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Friday, 08 February 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 人形劇三国志篇 地の利

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの「地の利」のコーナーには、人形劇三国志の龐統、孔明、孫権、周瑜、魯粛がゐる。
これはむかつて左からの並び順で、入り口に一番近いところにゐるのは魯粛だ。
が、これまでも左側から紹介してきたので、ここでもさうすることにしたい。

「地の利」といふことは、呉といふことで、なぜそこに龐統と孔明とがゐるのかと訝しく思ふ向きもあらう。だいたい龐統と孔明とがここにゐるから、「人の和」の面々のなかに文官・軍師の類がゐないといふ、なんだか妙なことになつてゐる。
多分、「赤壁の戦ひ」で活躍する面々、といひたいのかなあ。
一応、龐統と孔明とは、「人の和」の人々に近い位置にゐる。比較的。

龐統を正面から見ると、実に怖い思ひをすることになる。
目がかつと見開かれてゐて、瞳孔がひらいてゐるからだ。
「この人、正気か?」と不安になる。
人形劇のときは、まちつと丸つこくてかはいい感じだつたのになー、と、これは前回書いた張飛とおなじ。
よく云へば、おとなつぽくなつた、といつたところか。
衣装は、質素な感じ。くすんだ色合ひで、唐草模様の刺繍もかなり太い糸で刺されてゐる。
口にくはへた猫じやらしが、どこか飄然とした印象をあたへる。
「風狂」。
全体的にはそんな印象だ。
ところが、むかつて右側から見ると、この印象が一変する。
右側から見ると、龐統の目は遠くを見据ゑてゐる。
どこか少年のやうな瞳で、かくあるべき未来を見つめてゐる。
その頭の中には未来への地図が描かれてゐるのにちがひない。
そんな感じさへする。
軍師・龐統を見たい向きには、是非右側から見ることをお勧めする。

川本喜八郎人形ギャラリーにゐる人形の中で一番生き生きしてゐるのが呂布で、その次が董卓なら、一番そこんとこがあやしいのが孔明である。
生きてゐない、といふのではない。
存在感がない、といふのともちがふ。
存在感はある。
存在感はあつて、しかし、むかつて右側から見たときの、此岸と彼岸のはざまにぼうつと佇んでゐるかのやうな、触れやうとしても触れることのできぬだらうやうな、さうしたやうすが、そこにあつてそこにない、そんな奇妙な感覚を呼び覚ますのである。
右側から見ると、照明の関係で目が右側を見てゐるかのやうに見えることもある。
また、おなじ位置から見たときに、遠くを見つめてゐるやうに見えることもあつて、最初のうちは、「龐統とおなじ方向を見てゐるのだなあ」などと思つてゐたが、残念ながらちがつた。龐統と孔明と、どちらも遠くを見つめてゐる。どちらも遠くを見つめてゐて、だがその見てゐる方向はことなる。
衣装は人形劇のときとそれほど変はらない。人形劇のときは、紫がかつた水色だつた衣装の色が、ほとんど色のないやうな、瓶覗とでも呼びたいやうな色になつてゐる。黒い上着は夏に着るやうな薄地で、それでゐてちやんと紅葉に流水の模様がはいつてゐる。
顔は人形劇のときよりすこしすつきりした感じだらうか。真正面から見ると照明の関係からか、右側の口の端がもちあがつてゐるやうに見えて、嘲笑はれたやうな気分になる。
もちろん白羽扇を携へてゐて、その指がひどく細くて長い。長いのは白羽扇を持つからだらう。

その孔明の後頭部を焦げよとばかりに睨みつけてゐるのが孫権である。
これも、むかつて左側や正面から見たときはそんなことはないのだが、ちよつと右側から見ると、左を睨んだその緑の目が孔明を睨んでゐるやうに見える。
邪魔なんだらうなあ。わかるわかる。
孫権も、人形劇のときよりは大人びた感じの顔立ちになつてゐるやうに思ふ。衣装はこの中では唯一武装してゐないときの君主の身につけるもので、全体的に橙色。前垂の蝶の模様が目を引く。
唇の色が呂布と似たやうな色になつてゐるが、呂布のやうなつやはない。
つやがあれば、もうすこし、生き生きとして見えるだらうに。

