋だつた。
多分、ラッキーだつたのだ。
だつて、いま、こんなおかやはゐないもの。

それにしても、九段目、見たいなあ。
この本の中でも、九段目の話が読んでゐて一番楽しかつた。
九段目は大顔合はせでないとチト上演がむづかしい。
今年歌舞伎座で見られることを期待してゐるのだが……
ムリかなあ。

Tuesday, 05 March 2013

名前・名前・名前

以前、演奏会でブラームスの交響曲第四番にファゴットのセカンドで乗ることになつたことがある。
友人に演奏会に来てね、と頼んだとき、「名前はないの」と訊かれた。
「名前?」と問ふと、「運命」とか「悲愴」とか、さういふ別称はないのか、といふことだつた。
ない、と答へると、「つまらない」と云はれた。

さ、さういふものなのかあ。

といふやりとりを、LisbethとかAerlitのシャトルとか見てゐて思ひ出した。

ブラームスの四番は、別称などなくとも、名曲である。
「つまらない」と云はれて、納得がいかなかつた。

たとへば、チャイコフスキーには六つの交響曲がある。
第一番が「冬の日の幻想」、第二番が「小ロシア」、第三番が「ポーランド」といふ。
しかし、いづれもとくに名称のない第四番や第五番ほど知られてはゐない。
とはいへ、チャイコフスキーの交響曲で一番有名なのは第六番の「悲愴」だらうけれどもさ。

Lisbethの糸の人気のあるのは、使ひやすく色が豊富だからだとは思ふけど、色によつて名前がついてゐるからなんぢやないか。
以前から、さう思ふてゐた。

この前なにを血迷つたか四巻も買ふてしまつた桃色と茶色の段染め名は、Pink Cocoa。
もしさういふ名前がなくて、色番だけだつたとしたらどうだらう。
あのブラームスの四番を「つまらない」呼ばはりした友人とおなじやうに、やつがれもまた、「つまらん」ときめつける。
そんな気がする。

Aerlitのシャトルもさうだ。
名前をつけたのは便宜をはかつたため、とも考へられるが、MintにLavenderをあはせる、とか考へるだけで、ちよつと楽しい。

名前つて重要なんだよなぁ。

だからといつて、なんにでも小説の題名とかつけちやふのはどーよ、といふ話も、ないわけではない。

Monday, 04 March 2013

終はれない病

Vortex Shawlの伏せ止めをしてゐるはずだつたが。
このままでは達成感を得ることなく日々過ぎてしまふ、といふので、急遽「あみものこもの」から透かし編みのくつ下を編むことにした。
たまたま手元にくつ下を編むつもりで買つておいたクイーンアニーがあつたので、それを引つぱりだしてきた。