その孫権よりも豪華なんぢやないかといふ衣装を身に纏つてゐるのが周瑜である。兜をかぶつた武将の出で立ち。
うーん、人形劇のときの方がいい男だつたかなあ、と、最初は思つてゐた。
人形劇のときは、切れさうなほど目がつりあがつてゐたが、ギャラリーにゐる周瑜はつり目ではあるものの、人形劇のときほどではない。
人形劇の周瑜は、いつもキリキリしてゐて、ときに見てゐてつらいくらゐだつたが、それはあのつりあがつた目も一役かつてゐたやうに思ふ。また、そのつりあがつた目で流し目とかされると、実に美男といつた感じだつた。
でも、実際は(といつて、なにを「実際」ととらへるのか、三国志についてはむづかしいのだが)、このていどにおだやかな表情だつたのではないかな、と、ギャラリーにゐる周瑜を見ると思ふ。
目の動く人形のなかでは唯一、真正面を見てゐる。
もしかすると、川本喜八郎は作りなほすときに周瑜のカシラを目の動かないものにしたのではあるまいか。なぜといつて、善い男のカシラの目は動かない。閉ざすことはできても、目の玉は動かないやうにできてゐる。文楽ではさうである。
なので、やつがれのなかでは勝手に「渋谷の周瑜の目は動かない」ことになつてゐたのだが、最近、張飛の目も正面を見るやうになつてゐるやうな気がして、ちよつとがつかりしてゐるところである。

キリキリ具合の失せた周瑜にくらべて、魯粛はあひかはらずオロオロした感じで立つてゐる。
周瑜か、いや、この場合は孔明かな、に、無理無体なことを云はれて、「ええっ」と驚いてゐる、そんな格好で立つてゐるのだ。
そのさまがなんだかかはいらしくて、ついつい魯粛のまへで足をとめてしまふ。
この格好は、むかつて左端にゐる郭嘉とよく似てゐる。
おなじやうな格好で立つてゐるのだが、郭嘉の方は、なにか云はれて反論しやうとしてゐるかのやうな、あるいは「私に策がございます」と献策しやうといふかのやうな、どこかいさましいやうすに見受けられる。
似たやうな格好なのに、このちがひはなんなのだらうか。
魯粛と郭嘉とのちがひ、といへばそれまでなのだが。
魯粛は、人形劇のときより薄味の顔になつてゐるやうな気がする。
彫りが浅めなので、これでちやんと目を閉じることができるのだらうか、と、いつもしげしげと見つめてしまふのだが、よくわからない。
似たやうな出で立ちで立つてゐるので、魯粛と郭嘉とは、三十三間堂でいふところの風神雷神のやうなものだと思つてゐる。魯粛が風神で郭嘉が雷神かなあ。逆の方がおもしろいかも。

といふわけで、ひとまづ川本喜八郎人形ギャラリーにゐる面々についてひととほり感想を書いてみた。
しよつ中見に行つてゐるのだが、それでも時折あらたな発見があつたりするので、それはまあ、また折にふれ、書きたい、といふか、書いてしまふだらうと思ふ。

川本喜八郎人形ギャラリーの平家物語の人形についてはこちら
同所の人形劇三国志のうち「天の時」の郭嘉・曹操・夏侯淵についてはこちら
人形劇三国志のうち「密かなる謀 -連環の計-」の李儒・王允・董卓・貂蝉・陳宮・呂布と赤兎についてはこちら
人形劇三国志のうち「人の和」の関羽・張飛・玄徳・趙雲についてはこちら

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