土曜日の夕方に編みはじめて、すでに片方はできてるつもりだつたんだがなぁ。あと一模様でつま先に入るといふところで止まつてゐる。

達成感を得るためには、「仕上げるのがめんどくさい」といふ気持ちと戦はねばならない。

よく、「開始するまでの葛藤」といふが、「終了させることへの葛藤」についてはあまりいはれない気がする。

終はらせるにも、初めるのとおなじくらゐ、力がゐる。
あみものをしてゐると、さう思ふことが多い。

Vortex Shawlにしたつて、伏せ止めに入つてから難航してゐる。この先に整形が待つてゐるかと思ふと、ますます躊躇する気持ちが高まる。

でもなあ、もうあたたかくなつてしまふし、はやく仕上げなければ。

そんな、義務感にも似た思ひに我と我が身を縛つてしまふ。

なんかもつとかう、編んでる途中の気持ちのまま、すーつと編み終はることはできないのかねえ。

好きなことについて、こんな風に考へてしまふといふことは、どこか調子のよろしくないのかもしれぬのう。

クイーンアニーでは、縄編みのくつ下を編むつもりだつたが、この透かし編みのくつ下もよささうだ。
これは、まあ、ゆつくり仕上げることにしやう。

Friday, 01 March 2013

2013年2月の読書メーター

2013年2月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2364ページ
ナイス数:3ナイス

李白―巨大なる野放図李白―巨大なる野放図感想
宇宙。
読了日:2月1日 著者:宇野 直人,江原 正士
あやつられ文楽鑑賞あやつられ文楽鑑賞感想
読んでゐて、「えー、さうかなあ?」「ちがふんぢやないかなあ?」と思ふことしきりだつたが、半ばくらゐまで読んだところで謎がとけた。「仮名手本忠臣蔵」といへば九段目。お軽と勘平? そんなの、自業自得のふたりでせう? といふ人間と、忠臣蔵はお軽と勘平、といふ人間が合ふわけがないのだつた。でも、世の中の大半は、「忠臣蔵といへばお軽と勘平」なのかもしれないなあ、とは思はないでもない。
読了日:2月4日 著者:三浦 しをん
大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)感想
三回目。長い版も読んでみたいとつねづね思つてゐるが、きつともう本にはならないのだらうなあ。残念。中途半端に理解されることを拒んでゐるやうなので、わかつたとは云はない。わからないものこそおもしろい。さういふことなのだと思ふてゐる。
読了日:2月5日 著者:橋本 治
柳亭市馬の懐メロ人生50年 (落語ファン倶楽部新書)柳亭市馬の懐メロ人生50年 (落語ファン倶楽部新書)感想
市馬師匠ではじめて聞いたのが「お菊の皿」。このお菊さんが歌ふの歌はないのつて、「憧れのハワイ航路」をオカッパル調にみんごと歌ひあげるやうすに、「このしとはいつたいなんなんだらう」なんぞと思つたのがことの発端。帯に「あたしは昭和30年代までの歌謡曲しか、聴かないんです」とあつて、なんてやうすがいいんだらうと思ふことしきり。個人的には古今亭右朝師匠の話がちらつと出てくるのがなつかしい。美空ひばりは、やつぱり娘時代だよね。
読了日:2月10日 著者:柳亭 市馬
歌舞伎にみる日本史歌舞伎にみる日本史感想
基本形は見開きで、右ページに芝居の紹介、左ページに史実の説明。忠臣蔵など主要なものは別途ページを割いて説明してゐる。このていどの説明の量だと、芝居についても歴史についてもどうにも中途半端なものにならざるを得ない。仕方のないことかとは思ふ。本文のフォントが読みづらいのは残念。掲載されてゐる写真は古いものが多く、それを見るのが楽しい向きもあらう。十一世團十郎、先代の幸四郎、先々代の松緑のほか、寿海や先代の猿翁の舞台から引いてきたものが多いやうに思ふ。
読了日:2月12日 著者:佐藤 孔亮
歌舞伎・主人公百選 (日本古典芸能シリーズ)歌舞伎・主人公百選 (日本古典芸能シリーズ)感想
ひとりにつき見開きとちよつと。簡潔にまとめられてゐるとも云へるが、物足りないとも云へる。歌右衛門最後の三千歳は最高だつたと思ふ自分は、きつと「いまどき」でも「わかもの」でもなかつたのにちがひない。
読了日:2月14日 著者:藤田 洋
Elizabeth Zimmermann's Knitter's AlmanacElizabeth Zimmermann's Knitter's Almanac感想
三回目。はじめて買つたあみものの洋書。Pi Shawlを編まうと思つてひつぱりだしてきて、この機会に読んでみた。なんだかひつかかる書き方が多いやうに思ふのは気のせゐか。かぎ針編みへのいはれなき中傷がさういふ感じを醸し出すのか。
読了日:2月19日 著者:Elizabeth Zimmermann
聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし感想
かつて読んだつもりだつたが、気のせゐかも。この当時から、役者は忙しくなり過ぎてゐて、稽古も碌にできないし、おなじ演目ばかり繰り返してゐる、といふ話が出てゐる。この傾向は少しもよくなつてゐないどころか、悪化の一途をたどつてゐる。もう一点気になるのは、客が役者を育てやうとしてゐるやうには見えないといふ話。これも近年さらにその傾向が強くなつてゐるやうに思ふ。それでもなんとなく読んでゐて前向きな気持ちになるのはなぜだらう。
読了日:2月21日 著者:郡司 道子
芸づくし忠臣蔵芸づくし忠臣蔵感想
ためになる。でも客のたしなみとして、ここで読んだことはすべて忘れて見ることにしたい。 ひとりひとりの役者の語りが聞こえてくるやうだ。梅幸、歌右衛門、前の仁左衛門、羽左衛門……とくに勘九郎当時の勘三郎の、熱い語りの脳裡に蘇るに及んでは、涙を禁じ得ない。 やつぱり、九段目が好きだなあ……
読了日:2月27日 著者:関 容子

読書メーター

さらにその後の大橋堂の萬年筆

大橋堂の萬年筆がすこぶる調子いい。
とくにほぼ日手帳との相性がよくて、なあ。

大橋堂の萬年筆とほぼ日手帳カズン

この萬年筆を入手したのは去年の九月。
当時、RhodiaのWebNotebookを使つてゐたが、どうもやつがれとは相性がよくなかつたらしく、愛用の中屋万年筆のペンとは特によろしくなかつた。
そんな時にこの大橋堂のペンを手にして、なんとなくWebNotebookとは合ふかな、といつた感じだつた。

それでもインキのかすれることとか多くて、「むー」とか思つたものだつた。
インキが悪いのかなあ、と思つたこともあつた。
インキはセーラーのスカイハイを入れてゐるのだが、素直に黒とか青とかブルーブラックにしておけばよかつたかなあ、などとチト後悔したりした。

それが、どうだらう。
その後、満寿屋のMONOKAKIや、マルマンのBoston Note、そしてほぼ日手帳に使ふやうになつたら、なんだか見違へたやうによく書けるやうになつた。

まづ、書くのに筆圧がいらない。
萬年筆といふのはさうしたものだよ、といはれるかもしれないが、なにしろWebNotebookに書き込んでゐたときはえらい苦労をしてゐたので、なあ。

あれは単に、WebNotebookとやつがれとの相性がよくなかつたつてだけなんだらうなあ。

大橋堂のペンは書き味もやはらかいしねえ。
不器用なものだから、やはらかいペン先は実は制御しきれない。
この大橋堂のペンもさうだし、パイロットのフォルカンもさう。
中屋万年筆の細軟だけは、なぜかそれほどでもないのだが、しかし、なんといふか、その、制御しきれない感じがまたいいんだよねえ。

先日、物欲がかげつてゐる、といふやうなことを書いたけれども、中屋のペンとか大橋堂のペンを使つてゐると、また新たにほしいなあ、といふ気がしてくる。
今度はちがふペン先で、とか、今度はちがふ軸で、とか、はたまた今度はインキの色を変へて、とか。

とりあへず今月は日本橋界隈には近寄らないやうにしなければ。

« February 2013 | Main | April 2013 »